10話:最初の一手
翌朝、ニュースが出た。
赤ちょうちんの周囲三ヶ所に、鷹宮の系列店の出店計画が発表された。業態はそれぞれ違うが、価格帯はいずれも赤ちょうちんと競合する範囲だった。一店は徒歩一分、一店は徒歩三分、もう一店は同じ路地の反対側だった。三つの点を地図に打てば、囲まれていることが一目でわかった。完全な包囲網だった。
真鍋がその情報を全員に送ってきたのは、朝の七時だった。「見ろ」とだけ書いてあった。
夜、常連たちが集まった。閉店後ではなく、営業中の時間から全員が来た。カウンターが埋まり、小上がりも使った。梶は何も言わずに酒を出し続けた。いつも通りの手つきで、いつも通りの顔で出した。
「焦らせる手だ」真鍋がカウンターで言った。「包囲網を作ることで、こちらを焦らせて、判断を急がせようとしている。焦って動けば、証拠を掴まれる可能性が上がる。こちらが先に違法な動きをすれば、鷹宮には防御の口実ができる。むしろ、こういう手を打ってきた時こそ、慎重に動かなければいけない」
「慎重にしている間に、客が来なくなる」黒崎が言った。「包囲されれば、自然と客足が落ちる。近くに似たような店ができれば、そちらに流れる。時間が経てば経つほど、不利になる」
「動くタイミングが重要だ」榊が言った。「拙速に動いて合法性を問われれば、こちらが負ける。一手で決めるためには、証拠が揃ってからでなければならない。それまでは守りに徹するしかない。守りながら、証拠を積み上げる」
「その証拠は今どこにある」蓮が聞いた。
「ない」真鍋は言った。「まだない。だから動けない。動けないが、動かないわけにもいかない。その矛盾の中で、できることをやるしかない。できることだけをやる」
沈黙。
全員がその矛盾を抱えたまま、しばらく黙っていた。矛盾は解消されなかった。解消できないまま、それぞれが抱えた。
梶が厨房から出てきた。全員の前に皿を置いた。今夜の賄いだった。筑前煮と、焼き鳥の盛り合わせだった。頼まれてもいないのに出てきた皿に、全員が少し顔を上げた。
「食え。腹が減ってるときの答えは信用できない。昨日も言ったが、もう一度言う」
誰も何も言わずに箸を取った。しばらく、食べる音だけが店の中にあった。鍋の音と、箸の音と、時々誰かが息を吐く音。それだけだった。
蓮が一口食べて、箸を止めた。
「この味、AIには出せない」
言葉が出るまでに、少し時間があった。考えて言ったわけではない。食べて、そう思って、口に出た。独り言のような声だったが、店の中には届いた。
誰も何も言わなかった。しばらく、また食べる音だけがあった。
真鍋が静かに答えた。「だから俺たちが動く」
宣言ではなかった。ただ、事実を言った。この味を守るために動く。それだけだ。特別なことではない。
その夜から何かが変わった。言葉にならない何かが、全員の間で決まった。議論して決まったのではない。飯を食って、酒を飲んで、そういう夜の終わりに、自然に決まった。
翌日、真鍋は引退ハッカーに本格的な依頼を出した。黒崎はデベロッパーの人間に接触を始めた。榊は過去の炎上案件の被害者リストを作り始めた。蓮は鷹宮の再生店舗を食べ歩く計画を立てた。藤堂は市場の動きを読み始めた。
それぞれが、それぞれの場所で動き始めた。
梶は翌朝も、いつも通りに仕込みを始めた。全員が動いていることを、梶は知っていた。止める気はなかった。止めても、止まらないということも、知っていた。そして、止まらなくていいとも、思っていた。




