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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第五章】沈黙の裁定
179/182

5-39.沈黙の裁定

 客間にある大理石の暖炉は、普段は使われない。

 煙と灰が残るからだ。

 それでも今日だけは、薪が積まれていた。


***


 十一月下旬のモントルーは、冷たく湿った空気に包まれていた。アルプス側の山は、うっすらと白い。

 

 レマン湖沿いに面した二階建ての優雅な邸宅では、早朝から念入りな大掃除が行われていた。コルヴスは家政婦に短い指示を出し、警備の配置を確認しながら、来客を迎える準備を進める。


 昼下がり、その車は細いアイアンゲートをくぐり、敷地内へと招かれる。玄関先に、マスターの姿があった。


「堀川様、お久しぶりです。お元気そうで何より──」

「堅苦しい挨拶は不要じゃ」 

 堀川の老人は目を細めると、マスターの肩をポンと叩く。

「何年ぶりかな? この場所も」


 秋花で彩った庭をゆっくりと見渡してから、老人は邸宅に足を踏み入れた。 


「云ってくだされば、こちらから出向いたのに」

 マスターが後を追って中へ入ると、居間の入り口でコルヴスが待機していた。


「君が日本にか?」

 老人は愉しそうに返したが、マスターはそれ以上答えなかった。


***


 堀川の老人は赤々と燃える暖炉の前で、丁重に磨かれたシルバーの写真立てを一つずつじっくりと眺めて歩いた。ふと老人の視線が止まる。

「これは、いつ撮ったんじゃ?」

 老人の眉が僅かに動いた。


「一年前、揚羽(アゲハ)が接触した際に、空港で撮ったようです」

 マスターは直人の写真に一瞬だけ視線を向けると、モスグリーン色のベルベットソファに腰を下ろした。


「ワシは船の上で彼に会ったぞ」

 そう云うと、老人は他の写真にも目を移していく。


「偶然だったと、お考えですか」

「さよう。あれは〝偶然〟じゃ」

 老人は女性の写真が納められた写真立てをそっと手に取った。


「良い眼をしておったぞ。橘の方によく似ておる」

「私に似なくてよかったです」

「いや、そんなことはない。外見は母親似だが、あのしたたかさは、其方によく似とるわ」


 老人は写真立てを元の位置に戻すと、ソファにゆっくりと腰を下ろした。


「其方がその地位について十年。そろそろ制御が効かなくなる頃じゃ。現に今回は、ウレグと接触があった」

 その言葉に、マスターはただ静かに老人を見詰めた。

「なんだ、驚かぬところを見ると、知っておったのか」

 老人は、わずかに眉を動かしただけだった。


「向こうの動きを報告する者を、長い間忍ばせていましたが──連絡が途切れました」

 マスターは一瞬だけ視線を伏せた。

「なるほど……あのトルコ人のことか」

 老人はそれ以上を問わず、話題を切り替えた。


「話は変わるが、甲府の墓が荒らされておったぞ」

「……なぜ今頃」

 マスターは眉を僅かに顰めたが、ソファから立ち上がると、暖炉に新しい薪を放り込んだ。


「アメリカの仕業かもしれん。こちらでも、気に留めておこう」

 それだけ告げると、老人は背をわずかに乗り出した。

「それから──来月に予定されている評議会のことで、先に其方に告げておくことがある」


 マスターは手を止め、表情を引き締めた。灰になりかけた薪から、もう一度勢いよく炎が暖炉の中で踊り出す。


「ラースロー・セリーニから正式に申請があった。長年、カトリーヌ・ブランシェの代行を務めてきたベアトリス・ロチェスターを正式に任命するように、と」


 マスターは空を見詰めた。

「ウレグとアイスマン。二人が賛成に票を投じれば、その下の者たちもそれに続くだろう」

 重々しい口調でそう云うと、マスターはソファに戻った。


「それだけではない」

 老人の目が、わずかに細くなる。

「こちら側も、他の二人が〝異議はない〟と云い出した──つまり、ワシも彼らに同意せねばならん」


()()も、ですか」

 マスターの眉がぴくりと動いたが、目は揺れていない。


「さよう。其方の命運がかかっておる。覚悟してかかれ、神崎隆一」

 老人の声は不吉な影となって、静寂な邸宅に沈んだ。

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