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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第五章】沈黙の裁定
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5-37.静かな時間

 プライベートジェットでの到着だったためか、入国審査はあっけなく終わった。外では太陽がすでに高く、湿り気を帯びた重い空気が肌にまとわりつく。


 直人はスーツケースをトランクに入れ、タクシーに乗り込むと、杉山が収容されている南十字病院へと向かった。途中、十和子に連絡を入れようとしたが、端末のほかにスマートフォンも姿を消しており、日本にいる誰とも連絡を取ることができなかった。


 直人は病院の前でタクシーを降りると、スーツケースを引いたまま、エントランスへと走った。周囲の視線が気になったが、構わず受付で杉山の名前を告げる。


 ──杉山満は、偽名かもしれない──

 案の定、受付はなかなか杉山という名の患者を見つけられずにいた。そのとき、背後から名前を呼ぶ声がした。


「神崎君!」

 驚いて振り返ると、そこには今井巡査長の姿があった。

「今井さん!」


 今井巡査長は真剣な眼差しで直人を確かめるように見つめ、大きく息を吐いた。

「無事だったのね。昨日の便に乗っていないって聞いて、生きた気がしなかったわ。ご家族の方が大変なことになってるわよ」


「すみません。端末もスマートフォンも消えてしまって……パスポートだけでも取り返せたのが不幸中の幸いでした」

 杉山のことも取り戻せたが、今井巡査長がどこまで知っているのかは分からない。彼の正体も、まだ伏せるべきだろう。


「色々説明してもらいたいけど、後回しよ。今は杉山さんの容態が先」

 今井巡査長は直人を先導するように歩き出した。


「杉山さんは……」

「今、目を覚ましたって連絡が入って、慌てて病院に駆けつけたの」

「目を……覚ました……」

 直人はスーツケースを引っ張りながら、今井巡査長とともにエレベーターに乗り込んだ。

「そうよ。三日間、高熱で意識がなかったんだから」


 ──高熱で意識がなかった──

 最後に見た時、杉山は健康そのものだった。病院がウレグにとって都合のいい監禁の場であるのなら、無理やり高熱を誘発されたのだろう。


「今井さんは、あの後帰国して、またシンガポールに戻って来たんですか?」

 気を取り直し、直人は質問を投げかけた。今井巡査長がこの病院にいること自体、タイミングが良すぎる。


「帰国なんかできなかったわ。これを発見すれば……」

 今井巡査長は首を横に振り、ポケットから端末を取り出す。

「神崎君に渡した〝これ〟の緊急用ボタンが鳴ったのよ」


 ──緊急用の赤いボタン──

 結局使わずにスーパーヨットに乗せられたはずだった。だが誰かが直人のポケットからそっと抜き取り、ボタンを押したのだ。そんなことをする人間は、ひとりしかいない。


「押したのは、きっと杉山さんだと思います」

 その端末の扱いを知り、意味を理解した上で押せるのは、杉山しかいなかった。


「位置情報から、それがマリーナ内の特別区画周辺で確認されたわ。一般立ち入りは制限されている場所よ」

 さらに、今井巡査長はスマートフォンも取り出した。

「これも一緒にね」

「……僕のスマートフォンです」

 端末と一緒に、入港前までポケットに入れていたはずのものだった。


「あとで、ご家族に連絡を入れてあげて。橘さんが血走った目で喉元を引きつらせながら叫んでいたらしいから」

「えっ!」

「もう二度と海外には出さないとか、凄い剣幕だったらしいわ」

「それは……宗一郎伯父さんですね」

 そのように取り乱すのは十和子ではない。それだけは、目にせずとも明らかだった。


「ええ、信誠銀行副頭取の橘宗一郎氏が、警視庁に乗り込んで来たそうよ」  

「……それは、まずいですね」

 その言葉を受けて、直人の背にじわりと冷や汗が滲んだ。


