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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第五章】沈黙の裁定
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5-34.プレリュード

 午後になるとベアトリスが商談に呼ばれ、入れ替わるようにカラバシュがラウンジに現れた。ソファに座っている直人を見つけると、にっこりと微笑みながら近づいてくる。


「誰かがあなたを見張っていないと、海に飛び込まれても困りますからね」

 カラバシュの冗談ともつかぬその言い草に、直人は思わず苦笑いを浮かべた。


「……カラバシュ。あなたの出身はどこですか?」

 黒髪に彫りの深い容貌は、直人の目にはどう見ても欧米的ではなかった。


「トルコです。カラバシュとはトルコ語で〝黒い頭〟という意味です。そして、黒毛の犬の呼び名としても──」

「黒毛の犬……」

 その黒髪からの由来だろうか。直人が僅かに首を傾げると、カラバシュは小さく微笑んだ。

「大昔、私の恩人につけてもらった名です」

「……では、本名ではないのですね」

 

 カラバシュはその問いには答えず、そっと視線を窓の方に向けた。

「結局、雨は降らなかったようですね」

 カラバシュは給仕にエスプレッソを二つ運ぶよう指示すると、直人と向かい合うように腰を下ろす。


「リキュールは入れないでください」

 直人が横から付け加えると、給仕は快く頷き、奥へと消えていった。カラバシュは直人に顔を向け、少し感心したように日本語で云う。

「それにしても独学で、あなたの英語がここまで身についていることに驚きました。アラムも感心していましたよ」


「ありがとうございます。ですが今回を機に、もう一つ学ぼうかと思いました。ここにいる皆さんは複数の語学を操るようですし」

 ベアトリスは日本語の他にフランス語もできると云っていた。アラムに限っては六か国語を理解する。ヨーロッパで育った人間にとっては、珍しいことでもないのだろう。


「スイスにいれば基本的にドイツ語やフランス語は必須になります。ビーの場合はドイツ語が好きになれなくて、取得を諦めたらしいですが」

「スイス……」


 その響きに、記憶を探るように直人は思いめぐらせた。父親が二十一年前、渡辺と最後に行った先がスイスだった。そのあと、スイスから帰国したのは渡辺ひとり。神崎隆一はコスタリカで事故死した。

 それだけではない。ピエールはスイスにある組織の支援を受けて、記憶の研究を行っている。さらに一年前、事務所に潜入した高橋徹は、直人がスイスにいる者の興味対象になっていると話し始めた途端に撃たれた。


