2.
カルゴーネ、そこは世に数多ある貧しい町村の一つ。農耕に励む人々の姿が見られ収穫した野菜を離れた町で物々交換し物を揃える、特に見所も無く珍しくもない村だ。
そういう場所だった。
「ここでよろしいですか?」
「ああ」
こんな場所では非常に珍しい事に村の傍を馬車が走っている。オルディア教の紋章を付けたそれは村の入り口の近く、大きな木の傍に停められた。
「ようやく着きましたね」
クレアは長旅がひとまず終わりを迎えて意気揚々と立ち上がり外へ出る。
「ではお先に」
ロサもまた、馬車内でじっとしていられるタイプでも無いのだろう。クレアの後を追って外へ向かった。残されたゼノはしばらく何か考え込むように身動ぎ一つせずその場に座り込んだままであったが、やがてゆっくりと立ち上がり外へ出る。
「何だか霧が出てますね」
「ああ、最近はこの辺りは常にこうでね。これも異常の一つじゃないかって話だよ」
カルゴーネ近郊は薄っすらと霧に覆われ視界は悪い。しかしそれでも近くに幾つかの建物と更にそれらの向こうには広大な畑の姿が見える。聞こえる音から察するに農作業に従事している者もいるようだが、この馬車が見えていないのか興味が無いのか仕事を続けているようだ。
「聖騎士様が来たというのに出迎えの一つもないなんて」
クレアは思わずそんなことを呟く。オルディア教の聖騎士と言えば多くの子供の憧れであり、信徒には畏敬の念を抱かれるような存在だ。大きな町にこの馬車が行くとなれば住民が大挙して聖騎士の姿を一目見ようと訪れる者なのだが、ここではまるでそんな気配は無い。
「カルゴーネではオルディア様への信仰が無いのですか?」
人々に広く信仰されるオルディア教であっても全ての人がそれを信仰しているなどと言う事はない。クレアもそれを理解しておりそう尋ねたがロサが首を横に振る。
「いや、小さな教会もあるんだ、そんなはずが無いだろう? 昔は大聖堂まで歩いて向かう人もいたようだしね。とりあえず教会まで案内しよう」
そのやり取りの後、一瞬だがクレアは睨むように目を細めてロサを見た。が、すぐにその表情を隠しゼノの方を見る。
「ゼノ様はここに来たことは?」
「無い」
「ならばやはり私が先導しよう。なあに、大船に乗った気でいたまえよ、何も心配はいらないさ」
どこか胡散臭い笑みを浮かべながら彼女は二人の前を歩き出す。クレアは再びその背を睨むように、或いは訝しむように見つめた。
「ゼノ様」
「どうした?」
「あの女、信用して良いのですか?」
その問いにゼノは何も答えない。クレアは兜の向こうの表情がどうにか見えはしないかと穴が空くほどに見つめるが、しかしそんなことが出来るはずも無くただただ諦念の息を吐く。
「ひとまず保留と、そういう理解でよろしいですかね」
「そうだな」
端的で短い返事にクレアはますます不満を募らせる、が、それを表に出す事は無くゼノの後を追う。
従騎士であるクレアにとってこの任務は自身の優秀さを周囲にアピールする一世一代のチャンスであった。何せ聖騎士のお供をすることが出来るのは聖騎士本人や教皇の指名か大勢の牧師による推薦があった従騎士のみだ。多くの従騎士は年に一度すら聖騎士のお供を適わず、ただただ訓練や大聖堂の牧師たちの手伝いをして日々を過ごす事になる。
しかしこの晴れ舞台に彼には幾つかの懸念があった。一つは供をする聖騎士があの悪名高き虐殺騎士である事。そしてもう一つは同行することになった胡散臭い女の存在だ。
前方より鎧の金属同士が擦れる音が響く。クレアはその音の源である虐殺騎士ゼノの姿を見た。人を丸呑みにすら出来そうな大蛇をすら難なく撃退したその実力に疑うべきところはない。彼ならば大抵の異常は丸く収めてしまうのだろうと思える確かな力を備えている。
一方で、それ以外の部分にはかなり不安が残る。
「ゼノ様、少し失礼します」
「どうした?」
クレアは懐から手拭いを取り出すとゼノの鎧に僅かに残っていた血の跡を拭う。それは先程、大蛇を倒した際にゼノが浴びた返り血だ。
「返り血が残っていましたので」
「そうか。ありがとう」
