60話:明日も、開けるよ
閉店の時間が来た。
常連たちが一人ずつ帰った。
黒崎が「また来る」と言った。いつも言う言葉だった。しかし今夜は少し重みがあった。また来る。来られる場所がある。それが当たり前のようで、ずっと当たり前ではなかった。
蓮が手を挙げた。振り返らずに手を挙げた。その仕草が、赤ちょうちんに来るようになった頃よりも、自然になっていた。
真鍋が「お疲れ」と言った。梶に向けて言ったのか、全員に向けて言ったのか、どちらともつかない言い方だった。それでよかった。
榊が頷いた。言葉はなかった。頷くだけで十分な関係が、ここには長い時間をかけてできていた。
藤堂が静かに立ち上がった。コートを着て、一礼した。一礼は藤堂だけがする。他の誰もしない。それが藤堂という人間だった。
全員が出ていった後、梶は一人になった。
暖簾を下ろした。
路地の向こうから、何かの音がした。誰かの声が、遠ざかっていった。常連たちの誰かかもしれなかった。あるいは全く別の誰かかもしれなかった。音が消えてから、静かになった。
カウンターを磨いた。今夜使ったグラスを洗った。一つずつ丁寧に洗った。急がなかった。急ぐ理由がなかった。鍋を片付けた。厨房を拭いた。灯りを落としていった。奥から順番に消していった。一つ消すたびに、店が少し暗くなった。全部消えた後、カウンターだけに小さな灯りが残った。
全部終わってから、梶は一人でカウンターに座った。
椅子に座ることは、普段はしない。立っている方が性に合っていた。しかし今夜は座った。今夜だけ座った。
最後の一杯を注いだ。自分のための一杯だった。誰かに出すためではなく、自分のための一杯を注ぐことは、めったにない。今夜はそうした。
飲みながら、窓の外を見た。街の灯りがあった。人が歩いていた。仕事帰りの人間、どこかへ向かっている人間、用事があって急いでいる人間。どこへ行くのかは知らない。それぞれが、それぞれの場所へ帰っていく。帰る場所がある人間たちだった。
明日も仕込みがある。
出汁を取って、食材を確認して、開店前に全部整える。それだけのことだ。三十年、同じことをしてきた。明日も同じことをする。変えない。変える理由がない。
明後日も客が来る。またその次の日も。来なくなる日が来るかもしれない。それはその時に考えればいい。今夜考えることではない。今夜考えることは、何もなかった。
梶は猪口を置いた。一口飲み切った。
立ち上がった。
誰もいない店の中で、梶は言った。
「明日も、開けるよ」
誰に向けた言葉でもなかった。宣言でも、決意でも、独り言でもなかった。ただ言った。この店に向けて言ったのかもしれなかった。親父に向けて言ったのかもしれなかった。どちらでも、どちらでもなくても、よかった。
言葉が静かに消えた。
暖簾が夜風に揺れた。外から風が入ってきて、暖簾を揺らした。三十年揺れてきた暖簾だった。今夜も揺れた。
路地の向こうから、どこかの店の音が聞こえた。賑やかな音だった。誰かが笑っている声がした。それも少しして消えた。静かになった。
梶はしばらく、その静けさの中にいた。
明日の仕込みのために、身体を休ませなければいけなかった。しかし、もう少しだけここにいた。誰もいない店の中に、何かがあった。名前のないものが、そこにあった。
物語は、ここで終わらない。ただ今夜が終わる。
<了>




