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あらゆる商業的成功を収めたオンラインゲームは、例外なく人間の根源的な弱さを収益源へと変換する機構を備えている。虚栄心、焦燥、他者より目立ちたいというエゴ、あるいは逆に――過去の過ちを消し去りたいという隠蔽工作。『Stellar Reckoning Online』の運営企業もまた、それらの心理的脆弱性を逃さず、安定したキャッシュフローへと見事に昇華させていた。中でも高い利益率を誇っていたのが、キャッシュショップで提供される「公開プレイヤーネームの変更」および「アバター容姿のリセット」サービスだった。


現実の金を支払うだけで、プレイヤーはゲーム内の表示名や顔の造形をいつでも新品へと書き換えることができる。レベルやステータス、インベントリの資産、クラスの専門化といった根本的なデータには一切の傷もつかない。


サーバーに棲息する大半のプレイヤーにとって、それは愚かしい浪費の対象であり、切羽詰まった極限状態でのみ行使される非常手段にすぎなかった。月に50ドルも課金しない微課金層(ロースペンダー)にとって、その価格設定はあまりに高額すぎたからだ。通常、このサービスに手を染めるのは、ギルド倉庫の横領、詐欺、あるいは悪質な嫌がらせによって悪名を轟かせ、コミュニティ内で社会的に抹殺された者たちだけだ。電子の過去を清算し、何食わぬ顔で第二の人生を買い直すための、高額な免罪符。


だが、青森達也にとって、このプレミアム機能は単なる便利機能にとどまらない、最も基本的かつ不可欠な「防諜ツール」と化していた。大口ギルドの年間予算すら凌駕する流動性を握る彼にとって、アバター『D.A.R.N』の公開ネームと容姿を書き換える作業など、他のプレイヤーがショートカットキーで回復ポーションを煽るのと同じくらい日常茶飯事のルーティンにすぎなかった。


死神としての冷徹な粛清活動にマンネリを感じ始めた時、あるいは猜疑心に狂ったPKerたちが幾重にも張り巡らせた探知ワードや人間レーダーの網を掻い潜る作業に無駄な認知リソースを割きたくない時――達也は、狩りのベクトルを全く異なるアプローチへと切り替えた。敵を追跡し、息を殺して処刑するサイクルの繰り返しは、精神の摩耗を招く。プロセスの鮮度を保つためには、定期的な行動パターンの刷新が不可欠だった。


達也が考案した新奇な遊戯。


彼はそれを――『潜行プレイ(ディープ・ダイブ)』と呼んでいた。


その骨子は極めてシンプルだ。『D.A.R.N』の身ぐるみを剥いで完全な初心者の装備に着替えさせ、低層ダンジョンの野良パーティ(ピックアップグループ)へと潜入する。本質的には極めて悪趣味で精緻なトローリング(初心者の擬態)だったが、それは大鎌を振るって直接的に断罪を下すのとは全く異なる、独特の心理的快楽をもたらした。


このスキームの実行を可能にしていたのは、SROに実装されていたある仕様だった。野良パーティ募集におけるギスギスした選別を緩和するため、運営はシステム上で他プレイヤーの正確なレベルや上位クラスの表示を意図的にマスク(非公開化)していたのだ。それらの詳細データは、同一ギルドの内部画面でしか確認できない。ダンジョン攻略のために見ず知らずの野良プレイヤーを迎え入れる際、パーティリーダーが相手の力量を推し量る指標はただ一つ――身に纏っている防具の質感と、手に握られた武器のグレードという「視覚情報」だけだった。達也はこの盲点を徹底的にハックした。


D.A.R.Nは中央オークションハウスのUIを展開する。


普段、伝説級や神器級のアーティファクトを検索するために固定されているフィルタを一括で初期化。代わって設定されるのは、「最低価格順」、そして要求レベル「20〜30」のソート条件。市場には、初心者が二束三文の端金を得るために投げ売りした粗大ゴミが溢れ返っていた。


彼は意図して、もっとも粗悪で、視覚的に惨めなジャンク装備を買い漁った。擦り切れた革のジャケット、破れかけた粗野な麻のズボン、泥まみれの無骨な初心者用ブーツ。それらのガラクタが、課金によって数百枠まで拡張された彼の底知れぬインベントリへと放り込まれる。


続いて、電子のペルソナの再構築。


キャッシュショップからネーム変更権を即座に購入し、死神のダミーネームを、極めて陳腐でセンスのかけらもない文字列へと書き換える。『xMegaSwordx』『DarkWarrior99』『ShadowBoy』――初めてファンタジーRPGに触れた中学生が付けそうな、気恥ずかしいテンプレネーム。容姿設定もそれに合わせ、初期プリセットの冴えない顔立ちと、寝癖のついた野暮ったい短髪へとリセットする。


そして、偽装装備の展開。


あらかじめ設定しておいた『初心者プリセット』をワンクリックで反映させる。光を吸い込む死神の黒甲冑はインベントリの奥底へと格納され、オークションで買った粗悪なボロ布へと一瞬で置換される。アクセサリー枠の高額な指輪やアミュレットもすべて外し、ステータス補正の一切ない初期リングへと付け替える周到さ。


周囲のプレイヤーがどれほど目を凝らして観察しようと、そこに立っているのは、過酷なSROの世界に足を踏み入れたばかりの、レベル25から30前後の冴えない駆け出し戦士にしか見えなかった。トップ層の視界に入ることもなく、モンスターの脅威にもなり得ない、完全なる「灰色のモブ」。


