59話:それだけじゃないか
蓮の店にリピーターが来た。
開業から三週間後だった。
その日の夕方、入ってきた客を見て、蓮は少し止まった。一度来た客だった。開業初日に来た客の一人だった。顔を覚えていた。料理人は顔を覚える。特に意識しているわけではないが、覚えている。
「また来ました」とその客は言った。それだけだった。席を指定するでも、何かを頼むでもなく、ただカウンターに座った。
蓮は何も言わずに酒を出した。いつも通りにした。「ありがとうございます」も言わなかった。「またいらっしゃいましたね」も言わなかった。ただ酒を出した。梶がいつもしているように、ただ出した。
特別なことはしなかった。しかし胸の中で何かが動いた。言葉にならない何かが動いた。それが何かを蓮はうまく説明できなかったが、確かに動いた。
その客は二時間ほどいて、帰った。追加の注文をして、最後に「また来ます」と言った。
その夜、蓮は赤ちょうちんに来た。いつもより少し早い時間だった。カウンターに座って、梶に言った。
「リピーターが来た」
梶は「そうか」とだけ言った。
手を止めなかった。いつも通りに仕込みをしながら、「そうか」とだけ言った。
「それだけか」蓮が笑いながら言った。もう少し何か言うかと思った。もう少し反応があると思った。
「それだけじゃないか」梶は言った。
「もっと喜んでくれてもいいだろう」
「喜んでる」
「全然わからん」
そのやりとりが、カウンターに伝わった。真鍋が聞いていた。黒崎が聞いていた。榊も、藤堂も、それぞれが聞いていた。
全員が笑った。
いつもの笑い方だった。静かで、長くなくて、それでも確かに笑った。声が出た笑いと、顔だけの笑いが混ざった。誰かが誰かの笑いを見て、また笑った。笑いが笑いを呼ぶ、そういう連鎖だった。ただおかしかった。
「全然わからん」という言葉が特におかしかったのか、梶の「喜んでる」という言い方がおかしかったのか、蓮が笑いながら突っ込んだ様子がおかしかったのか、それともそれら全部が合わさっておかしかったのか、理由はわからなかった。
藤堂が笑いが少し収まったところで、静かに言った。
「AIは、この笑い声を予測できなかった」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。その言葉を受け取って、また少し笑った人間もいた。
ただ酒が続いた。梶が全員の猪口に酒を注いだ。全員が受け取った。
どこかで誰かが笑った。また別の誰かが笑った。理由のない笑いが続いた。しばらくして、また静かになった。静かになっても、誰かがまた何かを言って、また笑った。そういう夜が続いた。
梶はその間も、全員の猪口が空になるたびに、黙って酒を注いだ。




