【2】
(逃げなきゃ。とにかく、人が多いところにっ……!)
駅の外に出ると狐の嫁入りから遠ざかったからか、雨はすっかり止んでいた。まだ乾ききっていない濡れたアスファルトを急ぎ足で歩きながら、人が多そうな近くの商業施設に向かう。
何も気づいていない振りをしているが、電車を降りても「視線」は弥生を捉えたままずっと後ろをついてきており、隙を見て逃げ出そうにも片時も離れてくれなかった。
幸いなのは弥生の歩幅に合わせているのか、それとも駅に向かう通行人たちを気にしているのか、駅から離れても一定の距離を保ち続けてくれているところだった。
それでも足を止めてしまったら、今にも襲われそうな殺意を感じていた。
(早く離れなきゃ。早く、早く……!)
目尻に涙を溜めて激しく音を立て続ける心臓の音を聞きながら、足早に商業施設に向かう。そんな弥生の目の前に、突然何の突拍子もなく工事を知らせる立て看板が倒れてきたのだった。
「きゃあ!」
幸いにも倒れた看板は誰にも当たらなかったが、向かいからやって来た女子高生たちが驚いて悲鳴を上げてしまう。
弥生も息を呑みつつ、看板と女子高生たちの横を通り抜けようとしたが、そこに悲鳴を聞いた近くの通行人や近所に住む人たちが集まってきたのだった。
「看板が倒れたのか?」
「どうして急に……。今朝工事の人が取り付けたばかりなのに……」
「誰か警察に連絡しろ。看板の下敷きになった人はいないな?」
「不吉だわ……何かが起こる前触れかも」
集まった人たちで小さな人垣が出来てしまうと、その場で足を止めざるを得なくなった。
――「視線」が近づいて来る気配を感じて、焦りが生じた。
「すみません! 通してください! すみませんっ……!」
弥生はどうにかして人垣を抜けると、そのまま一目散に走り出したのだった。
(足を止めたから距離が縮んだかも。早く離れなきゃ……!)
得体の知れない「視線」の主に捕まったら、生きたまま喰われてしまうかもしれない。
子供の頃から何度もそんな危険に遭ってきた。捕まったらどうなるのか経験から知っていた。
普通の人間よりも、あやかしが見えてしまうがために。
あやかしたちが言うところの「霊力」が他の人間より高いために――。
(なんで、いつもいつもこんな目にっ! どうして私ばっかり……!)
信号をよく見ないまま横断歩道に飛び出した時、近くでトラックのクラクション音が聞こえてきたのだった。
「危ない!」
どこかで若い男が叫んでいるが、それを確認する前に弥生はトラックに轢かれてしまった。
ショルダーバッグが宙を飛んで行き、地面に叩きつけられた衝撃で身動きが取れなかった。
「ぐっ……!」
痛みでくぐもった声しか出せず、悲鳴も上げられなかった。
生温いアスファルトの地面に横たわる身体から赤い液体が流れ出てくると、眠りに落ちるかのように視界が暗闇に包まれ出す。トラックから降りてきた運転手が何か言っているが、弥生の耳には届かなかった。
「……っ!」
暗くなる視界を移せば、赤信号が点灯している信号機の隣には人の形をした黒い影が立っていたのだった。
(あれは……)
黒い影がいやらしい笑みを浮かべた時、弥生は悟った。
この黒い影こそ、電車の中からずっと自分を追い回していた「視線」の主だと――。
(にげなきゃ……)
弥生以外は誰も黒い影の存在に気が付いていないようだった。それなら助けを求めたところで理解してもらえないだろう。
(こんな……ところで……アイツに……喰われる……なんて……)
怒りや悲しみ、悔しさを感じる前に、弥生の意識はそこでぶつりと切れたのだった。