無機質な感情の籠っていない礼にクレアはただただ嘆息し、大蛇を撃退した直後の事を思い出す。ゼノはあろうことかその返り血塗れの状態をまるで気にすることも無く馬車の中へと入ろうとしたのだ。幸いクレアとロサの反対でそれを留め鎧に付いた大量の返り血を拭きとったのだが、放っておけば馬車の中は非常に血生臭くなり御者も渋い顔をしていたことだろう。
他にもあまりに無口でろくに言葉を発そうとすらしない点や、他人への気遣いや配慮と言ったものが感じられない点などどうにも不満は尽きない。聖騎士とはこのようなものだったかとつい溜息が出てしまうのも無理はないのだろう。
ふと、その聖騎士が足を止める。
「ロサ」
そして霧に埋もれかけていた前を行く女に声を掛けた。彼女はその声に一拍置いてから振り向く。
「どうかしましたか?」
「戻れ」
「はぁ?」
唐突な言葉にただただ意味が分からないと眉を顰めるロサとクレア。しかし直後にロサは背後から何かが駆け寄って来る足音を聞き、それと同時にゼノが前へと駆け出す。霧の向こうに長い棒のような物を持った影が見えた時、クレアはようやく誰かがこちらに来ている事に気付く。そしてゼノがロサを守る為に前に出たのだと思い至ったのだが。
「今度は誰!? あたしらの土地は売らないって言ったでしょ! サンクトから聞いてないの!?」
聞こえて来たのは戦闘音では無く喧嘩腰の噛み付くような声ばかり。そして前に出て彼も気付く。持っていた長い棒はただの鍬でおそらくは畑に出ている時にこちらの存在に気付きそのまま走って来たのだと。
そして三人を睨みつけていた彼女もすぐに気付く。
「……あれ、聖騎士様の鎧?」
この三人組は自分の思っていたような人物では無さそうであるという事に。
「あ~、ひとまず、落ち着いて、話をしましょうか。我々は今から教会へ向かうところで、よければご一緒にいかがですか?」
クレアの言葉に彼女は自分のしたことを恥じるように頬を赤く染めて消え入りそうな声で、はい、と返事をした。奇妙な同行者がまた一人、増える事となる。
「これはこれは! ようこそ聖騎士様。さあさあ、こちらへ。すぐに温かいお茶を用意しますので」
辿り着いた小さな教会では牧師が一行を出迎えすぐに奥の部屋へ案内する。どうやら炭鉱で得られるはずの資金はまだこの村には回っていないのだろう、修繕の行き届いていない壁と粗末な家具は元々のこの村の窮状を示しているようだった。唯一価値がありそうなものと言えば熊らしきものの毛皮の絨毯ぐらいだろう。
「教皇様の計らいで聖騎士様がお越しになられるというのは聞いておりましたがまさかこれほど早く到着するとは思っていませんでした。本来ならばもう少し支度を整えて出迎えたかったのですが、申し訳ありません」
「気遣いは不要だ。人手も足りていないのだろう」
言いながらゼノは部屋の隅に溜まった埃を見つめる。この教会は広いとは言えないがしかしだからと言って牧師一人だけで管理し切れるものでも無いだろう。本来ならば他にも人が居てしかるべきだが、妙な事にこの場には彼一人しかいないようだ。否、それどころかしばらくは人が訪れた形跡すらほとんど無い。
「ええ、まあ。以前は村の方達も精力的に手伝いにいらしてくださり隅々まで綺麗にしてくださっていました。しかし最近はそれも難しくなりましてね」
「人々の信仰が薄れたと?」
クレアが思わず横から口を出す。地方の小さな町や村では住民と教会の関係は密接な事が多く、牧師らは彼らに信仰の何たるかを説き、その代わりに人々は教会の管理の手伝いをする。これらは同じオルディア神を信仰するが故の繋がりであり、信仰が薄れれば当然それは自然と消えゆくものだ。鋭く睨むようなクレアの瞳はそれを到底許す事が出来ないと思っているかのようにも見える。
しかし牧師はただ首を横に振る。
「彼らの所為ではありませんよ。本来教会とは我々牧師が管理しているものですから、これは私の力不足と言うだけの事です。それに何を信ずるかと言うのは本来人々の自由なのですよ。我々が決める事ではありません」
クレアはその言葉にひとまずは納得した様子を見せたが唇を尖らせ心の内ではまだ燻っているものがある様子。
それに対して心中の火を燻らせたままにしておけなかった者が一人。
「あんな恩知らずな連中を庇うこと無いでしょ!」
そう叫んだのはゼノ達がカルゴーネで出会った村娘。牧師は慣れっこなのか驚く様子も無くただ溜息をつく。
「ミリィ、そのようなことは」
