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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第五章】沈黙の裁定
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5-38.交渉

 病棟の待合スペースで、直人は壁にもたれ、スマートフォンを耳に当てていた。


「まったくもう。無事で何よりだわ」

 電話の向こうで、十和子の安堵する声が響いた。


「すみません。連絡したくても、難しい状況にいました」

 直人は小さく息をついた。この三日間の出来事は現実からあまりにもかけ離れていた。カラバシュの裏切りがなければ、きっと日本には戻れなかっただろう。


「それで、及川財団の幹部級の人物が、すべての原因だったのね!」

 十和子にしては珍しく、荒々しい口調だった。


 二階堂は表向きは立場のある人間だが、ウレグたちの組織の中では末端にすぎない。だが、直人はそのことを口にしなかった。組織の存在は伏せ、曖昧に〝犯罪〟という言葉だけで、すべてを二階堂要に押し付けることにした。


「はい。彼は……犯罪に関与していた可能性があります」

「なんてこと!」

 十和子は言葉を失った。


「伯父さんは……どうしてますか? まだ……怒ってますか?」

 東京に戻れば、きっとねっとりとした説教が待っているだろう。そう思うだけで、今から気分が沈んだ。


「警視庁に行ったきり、まだ帰ってこないわ」

「それは……」

「叡治さんにすぐ連絡したから大丈夫。きっと〝法的措置〟と騒ぎ立てる宗一郎を宥めて、どうにか収拾をつけてくれたはず」

「そんなことできるのは、渡辺さんぐらいですからね」

 直人は少しだけ肩の力を抜いた。


「ええ。それで、叡治さんには連絡を入れたの? とても心配していたわよ」

「はい。ですが、すぐに留守電に切り替わったので、メッセージだけ残しておきました」

「じゃあ、まだ警察のところね。で、直人君。フライトの変更はできた?」

「明日の便で帰国します」

「今度こそ帰国してちょうだいね。それで、三条グループの代理人とは会えたの?」

「今から会う予定です」

「しっかりと苦情を言っておくのよ! 特に、その御曹司の件!」

 十和子は念を押すように声を張り上げると、満足したのか通話を切った。


 直人はスマートフォンをポケットにしまうと、今井巡査長の方に歩み寄った。

「今井さんも来てくれるんですか?」

「もちろんよ。向こうは弁護士も同行するのに、神崎君一人だけでは立場が弱いでしょう? 私の存在が抑制になると思うわ」

 そう云うと、今井巡査長は椅子から立ち上がり、エレベーターに向かって歩き出した。


「ありがとうございます、今井さん」

 直人はスーツケースを引きながら彼女を追う。この後、指定のホテルで三条グループの代理人と面会が予定されている。


「とにかく、無事で本当によかったわ。港湾エリアの病院を起点にして、神崎君を探したのよ。クルーズ船絡みなら、まずそこに搬送されると思って。あとは応急搬送された日本人患者の記録を追っていったら……()()()()に辿り着いたわ」


 淡々とした口調だったが、その裏にかかった手間は想像に難くない。エレベーターを待ちながら、ふと孝則の姿が脳裏をよぎる。「ごめんなさい」と洩らし、悲しそうな顔を浮かべていた。結局彼も、二階堂に利用された被害者なのだろう。


 ドアが開き、スーツ姿の男性が現れた。今井巡査長が話しかける。

「お疲れさまです。一度、意識が戻りましたが、まだ本調子ではないです。では、私は明日の午後、東京に戻りますので」

「そうでしたか。わざわざ、ありがとうございます」

 事務的なやり取りを終えると、男性は直人にも軽く会釈し、そのまま特別病室の奥へと歩いて行った。


「大使館関係者の人よ。昨日から杉山さんの病室に来ているわ」

 そう云うと、今井巡査長はエレベーターに乗り込んだ。直人は黙ったまま、彼女の後に続く。大使館関係者──その存在だけで、今井巡査長には十分だった。


「シンガポール在日本大使館からわざわざ足を運ぶ。つまり彼は警察だったとしても〝向こう側の人間〟ってことね」

 それだけ告げると、今井巡査長は口を閉じた。


***


 ホテルのチェックインを済ませると、直人はいったんスーツケースを置くため、部屋へ向かった。三条グループが用意したのは、必要以上に豪華な一室だった。軽く着替えると、ラウンジで待つ今井巡査長のもとへ戻る。


