5-36.余韻
昨日の白く濁ったような空とは一転し、早朝のアンダマン海には、まるで誰かを迎えるかのように青空が広がっていた。
直人はパスポートを握りしめ、ベアトリスの後を追うように、彼女のプライベートジェット機に乗り込む。機内は心地よく冷えていた。
「では、本当にシンガポールに連れて行ってくれるんですね」
念を押すように直人は尋ねた。プライベートジェット機に乗るなんて、人生で初めてのことだった。
「仕方ないじゃない。どんな手を使ったのか知らないけど、貴方が勝ったのだから」
ベアトリスは小さく息をつき、ソファのようにゆったりとした席に腰を下ろす。直人も向かい合うように座ると、機内を見渡した。まるで小さなリビングルームだ。すぐにクルーが歩み寄り、シャンパングラスを運んでくる。
「カラバシュはどうなるのでしょうか……」
グラスを受け取りながら、直人はベアトリスを見た。
「貴方には関係ないことよ」
そう云いながらも、ベアトリスの目が一瞬揺れた。
「……カラバシュは、覚悟していたはずよ」
それだけ告げると、ベアトリスはグラスを傾け、窓の外へ視線を移した。
「僕のせいですね……」
老人の護符は一度限り。あれは場を収束させるために切った、最大の博打だった。
「それにしても……貴方がなぜ、堀川様を……?」
ベアトリスは眉を僅かに顰めると、視線をゆっくりと戻した。ジェット機が離陸態勢に入り、轟音が聞こえてくる。
「二階堂要が主催したポーカートーナメントで偶然にも出会いました。でも、もう二度と会うこともないと思います」
「さあ、どうかしら。この世に〝偶然〟なんてないものよ」
ベアトリスは意味ありげな視線を投げると、そのまま続けた。
「ウレグがエースのフォーカードだったのも、貴方がストレートフラッシュを決めたのも、偶然ではなかった」
「では、なぜカラバシュは、僕を勝たせたのでしょうか?」
直人の胸に違和感が残る。そして、あれだけ立場が危険な状態に置かれているというのに、あの笑顔の意味──。
「私たちの組織も、一枚岩ではないってことよ」
「スイスにある〝危険な組織〟のことですね」
「危険というのは語弊があるわ。正確には、世界の運営を委託されているって感じかしら?」
「世界の運営を……委託……?」
その言葉に、直人は眉を顰めた。
「よく意味が理解できませんが、誰かの親指を切り落とすというのは、十分危険な人たちだと思います」
「まあ、ウレグはその辺、厳しい人だから……調和を求めるマスターと違って……」
最後の方は聞き取りにくかったが、直人は構わず問いを差し挟んだ。
「では、カラバシュも──」
「分からないわ。カラバシュは始末するには、価値があり過ぎるもの」
ベアトリスの口から飛び出た物騒な言葉に、直人は息を呑んだ。
「……貴方って、顔は全然違うけど、やっぱりそっくりよ。大した戦略家だわ」
ベアトリスは小さく息を吐くと、直人の目を見詰めたまま続ける。
「カラバシュの件も、きっと彼の仕業だわ。あの人は、こうやって人を無条件に惹きつけ、動かしていく──」
「誰のこと……ですか?」
話が全く見えてこない。彼らの組織の内部事情など、直人に解るはずもなかった。
「亡霊って呼ばれている男のことよ」
直人の頭の中で、何かが弾けた。
「……亡霊と呼ばれている、冷酷な男」
直人が繰り返すと、ベアトリスははっとしたような表情を見せ、そのまま黙り込んだ。
──これで二度目だ──
一度目は、高橋徹が口にした途端に闇に葬られた。やはり、常に影がつきまとう組織に違いない。直人はそれ以上ベアトリスに尋ねることはせず、ただ窓の外へ視線を移した。
機体が低く唸りを上げ、小型機がゆっくりと動き出すと、床越しに振動が伝わってきた。
「シンガポールまで二時間もかからないから、あっという間に着くわ」
話題を切り替えるように、ベアトリスがそっと教えた。
「ありがとう、ベアトリス」
直人がそう告げると、彼女はふっと口元を緩め、満足そうにソファへ身を沈めた。
***
「東京で降ろしてあげても、良かったのよ」
ベアトリスは機内のソファに腰かけたまま、空港に降り立つ準備を始めた直人を見詰めていた。
「もちろん、東京に直接帰れれば、どんなに良かったか……」
身なりを軽く整え、パスポートを確認する。シンガポール入港前に眠らされたとき、二階堂がすべて手配したのだろう。書類上の処理は、三日前にすでにシンガポールを通過した扱いになっていた。
「助けに行く人がいるのでしょう?」
「はい。監禁の場所が病院とは、ウレグも考えましたね」
それはある意味、危険ともいえる。ウレグの息がかかった人間が病院内にいれば、監視だけでは済まない。病死として処理されれば、証拠も残らずに片付けられるだろう。
プライベートジェットは無事着陸し、シートベルト着用サインが消える。エンジン音だけがまだ低く残っていたが、直人は立ち上がった。
「まだドアは開いてないわよ。せっかちね」
ベアトリスは嫌味を投げかけたが、直人は待てなかった。スーツケースを抱えたまま、杉山のいる病院へ向かわなければならない。
数分後、後方に下がっていたクルーが立ち上がり、ドアを開ける準備を始めた。
「私はこの機でニューヨークへ向かうから、ここでお別れね」
ベアトリスは名残惜しそうにそう云うと、立ち上がった。
「ありがとうございます、ベアトリス。もう二度と会うことはないと思いますが──」
「んまあ。貴方って、随分と冷たい人ね」
心外だと云わんばかりに、ベアトリスは大袈裟に驚いてみせた。
「いえ、そういう意味ではなくて……」
プライベートジェットを所有するような人物と関わることなど、これで最初で最後だろう。
「貴方と私は、またどこかで会うわよ。賭けてもいいわ」
含みのある云い方だった。直人は口を閉ざすと、ふと記憶を巡らせた。まだ確認できていないことが一つある。
「では、またいつか」
それだけ告げると、ベアトリスの左手を取り、手の甲にそっと唇を寄せた。ふわりと透明感のある上品な香りが立ちのぼる。視線を上げると、ベアトリスの動揺した瞳に、頬がわずかにローズ色に染まっていた。
言葉を失った彼女を残し、直人はドアへと向かった。冷えた機内を出た瞬間、湿った熱気が肌にまとわりついたが、ほっと息を吐くと、そのまま振り返らずにタラップを下りていく。
「……そういうところも、そっくりよ。リュウイチに」
その呟きは、ドアが閉じる音にかき消され、直人の耳には届かなかった。
ベアトリスの左親指の付け根には、しっかりと三つ星のタトゥーがあった。だが、その向きはウレグのものとは違って、逆三角形を形成していた。