『スイスには、危険な奴らが巣をつくっている』


 これは、渡辺自身が発した言葉だ。ルーマニアだけではない。スイスもまた、点と点を結ぶ先にあった。


「どうしましたか……ナオト・カンザキ?」

 黙り込んだ直人をカラバシュが伺ったその時、給仕が小さなカップを二つ運んできた。


「……昨夜、気になっていたんですが」

 直人はカラバシュの左手から目を離さずに続けた。

「あなたの左の親指にあるタトゥー……。これはスイスにある組織か何かに関係しているのですか?」


 その瞬間、カラバシュの目が僅かに動いた。だが、すぐに何事もなかったかのように表情を戻すと、小さく息をつく。


「昨晩、ウレグがあのような不穏な話をしたからですね……」

「二階堂要の親指を切り落とした話ですか?」

 透かさず切り返した直人の皮肉に、カラバシュは目だけで応えた。


「二階堂要にはひとつ、ウレグには三つ。そして──あなたの指には二つ、星があります」

「ナオト・カンザキ、あなたには観察眼がおありだ」

 少し愉しそうにカラバシュは告げた。


「では、ピエールをご存じですか?」

 その瞬間、カラバシュの顔からすっと笑いが消えた。


「チューリッヒで記憶の研究をしている博士です。フランス人で──」

「彼の名を出すと、ビーが不機嫌になるので〝お気を付けください〟」

 カラバシュは強制的にピエールの話を切り上げると、目で制した。


 ──彼の名を出してはいけない──

 それは、カラバシュによる警告だと直人は察した。ベアトリスは表向きの社交的配慮にすぎないだろう。


「わかりました」

 直人がそう答えた時、遠くから空を切り裂くような機械音が聞こえてきた。やがてその音は頭上で留まり、重たい振動となってラウンジに響く。


「終わったそうだ」

 狼男がひょいとラウンジに顔を出すと、カラバシュは立ち上がった。


「では、アラムを見送りに行きます」

「僕も行っていいですか?」

 どうやらアラムはヘリコプターでこのヨットを去るらしい。直人にとっては羨ましい話だった。

「もちろんです」

 カラバシュはそう応えると、ヘリポートへと向かった。


 ヘリの着艦を想定した平坦なスペースは、スーパーヨットの前方甲板に設けられていた。外に出た瞬間、騒音と風が直人の足元を揺さぶる。


「気をつけて」

 カラバシュが咄嗟に振り返る。直人が頷いた瞬間、待機しているヘリコプターが視界に飛び込んできた。ローターの風が舞う中、ちょうどアラムが乗り込むところだった。


 アラムは直人とカラバシュの姿に気づいたようで、一瞬、足を止め振り返った。軽く手を振り、そのまま機内へと消えていく。

 ドアが閉まり、轟音とともに機体が宙に浮いた。上昇しながら向きを変え、そのまま飛び立っていく。


「最寄りの国際空港は、どこですか?」

 直人はふと尋ねた。自分も帰らなければならない。


「クアラルンプール国際空港です。アラムはそこから欧州へ戻る予定です」

 カラバシュは遠くを見詰めながらそれとなく返した。


「僕は……シンガポールに戻らなくては」

 それだけ呟くと、直人はアラムを乗せたヘリコプターが視界から消えるまで見送った。


***


 マラッカ海峡二日目の夜、ポーカーテーブルに狼男の姿はなかった。


「ミロは負けるのが嫌いなのよ」

 ベアトリスは微笑むと、目の前にチップの山を築いた。狼男とアラムの分を、彼女一人が総取りしたとしか思えなかった。


「それは……」

 直人は軽く絶句した。


「レディに譲ってくれたのよ」

 当然のように云うと、ベアトリスは目を細めた。ポーカーの準備に取りかかっていたカラバシュは、

「ミロは気が荒いですが、根は素朴で優しいんです」

 そう一言付け加えると、給仕に目配せをした。


 ワインボトルが運ばれてくると、給仕はまずウレグに確認し、コルク栓を手慣れた手で開けた。ウレグはグラスを回し、傾け、一口含ませると頷く。


「ミロはコソボ紛争世代だ」

 ボルドー色の液体を見詰めながら、ウレグがふと呟いた。給仕は他のグラスにもワインを注ぎ、ベアトリスと直人に差し出す。


「……コソボ紛争世代」

 直人はその言葉を無意識に繰り返した。

「戦争の残骸だ。家族も、理想もすでに失っている」

 ウレグはそれ以上説明せず、ただ黙ってグラスを傾けた。


***


 カラバシュは巧みな手さばきでカードを切っていった。思わず目が釘付けになるほど、その動きには無駄が一切なく、同時に優雅さすら感じさせる。直人がこれまでクルーズ客船のカジノで見てきたディーラーの誰よりも、絶対的な存在感があった。


「ビー、そんなに勝ちたいのか?」

 ウレグはカードを伏せると、呆れたような表情をベアトリスに向けた。


 序盤はウレグが大きくチップを増やした。だがそのあと、直人が彼女のチップを奪い取り、今ではウレグと直人が拮抗している。それでも、ベアトリスはまだ一番多くのチップを手元に残していた。


「そうよ、ウレグ。私は本気なの。色々と要求が多すぎて」

「欲張りですね。僕なんか一つだけです。……いや、二つか」


 軽口を叩きながら、直人はカードをもう一度確認する。かなり揃った強い手札だった。カラバシュが俊敏な手つきでウレグの手札を回収すると、このラウンドは直人とベアトリスだけになった。

 ベアトリスの役は9のスリーカード。対して直人はストレートを決めていた。ベアトリスがじろりと直人を睨む。


「僕も本気です」

 直人はチップを積み重ねながら、ちらりとウレグを見た。


「長い夜になりそうだ」

 ウレグは僅かに笑うと、配られたカードの端をそっとめくった。

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