51話:怖いのとやらないのは別の話
ある夜、蓮が梶に言った。
カウンターに二人だけだった。他の客は帰っていた。閉店まで少し時間があった。蓮は酒を飲みながら、しばらくカウンターの木目を見ていた。それから、口を開いた。
「俺、また店を出そうと思う」
梶は「そうか」とだけ言った。
手を止めなかった。グラスを拭きながら答えた。うれしいとも、心配だとも言わなかった。「そうか」だけだった。
続きを待った。
蓮が続けた。「怖くないのか、と聞きたいか」
「怖いかどうかは俺が聞く話じゃない。お前が決めることだ」
蓮はしばらく黙って酒を飲んだ。
「怖い」
「そうか」
「また潰したらどうしようと思う。あの時より怖い。あの時は失敗を知らなかった。今は知ってる。失敗がどういうものか、身体で知ってる。知ってるから怖い」
梶は少し考えてから言った。
「怖いのと、やらないのは別の話だ」
蓮はその言葉を聞いた。
言葉が届いた瞬間と、意味がわかった瞬間が、少しずれた。聞こえてから、少し経ってから、その言葉の意味が開いた。
怖いのと、やらないのは別の話。怖いからやらない。やらないのは怖いから。その二つが一つになっていた。それが当たり前だと思っていた。
しかし別の話だ、と梶は言った。
「怖いまま、やるということか」
「そうじゃないのか」梶は言った。
それだけだった。余分なことは言わなかった。梶は必要なことだけを言う。言い過ぎれば、言葉が薄くなる。必要なことだけ言えば、残る。
蓮は酒を飲み干した。
翌朝、蓮は物件を探し始めた。
黒崎から教えてもらった場所を見に行った。路地から一本入ったところにある物件だった。小さかった。厨房が狭かった。それでいいと思った。最初から大きくする必要はない。小さく始めて、続けることの方が大事だ。それはかつての失敗から学んだことだった。
その夜遅く、真鍋に連絡した。「資金の計算を手伝ってほしい。時間があれば」
真鍋は短い返事を寄越した。「明日の夜はどうですか」
翌日、黒崎から連絡が来た。「場所に心当たりがある、と言ったやつ、もう一度一緒に見に行くか」
その次の日、榊から連絡が来た。「契約書を見る。持ってきてくれ。今回は問題のない契約書を用意させる」
藤堂には言っていなかった。しかし藤堂から連絡が来た。「何かあれば言え」と、それだけだった。それだけで十分だった。藤堂の「何かあれば」は、どんな何かにでも応じるという意味だと、蓮にはわかっていた。
蓮は一人でやろうとしていたわけではなかった。
しかし、こうして連絡が来るまでは、一人でやるつもりでいた。一人でやらなければならないと、どこかで思っていた。失敗したのは自分で、次に挑戦するのも自分だから、助けを借りることは甘えだと思っていた。
それが違った、ということを改めて知った。