「すごい豪華なホテルね」

 今井巡査長はふかふかのソファに腰を沈めたまま、ラウンジを見渡した。ヨーロッパからの観光客やスーツ姿の外国人が多い。


「三条グループが用意してくれました」

 直人も頷くと、彼女の向かいに座った。ゆったりとした感触が体全体を包み込むような上質なソファだった。


「まあ、それくらいはしてもらわないとよね」

「チケットの変更手続きも、彼らが済ませてくれました。まあ、結果的にVIP扱いだったのは事実です」

「日本で橘さんが動いたから、慌てて代理人を寄越したって感じだわね」

 今井巡査長は小さく笑った。

「多分、そうだと思います」

 直人が苦い表情でそう答えた、そのときだった。一人の男が静かに近づいてくる。


「神崎様」

 深く一礼してから、男は名刺を差し出した。

「三条グループの代理を務めております、岡本と申します。本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」


 直人は名刺を受け取ると、軽く目を落とし、静かに頷いた。

「神崎です。こちらこそ、お時間を頂きありがとうございます」


「私も同席させていただきます」

 今井巡査長がそう添えると、岡本は一瞬だけ表情を引き締めた。やはり、今井巡査長の存在が、効いているようだった。


 代理人の岡本に案内され、ホテルにある小さな会議室に足を踏み入れる。そこにはもう一人の男がすでに座っていた。男は軽く頭を下げ、「三条グループの顧問弁護士」と告げただけで、名刺を差し出すことはなかった。


「では、早速本題に入りましょう」

 弁護士はそう切り出すと、手元の資料に目を落としたまま淡々と続けた。

「まず、三条グループとしては、今回の件に関し、正式に把握していなかった部分が多々ございます」


「それは、三条グループと子息である孝則さんは別問題であるということでしょうか?」

 直人は静かに聞き返しただけに留めた。


「はい。孝則さん個人の交友関係による部分が大きく、三条グループ全体として関与していた事実は確認されておりません」


 つまり、二階堂要と三条グループは一切のかかわりがないと云いたいのだろう。直人は弁護士の横にいる代理人である岡本を見詰めた。彼はただ、深く頭を下げたまま、言葉を継がない。そこに謝罪の言葉はない。


 そのとき、ふとスーパーヨットで商談をしていたアラム・カラペティアンを思い出した。彼はあのウレグを相手に数時間で契約まで詰めると、颯爽とヘリコプターで去っていった。同じ組織や企業の代理を務める者として、天と地の差だ。


