55話:今教える
蓮の店の物件が決まった。
路地から一本入ったところにある、小さな一階の物件だった。前のテナントは花屋だったらしく、床に微かに土の匂いが残っていた。厨房が狭かったが、蓮には十分だった。一人でやるなら、むしろこのくらいがいい。赤ちょうちんから歩いて三分だった。近すぎず、遠すぎない。
窓から見える景色が、少しだけ緑だった。路地の向こうに、古い木が一本あった。季節によって色が変わる木だった。それが気に入った。理由にならない理由だったが、蓮にはそれで決め手になった。
準備が始まった。
内装を手伝うと言い出したのは黒崎だった。「若い頃、少し大工仕事をしていた」と言った。本当かどうかわからなかった。しかし実際に来て、道具を持って、作業した。動き方を見ていると、嘘ではなさそうだった。棚を一つ作り上げた。寸法が正確だった。
資金計画を立てたのは真鍋だった。三パターンの想定を作ってきた。悲観的なシナリオ、普通のシナリオ、楽観的なシナリオ。それぞれに対応する動き方も書いてあった。「どれになるかわからないが、三つ全部考えておく方がいい。想定外のシナリオが一番怖い。三つ考えておけば、大抵はそのどれかになる」と言った。
契約書を整えたのは榊だった。「確認すべき条項がいくつかある」と言って、一日かけて確認した。見落としがないように、一行ずつ読んだ。読み終えてから、いくつか修正させた。「これを知らずに判を押していたら、後で困った」という箇所が二つあった。
開業資金の一部を出したのは藤堂だった。「返さなくていい」と言った。蓮は「返す」と言った。藤堂は「好きにしろ」と言った。その言い方が、藤堂らしかった。強制しない。しかし撤回もしない。
梶は何もしなかった。
声をかけなかった。手伝わなかった。内装も、資金計画も、契約書も、全部他の人間がやった。梶は見ていなかった。いつも通り店を開けて、いつも通り仕込みをして、いつも通りに酒を出した。
ただ開店前夜に、蓮から連絡が来た。
「少し話がある」という内容だった。梶が了承すると、夜の十時頃に蓮が来た。
「出汁の引き方で、教わっていない部分があった気がする」蓮は言った。
梶は少し蓮を見た。それから言った。
「今教える」
それだけだった。他に何も言わなかった。
二人は夜明けまで厨房に立った。
言葉は少なかった。梶がやって見せ、蓮がやってみた。うまくできない部分を、梶が直した。蓮が繰り返した。また直した。また繰り返した。同じことを何度も繰り返した。繰り返すうちに、少しずつ形になっていった。
出汁は手で覚えるものだった。梶はそれを知っていた。だから言葉は少なかった。言葉で伝えられるものは、言葉で伝えた。それ以外は、やって見せた。それだけだった。
朝方、蓮が言った。「ありがとう」
梶は「早く帰れ」と言った。
蓮は帰った。外はもう明るくなっていた。路地に朝の光が入っていた。蓮はしばらく、その光の中に立っていた。それから歩き始めた。
梶は一人で厨房を片付けた。今日の仕込みが始まっていた。




