9話:最後のピース
黒崎が図面を持ってきたのは、二日後の夜だった。
閉店後にやってきて、カウンターに広げた。再開発エリアの詳細図面だった。区画ごとに建物の用途と容積率が記されている。専門的な知識がなければ読めない図面だったが、黒崎には読めた。十年以上この仕事をしてきた。数字と区画の関係は、身体で覚えていた。攻める側でそれを使ってきた。今夜は守る側で使う。
「ここを見ろ」黒崎は指で示した。「この一帯の再開発計画では、複数の区画を組み合わせて一つの大きな建物を作る。単独の区画では容積率を最大限に使えない。だから複数を組み合わせる必要がある。組み合わせることで、法律の上限まで高さを出せる」
全員が図面を覗き込んだ。
「この赤ちょうちんの区画は、計画全体の中でどこにある」真鍋が聞いた。
「ここだ」黒崎は指を置いた。「建物全体の容積率を調整するための、最後のピースだ。この区画が計画通りに確保できない場合、建物全体の設計を変更しなければならない。形を変えれば、容積率の使い方が変わる。その場合、収益計画が大きく変わる」
「どのくらい変わる」
「計画全体の収益が、三割落ちる試算になる。三割というのは、投資を回収するタイミングが大幅に後ろにずれるということだ。融資の条件にも影響する。銀行との関係が変わる」
静かになった。
数字が示すものは明確だった。この店が残れば、相手の計画は崩れる。崩れないまでも、大幅に遅れる。だから相手は焦っている。だから合法の範囲で次々と手を打ってくる。梶の店は、感情の話ではなく、計算の話の中にある。その計算の上で、この店は邪魔だった。
藤堂が図面に目を落としたまま、口を開いた。全員が藤堂を見た。藤堂が自分の過去を話すことは、ほとんどなかった。
「これも、私が若い頃、使った手だ」
「ある地域の再開発に関わった。同じように、最後の一区画だけが埋まらなかった。そこに小さな定食屋があった。昼飯時だけ混んでいる、近所の人間しか知らない店だった」藤堂は酒を飲んだ。「私は合法の範囲で、その店を追い詰めた。炎上ではなく、もっと地味な方法だったが、やっていることの本質は同じだった。仕入れ先との関係を崩した。テナントの更新条件を変えた。時間をかけて、じわじわと。最終的に店は出ていった」
「後悔しているのか」蓮が聞いた。
「後悔している」藤堂は静かに言った。感情の乗らない声だったが、だからこそ重かった。「ただ、後悔したのはずっと後だ。当時は何も感じていなかった。数字だけを見ていた。数字が動けば正しい。それだけだった。感情を排除して動くことが、正しいことだと思っていた」
沈黙があった。
「合法だった。だから誰も止められなかった」藤堂は続けた。「私を止める理由が、誰にもなかった。合法である以上、止める根拠がない。止められなかった側の人間が、今ここにいる。それが、私がここに来ている理由だ。今度は止める側に回りたい。遅いかもしれないが、それしか俺にはできない」
梶は黙って全員の猪口に酒を注いだ。藤堂の言葉を受け取りながら、黙って注いだ。
真鍋が図面を眺めながら言った。「つまり、鷹宮にとってこの店は、感情の問題ではなく計算の問題だ。この区画が取れなければ、計画全体が狂う。だから必ず取りに来る。そして必ず、合法の範囲でやってくる。感情で動く人間じゃない。計算で動く人間だ。そういう相手に、感情で対抗しても勝てない」
「どう対応する」黒崎が聞いた。
誰も即答しなかった。こちらも計算で動く必要がある。しかし計算だけでは届かないものがある。その矛盾を、全員が抱えたまま黙っていた。
梶が厨房に入り、小さな皿をいくつか持ってきた。今夜の賄いだった。もつの煮込みと、茄子の煮浸しだった。全員の前に置いて、梶は言った。
「食ってから考えろ。腹が減ってるときに考えた答えは、ろくなことにならない」
誰も何も言わずに箸を取った。しばらく、食べる音だけが店の中にあった。梶が作った味が、全員の口の中にあった。数字にならない味が。




