第45章 雨上がりの朝と新しい家族
カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいた。
昨日までの空気とはまるで違う。
あの土砂降りが嘘みたいに、空気は澄んでいて、どこかひんやりしている。
遠くで鳥の声がする。
……気持ちいい。
久しぶりに、何も考えずに目が覚めた気がした。
重かったはずの体も軽い。
頭の中も、妙に静かだ。
ゆっくりと息を吸う。
ちゃんと、朝の匂いがした。
スマホを見ると、まだだいぶ早い時間だった。
「……」
しばらく天井を見つめたまま、ぼんやりと余韻に浸る。
……悪くない朝だ。
そう思いながら、寝返りを打とうとして――
違和感に気づいた。
……近い。
何かが、妙に近い。
視線を横に向ける。
そこにいたのは――
「……は?」
女の子だった。
すぐ隣。
手を伸ばせば触れそうな距離で、静かに眠っている。
長い髪が枕に広がっている。
規則正しい寝息。
ほんの少しだけ開いた唇。
――浦河千楓。
「……」
声は出なかった。
昨日の記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
……あのまま、ここで寝ちまったのか。
「マジかよ……」
小さく呟く。
改めて見ると、現実感がない。
こんなに無防備な顔、初めて見た。
いつもは、あんなに自由で、掴みどころがなくて。
風みたいに、どこか遠くにいるやつなのに。
「……普通の、女の子だな」
……いや、違う。
こんな顔、俺は知らない。
その瞬間。
千楓のまつ毛が、わずかに揺れた。
「っ」
反射的に息を止める。
起きるか――?
と思ったが、また静かに呼吸が整う。
どうやら、まだ夢の中らしい。
……助かったような、残念なような。
「……」
どうしていいかわからず、もう一度天井を見る。
心臓の音だけが、やけにうるさい。
こんな朝、知らない。
でも――
悪くない。
むしろ、かなりいい。
「ただいま〜!」
ドキッとした。
姉貴の声だ。
慌ててベッドから起き上がり、廊下へ出る。
「おう、おかえり」
「あら雄くん、おはよう。……千楓ちゃんは?」
「まだ寝てる」
「そりゃそうよね」
姉貴はそう言いながら、腕の中の毛布を少しだけ持ち上げた。
中から、小さな黒い影が顔を出す。
「……猫?」
「昨日ね、大雨の中で震えてたの」
静かに、言った。
「放っておけなくて」
――
それからしばらくして。
千楓も起きてきて、一悶着あったものの事情はすぐに伝わった。
気づけば、三人と一匹で朝飯を食べていた。
食後のコーヒーを飲みながら、ソファを見る。
千楓の膝の上で、黒猫は気持ちよさそうに眠っていた。
「飼うのか?」
「うーん……いいかしら?」
姉貴がこちらを見る。
「別に俺はいいけど。店とか大丈夫なのか?」
「そこはちゃんとするわ。大家さんの許可ももらったし」
「ならいいんじゃねえの」
そう言うと、姉貴は嬉しそうに笑った。
「名前は決めてるの」
「もうかよ」
「……CBちゃん」
「CB?」
「なんとなく、しっくりきますね」
千楓が猫を撫でながら言う。
その顔は、少しだけ柔らかかった。
「……まあ、いいんじゃねえの」
「キミは今日からCBだよ」
優しく声をかける。
猫は答えるように、小さく鳴いた。
「みゃあ」
――
カップを口に運ぶ。
少し苦い。
けど。
ふと、視線を落とす。
千楓の膝の上で眠る、小さな黒い命。
昨日の雨を思い出す。
ずぶ濡れで、行き場もなくて。
それでも――拾われて、ここにいる。
……雨の中で、ひとりだったのは。
こいつだけじゃない。
「……俺みたいだな」
小さく呟く。
その瞬間、CBがぴくりと耳を動かして、目を開けた。
ゆっくりと周りを見回して、千楓の顔を見る。
「どうしたの、CB」
その声に応えるように、猫は千楓の胸元に顔を埋めた。
……なんとなく、目を逸らした。
「よし、決まりね」
姉貴が手を打つ。
「今日はみんなでお買い物よ。CBちゃんのために」
「店は?」
「お休み!」
即答だった。
「千楓ちゃんは?」
「大丈夫です。あたしも、もう少し一緒にいたいので」
そう言って猫を抱き上げると、CBは嬉しそうに小さく鳴いた。
――
そして数十分後。
凛と千楓は、近くのペット用品店に来ていた。
「ええっと、猫の砂はこれでいいのかな」
「そうですね、事前に調べたものです」
「おっけ!ありがとう。雄平を連れてくといっつも最後は疲れた顔するから、千楓ちゃん来てくれて良かったわ〜」
「あたしもこういうお買い物は楽しいですから! なんかわくわくしますよね」
「そうなのよ〜! 私もつい、はしゃいじゃうの」
「次は……キャットフードですね」
千楓がスマホをちらりと見ながら言う。
「年齢的に、まだ子猫用がいいですよね」
「そうねぇ」
