10
人間社会は必然的に厳格な隔離へと傾斜する。そして仮想現実の世界もまた、その醜悪な力学において物理世界と何ら変わるところはない。
『Stellar Reckoning Online』屈指の過密都市、ルナリア・タウンの白石畳の広場。アバター『D.A.R.N』は、適当にでっち上げたダミーネームとみすぼらしい初期装備を身に纏い、喧騒の片隅に佇んでいた。擦り切れた革鎧、錆びた鉄のクレイモア、装飾エフェクト皆無の無骨な外見。周囲の視線からは「視界に入れる価値すらない雑魚」として完全に背景化している。人間観察にはうってつけの特等席だった。
広場は文字通りの「電子の労働市場」と化していた。チャットログが濁流のように流れ、頭上には無数のフキダシが明滅する。ダンジョンの即席パーティに潜り込もうと必死に『LFP(参加希望)』を連呼する者、少しでもマシなギルドのスカウトの目に留まろうと『LFG(ギルド募集)』を叫ぶ者。
その無秩序なブラウン運動を眺めていた達也の視線が、広場の端――錦鯉の泳ぐ噴水の傍らで立ち尽くす一つの特異点へと吸い寄せられた。
アバター名は『Mamoru777(マモル777)』。
クラスは基本職の戦士。その出で立ちは「絵に描いたようなド初心者」そのものだった。キャラクター生成時に支給される最低ランクの布服に毛が生えた程度の初期装甲、未強化の初期剣、アクセサリーのスロットに至っては四枠すべてが完全な空欄。
達也はこの男を、すでに二十分ほど観察していた。その間、Mamoru777は幾度となく野良パーティへの参加申請を送り、そしてことごとく、無慈悲に拒絶され続けていた。
拒絶の文句に感情の揺らぎはなく、極めて形式的で、判で押したように同じ理由に帰結していた。
「悪いけど、スターターパック持ってない奴は無理」
レベル20代前半で固められたパーティのリーダーが、冷淡に申請を蹴り飛ばす。
事情を知らぬ部外者から見れば理不尽な差別に映るかもしれないが、達也にはその拒絶の論理が手に取るように理解できた。SROの経済圏において、『スターターパック』とは日本円にして約五ドル――わずか数百円で販売されている初心者用課金セットのことだ。運営企業がプレイヤーに課金の味を覚えさせるための撒き餌(フロントエンド商品)。
だが、その実効性は絶大だった。高品質のHP回復ポーション、レベル30まで持続する破格の経験値ブースト、そして何より――『ギルドリング』と呼ばれる装飾品。この指輪はレベル30に達するまで基礎ステータスを底上げするパッシブ効果を持ち、序盤のダンジョン攻略の難易度を劇的に引き下げる。
この「たった五ドルの印」すら持たない完全無課金の初心者は、パーティにとって単なる戦力外どころか、ヒーラーのリソースを浪費させる「歩く致死性の爆弾」とみなされるのだ。周囲に五ドルを支払ったマトモな候補者が幾らでも転がっているのに、なぜわざわざ即死確定の粗大ゴミを介護しなければならないのか?