「だってそうでしょ!? 牧師様は私たちが不作で食料も無い時にたくさんの食料を恵んでくれたじゃない! 冬を越す事が出来たのはそのおかげでしょ!? この教会がボロボロなままなのだっていつも私たちを援助してくれたからなのに……」
三年前、カルゴーネに日照りが続き作物が不作だった時の事だ。人々は日々の食事を切り詰めて生活をしていたが冬の寒さも厳しく口減らしすべきという意見すら出た時があった。その時に牧師はオルディア教の本部より支給されていた本来は教会の修繕などに使うべきお金に手を付け、それらを人々に渡す食料に換えて配り歩いたのだ。それ以外にも彼は住民の悩みを聞いては幾つもの問題解決に尽力して来ている。
「私はオルディア様の教えに従ったまでです。オルディア様は人々に秩序と平等を授けました。富める者が貧しき者を助けるのは教典にも書かれている御教えの一つですよ」
「でも牧師様は別に裕福ってわけじゃ」
「いいえ、あの時は私だけが富を持ちあなた達は貧しく苦しい日々の中にいました。であれば、オルディアの牧師たる私は教義に則り皆の手本となる姿を示さねばなりませんよ。あなた方はそれに礼を言う事はあっても恩を感じる必要はありません」
ミリィはまだ何か言いたそうに口を開きかけたが、これ以上は牧師が困ってしまう事を察してかぎゅっと唇を真一文字に結ぶ。
「随分と慕われていますね」
「もしそうだとすればそれはオルディア様の御教えのおかげでしょう」
牧師の彼はオルディア神を心の底から信じその教えを実行しているのだろう。その瞳に迷いはなくある種の神聖さすら感じる所がある。或いは、こういう人こそが未来に聖者として語り継がれるのだろうか、そんな思いがクレアの中に過る。
「申し訳ないけど」
そんな中、ロサが不意に声を上げる。
「そろそろ異常の話に入っても良いかな? 元々私らは異常を解決しに来たわけだし」
「ああ、そうでしたね。聖騎士様が来ているというのにこれは失礼を」
「気にすることはない」
ゼノの様子と言えば本当に毛ほども気にしているようには見えない。或いは、兜の向こうでは苦虫を嚙み潰したような表情をしている可能性もあるのだが少なくともクレアが見る限り彼の様子はこれまでと何ら変わりは無かった。
「そう言って頂けると幸いです。ひとまず、今この村を取り巻く異常の数々についてお話ししましょう」
異常、それは言葉の通り常と異なる何かの事だ。例えば通常では考えられないほど巨大な蛇、不自然に続く霧、突然起こる地面の揺れ、不審な音、明滅する光、見たことも無い生物、その他にも様々な事象が存在する。
人々は突如発生する異常の数々に多大な恐怖と不安を抱きながら暮らしていたのだが、その異常を解消する為に動く者達も当然存在する。
その一つがオルディア教が抱える聖騎士だ。彼らは鍛え上げられた肉体と様々な知識や自らの経験を元に異常の多くを解消に導いてきたものだ。当然、今回もそれらと同じ道筋を辿ると言いたい所なのだが。
「村の西側の山で石炭が掘り当てられたのですが、今ではその炭鉱周辺はある種の魔境と呼んで差し支えないでしょう」
「魔境、ですか?」
「ええ、例えば多くの者が目撃している巨大な熊のような獣、これは何でも人の家程の大きさがあったとか。歩いていると突如大きな音が響き渡り耳鳴りだけを残して行くと言う話もあります。暗くなると宙を舞う奇妙な火の玉が見られるそうですし、他にも一度入ったら明るくなるまで抜け出せない奇妙な場所なんていうのも」
「……事前に聞いてはいましたが多いですね」
「ええ、村を覆っている霧も異常の一つでは無いかと言う者もおります。そしてそのどれもが炭鉱が掘り当てられてから後に始まったのですよ」
「欲に目が眩んでオルディア様を蔑ろにするから罰が当たったんだ!」
ミリィはどうやら余程炭鉱を、或いはそれに夢中になっている村人に鬱憤が溜まっているようだ。
「オルディア神はそのような事をする方ではありませんよ」
牧師は宥めるようにそう言ったがヒートアップした彼女が止まる事は無い。
「じゃああいつらの欲深さが異常を引き寄せたんだ! オルディア様も森の木々を慈しみ必要以上に伐採するなって」
「ああ、確かにそういう一節もありましたね」