そして、この悪趣味な仮面劇において最も重要な小道具こそが、禍々しい伝説の大鎌の代わりにD.A.R.Nが背負う武器だった。


粗悪な鉄のクレイモア――重心バランスも劣悪で、耐久値も極端に低い、ただの重い鉄の塊。


達也はこの安物クレイモアを、常に数十本単位でまとめ買いしていた。彼が定期的に爆買いするため、オークションの相場がわずかに高騰する珍現象すら起きていたほどだ。インベントリを圧迫してまで大量の予備を抱え込む理由は、ゲーム内の物理エンジンにあった。低ランクの粗悪な武器は、基礎耐久値が絶望的に低い。レベル999の肉体が秘める規格外の運動エネルギーをそのまま乗せて振り抜けば、安物の金属結晶は内部から崩壊を起こす。十数回も素振りを繰り返せば、クレイモアはガリガリと甲高い破断音を響かせて真っ二つにへし折れ、鍛冶屋で修理するまで完全な鉄屑と化してしまうのだ。


だが、戦闘中に武器が突然へし折れるというアクシデントこそが、完璧な「無能の証明」として機能した。


予備の砥石や修理スクロールすら携帯せず、粗悪な武器を平然と使い潰すプレイヤーなど、熟練者の中には存在しない。乱戦の最中に剣をへし折り、インベントリから慌てて全く同じ錆びた予備を取り出すその無様な姿は、野良の同乗者たちに深い溜め息を吐かせ、「こいつは救いようのない本物の素人だ」という確信を強固に植え付けるのだ。


これこそが、彼の仕掛けた完全なる罠だった。


外見がどれほど惨めな放浪者に身を落とそうとも、『xMegaSwordx』の肉体そのものに刻まれた基礎パラメータは、何一つ損なわれていなかった。


隠蔽された内部ステータスは、依然としてレベル999。基礎HP、自然回復力、物理防御力、そして何より――武器の数値を一切考慮しない素手の基礎攻撃力すら、レベル100未満のプレイヤーを数千倍の規模で圧倒していた。


たとえ攻撃力ゼロの錆びた鉄くずを握りしめていようと、D.A.R.Nの怪物的な膂力に揺らぎはない。その粗悪なクレイモアから放たれる最も無造作な薙ぎ払いの一撃ですら、低層ダンジョンのエリートモンスターや、通りすがりのPKerを一瞬で肉片へと消滅させるだけの過剰な破壊力を秘めていた。


だが、単にボロを纏うだけでは三流の潜入工作にすぎない。リアリティを完成させるためには、鬼気迫る「大根役者のロールプレイ」が不可欠だった。


達也は、計算され尽くした「初心者のミス」を惜しげもなく披露した。


ダンジョンの通路を進む際、彼は長年の戦闘で培った神速の反射神経を完全にシャットダウンした。初期職である戦士の基本スキルの発動モーションをわざと乱し、敵との間合いを見誤ったふりをして虚空を激しく素振りする。


反応速度にも、露骨なディレイ(遅延)を混入させた。側面の通路からゴブリンの巡回部隊が飛び出してきた際、わざと一・五秒間の「完全な硬直」を挟み、VRギアの空間認識に慣れていない初心者の混乱を完璧に再現してみせる。モンスターのヘイト感知エリアへ無防備に踏み込み、慌てふためいて逃げ回る芝居を打ち、敵のヒットボックスを大きく外してクレイモアを硬い岩壁に打ち付け、派手な火花を散らして弾き返される。


すべては緻密に計算された演出だった。やりすぎれば、ただの利敵行為やトロールとして即座にパーティから蹴り出される。目指すべきは――「少し動作が鈍く、不器用だが、必死に食らいつこうとしている憎めない初心者」。手はかかるが、大剣を一生懸命に振り回してそれなりに貢献しようとしている、庇護欲をそそる未熟者。その絶妙な境界線上を、達也は綱渡りのように歩き続けた。


「おいメガソード、ボーッとするな! 敵の大技が来るぞ!」


即席パーティのリーダーを務めるレベル40の青年が、歴戦の指揮官気取りで怒声を張り上げる。


「す、すみません! ちょっと操作が追いつかなくて……!」


達也は情けない声を返しつつ、初心者なら一撃で消し飛ぶはずの範囲攻撃を、ふらふらとした足取りで「偶然」紙一重で回避してみせた。直撃したところで、D.A.R.Nの無尽蔵のHPバーは数ミリたりとも減少しないのだが、そんな異常数値を晒せば一発で正体が露呈してしまうからだ。


この茶番劇は、達也にとって信じ難いほど新鮮で、至高のデトックスとなった。


死神としての本隊の作戦には、常に研ぎ澄まされた集中力と、失敗の許されない完璧な実行力が要求される。だが、この初心者ごっこには何のプレッシャーも存在しない。探知ワードに怯える必要も、見張りのログアウト時間を計算する必要も、己のダンジョンで泥棒のようにステルスで這い回る屈辱もない。ただ力をセーブし、仮想世界の土臭い日常風景に浸り、生態系の底辺で蠢く初心者たちの生態を特等席で観察するだけ。


最弱クラスのボスモンスターの攻略手順について真剣に議論を交わし、数枚の銅貨とゴミ素材の山をめぐって真面目にダイスを振るパーティメンバーたちの姿。彼らにとって喉から手が出るほど欲しい青文字のレア装備が、達也にとっては店売りの処分品にすぎないという決定的な断絶。


己の真の輪郭と、周囲が抱く虚像との絶望的なまでのギャップ。


擦り切れた革鎧を着込み、錆びた鉄屑を握りしめ、自らの数百分の一のステータスしか持たない子供たちから偉そうに説教を受ける。コウモリの大群を「誤って」引っ掛けたことを平身低頭で謝罪する。


