13話:使える証拠だけ
削除が始まってから三十六時間後、引退ハッカーから連絡が来た。
「保全できたのは全体の四割だ。残りは消えた。ただ、保全した中に使えるものがある。重要ログが偶然キャッシュに残っていた。全部消える前に間に合った」
残りは消えた。その言葉を真鍋は繰り返した。六割が消えた。しかし四割が残った。残ったものの中に、使えるものがある。それだけを、今は考える。
データが届いた。真鍋は三台のモニターで確認した。
フォロワーの構成分析だった。六件の案件で使われたインフルエンサーのフォロワーを解析した結果、三割から四割が偽装アカウントと判定できるデータが含まれていた。アカウントの作成日が特定の期間に集中している。投稿パターンが機械的だ。同じ文章を少しずつ変えて繰り返す。フォロー関係の構造が不自然だ。人間が自然に形成するネットワークとは異なる幾何学的な構造を持っている。機械的に生成されたと判断できる特徴が、複数揃っていた。
「これで暴けるか」
翌日、榊に見せた。榊はデータを丁寧に確認した。一枚ずつ、丁寧に。それからゆっくりと首を振った。
「名指しで公表すれば名誉毀損リスクがある。インフルエンサーが意図的に偽装フォロワーを買ったと証明できなければ、公表は難しい。インフルエンサー本人が知らずに買わされていた可能性もある。その場合、インフルエンサーも被害者になる」
「では使えないのか」
「このまま直接使うことはできない。ただ、事実だけを第三者の口から出す形にすれば、話が変わる。特定の個人への批判ではなく、業界全体のSNS健全性に関するデータとして出す。そうすれば名誉毀損には当たらない。問題は、どの第三者に出してもらうかだ。信頼性のある第三者でなければ、出しても意味がない」
「時間がかかるか」
「準備に一週間は欲しい。適切な第三者を探して、データを整理して、出し方を設計する。一週間かければ、使える形にできる」
真鍋は頷いた。一週間。その間に鷹宮は次の手を打ってくるかもしれない。三人のインフルエンサーはすでに動いている。しかし焦って間違いを犯すよりは、一週間待つ方がいい。グレーな証拠を使えば、後で全てが崩れる。使える証拠だけで戦う。それが今できる最善だ。
その夜、蓮が赤ちょうちんに新しい肴を持ってきた。メバルの煮付けだった。梶の店に食材を持ち込み、梶の厨房を借りて作った。頼まれてもいないのに来て、黙って厨房に入った。梶は何も言わなかった。とがめなかった。ただ、少し見てから仕込みに戻った。
「試食してくれ」と蓮は言った。
全員が一口ずつ食べた。しかし、今夜は料理の話をする夜ではなかった。ただ全員が箸を動かした。箸が動くということは、食べたいということだ。食べたいということは、旨いということだ。
おかわりを頼んだのは黒崎だった。普段、おかわりを頼む男ではなかった。黒崎自身も気づいていなかったかもしれない。気づかないうちに、もう一皿頼んでいた。
梶が珍しく厨房から出てきて、自分の猪口に酒を注いで飲んだ。それから蓮を見た。
「旨いじゃないか」梶は言った。
それだけだった。多くは言わなかった。しかし梶が「旨い」と言うのは、珍しかった。自分以外の料理を旨いと言うことが、そもそも少なかった。蓮はその言葉の重さを知っていたから、照れた。黙って酒を飲んだ。顔が少し赤かったが、酒のせいかどうかはわからなかった。
真鍋はデータを眺めながら、一週間後の動きを考えていた。使える証拠だけで戦う。それだけだ。足りなければ、また集めればいい。集め続ければ、いつか足りる日が来る。そう信じるしかなかった。