どうやらミリィはこの町を覆う異常の数々は欲深いカルゴーネの人々のせいで起こったと考えているらしい。彼女も牧師程では無いがオルディア教への信仰が篤いのだろう。今は正しい方向からは少々逸れてしまっているようだが。
「炭鉱を見つけて欲に目が眩んだ奴らは山を切り開いて石炭の輸送路を作ろうとしているんだ。そんなことされたら森の恵みが無くなって動物たちも寄って来なくなるに決まってる! あいつらは自分たちが何をしようとしているか分かってないんだ!」
「ミリィ、口が悪いですよ」
「だって!」
「オルディア神も怒りに身を任せてはいけないと仰っていますどうか落ち着いて、冷静に」
彼女は普段からきっとこのような様子なのだろう、牧師は手慣れた様子で彼女を落ち着かせている。
「ミリィは炭鉱などさっさと売ってしまって自分たちは元の生活を送るべきだと考えているのです。しかし炭鉱を掘り当てた者を中心にこれは村の物であって炭鉱を守らねばならないと、そう主張する者が今は多数派になっています」
「石炭はお金になりますからね。それは当然では?」
「お金の為に尊厳を売るなんて馬鹿みたい!」
「ミリィ」
牧師に再び注意されてミリィは渋々と言った様子で口を閉じる。どうやら彼女はこの事に関しては相当にお冠のようだ。
「人は食わねば生きて行けません。彼らは貧しさという痛みを知っているだけですよ」
「……ふんっ!」
ミリィが立ち上がりずんずんと音を立てて歩き出す。
「畑仕事があるから帰る」
そう言って部屋の外へ出て一度は姿が見えなくなったのだが、すぐに顔だけをもう一度覗かせて。
「炭鉱に行く時は呼んで下さい、案内しますから」
そう言い残して今度こそ本当に去って行った。
彼女の足音も聞こえなくなった部屋では牧師が大きく溜息をついて頭を抱えている。
「ミリィも悪い子では無いのですよ。ただ、少々頑なな所がありまして」
「そうですね。彼女なりにこの村の事を思いやっているのは伝わって来ましたよ」
言いながらクレアは思ったよりも状況が複雑らしいと直感していた。鉱山を巡る対立は村人同士でも存在しており、数々の異常はその不和をより際立たせているのだろう。つまりは異常への介入は必然的に彼らとの関わりをも持つことになり、上手く立ち回らなければ異常を解決してもオルディア教への信頼が失墜する可能性がある。
次のチャンスがいつになるかなどわかりはしない、この機会を最大限活かす為には全員の考えを早期に理解しそれらの妥協点を上手く探る必要がある。言うまでも無くそれが著しく難しいとクレアは理解しており、それ故に彼もまた頭を抱えるのだった。
「ひとまず、今日の所はお休みになってはいかがでしょう。もう外も暗くなってきましたし炭鉱付近は危険ですから。狭く掃除も行き届いては居ませんが部屋ならばご用意してありますので」
「ありがとうございます、お世話になります。で、良いですよね、ゼノ様?」
「ああ」
牧師はそのやり取りを聞き一瞬驚いたような表情を見せたが、即座にそれを隠し、
「ではこちらへどうぞ」
部屋への案内を始めたのだった。
幸いにも教会には狭いながらも客室が三部屋ありゼノ、クレア、ロサの三人はそれぞれ個室で休むこととなった。クレアは荷物を整理しながらここからどうしていくべきか頭を巡らせている。
「ロサさんのいう事が確かなら炭鉱を巡って三つの団体が争っていると」
カルゴーネの村人集団、謎の行商人、隣町の有力者サンクト。この三者が鉱山の利権を巡って争っているというのはロサよりもたらされた情報である。
「そして村人は内部で鉱山を所有すべきか否かで対立している」
鉱山から利益を得ようとする村人とそんなものは他の者に任せてこれまでの暮らしをすべきと主張する者。ミリィや牧師の話から得られた情報である。
「そして鉱山を掘り当てた頃から始まった数々の異常」
自分たちが来た最大の目的である異常の解消。しかしそれも数が多過ぎる上に幾つかは話を聞いただけではどのようなものか想像すら難しい。
「初めての任務がこんなのだなんて、どうすればいいんだ?」
あまりに問題が山積している。経験の少ない従騎士である彼にはまず何から手を付ければいいのかも分からなくなりそうなほどに。実際、彼と共に訓練をしていた者達であれば頭を抱えて事態をコントロールしようなどとは思わずただ目の前の出来事に場当たり的な対処を始めていたことだろう。