この状況の底に横たわる、圧倒的なアイロニー。


周囲の同乗者たちが呆れ混じりに見下ろしているこの愚鈍な初心者は、その気になれば、握りしめた鈍ら刀の一振りでこの階層の主はおろか、サーバー最強の廃課金者すら塵芥へと消滅させることができるのだ。全サーバーの頂点に立つ究極の捕食者が、羊の皮を完璧に着込み、草食動物の群れの中で無邪気に戯れている――その絶対的な全能感の自覚こそが、達也の理性に尽きることのない濃密な愉悦をもたらしていた。


***


SROにおける低層ダンジョンの野良パーティ結成は、前時代的だが機能的なソーシャル・マッチングによって行われていた。自動マッチングシステムが存在しないため、プレイヤーたちは全体募集チャットに略語と条件を絶え間なく流し込み、カオスなテキストの奔流を作り出す。


『xMegaSwordx』の仮面を被った達也は、街の片隅でそのログを冷徹に選別していた。


『ルナリア30層攻略PT@3! 盾1、回復1、近接DPS募集! 初見歓迎!』


まさに、求めていた条件に合致する案件だった。


ルナリア・ダンジョンの三十層は、プレイヤーたちが初めて本格的な連携を要求される登竜門であり、それゆえに憂さ晴らしに訪れる悪質なPK課金者たちにとって格好の狩場となっていた。達也は募集主のIDをタップし、近接枠として参加申請を飛ばした。


数秒後、申請は即座に承認された。パーティリストを開き、一時的な味方の顔ぶれを確認する。翻訳ツールにかけたような、いかにも初心者らしい稚拙な英語のID群。


合流地点であるダンジョンの重厚な石門へ向かうと、そこには典型的なレベル20〜30代のメンバーが集結していた。


重厚な盾を構え、リーダーシップを誇示するナイトの『BraveShield』。攻撃魔法を担当するソーサレスの『ManaStorm』。そして、昨日達成したばかりだというレベル30の栄光を全体チャットで自慢げに語り散らかしているプリーストの『HealingLight』。


下層へと続く階段を降りながら、達也はあらかじめプログラミングしておいた「初心者のロールプレイ」を起動した。過剰な期待をへし折り、自らの存在感を安全圏へと沈めるための予防線。


「あの……僕、このダンジョン初めてなので、何かヘマしたらごめんなさい」


おどおどとしたトーンで、達也は呟いた。


返ってきた反応は、彼の予測モデルと完全に一致していた。初心者の壁を辛うじて乗り越えたばかりのプレイヤーは、自らの知識を新入りに授ける「頼れる先輩」の役回りを無条件で喜ぶものだ。そのアドバイスの大半が、効率からかけ離れた素人理論であったとしても。


「安心しろ、俺たちが全部教えてやるよ!」BraveShieldが気前よく胸を叩く。


「そうそう、危なくなったら後ろに下がってて! 私が全部回復してあげるから!」HealingLightが、誇らしげなレベル30の視座から請け負った。


ナイトのBraveShieldは、三十層のフロアゲートをくぐると、さも重大な軍議のように基本戦術の講義を始めた。


「よし、作戦はシンプルだ。俺が敵のヘイトを一手に集める。お前たちは俺のタゲマーカーがついた敵だけを殴れ。ManaStormは敵がまとまったところに範囲魔法を撃ち込め。HealingLightは俺のHP管理に集中しろ、無駄なヒールでマナを枯らすなよ。で、xMegaSwordx――お前は俺たちが削った敵のトドメを刺せ。あと、ヒーラーに敵が流れないように周囲を警戒しろ」


柔軟性のかけらもない前時代的な戦術だったが、この浅層を攻略するだけならこれで十分に機能する。何より、メガソードに割り振られた「弱った敵のトドメ役」というポジションは、達也にとって都合が良すぎた。自ら攻撃の初動を仕掛ける必要がなく、瀕死の敵を殴るだけなら、自らの異常な基礎火力を完全に隠蔽できるからだ。


一行は三十層の薄暗がりへと足を踏み入れた。


初期の広間には、レベル30前後のスケルトン・ガードや洞窟蜘蛛が徘徊していた。このレベル帯の一般プレイヤーにとっては、ポーションの消費を強いられる手強い相手だ。だが、安物の革鎧を纏ったD.A.R.Nにとっては、ただの茶番劇にすぎない。


達也の全神経は、敵を倒すことではなく、「己の力を殺すこと」に注がれていた。


SROの物理エンジンは、打撃の運動エネルギーを忠実に威力へと換算する。もし達也が普段のスピードで腕を一閃させれば、錆びたクレイモアの刀身はスケルトンの装甲を粉々に粉砕し、その余波の衝撃波だけで背後の通路の敵まで丸ごと消滅させてしまう。


ゆえに彼は、自らの動きに意図的なブレーキをかけ続けた。大袈裟に、ぎこちなく腕を振り上げ、わざと攻撃の何割かを空振りさせる。そして、HPバーが残り数ミリまで削り落とされた敵だけを狙い、レベル30の戦士の全力に見えるような速度でクレイモアを振り下ろした。


だが、他者の観察眼というものは、時に厄介な違和感を察知する。


「メガソード君、なんだか……すごく慎重だね? もっと踏み込んで殴っても大丈夫だよ、私たちがフォローするからさ」


通路のスケルトンを殲滅した後、魔法使いのManaStormが怪訝そうに首を傾げた。


達也は即座にリスクを査定した。消極的すぎれば、火力の寄与度が低いとしてパーティ追放の対象になりかねない。初心者のリアリティの範疇で、納得のいく言い訳を提示しなければならない。


