48話:ここで飲みたい奴がいるから
ある夜の、閉店近い時間だった。
常連が全員帰り、梶が片付けを始めていた。グラスを洗い、カウンターを拭き、厨房の火を落とす。毎夜繰り返す動作だった。手が覚えていた。
そこに、暖簾をくぐった人間がいた。
鷹宮だった。
一人だった。スーツではなく、普段着だった。それだけで、随分と違って見えた。ジャケットを着ていたが、ネクタイがなかった。髪の毛が、いつもより少し乱れていた。スーツの鷹宮は、計算する人間の顔をしていた。しかし今夜の鷹宮は、それとは違う顔をしていた。疲れた、という言葉が近いかもしれない。ただ疲れているだけではなく、疲れながらも何かを確かめに来た、という顔だった。
梶は驚かなかった。少し見てから、「飲むか」とだけ言った。
鷹宮は静かにカウンターに座った。端の席だった。この店に来る時、いつも端に座る。梶はそれを覚えていた。
梶は何も言わずに酒を出した。燗をつけた徳利を出した。頼まれてもいないのに出した。それが梶のやり方だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
鷹宮は酒を一口飲んだ。今夜は、その一口に時間をかけた。飲んでから、また黙った。窓の外に目を向けていた。路地の向こうに、街の灯りがあった。
鷹宮が口を開いた。
「あなたの店は非効率だ」
「知ってる」梶は答えた。
言い返す気はなかった。間違っていない。この店が非効率であることは、梶が誰よりもよく知っていた。
また沈黙があった。外から車の音が聞こえた。通り過ぎて、遠ざかって、消えた。
「なぜ続けるんですか」
鷹宮の声は、これまでと違った。感情を排除した声ではなかった。計算がなかった。答えを求めているのか、ただ問うているのか、梶にはわからなかった。どちらでもあるような、どちらでもないような声だった。
梶は少し考えた。いつもはすぐ答える梶が、珍しく時間をかけた。答えを探しているわけではなかった。言葉を選んでいた。
「ここで飲みたい奴がいるから」
それだけ言った。
鷹宮は何も言えなかった。反論が出てこなかった。数字で返せない答えが来た時に、鷹宮は初めて黙った。「ここで飲みたい奴がいる」。効率の計算に乗らない。反論する足場がなかった。
その沈黙は、これまでの計算している沈黙とは違う種類の沈黙だった。何かを受け取っている沈黙だった。
受け取ったものが何かを、鷹宮が言葉にすることはなかった。
しばらくして、鷹宮は酒を飲み干した。財布を出した。梶は受け取った。
鷹宮が立ち上がり、暖簾の方へ歩いた。ゆっくりとした歩き方だった。出ていく直前に、歩みを止めた。振り返らずに言った。
「美味かった」
それだけ言って、出ていった。暖簾が揺れた。路地の暗闇の中に、鷹宮の後ろ姿が消えた。
梶は一人でカウンターを磨いた。
磨きながら、何も考えなかった。鷹宮のことも、今夜のことも、戦いのことも。ただ手だけが動いていた。カウンターの木目が、布の下で光を反射した。三十年見続けてきた木目だった。親父が選んだ木材だった。今夜もここにあった。