凛は頷きながら、棚に並んだパッケージを見比べる。
「こんなに種類あると、逆にわかんないのよね」
「わかります」
千楓も少し笑う。
「ねえ、千楓ちゃん?」
「はい」
「千楓ちゃんって、雄平のことどう思ってるの?」
「え……?」
「無理して答えなくていいのよ。私の勘違いかもしれないし」
「いえ、たぶん……当たっていると思います」
「そう」
「好き……なのかもしれません。
でも、憧れみたいな気持ちもあって……まだ、自分でもよく分かんなくて」
「でも、急に訪ねて一緒のベッドで寝ちゃうくらいには……なのよね?」
凛は少し口元をゆるめながら、棚からキャットフードを一つ手に取った。
「うう……本当にすみませんでした」
「いいのよ。千楓ちゃんが来てくれるの、私も嬉しいし」
凛はふっと笑った。
「雄平のことを好きになってくれるのも、姉としては嬉しいの」
「凛さん……」
「……で、付き合いたいとかは思ってるの?」
「いえ、まだそこまでは……。
あたしにも、まだやることがありますし。
たぶん、雄平くんも」
「そうね、そんなに慌てることはしなくて大丈夫よ。あの子はきっと、どこにももう行かないから」
「雄平くんはもう野球をするつもりはないんでしょうか?」
その問いに、凛はほんの少し目を見開いた。
「雄平が言ってたの?」
「いえ、特に何も……。なんとなく彼を見ていると、そうなのかなって」
「よく見てるのね……。そこは、私からは何も言えないの」
「そう……ですか」
「でもいつか千楓ちゃんには話すかもしれないわね」
「……はい」
「よし! じゃあ次はCBちゃんのオモチャを買いに行くわよぉぉ!」
「は、はい!」
「あ、この話は雄平には内緒にしましょ」
「そうですね」
少しだけ、間が空いた。
千楓は手に取った小さな猫用ベッドを見つめる。
昨日、震えていたあの子の姿が浮かぶ。
――居場所。
「……」
小さく息を吐く。
「でも」
凛が振り返る。
「いつかは、ちゃんと伝えます」
その声は、少しだけ強かった。
凛はふっと笑う。
「うん、それでいい」
――
その頃。
「……くしゃみ、出そう」
小さく鼻をすする。
俺は、動物病院の椅子に座っていた。
隣には、かごの中で鳴いているCB。
「……なんで俺一人なんだよ」
「みゃあ」
「いや、お前もいるか」
苦笑する。
女二人は買い物へ行き、俺は病院係だ。
「藤堂CBさーん」
呼ばれる。
……苗字いるか、それ。
「行くぞ、CB」
「みゃあ!」
小さな鳴き声と一緒に、立ち上がった。
ーーー
診察が終わる頃には、昼前になっていた。
「健康ですね。まだ小さいですけど、問題ありませんよ」
そう言われて、少しだけ安心する。
「ほら、よかったな」
かごの中のCBを軽くつつくと、小さく鳴いた。
「みゃあ」
病院を出ると、空はすっかり晴れていた。
昨日の雨が嘘みたいだ。
アスファルトはまだ少し湿っていて、太陽の光を反射している。
「……」
俺はCBの入ったかごを左手に提げたまま、姉貴たちの迎えを待っていた。
唐突に、左肩に鈍い違和感が走る。
「……俺も病院に行かなきゃだな」
軽く揉んでみても、すぐには消えない。
俺は小さく息をついて、かごを右手に持ち替えた。
しばらくすると、軽自動車がゆっくりとこちらに寄ってきた。
「雄くーん!」
窓から顔を出して、姉貴が手を振る。
「ほら、乗りなさい」
「おう」
言われるままに後部座席へ乗り込む。
よく見ると、助手席には買い物袋が山のように積まれていた。
隣では、千楓が紙袋をいくつも抱えている。
「……買いすぎじゃねえか?」
「しょうがないでしょ、初めてなんだから」
姉貴がエンジンをかけながら笑う。
千楓は袋を抱え直しながら、かごの中のCBを覗き込んでいた。
「これでキミも安心だね」
「みゃあ」
小さな鳴き声を聞きながら、
こいつはもう、うちの一員なんだと――なんとなく思った。
第45章を読んでいただきありがとうございます。
今回は、雨の夜が明けたあとの“少しだけ穏やかな日常”でした。
そして新しい家族――CBも登場です。
昨日までの不安や孤独とは対照的に、
誰かと過ごす時間や「居場所」が、少しずつ形になってきた回になっています。
ただ、この穏やかさの中にも、
雄平の違和感や、それぞれの想いはまだ残ったままです。
この先どう変わっていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。
次回も日曜21時に更新しますのでよろしくお願いします!
引き続き読んでいただけると嬉しいです!
ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
初挑戦の作品で至らない点もあると思いますが、感想や☆評価をいただけると本当に励みになります。




