7話:非効率を知っている
翌週の水曜日、梶が口を開いた。
閉店後の、いつもの時間だった。特定の常連客―真鍋、黒崎、榊、蓮、藤堂―が、いつものように残っていた。誰かが誰かを呼んだわけではない。閉店の時間が来ても、全員が腰を上げなかった。それだけのことだった。
梶は全員に酒を出してから、カウンターの中に立ったまま言った。立ったままというのは、梶らしかった。腰を落ち着けて話す内容ではない、ということを、梶自身がわかっていたのかもしれない。座れば長くなる。立っていれば短くて済む。梶はそう思っていたかもしれない。しかし今夜の話は短くは済まなかった。
「皆さんに迷惑はかけられない」
誰も何も言わなかった。
「この間から、いろいろ調べてくれているのはわかってる。ありがたいとも思ってる」梶は続けた。
「だが、これは俺の問題だ。俺が始末をつけなければいけない。皆さんを巻き込むわけにはいかない」
「俺たちの問題でもある」真鍋が言った。声は静かだったが、はっきりしていた。迷いがなかった。
「お前たちの店じゃない」
「俺たちの居場所だ」
梶は少しの間、真鍋を見た。言い返す言葉を考えているわけではなかった。ただ、その言葉の重さを測っていた。居場所、という言葉が持つ重さを。それから視線を外した。
「鷹宮の言ってることは正しいんだ」梶は言った。声は平坦だった。感情を乗せようとしていないというより、感情が追いついていないように聞こえた。
「数字で見れば、この店は非効率だ。俺にはわかってる。ずっとわかってた。知らなかったわけじゃない」
誰も反論しなかった。
「仕込みに時間をかけすぎてる。メニューの数が多い。客単価を上げる工夫をしていない。常連だけに頼ってる。新規客を取る努力をしていない。全部、鷹宮の言う通りだ。正しい」
梶は自分の店の欠点を、一つずつ、丁寧に言った。言い訳しなかった。感情を入れなかった。ただ並べた。その並べ方が、鷹宮のデータの読み上げと、どこか似ていた。
「それでも続けてきた」黒崎が言った。
「続けてきた」
梶は繰り返した。
「ただ、それが正しかったのかどうかは、俺にはわからん。効率的に動いていれば、今頃は全然違う状況だったかもしれない。そう考えることもある」
長い沈黙があった。
誰もすぐには口を開かなかった。梶が言っていることは、反論できる内容ではなかった。数字の話として正しかった。感情で押し返すこともできなかった。梶自身が感情を持ち込まなかったからだ。
蓮が徳利を持ち上げた。梶の猪口は空だった。蓮は黙って酒を注いだ。梶は受け取った。今夜で二度目だった。普段は注ぐ側の梶が、今夜は二度受け取った。それだけのことだったが、全員がそれを見た。
「俺も昔、効率化に負けた」蓮が言った。誰に向けて言ったのかわからない声だった。独り言に近かった。
「店を出したのは三十二の時だ。最初の二年はよかった。手応えがあった。三年目から数字が落ちてきて、コンサルを入れた。そのコンサルに言われた通りにした。メニューを絞った。仕込みを減らした。原価を下げた。外注できるものは外注した。数字は一時的に戻った。でも客が来なくなった。常連が来なくなった。結局、五年で閉めた」
誰も何も言わなかった。
「効率化したから潰れたのか、効率化しなかったから潰れたのか、今でもわからない」蓮は続けた。
「ただ、閉める日の夜に、一人で最後の酒を飲んだとき、こう思った。俺は何のために料理をしていたんだろう、と。その答えが、最後まで出なかった。今でも出ていない」
梶は酒を飲んだ。蓮の言葉を聞きながら、酒を飲んだ。
「潰したくない」梶は言った。声は低かった。
「難しい話じゃない。ただ、潰したくない。ここで飲みたいだけだ。それだけだ」
言葉は短かった。しかし短い言葉の中に、三十年分のものが入っていた。全員がそれを感じた。感じたが、言葉にはしなかった。言葉にする必要がなかった。
その言葉の後に、また沈黙があった。今度の沈黙は、最初の沈黙とは質が違った。何かが落ち着いた沈黙だった。最初の沈黙は重かった。今度の沈黙は、重いが温かかった。
誰も口を開かない。ただ黒崎が「もう一杯頼む」と言い、榊が「俺も」と続き、藤堂が静かに猪口を差し出した。
梶は黙って皆に酒を注いだ。一人一人に心を込めて。