***


 杉山の居場所は、特別病棟の奥に設けられた個室だった。

 ノックすると、看護師の短い応答があり、ドアが開く。


「杉山さん!」

 直人はベッドに横たわる杉山に駆け寄った。腕にはまだ点滴がつながれたままだったが、顔色は思っていたほど悪くない。


「直人君、無事だったか。……申し訳ないことをした。すまない」

 そう云って、杉山は熱を帯びた目をゆっくりと動かした。今井巡査長は看護師と短く言葉を交わすと、直人に向き直る。

「特別面会は十五分だそうよ。まだ無理はできないからって」

「ありがとうございます」


 直人が会釈すると、今井巡査長は気を利かせ、看護師を連れて病室を出ていった。直人は近くにあった椅子をベッドの脇に引き寄せた。直人と杉山だけの時間が静かに流れる。


「杉山さんは、あのヨットに任務で乗らなければならなかったのですか?」

 日本の公安部が、あそこまで国際的な組織に潜入しようとしていたのだろうか。それは、かなり危険な行為だ。


「……いや、あそこまで導かれるとは……正直、思っていなかった」

 まだ熱は残っているのだろうが、口調はしっかりしている。


「では、杉山さんが追っていたのは……及川財団の二階堂要と外務省、それから陳氏あたりですか?」

「まあ、そんなところだ」

「じゃあ、なぜ、その先にまで……」


「人間ってのは、好奇心に逆らえないものさ。それが冥府への道だと知っていても……」

 杉山は皮肉めいた笑いを浮かべると、ふと視線を遠くに遣った。

「オレはあの時、(やら)れると思った」


 その言葉に、直人は頷いた。そうなってもおかしくない状況だったはずだ。杉山はわずかに息を整えると、言葉を継いだ。

「でも、こうして生きている。二階堂要は左指を切断されたが……この病院にいるのか?」


「分かりません。僕も今、ここに到着したばかりなので」

 ウレグの口調から、二階堂も杉山と同じ病院に搬送されたはずだが、あえて口にしなかった。それは杉山が退院すれば、本人自らが突き止めることだろう。


「そっか、そっか……」

 杉山は、ゆっくりと瞬きをした。

「オレは、直人君が警察の協力者だという情報を得ていたんだ。だから、あの端末も今井さんに繋がると……」


 次第に、その熱を帯びた目が緩んでいく。まだ本調子ではないのだ。ただ、無事でいてくれたことだけで、十分だった。


「杉山さんが、赤いボタンを押してくれたんですね」

 直人の問いに、杉山はふっと笑い、ぽつりと漏らした。

「……オレの名前は、杉山じゃないんだ」

「ええ。偽名だと、分かっていました」

「そうか……じゃあ、オレが──」

「はい、警察関係者だとは察していました」


 あえて公安部とは口にせず、警察関係者という言葉に留めた。誰かが耳を澄ましている可能性もある。


「……なんで分かったんだ? 一課の今井さんだって気づかなかったぞ」

 杉山は、不思議そうに直人を見る。だがその瞳は、すでに限界に近づいていた。


「今の仕事を始めたばかりの頃、上司によく空港に連れて行かれて、私服の警察官や自衛官を当てる特訓を受けたことがあったんです」

 五年前を懐かしむように、直人は続けた。

「杉山さんの歩き方にも、独特のリズムを感じることがありました。ただ……今井さんの前では、おどけたステップを踏んでいましたけど」


「どんな上司だよ、そいつは」

「得体の知れない上司です」

 二人の笑い声が病室に響いた。


「直人君……まだ話したいことは、たくさんあるが……この続きは……日本で……」

「はい。もちろんです」


 直人は名刺を一枚取り出し、ベッド脇のテーブルにそっと置いた。


「オレの本名は……真田だ。真田信之(さなだのぶゆき)

「すごくいい名前です」

「だろ……?」


 杉山は満足そうに微笑み、そのまま瞼を閉じた。やがて、静かな寝息が聞こえ始めると、直人はそっと病室を後にした。

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