57話:馬鹿な話だろ
ある夜、梶が珍しく話した。
閉店後の時間だった。全員が残っていたわけではなかった。真鍋と黒崎と藤堂の三人だけだった。蓮は自分の店に戻っていた。榊は用事があって早く出た。三人が残っていた。
特別な機会があったわけではなかった。誰かが話を促したわけでも、何かの区切りがあったわけでもなかった。ただ、その夜、梶が話した。
「この店を続けようと思ったのは、親父が死んだときだ」
誰も何も言わなかった。梶がこういう話をすることは、なかった。三十年、この店で酒を出してきた梶が、自分のことを話すことは、ほとんどなかった。
「親父が倒れたのは、俺が三十の頃だった。意識が戻らないまま、半年で逝った。この店は親父が始めた店だった。俺はもともと、ここを継ぐつもりはなかった。別の仕事をするつもりだった。何の仕事かは、はっきり決まっていなかったが。継がなくてもいいと思っていた。継がなければならない理由が、なかったから」
梶はグラスを拭きながら話した。手は止めなかった。グラスを拭く動作が続いていた。その動作が、梶を梶のままにしていた。
「親父が倒れてから、誰かがここを続けなければいけないと思った。それだけだった。義務感と言えば義務感だが、そういう言葉でもなかった。ただ、誰かがやらなければいけないと思った。そして誰かというのは、俺しかいなかった」
「非効率だってわかってた。数字も見てた。続けても儲からないことも知ってた。それでも閉めたら、親父がいた場所がなくなる気がして。親父がここで酒を飲んでいた人間たちの顔が、来なくなる気がして」
梶はグラスを棚に戻した。また別のグラスを取った。拭き続けた。
「そういう感覚が、合理的じゃないとわかっていた。それでも続けた。閉めることが、何かを消すことになる気がした。数字じゃない何かを、消すことになる気がした」
長い沈黙があった。
「馬鹿な話だろ」梶は言った。
感情のない声だった。自分を責めているのでも、照れているのでもなかった。ただ確認するように言った。これは馬鹿な話だ、という確認だった。
黒崎が首を振った。「馬鹿じゃない」
短く、しかし迷いなく言った。
藤堂が言った。「それが合理性では測れないものです」
藤堂の言い方は、少し違った。「馬鹿じゃない」ではなく、「合理性では測れない」。それが藤堂の言い方だった。合理性の外にある、という言い方だった。否定ではなく、それが何かを示す言い方だった。
真鍋がモニターを閉じた。今夜だけは、数字を見る気になれなかった。数字を追いかけてきた人間が、数字を閉じた。それが今夜のこの場に合っていた。
梶はそれ以上何も言わなかった。グラスを拭き続けた。
窓の外に、街の灯りが見えた。どこかで誰かが帰っていく音がした。靴の音が聞こえて、遠ざかって、消えた。梶はそれを聞きながら、ただグラスを拭いていた。手だけが動いていた。




