31話:収穫率
連絡が来たのは、木曜日の夜だった。
差出人不明のメールだった。文面は短かった。「お話があります。直接会えますか。公開はしないでください」
それだけだった。名前もなく、所属もなく、何の話かも書いていなかった。怪しいメールだと判断することもできた。しかし「公開はしないでください」という一文が、榊の注意を引いた。公開を恐れている人間が、リスクを取って連絡してきた。
榊は返信した。「どこで話しますか。場所はお任せします」
翌日、指定された場所は駅近くのカフェだった。昼の時間帯で、混んでいた。周囲の話し声が大きい場所を選んだのだろうと、榊は思った。話を聞かれたくない時に、静かな場所ではなく騒がしい場所を選ぶ。かえって会話が聞き取られにくい。それは正しい判断だった。
来たのは三十代前半の男性だった。小柄で、スーツを着ていたが、くたびれた感じがあった。鷹宮の会社で、マーケティング担当として働いていたという。三ヶ月前に退職していた。目に疲れが見えた。何かを抱えながら生きてきた人間の目だった。決断するまでに時間がかかった人間の目でもあった。
「どうして私に連絡を」
「先日の記事を読みました。蓮さんと真鍋さんのレポートです。あの内容は、私が知っていることと一致しています」男性は少し間を置いた。「私は何かしなければいけないと思った。ずっと思っていた。でもできなかった。家族がいるから。退職してから三ヶ月、ずっと考えていました」
三ヶ月。退職してから三ヶ月、この話を誰にも言えずにいた。
男性は鞄から封筒を取り出した。「とある資料を持っています。ただし、お渡しするのは、私の身元を守ってもらうことが条件です。家族に影響が及ぶことは避けたい」
「守ります」榊は言った。「身元は出しません。資料だけを使います。あなたの名前は、どこにも出ません」
その言葉を、男性は少し考えてから受け取った。信じたわけではなく、信じることにしたという感じだった。封筒を渡した。
封筒の中には、内部資料のコピーが入っていた。
榊は一枚一枚、丁寧に確認した。急がなかった。焦って見落とすより、丁寧に確認する方が大事だった。
「収穫率」という言葉が書かれた一枚で、榊は手を止めた。
店舗を番号で管理した表だった。各店舗の炎上後の客足減少率、買収見込み額の上限、転売時の想定利益が記されていた。そして右端の列に「収穫率」という文字があり、パーセンテージの数字が入っていた。店の名前ではなく番号だったが、住所から特定できるものだった。
番号の一つに、見覚えのある住所があった。
人の営みを記号に変えた表だった。三十年続いた店が、番号と数字になっていた。梶の店が、そこにあった。
「これを行政に出せます」榊は言った。声は平坦を保った。「あなたのことは守ります。出所を辿られないようにします」
男性は頷いた。それだけで、席を立った。もう話すことは何もないという立ち方だった。
帰り道、榊は藤堂に電話をかけた。「身元保護のための法的コストが必要です。弁護士を立てる必要があります。負担をお願いできますか」
藤堂はすぐに答えた。「わかりました」
迷わなかった。それが藤堂という人間だった。
その夜の赤ちょうちんで、榊は全員に話した。資料の内容を説明した。「収穫率」という言葉の本当の意味を説明した。全員が黙って聞いていた。
話し終えた後、しばらく誰も何も言わなかった。
それから全員が頷いた。言葉は要らなかった。決定打が来た。次に何をするかは、わかっていた。