しかしクレアは。
「……何はともあれまずは情報だ」
彼がこの程度の苦難に折れる事はない。
「まだまだ分からない事の方が多い。幸いゼノ様は虐殺騎士の肩書に恥じない強さがある事だし、危なそうなことは全部丸投げして僕は全体像をはっきりさせないと」
彼の持つ聖騎士への強い憧れはこの程度の苦難をものともしない。
「僕は教皇様にも期待されているんだ。絶対に今回の任務で確かな成果を上げて見せる」
蝋燭の灯りの下、力強く拳を握ったその姿にはごうごうと燃える野心の炎が燃え盛っていた。
一夜明け、目が覚めたクレアは身支度を整えると外へ出た。まだ朝早い時間で日も出ていない。しかし長年の従騎士として日々の中で作り上げられた生活リズムは任務の中でも確かに息づいている。
「少し走るか」
朝は軽い運動から始まる。教会にいる時は見回りがてら敷地内を走り回っていたものだが、今は敢えて少し遠くへと向かう。昨日、村に着いてから一直線に教会まで来た彼にはまだ村の地理がまるで覚えられていない。この時間を使ってそれを把握することは今後役に立たないことはないはずだ。
「霧が深いな」
朝早くの少し肌寒い時間だからだろうか、周辺の霧は昨日よりも濃く見える。畑の方へ足を延ばしてみても何を栽培しているのかよく見えないほどだ。
「広い土地だな」
しばらく走ってみても中々畑の終わりは見えず、炭鉱に人手が行ってしまった今、この規模の畑の管理というのはかなり厳しいものがあるだろう。よくよく見れば雑草の類が合間合間に見えている所もある。それを見て、走り、また見つけ、走り、また見つける。
「畑仕事が大変なのはわかるけれど、妙な場所に残ってるな」
彼は先ほどからほぼ等間隔に見えるその雑草の生え残った場所が妙に気になっていた。気になって、ふと、足を止めて、そして気付く。
「……いくら何でも広過ぎる」
畑の先が見えない。それは霧の所為だと思っていたがどうにもおかしい。よくよく見れば近くにある作物の形状が先程までと変わっていないのではないだろうか、そんな疑問が彼の頭を過った。
「まさか!?」
彼は地面に足で印をつけると再び走り出す。今度は自分が走る道だけを見つめて。そしてしばらく走ったところで彼の目に飛び込んできたのは。
「……印だ」
先ほど自分が付けた印。つまり、これは。
「僕は異常の中にいる?」
即座に思い出されたのは昨日牧師が言っていた事。
「一度入ったら抜け出せなくなる回廊か!?」
真っ直ぐ進んでいるはずなのに同じ場所へと辿り着く、結果外へ抜け出すことが出来ない。この現象は正に牧師が語っていたその異常に近しい。
「落ち着け、落ち着け……」
ばくばくと音を立てる心臓、動揺の余りに視線は彷徨い冷や汗が背中を伝う。クレアは従騎士としての活動の中で異常に遭遇したことは何度かあった。所属する教会付近で起こった異常に対して対応するのも彼らの職務の内だからだ。しかし一人きりの時に異常に遭遇するのはまだ二度目だ。
「大丈夫、大丈夫だ。僕はあの頃とは違う」
自分に言い聞かせるようにそんな言葉を何度も繰り返し、そして思い出す。
「そうだ、牧師様は明るくなるまで抜け出せないと言っていた」
まだ日は昇り切っていない。この状態を暗いと評すべきかは微妙な所だが、明るくなるという言葉が示すのが太陽が昇る事を示すのであれば。
「このまま待機しよう」
彼はその場に座り込み深呼吸を始める。それは先程までの動揺した自分をどうにかひた隠しにしようともがいている子供のようでもあった。
ロサが目を覚ました時、外は既に日が昇り窓から陽光が差し込んでいる。軽く伸びをした彼女は何度か深呼吸をして寝ぼけていた頭を覚醒させる。本来ならばそのまま今日すべき事でもまとめようかと思っていたようだが。
「とりあえず、腹が空いた、かな」
空腹を訴える胃にまずは栄養を与えねばならないらしい。空きっ腹では頭も上手く回らない、それでは異常と対峙しなければならないであろう今日の日を乗り越える事は出来ないだろう。彼女は部屋を出て、朝食を求めてひとまず牧師を探す。
が、牧師を見つけるよりも先に外から誰かが入ってくる音を聞き立ち止まる。見に行くべきか誰かを呼ぶべきか少し悩んだ後、彼女は自身の好奇心に従って入り口の方へと歩を進めるのだった。
