5話:仕掛けられた文字
榊は翌日、もう一度来た。
閉店後の時間を指定してきた。梶は断る理由がなかった。閉店後に来てくれと言われたのは、他の客に聞かせたくない話があるということだ。そのくらいのことは、梶にもわかった。
榊は鞄から書類を出し、カウンターに広げた。二枚並べた。一枚は梶が持っている賃貸借契約の原本で、もう一枚は昨日鷹宮が置いていった書類と似た形式の別紙だった。二枚を並べると、似ていることと、違うことが同時に見えた。
「一晩かけて調べました」榊は言った。「梶さんの賃貸借契約の原本と、昨日の書類を照合しました。それと、過去の案件を調べました」
「それで」
「昨日の書類は、梶さんの賃貸借契約の原本とは別物です。同じ形式を使っていますが、第七項の内容が異なります」榊は二枚の書類を並べた。「こちらが梶さんの原本。こちらが昨日の書類です。第七項を見比べてください」
梶は二枚を見た。確かに、文章が違った。梶の原本にある第七項には、昨日の書類にある解約条項がない。同じ形式の書類なのに、肝心な一文が違う。その一文を、梶はどこかで読んでいたはずだった。しかし読んでいなかった。正確には、読んでも気に留めていなかった。
「つまり、昨日の書類は俺の契約書じゃない」
「そうです」
「では、なぜ鷹宮がそれを持っていた」
榊は少しの間黙った。「それはまだわかりません。ただ、この書類の形式は、鷹宮の会社が過去に複数の店舗と交わした契約で使われているものと同じです。私が昨夜調べた範囲では、三件確認できました」
梶はカウンターに手をついた。立ったまま、少し考えた。
「顧問弁護士の件をもう少し調べました」榊は続けた。「その弁護士は、過去三年で鷹宮の会社が関わった案件に、六件携わっています。いずれも、飲食店の閉店または事業譲渡に関わる案件です。全て、弁護士が関わった後に、鷹宮の会社が後から買収に入っています」
「六件」
「全て同じ流れです」
梶はしばらく何も言わなかった。
弁護士に相談に行ったのは、去年の秋だった。再開発の話が出始めた頃、誰かに相談しようと思って、知人の紹介で訪ねた。事務所は清潔で、弁護士は物腰が柔らかかった。親切に話を聞いてくれた。問題ないと言われた。参考にしてくれと書類を渡された。梶はそれを持って帰り、引き出しに仕舞っていた。特に気にしていなかった。問題ないと言われたのだから。問題があると言われていたら、もっとよく読んでいただろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにしても、今は関係なかった。
「最初から、仕掛けてあったということか」
榊は答えなかった。答えの代わりに、静かに書類をまとめた。答えないことが答えだった。
「今の状況で、梶さんの契約に直接の問題はありません。梶さんが署名していない以上、昨日の書類は法的な効力を持ちません。ただし、相手がその書類の存在を主張して訴訟に持ち込んだ場合、争うことにはなります」
「そうか」
「ただ」榊は続けた。「鷹宮の手口がわかってきました。合法の範囲で、一手ずつ積み上げてくる。法的に問題のない形で、しかし確実に追い詰める。昨日の書類は、梶さんを不安にさせ、判断を焦らせるための一手だったかもしれません。焦った人間は、不利な条件でも受け入れてしまう。そういう人間を、これまでに何人も見てきました」
榊が「見てきた」と言う時、それは法廷の話なのか、検察官の頃の話なのか、梶には聞かなかった。聞かなくても、その言葉に重さがあることはわかった。
梶は少しの間、カウンターの木目を見ていた。三十年見続けてきた木目だった。親父が選んだ木材だった。この店を始める時に、親父が自分で選んだと聞いていた。どこで選んだのかは知らない。なぜこの木材を選んだのかも知らない。ただ、三十年ここにある。
「お前は、どうしてここまでしてくれるんだ」
「ここの鍋が好きだからです」榊は言った。「それだけです。それ以上でも以下でもない」
梶は何も言わなかった。それ以上でも以下でもない、という言葉を、梶はそのまま受け取った。余分なことを考えなかった。
厨房に入り、明日の仕込みの準備を始めた。今夜はもう遅い。明日の朝から仕込みを始めるための段取りだった。
窓の外では、雨がまだ降り続いていた。榊は書類を鞄に仕舞い、カウンターに千円札を置いて、暖簾をくぐった。
梶は一人になってから、引き出しを開けた。去年の秋に受け取った書類が入っていた。開いて、第七項を読んだ。榊が言った通り、そこには解約条項がなかった。
安心しなかった。
罠は、見えるところには置かない。梶はそれを、今夜初めて知った。知ったことで、より一層慎重にならなければいけないということも、同時に知った。知ることで、知らなかった頃より不安になることがある。それが今夜の梶だった。