「す、すみません……装備が紙装甲なので、タゲがこっちに跳ねるのが怖くて」


情けない苦笑いを浮かべ、達也は言い訳を繕った。低耐久の近接アタッカーがボスのヘイトを奪って即死することは、MMO初心者がもっとも恐れるトラウマの一つだ。


「ああ、なるほどな! だが心配すんな、俺のタウントは完璧だからよ。ビビらず行け!」BraveShieldが豪快に笑い飛ばす。


ManaStormも納得したように頷き、疑惑は霧散した。


パーティはダンジョンの奥深くへと進軍していった。石造りの通路は切り立った天然の鍾乳洞へと移り変わり、鉱石の仄青い燐光だけが足元を照らす。モンスターの密度と耐久力は徐々に上昇し、メンバーたちも冗談を飛ばす余裕を失っていった。


もっとも、攻略自体は驚くほど順調だった。


BraveShieldは忠実に敵のヘイトを固定し、HealingLightは的確に回復を飛ばす。ManaStormの火炎と氷結の魔法が群れを削り、メガソードが錆びた大剣を懸命に振り回してミリ残りの敵を掃除する。


誰もが自らの限界に挑み、持てるリソースを絞り尽くしていた。互いのスキルのリキャストを声で確認し合い、バフの付与に感謝を述べる。そこにはエンドコンテンツ特有のギスギスした傲慢も、資本によるヒエラルキーの押し付けもない。ただ等身大のプレイヤーたちによる、純粋で無垢な協力関係。


やがて、通路の先が開け、異様な青い光に満ちた大空洞へと出た。


中央に鎮座するのは、このフロアの門番――ミニボスである装甲サイクロプス。その頭上には、四体の俊敏なストーン・ガーゴイルが旋回している。


パーティの足が止まった。


「……ここが正念場だ。油断するなよ。まずガーゴイルを各個撃破、そのあとにボスへ集中砲火だ。ヒーラー、俺のHPから絶対に目を離すな」


BraveShieldの声に、本物の緊張が滲んでいた。


達也は静かに剣を握り直した。彼にとって、この戦いは別の意味での極限の試練だった。


雑魚戦なら多少の加減のブレは誤魔化せるが、エリート相手となれば、指先一本の出力調整をミリ単位で制御しなければならない。万が一にも本気の打撃を叩き込めば、ミニボスは一瞬で肉片となって吹き飛び、チート使用の通報が飛んで偽装工作は灰燼に帰す。


「突撃ィッ!」


BraveShieldが盾を構えて突進した。衝撃波とともに放たれた挑発スキルがガーゴイルたちの敵視を捉える。ManaStormが即座に広範囲の火炎詠唱に入り、HealingLightが祈りを捧げる。


メガソードもまた、必死の形相を装って前線へと飛び込んだ。


彼はガーゴイルの鋭い爪の間を「紙一重でかわし損ねた」ような不格好なステップで擦り抜けつつ、インベントリの中で最大HP上昇の安物リングをこっそり外したり装備し直したりして、自らのHPバーがリアルに削れているように偽装した。大剣の平たい腹で攻撃をだらしなく受け止め、物理エンジンのノックバックに身を任せて派手に後方へ転がる。


(――我ながら、実に滑稽な喜劇だな)


内心で冷徹に嘲笑しながら、達也は芝居を続けた。上位レイドなら即座に晒し上げにされるような醜態も、レベル30の初心者が格上と対峙している状況下では、命懸けの奮闘として好意的に解釈される。


ガーゴイルが次々と石屑となって崩れ落ち、いよいよサイクロプスの巨躯へと総攻撃が始まった。


パーティの総合火力は極めて低く、戦闘は泥沼の消耗戦の様相を呈していた。達也は「息を切らし、疲弊しながらも剣を振るう初心者」を完璧に演じ分けた。ボスの回避モーションの無敵時間にあえて攻撃を叩き込み、無害な金属音を響かせてダメージをゼロに抑える。


そして数分後、ボスのHPが限界まで削り落とされたその瞬間――メガソードは、計算された「渾身のラストヒット」を放ち、サイクロプスの巨躯を派手に両断してみせた。


轟音とともに巨体が崩壊し、安物のコインと素材が床一面に散らばる。


「……よっしゃあぁぁッ! 倒したぞ!!」


BraveShieldが肩で息をしながら、歓喜の雄叫びを上げた。ナイトは達也の元へ駆け寄り、その肩を力強く叩いた。


「おいメガソード! 初見にしちゃ上出来どころじゃねえぞ! パニクらずによく持ちこたえた!」


「ありがとうございます……必死でした」


達也はボロボロのクレイモアを背中に戻し、安堵したように息を吐く芝居を打った。


「マジで助かったわ、途中でマナ尽きるかと思った!」HealingLightがその場にへたり込む。


分配は極めて公平に行われた。誰一人として私腹を肥やそうとせず、ダイスの結果に従って等分されていく。死神の視点から見ればストレージの肥やしにもならないゴミ屑だったが、彼らの瞳には、何物にも代え難い宝物として輝いていた。


広間を後にした一行は、さらにダンジョンの深部へと歩みを進めた。幾つかの小部屋を突破し、やがて地下湖のほとりにある巨大な鍾乳洞へと辿り着く。


「よし、ここで小休止だ。十分間、マナ回復と装備修理、あとリアルのお茶休憩! この先はモンスターの強さが一段跳ね上がるからな」


BraveShieldの指示に従い、メンバーたちは水辺の岩腰を下ろした。達也もまた、冷たい地面に腰を下ろし、手足を投げ出した。疲労など微塵も存在しなかったが、社会的な擬態には完璧な同期が求められる。


***


十分間のインターバルが終了した。全員のHPとMPゲージが全快し、隊列が再編成される。達也もまた、動きの鈍い初心者を装いながら最後に立ち上がり、背中の鉄のクレイモアをわざと不器用に引き抜いた。


前方の暗がりには、青白い水晶が不気味な光を落としている。一行が数十歩進んだその時――先頭を歩いていたBraveShieldが突如として足を止め、タワーシールドを構えて身を固めた。


