5-40.帰る場所
土曜日の昼下がり、田園調布にある橘家は、落ち着いた佇まいとは裏腹に、騒がしい音に包まれていた。
「薫ちゃん、そっちお願いね」
十和子の弾んだ声が、食器の触れ合う音にまじってキッチンから聞こえてくる。
「はーい」
それに応えるように、薫が手際よくダイニングテーブルに食器を並べていく。
「十和子伯母さん。今日のパーティーは、新作のお披露目ではなかったんですか?」
色とりどりにデコレーションされたダイニングに目を遣りながら、直人はさり気なく尋ねた。そこには大きな文字で『直人、お帰りなさい!』と垂れ幕が飾ってあった。そのネーミングは少々恥ずかしいものがあるが、ホームパーティーを演出するために散りばめられた小道具にはセンスが光っていた。
「ふふっ、薫ちゃんが朝から手伝ってくれたのよ。センスあるわよね」
十和子はキッチンから一瞬だけ顔を覗かせると、そのままリビングへと向かって行った。
「ほら、二人とも! こっちに来て手伝ってちょうだい」
遠くで十和子が一喝する声がする。
「それにしても、直人君のパーティーなのか、十和子さんの冬の新作のお披露目なのか、よく分からないねぇ」
宗一郎は愛犬フランキーを腕に抱えながら、ゆっくりとした歩調でダイニングにやって来た。その後を渡辺が追う。
「今日は平岡と幸恵さんも、十和子さんの犠牲になるのか……」
「お父さん!」
薫が睨むと、渡辺はにやりと笑った。
料理研究家としても知られる十和子だが、時折こうして身内が〝新しい試み〟というババを引かされる。とはいえ今回は、平岡と幸恵もパーティーに参加する。
「平岡さんたちは何時頃来るの?」
薫は手を止め、直人の方を向いた。
「あと、一時間もしないうちに来るよ」
直人は腕時計を確認した。渡辺が気を利かせ、今日は事務所も休みになっている。
「じゃあ、これ終わらせないと」
薫は花の束を広げると、手慣れた手つきで茎や余分な葉を切っていく。
「手伝うよ」
直人はハサミを持つと、薫の手元を見ながら同じように茎を整えていった。
キッチンでは十和子が渡辺と宗一郎を手伝わせ、床に降ろされたフランキーが吠え声をあげて走り回っている。帰国してから五日たち、すべてが日常に戻った。
「それにしても、一緒に乗船した警察官って、女性だったのね」
薫は花を生けながら、それとなく話を振った。
「うん。彼女はすごく信頼のおける人だった」
今井巡査長は状況を判断する眼を持っていた。マリーナで直人の端末を見つけると、帰国もせずに病院を探し回り、さらには三条グループの代理人との面会にも同行してくれた。感謝してもしきれない。加えて、引き際も心得ている。
──案外、公安に向いているのでは……?
直人がこの十日間の出来事に思いを巡らしていると、薫がすぐ横で相槌を打った。
「ふうん」
わずかに棘を含んだ反応に、直人は薫の表情を窺う。だが彼女は視線を落としたままだった。
「別に、心配しただけよ。だって、直人が飛行機に乗ってなかったって、お父さんから聞いたから」
「ごめん。でも、連絡の取りようもなかったんだ」
直人は慌てて返すが、ふと脳裏にベアトリスが一瞬だけ浮かんだ。左の親指の付け根に逆三角形の星を刻み、どこか危険な匂いをまとった女性──。
「それにしても、数か月前はアメリカの情報機関、今回は及川財団の幹部の人間に拘束……なんでお父さんの所に来る依頼って、そんなに特殊なの?」
「何か云ったか?」
渡辺がひょいとダイニングに顔を出した。
「お父さんが、直人に無理をさせ過ぎるせいよ!」
「なんで俺のせいなんだ! 今回は荒木さんの件だし、直人は貸しを返したかっただけだ」
「あ、薫さん。お土産渡すの忘れてました」
二人の間に割って入るように、直人は話題を変えた。
「拉致されていたのに、薫に土産を買ってくる余裕があったんだな」
渡辺は少し驚いたように直人を見た。
「期待されていたんで」
直人はそれだけ告げると、リビングの端に置いてあったA4サイズの封書を拾い上げた。
「それは、言葉の綾よ……」
ばつが悪そうに、薫は目を逸らす。
「色々迷ったけど、こういうのが一番喜ぶかなと思って」
そう云って、直人は封書を薫に差し出した。薫は一瞬眉を顰めたが、躊躇いながらも中身を取り出す。
「不動産……?」
封書の中には書類の束。渡辺も思わず覗き込む。
「三条グループが所有する、都内の不動産。手がけるのはまだ数年先らしいけど──」
直人はそこで一旦切ると、にっこりと笑った。
「薫さん、内装をデザインする?」
「えっ」
薫の目が大きく見開かれる。
「三条グループは不動産にも力を入れてるんだ。いくつか建物があるらしい──タワマンとか、商業施設とか。まだ将来的な話なんだけど、薫さんなら、その頃には独立してるかなって」
「うそっ!」
薫が声を上げると、横から渡辺が書類を手に取った。
「やるな、直人」
渡辺は感心したように、書類に目を通していく。
「僕の命がかかってましたけどね」
冗談めかして返すと、十和子がどこからか現れた。
「未来に乾杯ね」
十和子がそう云った時、フランキーが吠え始めた。どうやら、平岡と幸恵が到着したらしい。渡辺は書類を薫に返すと、そのまま玄関へと歩いて行った。十和子は宗一郎の様子を確かめにキッチンへと戻っていく。ダイニングには、直人と薫だけが残った。
「あまり遠くに行かないでね」
薫は封書を握りしめたまま、そっと直人を見た。その無垢な瞳には、わずかに心配そうな色が混じっている。直人は思わず手を伸ばし、その栗毛色の柔らかい髪を撫でると、ふわりと懐かしい香りがした。
「たとえ遠くに行っても、僕にはちゃんと帰る場所があるから」
そう云って微笑むと、薫は頭の端を直人の肩にそっと預けた。
しばらくのあいだ、二人は無言のまま、寄り添うように立っていた。
(了)
第六章を現在構想中です。
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