入り口にあった影は二つ。そしてそのどちらも彼女が知る人物のものだ。
「クレア、とミリィ?」
「ああ、起きていらしたのですか」
クレアは普段と変わらぬ様子で平然と返事をする。しかしロサの頭の中には幾つかの疑問符が浮かんでいた。
「なぜ外に? というかなぜ一緒に?」
「外にいたのは、単に習慣です。従騎士は日々の鍛錬も仕事の内ですから、少々外を走って来ただけですよ」
「道端でしゃがんでたじゃん」
「道端でしゃがむ?」
ミリィが即座に突っ込みを入れた為に自身の失態を隠すべく彼を覆っていたメッキはあっという間に剥がれてしまう。二人の追及するような視線に耐え兼ねた彼は諦めて全てを話し始める。
「村の中を走っていたら異常に遭遇した、と」
「ええ。おそらくは昨日牧師様が話していた明るくなるまで抜け出せない回廊というやつでしょうね。その時はまだ太陽が昇り切っていませんでしたから明るくなるまでとは太陽が昇るまでという事だったのでしょう。抜け出すのは難しいと考えてその場で座り込んで時間が過ぎるのを待っていたわけです」
彼は強く胸を張り早口ではあったが揺るぎなく断定的な口調でその事を告げる。それはまるで自身の判断に間違いは無く物事は全て想定通りに行っているとでも言わんばかりだ。
「でもなんかすごく怯えてたよね」
しかしそれもミリィが即座に横から口を挟むせいで台無しだ。
「そんなことはありません」
「声かけた時すごい大声出してたじゃん」
「そんな事実はありませんでした」
「いや……」
「ありませんよね?」
「……そうだね」
クレアがあからさまに発する圧はほとんどその事実を肯定しているようなものだったが、余程触れられたくは無いのだろうとミリィもロサもひとまずは無かったことにしたらしい。
「ごほん」
そして大きく咳払いをしたクレアはそれまでの出来事などまるで無かったかのように音頭を取り始める。
「では、ここに三人も揃いましたし、ゼノ様を起こして牧師様の所に行きましょうか。それから朝食をとって今日の予定を立てるとしましょう」
それが強がりのようなものである事は明らかであったが二人はこれ以上何も言わず黙って彼の後を付いて行く。何せ血が滲みそうなほど強く握られた彼の拳を見れば不用意に触れたが最後怒りが爆発する事など誰にでもわかるのだから。
ゼノの部屋の前、クレア、ロサ、ミリィの三人が集まり先頭に立つクレアが代表してその扉を叩く。
「ゼノ様、起きておられますか?」
「ああ。どうした?」
「そろそろ朝食にしては如何かと思いまして」
「わかった。身支度を整え次第すぐに向かう」
その言葉を聞いてクレアはすぐに身を翻し牧師の所へ向かおうとしたのだが、後の二人が付いて来ないのに気付き立ち止まる。
「どうかしましたか?」
「……いや、さぁ。気になるだろう?」
ロサのその問いにクレアは首を傾げる。
「何がですか? 変にぼかさずはっきりと言って欲しいですが」
「決まってるじゃん」
そう言って彼女が指差したのはゼノの部屋。或いは、その向こうにいるゼノ自身だ。
「あの聖騎士様がどんな顔をしてるのかだよ」
教会を出てから今に至るまでゼノが人前で兜を取った事はない。食事の時ですら口元の可動部を少し開けただけでほとんど何も見せる事は無かったのだ。
「それとも君は既に顔を知ってるのかな?」
ロサの問いを受けてクレアは返答に詰まる。名前を聞いたことで彼がかの悪名高い虐殺騎士である事は分かった。しかし巷に広がっている噂の中にもその顔について言及するものは何一つなく、そして出会ってからの短い時間の中でその兜を取ったことは一度たりとも無い。
「まあ、見たくないと言えば、嘘になりますが」
興味は、あった。人間ならば多少の好奇心というのはどうしたって持っているもので、それが満たせる機会が目の前にあると言うのなら多少食指が動くものだろう。
「君ならさ、鎧を着る手伝いをするとか言ってこの扉を開けさせるのも不自然じゃないよねぇ?」
「それは、いや、しかし……」
そんな状態で甘言に惑わされずにいられる者がどれ程いると言うのだろうか。ましてや、鎧の着脱の手伝いという非常にそれらしい理由まで付けられてしまっては、だ。
「ゼノ様」
「どうした?」
「よろしければ鎧を着る手伝いを致しますが」