「待て……誰か来る。赤ネームだ!」


緊迫した声が響く。


SROのレーダーシステムはモンスターの位置を正確には映し出さないが、PKカウントを蓄積した「赤ネーム」の接近だけは、周囲のプレイヤーのミニマップへ強制的に警告として表示される仕様になっていた。弱者が逃走するためのわずかな猶予であり、略奪者を狩る賞金首ハンターのためのビーコン。


達也の視界の端、ミニマップの北側から、脈動する深紅の光点が猛烈な速度で直進してくるのが見えた。移動速度の上昇バフを炊いている動きだ。


暗闇の向こうから、隠れる気すらない足音とともに、そのアバターが姿を現した。


頭上に燦然と輝く、禍々しい血の色の文字列――『BloodEdge』。


クラスは一目で識別できた。暗殺に特化した近接職――アサシン。その右手には、緑色の猛毒が滴る湾曲した短剣が握られている。


達也の眉が、わずかにピクリと動いた。


現れた男の身なりは、絵に描いたような「見栄っ張りの課金PKer」そのものだった。闇に溶け込むための実用的なダークレザーではなく、キャッシュショップで買い漁ったネオン発光の派手な装飾鎧。背中には、歩くたびに黒い羽根のエフェクトが散り落ちる高額な課金マント。


ゲームプレイの観点から言えば、自らの位置を周囲に喧伝するだけの完全な電子ゴミだが、この男にとっては自らの財力と赤ネームの威圧感を誇示することこそが至上の目的だったのだろう。


BloodEdgeは十メートルほど手前で立ち止まり、毒の滴る短剣を指先で弄びながら、獲物たちを値踏みするように見下ろした。


重課金アサシンにとって、型落ち装備に身を包んだレベル30前後の四人パーティなど、赤子の手をひねるより容易い餌にすぎない。己の絶対的な安全を確信した男の唇に、下卑た嘲笑が浮かぶ。


「おいおい雑魚ども、身ぐるみ置いていくか、ここで肉塊になるか選ばせてやるよ」


吐き気のするような陳腐な台詞。達也の胸に、底冷えするような侮蔑が湧き上がった。何の知性も、捻りもない。金で買ったステータスに溺れた人間の行動パターンは、三流のB級映画のように底が浅い。


だが、パーティメンバーたちにとって、その脅迫は絶望そのものだった。先ほどまで保たれていた規律は、暴力を前にして一瞬で瓦解した。決まった行動を取るNPCモンスターと、殺意を持って弱者を嬲りに来た生身の人間とでは、心理的圧迫の次元が違いすぎる。


「全員逃げろ! 俺が食い止める!」


BraveShieldが盾を構えて前に出る。無謀極まりない自己犠牲――鈍重なタンクなど、高機動アサシンにとっては数秒で背後を取られる案山子にすぎない。だが、その愚直な気概だけは評価に値した。


「嘘でしょ、重課金アサシンじゃない……! 勝てるわけないよ!」ManaStormが杖を抱え込み、恐怖で後退る。


「PvP装備なんて持ってない! 死にたくないよ!」HealingLightがパニックに陥り、インベントリから帰還スクロールを狂ったように探し始める。


達也だけが、氷のように研ぎ澄まされた思考を維持していた。彼は「混乱する初心者」を演じるべく、逃げるべきか戦うべきか迷うようにふらふらとステップを踏み、重いクレイモアの切っ先を地面に引きずらせてみせた。


獲物の絶望を十分に味わったBloodEdgeが、最初の標的を選定した。


定石通りの優先順位。耐久力のない後衛魔法職――パニックで足を止めているManaStorm。


アサシンのスキル『シャドウジャンプ』が起動された。対象の背後へ一瞬で空間跳躍する必殺の強襲技。光の軌跡を残して男の姿が消失し、次の瞬間には、怯える魔法使いの少女の背後に実体化していた。


振り上げられる猛毒の短剣。背後からの確定クリティカルの一撃が、少女の首筋へ振り下ろされよう配する。


ManaStormは自らの死を悟り、VR空間において人間がもっとも無力な反応を見せた――恐怖のあまり、両目をぎゅっと固く瞑ったのだ。


その刹那。


D.A.R.Nの知覚世界において、すべての物理現象がスローモーションへと減速した。


短剣が魔法使いのヒットボックスに接触するまで、およそ〇・八秒。


達也にとって、それはあくびが出るほど広大な時間猶予だった。正体を晒すつもりはない。だが、この場で最も不格好で、最も愚かしく、最も「あり得ない偶然」を演出するだけの時間としては、十分すぎた。


メガソードのアバターが、無様に、ぎこちなく身体を捻った。


それは熟練の剣技などでは断じてない。パニックに陥った初心者が、何かが動いた影に怯えて、目をつぶったまま適当に武器を振り回したような、不細工極まりないフルスイング。


安い鉄のクレイモアが、歪な軌道を描いて空間を薙ぎ払う。


短剣が少女の肌に触れる寸前――その鉄の塊は、アサシンの無防備な脇腹へと正確無比に衝突した。


外見上は、ただの初期装備による空振り紛れの一撃。


だが、SROの物理演算エンジンは、その攻撃ベクトルに刻まれた「質量」を冷徹に計算した。プログラムは、錆びたクレイモアの基礎データに、レベル999の怪物が秘める天文学的な素手攻撃力をそのまま乗算した。


相手の重課金アーマーの防御補正など、紙装甲どころか大気抵抗ほどの意味すら成さなかった。


ゴキィッ、という、ゲーム内の骨が粉々に粉砕される鈍い破壊音。


一撃。


BloodEdgeの身体は文字通り真っ二つに両断され、ポリゴンの断面を晒しながら、不快な音を立てて床へとバラバラに崩れ落ちた。


ダンジョンの鍾乳洞に、シンとした静寂が満ちていく。


暗闇に響くのは、水滴の落ちる微かな環境音だけ。


ManaStormは、訪れるはずの死の感触が来ないことに困惑し、恐る恐る目を開けた。


数度瞬きを繰り返す。目の前に広がっていたのは、悪夢のような現実だった。先ほどまで自分を殺そうとしていたアサシンが、原型を留めない肉片となって自分の足元に散らばっている。


