52話:始まりにはなる
黒崎がある夜、一人で閉店近くまで飲んでいた。
常連が全員帰り、梶が片付けを始めた頃、黒崎はまだカウンターにいた。酒を飲んでいるというより、座っているだけに見えた。グラスは半分以上残っていた。そういう夜が、黒崎にはたまにある。
梶は片付けをしながら、黒崎を見た。問いかけなかった。ただ見た。しばらくして、梶が言った。
「どうした」
二文字だった。それだけで十分だった。
「昔追い出した店主から返事が来た」
黒崎はグラスを置いてから言った。グラスを持ったままでは言えない言葉だった。
手紙を送ってから、一ヶ月が経っていた。返事が来るとは思っていなかった。書いてから送るまでに、一週間かかった。何度も書き直した。最後に残ったのは、短い手紙だった。謝罪の言葉を並べるより、ただ自分がここにいることを告げる言葉にした。
「何と書いてあった」
「許すとは書いていない。ただ、手紙を読んだ、と」
それ以外のことは何も書いていなかった。しかし来た。「手紙を読んだ」という五文字が来た。
梶は黙って聞いた。
しばらく間があってから、梶が聞いた。
「それで十分か」
問い方が、梶らしかった。慰めでも批判でもなかった。ただ確認していた。
「十分じゃない」黒崎は言った。「でも始まりにはなる。あの人が手紙を読んでくれた。返事を書いてくれた。それだけが今はわかってる。十分じゃないが、始まりにはなる。十分かどうかは、まだ先の話だ」
「そうか」
梶は酒を注いだ。黒崎のグラスに注いだ。半分残っていたグラスに、さらに注いだ。
黒崎は一口飲んだ。今夜最初の、ちゃんとした一口だった。
「この酒、最初に飲んだときより美味い気がする」
口から出た言葉だった。考えて言ったわけではなかった。ただそう感じて、口に出た。
梶は少しの間黙ってから言った。「気のせいだ」
「それ、前も言ったな」
「言ったか」
「言った。蓮の時にも言った。あの時も同じやりとりをした」
梶は何も言わなかった。そのまま片付けを続けた。グラスを拭き、カウンターを磨き、いつも通りの動作を続けた。
黒崎は笑った。
声を出して笑った。久しぶりに、力のある笑い方をした。こんな笑い方を最後にしたのが、いつだったか覚えていなかった。腹の底から出てくる笑いが、いつの間にかなくなっていた。それが今夜、出てきた。理由はわからなかった。ただ、出てきた。
梶は振り返らなかった。片付けを続けながら、黒崎の笑い声を聞いていた。




