36話:矛盾しているとは思わないか
藤堂が最初の手を打ったのは、月曜日の朝だった。
市場が開いた時間に、合法的な空売りのポジションを取った。大きな額ではなかった。大きな額を動かせば、動きそのものが目立ちすぎる。小さく、しかし確実に。市場への問いかけのような動きだった。
しかし市場は敏感だった。藤堂の名前が動いたという情報が、午前中のうちに業界内を回った。藤堂が動いたということは、何かを知っているということだ。市場はそう読む。何を知っているのかを、市場は探り始める。探り始めれば、すでに出ている情報が改めて注目される。情報は、注目されることで意味を持つ。
午後、調査報道が一本出た。
炎上マーケティングの実態について調べた記事だった。内容の半分は、すでに出ていた情報だった。しかし新しい部分があった。元社員の匿名証言が含まれていた。「収穫率という言葉が社内で使われていた」という証言だった。これまで一人の内部告発者から出ていた言葉が、今度は複数の人間が確認した形で出た。複数が一致すれば、言葉の重みが変わる。
株価が二パーセント落ちた。
行政調査が始まってから、じわじわと続く下落だった。一度に大きく落ちるのではなく、少しずつ落ち続ける。止まらないことが、市場には効く。
鷹宮は会見を開かなかった。声明文だけを出した。「根拠のない憶測に基づく報道には適切に対応します」という内容だった。これまでは会見を開いて自ら話していた。声明文だけになったことが、何かを示していた。
その夜、藤堂は赤ちょうちんに来た。
常連会議の夜ではなかった。一人で来た。カウンターに座り、梶と二人になった時間に、口を開いた。
「あなたの店を守るために、私は市場を動かしている。矛盾しているとは思わないか」
梶は徳利を傾けながら、少しの間考えた。考えてから答える梶は、珍しかった。普段は考えずに答える。今夜は少し時間をかけた。
「俺には市場のことはわからん」梶は言った。「ただ、お前さんが決めることだ」
「後悔しないか」
「後悔するかどうかは、お前さんが決めることだ。俺が決めることじゃない」
藤堂は何も言えなかった。
梶の答えは、肯定でも否定でもなかった。「矛盾していない」とも言わなかった。「矛盾している」とも言わなかった。ただ、藤堂に返したのだった。お前が選んでいる、それがお前の責任だ、というように。受け取るのも返すのも、お前の問題だ、というように。
それが藤堂には、一番重かった。肯定も否定もしない。ただ、お前が選べ、と言う。その返し方が、今夜の藤堂には必要なものだった。必要なものを、言葉少なく返す。それが梶という人間だった。
「市場を動かすことと、人を守ることは、同じことで同時にできるのかどうか、俺にはまだわからない」藤堂は言った。独り言に近い声だった。
梶は何も言わなかった。ただ、酒を追加した。それだけだった。
藤堂は今夜、初めて二杯飲んだ。普段は一杯で立つ。二杯目を頼む時、少し迷ってから頼んだ。その迷いが、今夜の藤堂の正直さだった。