「……は? な、何が……起きたんだ……?」


BraveShieldが呆然と呟き、構えていた盾を力なく降ろした。ナイトの視線が、散らばる死体から、ぽかんと立ち尽くすメガソードへと彷徨う。


「BloodEdgeが……ワンパン? 一撃で死んだの……?」HealingLightの声が裏返り、極限の認知的断絶を露呈していた。


達也は、この瞬間のために用意していた演技のスイッチを入れた。自らの伝説を守り、この奇跡を「乱数神の悪戯」として彼らに飲み込ませるためのパフォーマンス。


彼は自らのクレイモアを、信じられないものを見るような目で見つめた。剣をくるくると不器用にいじり回し、後頭部をポリポリと掻く。


「あ……あれ? 僕、何したんだろ……怖くて目をつぶってぶん回したら当たっちゃって。もしかして、すっごいクリティカルが出たのかな……?」


メガソードの声には、困惑と怯えのニュアンスが完璧な比率で配合されていた。


あまりに噴飯ものの言い訳だった。SROの計算式を少しでも知る人間なら、腹を抱えて笑い飛ばすレベルの嘘。レベル30の戦士が初期装備で放ったクリティカルごときで、レベル42の課金重装備アサシンが消滅するなど、数学的に完全にゼロパーセントの事象だ。


だがその時、床に転がる肉片から、怒狂したチャットログが全体チャンネルへと炸裂した。死亡後、リスポーン神殿へ強制送還されるまでの三十秒間、死体はテキストチャットを吐き出すことができる。


『ふざけんなァァァッ!! なにがクリティカルだクソガキがァッ!! 俺はレベル42だぞ!? お前の五倍以上のステータスがあんだよ!! チーターだろテメエ!! 通報してやるからなァァッ!!』


全角の大文字で画面を埋め尽くす怨嗟の絶叫。


達也はそれを、冷え切った愉悦とともに眺めていた。チートなど一切使っていない。そこにあるのは、無能の仮面の下に隠された、圧倒的で絶対的な暴力という現実だけだ。


パーティの三人は、顔を見合わせて硬直していた。あり得ない現実を前に、彼らの理性は、目の前の少年が提示した唯一の「救い」に縋り付くしかなかった。


「メガソード君……君、一体どうやって……?」ManaStormが、幽霊でも見るような眼差しで尋ねる。


「僕にも全然わかりません」メガソードは申し訳なさそうに両手を広げ、ボロ刀を背中に背負い直した。「本当に運が良かっただけだと思います。目をつぶってましたし、神様のおかげかなって……」


人間の脳は、受け入れ難い異常事態に直面した時、既存の世界観を破壊するよりは「信じ難い奇跡」を受け入れる方を選択するようにできている。


BraveShieldは深く息を吐き、昂ぶるアドレナリンを沈めると、パーティリーダーとしての結論を下した。


「……ま、まあ、運も実力のうちって言うしな!」


ナイトの声には、明らかな動揺と、それ以上の安堵が混ざり合っていた。味方の不正を疑うよりも、「天文学的な超低確率のクリティカルを引き当てたラッキーボーイ」として処理する道を選んだのだ。


やがて激怒のチャットを垂れ流していたBloodEdgeの残骸が光の粒子となって消滅し、神殿へと回収されていった。


「とにかく全員無事だ! あいつが仲間を連れて戻ってくる前に、とっとと先へ進むぞ!」


「う、うん! 早く行こう!」


パーティは前進を再開した。形式上は先ほどと同じフォーメーション。だが、メンバーたちの間の空気は一変していた。誰も日常の愚痴をこぼさず、冗談も言わず、ただ沈黙の中で機械的にスキルを回し続ける。


フロアの最奥でボスを倒した際も、達也は完璧な「初心者の立ち回り」を崩さなかった。


ドロップ品を等分し、ボス討伐後に開いた街へのポータルをくぐる。


ルナリア・タウンの広場に戻ったところで、BraveShieldが解散を宣言した。


「みんなお疲れ! メガソードも、よく生き残ったな!」


「ありがとうございました、楽しかったです!」


達也がログアウトメニューを開こうとしたその時、個別メッセージの着信音が鳴った。


送信者は、ManaStorm。


『あの……さっきは本当にありがとう。何が起きたのかは分からないけど、あなたが助けてくれたのは本当だから。命の恩人だよ』


達也は感情の籠もらない視線でそのテキストを流し読みした。


『いえ、僕も必死だっただけですから。助かってよかったです』


当たり障りのないテンプレを返信する。


『もしよかったら、またダンジョン行こうね! フレンド申請送っておくから!』


その返答を待たずにダイアログを閉じ、達也はログアウトを完了させた。


自室のデスクでVRギアを外し、PCのブラウザから外部のSRO大手掲示板を開く。


予想通り、フォーラムにはすでに炎上スレッドが立ち上がっていた。


『【速報】ワイ課金アサシン(Lv42)、ルナリア30層でLv30の初期装備戦士にワンパンされる【バグ?チート?】』


スレ主はもちろん、あのBloodEdgeだ。


当初、住民たちの反応は冷淡極まりなかった。「雑魚乙」「初心者に負けて恥ずかしくないの?」「クレイモアの素振りで死ぬ課金者w」といった嘲笑の嵐。


だが、逆上したスレ主が戦闘ログのキャプチャ画像をアップロードした瞬間、スレッドの空気が凍りついた。


被ダメージ表記――『18,420』。


一万八千超えの純粋物理ダメージ。


『……は? 18k? マジで言ってんの?』


『待て、レベル30でこの数値は絶対に出ない。計算式がバグってる』


『xMegaSwordxって誰だよ。ランキングに載ってないぞ。廃課金のサブ垢が、神話級のアクセサリだけ移動させて装備してんのか? でもそれならなんで防具が初期装備なんだ?』


