5-39.沈黙の裁定
客間にある大理石の暖炉は、普段は使われない。
煙と灰が残るからだ。
それでも今日だけは、薪が積まれていた。
***
十一月下旬のモントルーは、冷たく湿った空気に包まれていた。アルプス側の山は、うっすらと白い。
レマン湖沿いに面した二階建ての優雅な邸宅では、早朝から念入りな大掃除が行われていた。コルヴスは家政婦に短い指示を出し、警備の配置を確認しながら、来客を迎える準備を進める。
昼下がり、その車は細いアイアンゲートをくぐり、敷地内へと招かれる。玄関先に、マスターの姿があった。
「堀川様、お久しぶりです。お元気そうで何より──」
「堅苦しい挨拶は不要じゃ」
堀川の老人は目を細めると、マスターの肩をポンと叩く。
「何年ぶりかな? この場所も」
秋花で彩った庭をゆっくりと見渡してから、老人は邸宅に足を踏み入れた。
「云ってくだされば、こちらから出向いたのに」
マスターが後を追って中へ入ると、居間の入り口でコルヴスが待機していた。
「君が日本にか?」
老人は愉しそうに返したが、マスターはそれ以上答えなかった。
***
堀川の老人は赤々と燃える暖炉の前で、丁重に磨かれたシルバーの写真立てを一つずつじっくりと眺めて歩いた。ふと老人の視線が止まる。
「これは、いつ撮ったんじゃ?」
老人の眉が僅かに動いた。
「一年前、揚羽が接触した際に、空港で撮ったようです」
マスターは直人の写真に一瞬だけ視線を向けると、モスグリーン色のベルベットソファに腰を下ろした。
「ワシは船の上で彼に会ったぞ」
そう云うと、老人は他の写真にも目を移していく。
「偶然だったと、お考えですか」
「さよう。あれは〝偶然〟じゃ」
老人は女性の写真が納められた写真立てをそっと手に取った。
「良い眼をしておったぞ。橘の方によく似ておる」
「私に似なくてよかったです」
「いや、そんなことはない。外見は母親似だが、あのしたたかさは、其方によく似とるわ」
老人は写真立てを元の位置に戻すと、ソファにゆっくりと腰を下ろした。
「其方がその地位について十年。そろそろ制御が効かなくなる頃じゃ。現に今回は、ウレグと接触があった」
その言葉に、マスターはただ静かに老人を見詰めた。
「なんだ、驚かぬところを見ると、知っておったのか」
老人は、わずかに眉を動かしただけだった。
「向こうの動きを報告する者を、長い間忍ばせていましたが──連絡が途切れました」
マスターは一瞬だけ視線を伏せた。
「なるほど……あのトルコ人のことか」
老人はそれ以上を問わず、話題を切り替えた。
「話は変わるが、甲府の墓が荒らされておったぞ」
「……なぜ今頃」
マスターは眉を僅かに顰めたが、ソファから立ち上がると、暖炉に新しい薪を放り込んだ。
「アメリカの仕業かもしれん。こちらでも、気に留めておこう」
それだけ告げると、老人は背をわずかに乗り出した。
「それから──来月に予定されている評議会のことで、先に其方に告げておくことがある」
マスターは手を止め、表情を引き締めた。灰になりかけた薪から、もう一度勢いよく炎が暖炉の中で踊り出す。
「ラースロー・セリーニから正式に申請があった。長年、カトリーヌ・ブランシェの代行を務めてきたベアトリス・ロチェスターを正式に任命するように、と」
マスターは空を見詰めた。
「ウレグとアイスマン。二人が賛成に票を投じれば、その下の者たちもそれに続くだろう」
重々しい口調でそう云うと、マスターはソファに戻った。
「それだけではない」
老人の目が、わずかに細くなる。
「こちら側も、他の二人が〝異議はない〟と云い出した──つまり、ワシも彼らに同意せねばならん」
「彼女も、ですか」
マスターの眉がぴくりと動いたが、目は揺れていない。
「さよう。其方の命運がかかっておる。覚悟してかかれ、神崎隆一」
老人の声は不吉な影となって、静寂な邸宅に沈んだ。




