8話:合法の範囲で
真鍋は翌日から動き始めた。
自分のオフィスに戻り、インフルエンサーの動画を改めて解析した。拡散の波形、投稿時間、コメントの言語パターン、フォロワーの増加タイミング。数字を並べると、不自然さが浮かび上がってくる。最初の一時間の伸びが急すぎる。コメントの投稿時間が特定の時間帯に偏っている。フォロワーの増加の仕方が、人間の行動パターンと合わない。しかしそれは不自然さであって、証拠ではない。不自然さと証拠の間には、越えなければならない壁がある。
真鍋はパソコンの前で腕を組んだ。
かつて自分は、こういう数字の裏側を、もっと深くまで追いかけることができた。今でもできないわけではない。ただ、そのためには「合法の範囲」を超える必要が出てくる。相手のサーバーに入る。相手のシステムを調べる。そういう方法を使えば、証拠は出てくるかもしれない。技術的には可能だ。しかし。
七年前のことを思い出した。
当時、競合他社のシステムに侵入しかけた。目的は証拠の入手だった。正義のためだと思っていた。クライアントのために、不正を暴くためだと思っていた。踏み止まったのは、画面の前で手が動かなくなったからだ。キーボードに手を置いて、次のコマンドを入力しようとして、手が動かなかった。理由は今でもうまく説明できない。ただ、一線を越えたら戻れないという感覚が、身体の中にあった。技術的に越えられることと、越えていいことは違う。その感覚だけが、真鍋を止めた。
結果として、証拠は入手できなかった。事件は有耶無耶になった。クライアントは損害を受けた。あの時の判断が正しかったのかどうか、真鍋は今でも答えを出せていない。正しかったという確信も、間違いだったという確信も、どちらもない。ただ、あの夜以来、真鍋は「合法の範囲」に強くこだわるようになった。こだわらなければ、どこまでも行けてしまう。行けてしまうことが、怖かった。
電話を取り、番号を押した。
「久しぶりだ」相手はすぐに出た。「また厄介ごとか」
笑い声だった。電話の相手は引退したハッカーで、今は何をしているのか真鍋も詳しくは知らない。ただ、合法の範囲で情報を引き出す技術は、業界で右に出る者がいない。かつて何度か仕事を頼んだことがある。過去の仕事の際に貸しがあった。その貸しを使う時が来た。
「頼みたいことがある」
「金か」
「金は出す」
「内容を聞く」
真鍋は手短に説明した。インフルエンサー、拡散経路、広告代理業者、ダミー会社。相手はしばらく黙ってから言った。「合法の範囲でどこまで行けるかわからんが、やってみる。期待はするな」
「期待しない。ただ頼む」
電話を切ってから、真鍋は榊に連絡を入れた。法的な判断を仰ぐためだ。どこまでが合法で、どこからが違法か。その線引きを常に確認しながら動く必要があった。一人で判断するには、リスクが大きすぎる。
一方、黒崎は別の動きを始めていた。
再開発の図面を入手するために、かつての仕事仲間に連絡を入れた。地上げ屋として働いていた頃の人脈だ。今は使いたくない人脈だが、仕方がない。この手の情報を取れる人間は限られている。自分がかつて使っていた回路を、今は別の目的のために使う。それが正しいことなのかどうかは、考えないことにした。
「久しぶりだな、黒崎さん」相手の声は変わっていなかった。十年経っても変わらない声というものがある。「何が欲しい」
「再開発エリアの詳細図面だ。あの路地の区画を含むやつ」
「難しくないが、なんで欲しいんだ。黒崎さんが守る側に回るとは珍しい」
守る側、という言葉が、黒崎の胸に引っかかった。自分でもそう思っていたが、他人の口から聞くと、また違う重さがあった。
「守りたい店がある。それだけだ」
電話口で、短い沈黙があった。それから笑い声が聞こえた。何かを面白がっているような笑い声だった。馬鹿にしているわけではない。ただ、珍しいものを見た時の笑い方だった。
その夜、鷹宮は新しい発表をした。赤ちょうちんから徒歩三分の場所に、系列店の出店計画を発表した。赤ちょうちんと同じ価格帯で、同じジャンルの店だった。一店ではなく、複数の出店を予告していた。
真鍋はそれをニュースで見た。
「包囲網を作っている」と呟いた。焦らせることで判断を急がせる。それが相手の意図だ。焦れば隙が生まれる。隙が生まれれば証拠を掴まれる。焦らずに動くことが、今の自分たちにできる最善だと真鍋は思った。相手の手に乗らないこと。それだけを、今夜の結論にした。
その夜、赤ちょうちんで梶が出した肴はブリの照り焼きだった。真鍋は一口食べて、少し気持ちが落ち着いた。うまいものを食べると、落ち着く。それは数字では説明できないことだった。