『運営にバグレポ送れ。これ普通に重大インシデントだろ』


飛び交う憶測を、達也は冷ややかに眺めていた。


男はすでに運営へ長文の調査要請を送りつけ、失われたデスペナの経験値返還を要求しているはずだ。だが、その結末を達也は正確に予見していた。


システム上、何の不正も行われていないからだ。レベル999のアバターが、初期武器を振るっただけ。基礎攻撃力と筋力ステータスを掛け算すれば、18,000などという数値は極めて正当に算出される。


運営の調査チームはログを精査し、外部ツールの痕跡がないことを確認した上で、数日後に冷淡なテンプレ回答を送りつけるだろう――「仕様通りの挙動であり、不具合は確認されませんでした」と。


男は発狂するだろうが、ゲームマスターの裁定に覆る余地はない。


達也はブラウザを閉じ、再びVRギアを被った。


今度は――『F2Pmaster』のアカウントへ。


ゲーム内へ降り立つと、『アイアン・ガーズ』のギルドチャットは、今夜予定されている大規模な素材狩りの話題で持ちきりだった。


目標は、イグニス・ダンジョン72層に生息する『ファイア・サラマンダー』の乱獲。


強烈な火炎ブレスと、HP30%以下での分裂召喚ルーチンを持つ、完全なパーティ推奨の強敵。重課金ギルドにとっては通過点にすぎないが、無課金ギルドにとっては、高ランクの装備強化スクロールを自力調達するための極めて重要な決戦場だった。


『F2Pmaster』は、当然のようにメインタンクとして招集されていた。


ギルドマスターのShieldMaidenが手際よく指示を飛ばす。


『20時に72層の入口集合ね。編成はタンク1、ヒラー1、メイジ3、ランサー1。タンクが壁際でタゲを固定、DPSはマーカー順に各個撃破。ランサーは雑魚が湧いたら即座にスタンで足止めして。ヒーラー、ブレスの直撃でタンクのHPが吹き飛ぶ可能性があるから、絶対に目を離さないで!』


『了解しました。耐火装備の耐久値を確認しておきます』


チャットで承諾の返信を打ち込みながら、達也の頭脳はすでに「並行作戦」のタイムラインを策定していた。


狩りの時間と場所は完全に特定された。


達也はパラディンを宿屋で一度ログアウトさせると、再びメインアカウント『D.A.R.N』を呼び出した。


漆黒のフルプレートアーマー、そして紫電を散らす大鎌『Jack The Reaper』を装備。課金テレポートスクロールを消費し、彼はギルドの集合時間よりも遥か前に、単身でイグニス・ダンジョン72層へと先回りした。


灼熱の溶岩が流れる紅蓮の迷宮。徘徊するエレメンタルを音もなく屠りながら、達也はギルドが陣取る予定の狩場からわずか百メートルほど離れた、黒曜石の断崖の裂け目――完璧な死角となる岩陰を見つけ出した。


そこで、静かにログアウトする。


牙を研いだ死神は、今や現地に「装填」された。


F2Pmasterのレーダーに、獲物の赤ネームが映し出されたその瞬間――岩陰から飛び出し、不届き者の魂を刈り取るための、不可視の迎撃ミサイルとして。

***


約束の刻限ちょうど、『Iron Guards(アイアン・ガーズ)』の部隊は狩りを開始した。


工程は機械的な精密さで進んでいった。百戦錬磨のF2P(無課金)古参兵たちは、この深度における一つのミスが何を意味するかを熟知していた。F2Pmasterが大盾でサラマンダーの灼熱ブレスを真正面から受け止め、ランサーが湧き出た分裂幼体を絶妙なタイミングでスタンさせ、メイジ陣の詠唱魔法がモンスターのHPバーを確実に削り取っていく。攻撃のルーティンと消耗品の使用タイミングは、寸分の狂いもなく研ぎ澄まされていた。


安定した効率的な狩りが三十分ほど続いた頃、パーティの索敵網が招かれざる客の接近を捉えた。


視界に入ってきたのは、五人編成のパーティ。サーバーのヒエラルキーにおいて典型的な、中堅どころの重課金グループだった。身につけた装備の質感から察するに、レベル帯はおよそ80から95といったところ。過剰な強化エフェクトが鎧の表面でギラつき、その手には高額な紫等級(エピック)の武器が握られていた。


豪奢な法衣を翻し、眩い光を放つ両手杖を携えた魔導士アバターが一歩前へ進み出た。頭上には誇らしげなID――『DonatorKing』。


「ここは俺たちの狩り場だ。とっとと失せろ」


通り一遍の挨拶すら挟まず、男は居丈高に言い放った。


「私たちが先に来ていました。別の湧き場を探してください。この階層にはまだ十分なスペースがあります」


アイアン・ガーズのレイドリーダーが冷静に応じる。


金で買った優越感を誇示することに慣れきった連中の世界観に、そのような対等な返答が受け入れられるはずもなかった。DonatorKingの口元に、下卑た嘲笑が浮かぶ。


男は両手杖を掲げ、アイアン・ガーズの陣形へ向けて上級の広範囲火炎魔法――『ファイアストーム』を容赦なく叩き落とした。標的の一人が消滅したことで術者は即座に赤ネーム(PKステータス)となり、仕様通りパーティから自動除名される。だが、残るメンバーは即座に男へ再招待を飛ばした。手慣れた手口――赤ネームとなったパイロマンサーを再加入させたことで、敵パーティ全員が他者からの攻撃を許可する『黄ネーム(交戦可能状態)』へと切り替わる。連中は間髪を入れず、一斉に突撃を開始した。


