53話:正しければいい
榊が法廷の話をしたのは、何でもない夜だった。
特別な用事があって来たわけではなかった。ただ足が向いたから来た。カウンターに座って、酒を頼んだ。それだけだった。誰かが来ると知っていたわけでもなかった。ただ来た。
真鍋がいた。黒崎がいた。梶がいつも通り酒を出した。
「先月、一件勝訴した」と榊は言った。
急に言った。前置きも、文脈もなかった。ただ口から出た。
「どんな案件だ」真鍋が聞いた。
「小さな案件だ。証拠を積み上げて戦った」
「勝ったのか」
「勝った。相手が泥棒だったから勝てた、という感じだ。難しい案件ではなかった。証拠が揃っていれば、結果は見えていた」
「相手が泥棒だったから、とわかっていて戦ったのか」
「そうだ。最初から勝てると思っていた。それでも戦った」
全員が少し榊を見た。
「相手が泣いて詫びたというのは」
「そうだ。判決の後に、廊下で詫びてきた。予想外だった」
全員が少し驚いた表情をした。珍しいことではなかったが、榊がそう言うのは珍しかった。長く法廷にいた人間は、予想外のことに慣れている。それでも予想外だったということは、何かが違ったのだ。
「昔は勝てばいいと思っていた」榊は続けた。
誰も何も言わなかった。続きを待った。
「検察官の時代、有罪にすることが目的だった。有罪を取れれば、それで仕事は終わりだった。誰かが傷ついたかどうかより、論理として勝てるかどうかだった。被告が泣こうと怒ろうと、それは自分の仕事の外にあった。それが仕事だと思っていた」
「今は違うのか」真鍋が聞いた。
「正しければいいと思っている」
「勝てばいい、とどう違う」
「勝てばいい、とは言わなくなった。それだけだ」
法廷で詫びた相手の顔が、今も榊の中に残っていた。昔なら残らなかった。
梶だけが変わっていないように見えた。
仕込みをして、酒を出して、カウンターを磨く。三十年と同じことをしている。同じ手順で、同じ顔で、同じようにやっている。変わっていないように見えた。
ただ藤堂が言った。「梶さん、料理が変わりましたよ」
梶は少しの間、何も言わなかった。そのまま片付けを続けた。それからだけ言った。
「そうか」
そう言って、厨房に戻った。
全員が顔を見合わせた。変わったのか、変わっていないのか。梶本人は「そうか」とだけ言った。確認しなかった。否定もしなかった。
誰も何も言わなかった。ただ酒を飲んだ。それで十分だった。梶の料理が変わっているとすれば、飲んでいる間にわかる。




