4話:罠の味
売上が半分になって二週間が経った。
仕入れ業者から電話が来たのは、月曜日の午前中だった。「支払い条件を少し見直させていただけないでしょうか」という言葉は、丁寧な形をしていたが、意味は明確だった。信用が揺らいでいる。長年の取引先が、距離を取り始めている。梶が一番長く付き合ってきた業者だった。十五年以上になる。その業者が電話をかけてきた。
梶は「わかった、相談させてくれ」とだけ答えた。それ以上は言わなかった。言えることが、それしかなかった。
火曜日の夜、鷹宮が三度目の来店をした。今回は一人だった。助手も書類も持っていなかった。カウンターに座り、梶を見て、静かに言った。
「お時間はありますか」
「ある」梶は答えた。
「今なら、買収の条件は維持できます」鷹宮は言った。「来月以降は、状況次第で変わる可能性があります。市場の状況が変われば、提示できる条件も変わる」
「お前が状況を作ってるんじゃないのか」
鷹宮の表情は変わらなかった。「私にはわかりません。市場の動きは私がコントロールできるものではない」
梶は鷹宮を見た。嘘をついているようには見えなかった。ただ、この男には「関係ない」という感覚があるのだと、梶は思った。動画が誰によって広められたかを、鷹宮は知っているかもしれないし、知らないかもしれない。しかしそのどちらであっても、鷹宮にとっては大した問題ではないのだ。数字が動けばいい。結果が出ればいい。それだけだ。この男の世界には、手段と結果の間に、感情が入り込む隙間がない。梶はそれが理解できた。理解できたが、納得はできなかった。
「結構だ」梶は言った。
鷹宮は頷き、薄く笑い、鞄から一枚の紙を取り出した。
「ご参考まで」
それだけ言って置いていった。今回は分厚い書類ではなく、一枚の紙だった。軽い動作だった。重要な書類を置いていくというより、忘れ物を置いていくような感じだった。
カウンターに座っていた常連客―榊―が、その紙を手に取った。元検察官で、今は何をしているのかよくわからない男だが、法律のことは誰より詳しい。ここに来るようになって五年になる。寡黙な男だった。多くは語らないが、語る時には的確だった。榊は紙を見て、少しの間黙っていた。
それから手元の鞄を開き、別の書類を取り出した。梶には見覚えがあった。
「梶さん」
「なんだ」
「この書類、見たことがありますか」
梶は振り向いた。榊が持っているのは、鷹宮が今置いていった紙ではなかった。別の書類だった。梶が以前に受け取ったものだった。
「あぁ。半年くらい前に、顧問弁護士に相談に行ったとき、参考にって渡されたやつだ。賃貸借契約の何かだったと思うが。何かあったか」
榊の目が細くなった。細くなって、書類に戻った。
「この契約書、いつ交わしましたか」
「交わした覚えはない。参考資料として見せてもらっただけだ。サインもしていない」
「確かですか」
「確かだ」
榊はしばらく書類を見ていた。ページをめくり、また戻し、特定の箇所を指で押さえた。その動作に迷いがなかった。最初から目当ての箇所がわかっていたかのような動き方だった。それから静かに、しかしはっきりと言った。
「梶さん。更新条項の第七項を見てください」
梶はカウンターを回り、榊の隣に立った。榊が指で示した箇所を読んだ。細かい字で書かれた一文が、そこにあった。
読んでも、すぐには意味がわからなかった。もう一度読んだ。それでも全体の意味がつかめなかった。法律の文章というのは、わかりやすく書かれていない。わかりにくく書かれている。そのことを、梶は今更知った。
「これは、どういう意味だ」
「更新の手続きを特定の方法で行わなかった場合、解約とみなすという条項です」榊の声は静かだった。静かすぎるくらいだった。「この手続きを知らずに通常の更新をした場合、契約は自動的に終了したとみなされる可能性があります。その解釈を押し通せば、梶さんの賃借権が消滅したことになる」
梶は書類を見ていた。文字を見ていた。文字の意味を理解しながら、それが自分の話だということがなかなか実感できなかった。
「顧問弁護士の名前を教えてください」
梶が名前を言った瞬間、榊は黙った。長い沈黙だった。
「知っているのか」梶が聞く。
「鷹宮の関連会社の顧問も務めている弁護士です」
店の中が静かになった。真鍋が手元のグラスを置く音がした。黒崎が低く息を吐いた。誰かが何かを言おうとして、止めた気配があった。言葉が出てこなかったのではなく、言葉が多すぎて選べなかったのかもしれない。
梶はしばらく書類を見ていた。
「俺、騙されてたのか」
誰も答えなかった。
答えられなかったのか、答えたくなかったのか、梶にはわからなかった。どちらでも同じだった。答えが出てくる状況ではなかった。
窓の外で、雨が降り始めた。アスファルトを叩く音が、静かな店の中に入ってきた。梶は書類から目を離し、厨房に戻った。火にかけていた鍋が、静かに煮立っていた。今夜の仕込みは、まだ終わっていなかった。手を動かせば、余計なことは考えなくて済む。梶はそれだけを頼りに、包丁を持った。