装備とレベルの隔絶は無慈悲だった。無課金装備で身を固めたアイアン・ガーズの面々に、課金者たちの集中火力を耐えきる術はない。敵アーチャーの放ったクリティカル射撃が急所を貫き、開戦からわずか数秒でヒーラーが崩れ落ちた。支援を断たれたランサーも、DonatorKingの追撃の火球に呑み込まれて灰燼へと帰す。


残されたメンバーたちはパニックに陥り、距離を取って安全な通路へ逃れようと蜘蛛の子を散らすように四散した。


達也は、抗う素振りすら見せなかった。『F2Pmaster』のアバターはその場に立ち尽くし、肉薄してきた敵アサシンの連撃を真正面から浴びた。HPバーが尽き、視界が白黒の「幽霊状態(死亡待機画面)」へと反転する。


自らを敢えて殺させることで、敵アサシンを交戦可能(黄ネーム)から完全な略奪者――『赤ネーム(PKer)』へと染め上げるための計算された死。


リスポーンを待つ暗転画面の片隅で、達也は手早くギルドチャットを開いた。


『すみません、回線落ちそうなので再接続します』


定番の口実を打ち込み、即座にゲームをログアウトした。


アカウントの切り替えに要した時間は、わずか数秒。


脆弱な無課金パラディンの擬態から、冷徹なる処刑人『死神』のモードへと、達也の脳髄が一瞬でギアを切り替える。


レベル999のアバターが、電脳空間へと実体化した。ログイン位置は、先ほど先回りして潜伏させておいた、あの黒曜石の裂け目。


奪い取った狩り場の上で、課金者グループはまだカルマを洗浄する間もなく屯していた。「逃げ足の速い乞食どもめ」と、他愛のない勝利を噛み締めながら下卑た会話を交わしている。反撃や脅威の予兆など、誰一人として警戒していなかった。


ダンジョンの主そのもののように、D.A.R.Nが闇の中から滑り出た。


最初の数秒、連中は死神の接近にすら気づかなかった。灼熱の岩盤の上を、フルフェイスの兜を被った漆黒の巨躯が音もなく間合いを詰めていく。標的まで残り数メートルという距離に迫ったその時、DonatorKingが偶然にも視線を横へと向けた。


パイロマンサーの息が止まった。見開かれた瞳。


見間違うはずのないシルエット。光を吸い込む漆黒の装甲、そして怪しく明滅する巨大な紫の大鎌。サーバー全土を恐怖に陥れている生ける伝説――『死神』が、今まさに眼前に立っていた。


達也は、男に絶望を咀嚼する時間すら与えなかった。


『Jack The Reaper』の一閃。


神話級の刃は、課金魔法障壁を豆腐のように切り裂き、男が注ぎ込んできた数十万円の価値を嘲笑うかのように装甲ごと肉体を消滅させた。


DonatorKingのアバターが、崩壊の光の中で霧散する。


戦闘ログに無機質に刻印される、スキル『喪失』の文字。


――レベルマイナス1。


リーダーが一撃で現実から抹消された光景を前に、残された四人は本能的なパニックに呑み込まれた。全方位へ向けて無我夢中で駆け出し、走りながら帰還スクロールを裂こうと指をもたつかせる。


だが、レベル999の機動性能の前では、逃走の自由すら与えられなかった。


D.A.R.Nの身体が右へとブレる。一瞬の踏み込み――放たれた薙ぎ払いが敵の赤ネーム・アーチャーを捉え、数週間分の労力とともにポリゴンの塵へと還元する。三人目の略奪者であるアサシンはステルススキルへ逃げ込もうとしたが、大鎌の薙ぎ払う暴風のような円弧が不可視のヒットボックスを根こそぎ刈り取り、HPバーを一瞬で消し飛ばした。


最後尾、最大射程の安全圏に陣取っていた二人の黄ネームのヒーラーだけが、間一髪でクラス固有の緊急帰還スキルを発動させた。大鎌の刃が空気を切り裂くコンマ一秒前、彼らの姿は青い閃光とともに街へと消滅していた。


処刑を完了し、歪んだ秩序を正したD.A.R.Nは、一秒たりとも現場に留まることなく帰還スクロールを破砕した。イグニス・タウンの安全地帯へと転移し、即座にログアウト。


それから一分後、『F2Pmaster』のアバターが、街の蘇生神殿の広場に静かにリポップした。


達也はギルドチャットを開き、何気ない調子でテキストを走らせた。


『ネット回線が急に落ちて死にました……皆さん無事ですか?』


その瞬間、アイアン・ガーズのチャット欄は、蜂の巣をつついたような大狂乱の渦と化していた。目にも留まらぬ速度でスクロールしていくログ、乱立する感嘆符、興奮で文法すら崩壊したテキストの嵐。


『おいF2P、お前とんでもない瞬間を見逃したぞ!!!』レイドリーダーが全角大文字で叫ぶ。


『死神が来たのよ! 本当に何もない虚空から現れて、あいつらを一瞬で皆殺しにしたの!』


『マジで信じらんねえ!!』


奔流のように流れるテキストを、達也は静かに見つめていた。


口元がわずかに緩み、冷徹で計算された笑みが浮かぶ。


『えっ? 一体何があったんですか?』


無知を装うメッセージを送信する。


次の瞬間、彼自身が監督し、自ら主役を演じ切ったあの処刑劇の顛末が、夥しい数の尾ひれと興奮の装飾をまとってチャット欄に雪崩れ込んできた。


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