「では頼む」
「入っても?」
「ああ。鍵は開いている」
許可を得たクレアはドアのハンドルに手をかけて、一度大きく深呼吸した。他の二人もこれからあの聖騎士の顔が見れるのかと思わず生唾を呑む。
そして、勢いよく、扉は開かれる。
「あ」
「え」
「うわっ!」
そして三者三葉に驚きの表情を見せる。ミリィなどは顔を赤らめて即座に目を逸らしその場を離れたほどだ。まあそれも仕方ないことだろう。
「どうした立ち止まって。何かあったか?」
何事も無かったかのようにそう尋ねるゼノは姿見の大きな鏡を前に立っている。全裸で。幸い彼が鏡の方を向いていたので三人共恥部を見ずに済んだのだが、ミリィのような若い村娘には少々刺激の強い絵面だ。ロサはせめて顔だけでも見てからと思っていたようだがゼノは鏡越しにこちらを確認しているのか振り向こうとせず、かと言って彼女から見てもその鍛え抜かれた逞しい肉体が邪魔で良く見えない。
「……先に行ってるよ」
そしてとうとうロサもその場を逃げ出した。残されたのはクレア一人である。言うまでも無く全裸の筋骨隆々の男と二人切りなど遠慮したい所であったが、今更逃げ出せば何を言われるか分からない。彼は覚悟を決めると恐る恐る部屋に入って行った。
「背中や腕の裏に痣は出来ていないか?」
扉が閉まった直後、ゼノからそんな言葉が発せられる。クレアは全裸の聖騎士の衝撃にその言葉がまるで頭に入って来ていなかったが、数秒遅れてそれが意味のある言葉と理解して動き出す。
「あ、はい、確認します」
改めてその身体を見ると自身よりも数段体格が良く筋肉の付き方も凄まじいもので、あの大蛇を撃退するのにも納得できるというものだ。しかしそれ以上に目に入ったのは、その身体に刻まれた無数の傷跡だ。
「あの、腕も、背中も傷跡が多過ぎて何が何だか……」
「そうか。分からないならいい」
痣が出来ていないかなどと問われてもいつの物かもわからない傷跡が身体中を覆っているのだ。どうにもそれが痣か傷跡か判断付かない。
クレアは目の前に立つ人物が悪名高き虐殺騎士であると知っている。しかしその傷がどのようにして彼の身体に刻まれたのかは何も知らない。彼が虐殺騎士と呼ばれるまでにどのような道筋を辿ったのか、それを知るべきか否か迷い、そして。
「とりあえず、急いで着替えましょう。あまり皆さんを待たせるのも悪いですから」
追及するのを止めた。クレアには待たせるのも悪いという思いも当然あったのだが、それ以上に目の前の騎士に対する恐れが、二人きりで居続けるのが恐ろしいという思いが確かにあったからなのだろう。
クレアがゼノと連れ立って牧師の元へ向かうと、既に食事の席が準備されており皆席について二人を待っていたようだ。
「すみません、待たせましたか?」
「いえいえ、お二人と貴重なお話をする時間を頂けて幸いでしたよ」
牧師は笑みを崩すことなくそう言ってのける。普段ならクレアはそれが単なる気遣いの言葉だと断じていたのだろうが、牧師の態度と表情があまりにも完璧で心からそう思っているとしか思えない様子に内心驚きを禁じ得なかった。
「騎士のお二人には少々食事の量が少ないかもしれませんが、朝食を用意させて頂きましたので皆で頂きましょう」
「お気遣い感謝いたします」
食事は野菜を入れた汁と少し硬くなったパンが二切れあるだけで聖騎士の中でも特に体格の良いゼノはおろか、騎士でも何でもないロサですら少々物足りない程度の量しかないのだが誰もそれについて口に出す者はいない。食卓に並ぶそれらをよく見れば牧師の物だけパンがことさらに薄く、野菜汁の具もほとんどない事に気付くことが出来るだろう。
要するに、彼は厳しい懐事情にも関わらず可能な限り客人をもてなそうとしているのだ。それ以上を要求するような恥知らずな真似はとても出来はしない。
舌が火傷しそうなほど熱い野菜汁の塩気の薄っすらとしたことに目を背け、クレアはひとまず今日の予定について確認する。
「ゼノ様、今日はひとまず炭鉱の方へ向かうという事でよろしいので?」
それを尋ねた時ゼノは丁度パンを二切れともまとめて口に放り込んだところであった。それを僅かに咀嚼したかと思うと一気に飲み込んで彼は深く息を吐く。
「そうだな。炭鉱周辺の異常の様子を見なければならないだろう」
