32話:調査が始まった
資料を行政に提出したのは、翌週だった。
公正取引委員会の相談窓口と、消費者庁の両方に同時に提出した。二つの窓口に同時に出したのは、どちらか一方が動かなくても、もう一方が動く可能性を残すためだった。一点突破ではなく、複数の入口から入る。それが榊の判断だった。
資料の出所は伏せた。「複数の被害店主からの証言と、業界内から入手した参考資料」という形にした。どちらから来たかを特定させない。内部告発者の身元を守ることと、資料の信頼性を担保することを、同時に考えた結果だった。
提出した後は待つしかなかった。
回答は三週間後に来た。文書で届いた。
「情報を受け付け、調査を開始することを決定しました」
それだけだった。調査の内容も、進め方も、開示されなかった。調査の結論がいつ出るかも、書かれていなかった。しかし調査が始まったという事実は、一行の文書の中にあった。その一行が重かった。
しかしその事実が、メディアに漏れた。どこから漏れたのかわからなかった。こういうことは漏れる。行政の内部からか、あるいは提出した側からか、あるいは全く別のルートからか。漏れた経路を探すより、漏れた事実を使う方が先だった。
「AI外食コンサルに行政調査、不公正な取引慣行の疑い」という記事が出た。
朝のニュースで取り上げられた。昼の報道でも出た。夕方には複数の媒体が続報を出した。「収穫率」という言葉が、改めて使われた。
鷹宮はその日の午後に会見を開いた。
「私どもは合法的な企業活動を行っています。行政の調査には全面的に協力します。問題があれば、調査の中で明らかになるはずです」
声は平坦だった。いつもの声だった。感情を必要としない声だった。しかし今回は、目の動きが変わっていた。わずかに速かった。計算の速度が上がっていた。処理しなければならない情報量が増えているということだ。余裕がなくなってきている。鷹宮にそれが出るとは思っていなかったが、出ていた。
一部スポンサーが契約解除を発表した。「現時点では慎重に状況を見守る」という声明だった。口当たりのいい言葉だったが、距離を置き始めているということだった。株価は三パーセント落ちた。小さな動きではなかった。
その夜の常連会議で、全員が集まった。
榊は短く言った。「調査が始まっただけだ。結果が出るまで時間がかかる。焦ることはない。ここからが長い」
「どのくらいかかる」真鍋が聞いた。
「行政調査は早くて半年、長ければ一年以上かかることもある。その間、鷹宮は動き続ける。こちらも動き続けなければならない」
黒崎が聞いた。「その間に鷹宮が逃げないか」
「逃げる男じゃない」榊は答えた。「正面から戦ってくる。合法の範囲で、一手ずつ返してくる。それが鷹宮という人間だ。逃げるより戦う方が、あの男の性格に合っている。そして戦い続けることで、調査への妨害とは見られないように振る舞う。その方が厄介だ」
全員が黙った。
梶が酒を注ぎながら言った。「長い戦いになりそうだな」
感情のない声だった。ただ確認しているような声だった。
「なる」榊は言った。「それでいい。長くても、正しい方向で続けることが大事だ。長さは問題ではない」
梶は頷かなかった。ただ酒を注ぎ続けた。それが梶の答えだった。




