5-35.運命の切り札
ウレグの言葉通り、ポーカーの勝敗は日付を跨ぎ、時計の針は深夜三時を回ろうとしていた。
ベアトリスは二時間ほど前にウレグに惨敗し、怒りを散らすと、どこか満足したようにラウンジのソファを占拠し、そのまま眠りに落ちている。
だが問題は、彼女のチップのほとんどを吸収したウレグが、直人よりも明らかに有利な手を打ち続けていることだった。彼が強運の持ち主なのか、それともこちらの手の内を正確に読んでいるのか──直人は息が詰まる思いだった。
「ウレグ、あと一時間もすれば島が見えてくるぞ」
狼男が眠そうな目でラウンジに現れると、ソファで浅く規則的な寝息を立てるベアトリスを見た。
「なんだ、オレとアラムがチップを分け与えたというのに、負けたのか……」
呆れたように云うと、狼男は頭をかきながら、テーブルに視線を投げた。
「そろそろ終わる」
ウレグはそれだけ告げると、カードに視線を落とした。狼男は短く受け応えると、軽く手を振りながら奥へと消えていった。
──どこを間違えたのか、わからない──
ブラインドで削られ、直人は瀕死の状態まで落ちている。しかも、あと数時間でこのスーパーヨットは入港してしまう。時間は待ってくれない──。
「どうした? 絶対に勝つんじゃなかったのか?」
ウレグの余裕ある発言に、直人はただ唇を噛みしめた。すでに十和子は、直人が飛行機に乗っていなかったことに気づき、事情を調べているに違いない。
だが、ウレグのような人間と共に姿を消せば、警察の手は届かないだろう。そうなれば、二度と日本には帰れないかもしれない。そもそも、なぜウレグが自分に興味を示したのか、その理由さえもわからなかった。
直人はもう一度カードを見た。決して強くはない4と5だが、どちらもスペードだ。ちらりとウレグの手元を窺い、そのまま視線を口元に移す。唇の端が、わずかに上がっているように見えた。
──ウレグの手札はいいはずだ……
それでも、勝負に出るしかなかった。
カラバシュが並べた三枚のカードはダイヤの8、スペードのエース、スペードの3だった。四枚目のカードが小さな音を立ててめくられるも、ハートのエース。
直人は思わず眉を顰めた。
──あと一枚──
スペードが来ればフラッシュが完成する。だが、そこにスペードの2が来れば──。
その瞬間、ウレグが無言でチップを大量に積み増した。テーブルに置かれた山は、明らかに先ほどとは重みが違う──最大だ。
直人ははっとしてウレグを見た。
──降りるべきだ──
そう瞬時に頭ではわかっていた。リバーカードに望みを託すしかない時点で、すでに追い込まれている。
直人はもう一度、二枚のカードの端をめくり、数字を見詰めた。
手がじわりと汗ばむ。
ここで降りれば、すべてが終わってしまう。だから、運に賭けるしかない──。
「僕には救う人間がいる」
独り言のように呟くと、覚悟のコールをした。重々しくチップを前に押し出す。
直人の人生最大の賭けだった。
カラバシュは無言のまま、最後の一枚をゆっくりとめくる。
──スペードの2──
一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。
直人の手が微かに震える。
ウレグが手札の二枚を場に軽く投げた。
「Four of a Kind」
カラバシュはウレグの二枚のエースを拾い上げ、場に出ていた二枚のエースと並べた。もし直人の手札が、ただのフラッシュだったなら──完敗だった。
直人は息を呑むと、手札を返して見せた。
「ストレートフラッシュ」
その言葉に、ウレグの顔が一瞬で凍り付き、視線だけがカードに釘付けになっている。
カラバシュは無言のまま、直人の手札と場に出ていた三枚を一枚ずつ整える。そこには、スペードのエースから5までが、完璧な並びで揃っていた。
「そんな馬鹿な……」
ウレグは苦々しく吐き捨てた。だが、次の瞬間勢いよく立ち上がると、カラバシュを凝視する。
「まさか──」
云い終わる前に、ウレグはテーブルの上にあるカードを床に投げ捨てた。
「カラバシュ!」
地を震わせるような唸り声に、ベアトリスが飛び起きた。咄嗟に周囲を見回すが、状況を掴めずにいる。
「約束です! 杉山さんを解放してください!」
直人も立ち上がると、声を張り上げた。正確には、まだ勝負はついていなかった。だが、こんなに険悪な空気に場が包まれた以上、ゲームの継続は無理だ。
「……えっ? 貴方が勝ったの」
ベアトリスは直人とウレグを交互に見た。だが、ウレグの異様なほどの圧を感じたのか、そのまま口を閉じた。その時、ラウンジに狼男が急ぎ足で現れる。
「どうした、ウレグ! もう入港の準備に入ってるぞ」
「ウレグ! 杉山さんを解放してください」
直人は間を入れずに、もう一度叫んだ。そうでもしないと、勝負そのものが無かったことにされそうな剣幕だ。
「ミロ──」
ウレグが英語ではない言葉で、突然早口でまくしたてた。途端にミロの顔色が変わり、次の瞬間、カラバシュの首元を掴み上げる。
「ミロ! カラバシュに何をするの!」
ベアトリスが悲鳴にも近い声で叫ぶ。
「偶然ではない」
ウレグは低く呟き、場を一巡させた。
「十三年前と同じだ。奴が、まだマスターに就く前の話だ」
カラバシュを見据えながら、ウレグは続けた。
「あの時も、お前がディーラーだった。最後に私はエースのフォーカード。奴はスペードのストレートフラッシュ……」
その瞬間、カラバシュがずっと閉ざしていた口を開く。
「ナオト・カンザキ。あなたにお会いできて光栄でした」
それは、直人がこのヨットで目覚めた時に目にしたのと同じ──敬愛のこもった表情だった。
「カラバシュ……!」
その笑顔が妙に不吉に思えて、直人は思わず名を呼んだ。だが、カラバシュは満足そうに視線を交わすだけだった。
ミロに締め上げられたまま、カラバシュは奥へと引きずられていく。
──ウレグを裏切ってまで、なぜ……!
答えは分からない。だが、彼が今まさに危険な状況に置かれていることだけは明らかだった。
「カラバシュが不正をしたという証拠は! 彼を、どこに連れていくんですか!」
直人の叫びに耳を傾けることもなく、ウレグは無言のまま、ミロの後を追って歩き出す。
「ラースロー・セリーニ!」
直人は怒りに任せ、ありったけの力を込めてウレグの本名を呼んだ。
その瞬間、ウレグはぴくりと肩を揺らした。直人は手応えを感じ、大きく息を吸い込む。
「堀川のご老人から伝言を預かっています!」
その言葉に、ウレグは振り返った。だが、目は据わり、顔は引きつっている。
「十年前の出来事を忘れるな。前車の轍は、ちゃんと見ておけ」
老人の言葉が楔のように打ち込まれると、ラウンジは水を打ったように静まり返った。ウレグは立ち尽くしたまま凍り付き、ベアトリスは目を大きく見開き、僅かに口を開いたまま固まっていた。
暫し沈黙の後、ウレグはベアトリスに顔を向けると、低い声で告げる。
「来月の評議会で、君を代行から正式なマドンナに推薦しよう」
その言葉に、ベアトリスははっと顔を上げ、唇を引き結んだ。
「ウレグ……ありがとう」
「それからナオト・カンザキ」
ウレグは直人を射抜くように見据えた。
「……杉山という男は、シンガポールの南十字病院にいる」
それだけ告げると、ウレグは踵を返し、ラウンジを後にした。