「具体的にはどのように?」
ゼノはその問いにすぐには答えず右手で無造作に野菜汁の入った器を持つと、そのまま勢いよく中身を飲み干した。野菜はよくよく煮込まれほとんど形が崩れていたので飲み込めるのは分からなくはないが、それが持つ熱量を知っているその場の皆が思わず唖然とする。
「ははぁ、聖騎士様ともなると熱さでさえものともしないのですね」
牧師などは思わず妙な感心をして、他の者も自分の野菜汁を手に取ってその熱さを改めて感じて首を傾げる。
「熱かったのか……」
隣に座っていたクレアだけはゼノのそんな呟きを聞いて、この男の底知れなさに恐れ戦いていたようだ。
それはそれとして異常の確認をどのようにするのかという問いに対しての答えがまだであった。しばらくクレアが返事を催促するように見つめているとゼノもそれに気付いたのだろう。ようやく口を開く。
「炭鉱付近を探す」
だがそこから出て来たのはその短い言葉だけだ。まさかそれで終わりとは思わなかったクレアはしばらく次の言葉を待っていたのだが、一仕事終えたかのようにゼノが腕を組んで瞑目し始めたので思わず顔を顰める。
「えー、炭鉱へ行き、その付近で異常を探すと。どのように?」
「探せばいいだろう?」
「いや……、あ、まあ……」
クレアが聞きたかったのは言うまでも無いが、どのような手段で異常を探すのかという事だ。例えば経験則のようなものがあるのであればそれを共有して欲しかったし、炭鉱に居を置く村人がいるのならそれに聞いても良い。牧師やミリィの案内を頼りにするのだって悪くは無いだろう。しかし帰って来た返事はこれだ。
そこで彼はようやく気が付く。ここまでに感じて来た一つの違和感の正体に。ゼノは最低限の事しか話さない、それは聖騎士の鎧が放つ威圧感と彼が持つ異名からそういう性格なのだろうと考えていた。
しかし、しかしだ。この男は必要最低限しか話さないのではなくそもそも純粋に頭が悪いのではないか、そんな疑問がクレアの中で鎌首をもたげ始めたのだ。短い返事は最低限なのではなく深くまで考える事が出来ずそうとしか答えられないだけで、今の問いに対しても異常を探す方法に関して単に何も浮かんでいないだけなのでは無いか、と。
「……ミリィさん」
「はい?」
「炭鉱には一部の村人が居座っているんですよね?」
「そうですけど」
「ゼノ様、炭鉱には村人の一団がいるようですしまずは彼らに話を聞いてみてはいかがでしょう?」
クレアの提案はある種当然の提案と言って良いだろう。昨日聞いた話の流れで一部の村人が炭鉱に居座っているのは想像がつくし、であれば様々な異常に遭遇したのも彼らなのだろう。故にその提案は当然そうするつもりであるというのを再確認するものだ、ロサなどはそう思ったほどだ。
「……そうだな」
であればゼノがそれに頷くのも当然であり何ら変わったことは起こらなかった。ただしクレアだけはその返答に頭を抱えていた。
間があった。その事実がクレアの脳裏に影を差す。その間はこれまでの会話の中ではあまり見られなかったものだ。クレアは周囲の顔色を窺うのが得意だとい自負がある、そしてその彼がその間から読み取ったのは、純粋に提案の意味を理解するのに時間がかかったという事実だ。
要するにゼノは炭鉱にいる村人たちの事など頭になかったのだ。ミリィの話などからそういう人たちがいる事を僅かばかりも察していなかったのだ。
よくよく考えてみればロサや牧師やミリィと話をしているのはいつも自分でゼノは何か問われた時に短く返事をするだけ。それは会話を主導するだけの能力が無いという事の証明だったのではないだろうか。
そしてクレアはその事に気付いたことで、なぜ教皇様がゼノのお供に自分を選んだのか、その理由が見えて来る。
「ああ、成程、これは……」
異常の量から言って実力のある聖騎士が、ゼノが行かなければ収集が付かないだろう。しかしその一方でゼノではこの村を取り巻く複雑な状況で上手く動けるとは思えない。教会で他の従騎士や牧師たちと上手く関係を築いていた自分はゼノの弱点を補う事が出来るだろう。
「頑張りますよ、教皇様……」
溜息交じりにクレアは決意を新たにする。ひとまず分かったことは、思っていたのとは違う方向性で大変そうな任務になったという事だった。