 直人は資料を指ではじくと、弁護士を見た。

「三条孝則さんは、いかがお過ごしですか? シンガポール在住の親族の所にいるのでしょうか?」


 一瞬、空気が張り詰めたが、岡本が口を開く。

「……はい。現在、精神的に不安定な状態が続いておりまして」

「そうですか……」

 重たい沈黙が落ちた。直人はそれ以上追及せずに、視線だけを弁護士へ戻す。

「では、私の話を聞いていただけますか」


 弁護士はわずかに顎を引いたが、拒否はしない。今井巡査長は黙って直人と三条グループのやり取りを見守っている。


「今回、私が海外で拘束されかけた件についてですが──」


 直人は一語一語、慎重に言葉を選んだ。ウレグたちとスーパーヨットでマラッカ海峡を北上したことは話題に出す必要はない。ましてや、公安や二階堂の裏の顔についてもだ。


「これを、孝則さんの〝交友関係のトラブル〟として処理されるおつもりなら、私はそれでも構いません」


 岡本がわずかに顔を上げる。


「ただし、その場合は──」

 直人は一拍開け息をつくと、はっきりとした口調で続けた。

「今後、三条グループと私の間に生じるすべての案件は、第三者を交えた形で整理させていただきます」


 弁護士の目が鋭くなり、手が止まった。直人は視線を逸らさず続ける。


「逆に、今回の件を三条グループとして〝清算〟する意思があるのであれば……条件を一つ、提示させてください」


「……どのような条件でしょうか」

 岡本は深く頭を下げたまま、静かに問い返した。


「御社が保有している、都内の不動産についてです」


 まるで渡辺が乗り移ったかのように、直人は不敵な笑いを浮かべると、岡本と弁護士を見据えた。隣にいる今井巡査長がぎょっとしたような顔をしたが、直人は一切ひるむことなく、まだ開発前の三条グループが所有する不動産の話に堂々と切り込んだ。


***


「それにしても、神崎君ってなかなかやるわね」

 今井巡査長が感心したように、両手を腰に当てて息をついた。午後になり、ホテルのロビーはチェックインの客で慌ただしくなりつつある。


「まあ、もう過ぎたことを恨んでも仕方ないですし。孝則さんが情緒不安定だと聞いて、少し気の毒になってしまいました」

 そう云うと、直人はそっと目を伏せた。元々の任務は、孝則を横浜からシンガポールに着くまで見守ることだった。シンガポールに無事着いた以上、世話役の件は直人の手から離れる。孝則は自分自身で両親との関係を修復しなければならない。


「でも、これで孝則さんは、二階堂要と縁を切ることができるんじゃないかって、期待しています」

「及川財団の二階堂要氏ね」

「はい。彼が表の舞台から姿を消すことはないと思いますが、活動範囲はかなり狭まるはずです。杉山さんが追っていたのも、彼と財務省絡みの線でしたし」


「財務省……」

 今井巡査長の眉がぴくりと動いた。

「ポーカートーナメントをきっかけに、日本の政治家が上海の海運業オーナーに接近しようとしていました」


「これは一課へのお土産だわ……牧口刑事の案件になりそうね」

 今井巡査長はそれだけ告げると、にっこりと微笑んだ。


「それと、これですが……」

 直人はブレスレットを外し、今井巡査長に見せた。


「この中に、二階堂要が支援した資金が入っています。及川財団に寄付することも考えましたが……それも犯罪に加担するようで」

「確かに。三条グループは二階堂氏とは無関係だと、はっきり云い切っていたし」


 直人は頷くと、ブレスレットをポケットにしまった。二階堂の資金を差し引いても、直人の手元には三万ドルが残る。十分すぎる対価だった。


「そこで、この二十万ドルはどこかの団体に寄付しようかと……」

 直人は少しだけ云い淀む。

「……例えば、母子家庭を支援するところとか」

「それは……いい考えね」

 今井巡査長は少し驚いたような目で直人を見た。


「僕は、母子家庭で育ったようなものなので」

「そっか」

 今井巡査長は静かに頷くと、右手を差し出した。

「では、神崎君。任務お疲れさまでした。荒木さんには、こちらから報告しておきます」


 事務的な別れの挨拶だった。だが、正式にひと区切りついたことの、何よりの証拠でもあった。


「ありがとうございます。今井さんも、どうかお気をつけて」


 直人は差し出された右手を、固く握った。短い間だったが、そこには互いの尊敬が詰まった握手だった。

 長い航海がようやく終わり、明日には日本へ帰国する。また、平凡な日々に戻っていくだろう。


「……スーパーヨットで身柄を賭けたポーカーなんて、非常識すぎた……」


 人波に紛れて見えなくなっていく今井巡査長の後ろ姿を見つめながら、直人は深く息をついた。今夜は、久しぶりにいい夢が見られそうだった。

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