20話:忘れられない顔
行政が住民説明会の再開催を要請した。
区の都市開発部門から、デベロッパーに対して正式な文書が出された。「手続きの透明性を確保するため、関係住民への説明会を改めて開催すること」という内容だった。文書の言葉は穏やかだったが、行政が動いたという事実は重かった。行政が動いたということは、何かが問題だと認識したということだ。
それに伴い、再開発計画の進行が一時停止された。
法的な強制力はなかった。デベロッパーが拒否することも、理論上は可能だった。しかし、行政からの要請を無視することの社会的なリスクは大きい。融資している銀行も注目している。メディアが注目している。村田は要請を受け入れると発表した。受け入れる以外の選択肢が、実質的になかった。
鷹宮のスケジュールが、一ヶ月以上後ろにずれた。
メディアがこの件を取り上げた。「再開発計画に手続き上の問題か」という見出しだった。大きな記事ではなかったが、記事の中で、住民への説明が不十分だったという証言がいくつか紹介された。黒崎が聞き込みで集めた証言と、ほぼ同じ内容だった。どこから漏れたのかはわからなかった。しかし、出た。
鷹宮は会見を開いた。「感情論に屈するな」と社員を鼓舞した。その言葉がそのままニュースになった。鷹宮の言葉を切り取る形で報道された。「感情論に屈するな」という発言が、住民への説明を感情論と切り捨てているように受け取られた。意図したものかどうかはわからなかった。しかし、印象は残った。
投資家の一部が、懸念を示し始めた。計画の遅延が収益に影響するという見方が出てきた。株価が微動した。大きな動きではなかったが、動いた。傷がついた。完璧に見えていたものに、小さな傷がついた。
その夜の常連会議で、黒崎は報告を終えた後、静かに座っていた。
全員が報告を聞いて、それぞれの評価をしていた。真鍋は数字を確認していた。榊は法的な観点から整理していた。蓮と藤堂は黙っていた。梶は酒を注いでいた。
しばらくして、黒崎は口を開いた。
「昔、俺が追い出した店がある」
誰も何も言わなかった。酒を飲む音だけがあった。続きを促す言葉も、止める言葉も、誰も出さなかった。
「路地の中にある、小さな寿司屋だった。昼だけやっている店で、近所の人間しか知らなかった。再開発の邪魔だった。俺は合法の手順で、しかし確実に追い詰めた。仕入れ先との関係を少し崩した。テナントの条件を変えた。それだけのことだ。特別なことは何もしていない」
梶が酒を注ぎながら、黒崎を見た。
「最後に店主が出ていく日、俺はそこにいた。荷物を運び出すのを、遠くから見ていた。命令されたわけじゃない。自分から見に行った。なぜ見に行ったのか、今でもわからない」
黒崎はグラスを持ったまま、少しの間黙った。
「その顔が今でも忘れられない。怒っているわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ、疲れた顔だった。何かを諦めた顔だった。あの顔は、意図して作れるものじゃない。数字で説明できるものでもない。ただ、残る」
「今回、俺が守る側に回っているのは、あの顔のためだ。格好のいい話じゃない。後悔を消そうとしているだけかもしれない。後悔が消えるかどうかもわからない。それでも、動かないよりは動いた方がいい」
黒崎が言い終えた後、しばらく誰も何も言わなかった。
責めた人間はいなかった。慰めた人間もいなかった。それが正しいやり方だった、と言った人間もいなかった。ただ、黒崎が話したことを、全員が受け取った。
梶は何も言わなかった。ただ酒を注いだ。その動作に、黒崎への返事が含まれていた。言葉にしなくても伝わることが、三十年この仕事をしてきた梶にはあった。
その夜の酒は、いつもより少し重かった。