Mamoru777は、完全にパニックに陥っていた。VRギアの向こう側の動揺が伝わるように、アバターがぎくしゃくと無駄な痙攣を繰り返す。相次ぐ門前払いに耐えかねた男は、ついに個別申請を諦め、全体チャットで公然と哀願の声を上げ始めた。
「お願いです、誰か入れてください! 初心者じゃないです、ちゃんと戦えます! ただ、どうしても課金できないんです!!」
広場の空気が凍りつく。無様な絶叫は、周囲のプレイヤーたちに不快なノイズとして響くだけだった。SROの世界において、「同情」などという感情は最も無価値なデータだ。
「五ドルすら払えない奴が、ダンジョン内で使うポーション代を出せるわけねえだろ……悪いなボウズ、うちはボランティア団体じゃないんだわ。大人しく街の門前でスライムでも小突いてな」
通りすがりの魔導士が、取り巻きを引き連れながら嘲笑混じりに吐き捨てていく。
達也はその光景を、冷え切った視線で眺めていた。
典型的なSROの日常風景。完全なる無課金者は、極度の人手不足に陥った即席パーティが妥協して拾い上げる最後の選択肢にすぎない。自称「無課金勢」を気取る者であっても、この五ドルパックだけは「ゲームの入場料」と割り切って購入するのが暗黙の了解だった。
だが――この『Mamoru777』という男の挙動には、達也の好奇心を引く何かがあった。
文章から滲み出る尋常ならざる切迫感。たかだか序盤の雑魚狩りパーティに潜り込むために、これほどまでにプライドをかなぐり捨てて懇願する男の背景。あるいは、単調なPKer狩りの日々に退屈していた達也の、気まぐれな思いつきだったのかもしれない。
何にせよ、一つの「社会実験」を試す価値はあると達也は判断した。
彼はゆっくりと歩を進め、噴水の縁で項垂れる戦士の数歩手前で足を止めた。
「おい。パーティ、見つからないみたいだな」
達也は声をかけた。
「俺も今からダンジョンへ潜るつもりなんだが。……二人で行かないか?」
序盤のダンジョンなど、敵の行動ルーチンを完全に把握していれば、ソロであっても一、二撃で敵を両断して余裕で踏破できる。
「えっ!? ホ、ホントですか!? ありがとうございます!! 今日はもう誰にも拾ってもらえないと思ってました……!」
溺れる者が藁を掴むように、Mamoru777は即座に食いついてきた。
達也は機械的な所作で二人用のパーティを結成し、招待を飛ばす。システムUIが明滅し、結成が完了した。第三者の視点から見れば、初期装備のボロを着た最底辺の初心者二人が、無謀にもダンジョンへ向かう哀れな光景にしか見えなかっただろう。
二人は騒がしい広場を抜け、遠くに見える巨大なダンジョンの石門へと向かって歩き出した。
無言で歩くのも退屈だった。達也は、この男の「意思決定アルゴリズム」を解体すべく、何気ない調子で探りを入れた。
「なあ。どうしてスターターパックを買わないんだ? たったの五ドルだろ。得られるアドバンテージを考えれば、投資対効果は天文学的だぞ」
その問いに、Mamoru777の足がピタリと止まりかけた。
アバターの挙動に、露骨な動揺が走る。重苦しい沈黙。遠くのプレイヤーたちの歓声と、風の音だけが間を満たす。
「それは……その、ちょっと金銭的に込み入った事情があって……話すと長くなるんだけど」
バツの悪そうな、底知れぬ疲弊を滲ませた声。
達也の直感が告げていた。この曖昧な誤魔化しの裏には、極めて興味深いデータが埋もれている。小遣いが足りない程度の理由で、人間がここまで打ちひしがれるはずがない。
「ダンジョンの入口までまだ距離はある。時間はたっぷりあるぞ。話してみろよ、聞くくらいなら付き合ってやる」
達也は友好的なトーンを崩さずに促した。
石畳を踏みしめる二人の足音だけが響く。
おそらく、この男は誰かに吐き出したくて堪らなかったのだろう。現実の人間関係では決して打ち明けられない泥沼のストレス。二度と会うこともないであろう、行きずりの見知らぬネットの初心者を相手に、男はポツリポツリと告白を始めた。
そして、その発端は――失業でも借金でもなく、現代のスマートフォン向けソーシャルゲームの闇そのものだった。
約一年前、男は『Destiny Hearts』という大ヒット美少女ガチャゲームに手を出したという。魅力的なキャラクター(いわゆる『推し/嫁』)をガチャから引き当てることだけを目的に設計された、悪辣極まりない集金システム。
排出率は、企業がユーザーの心理的限界値を精密に測定した上で設定した、極めて低い数値。試行回数は、現実の日本円を消費して購入するゲーム内通貨によって賄われる。
男の現実生活は、平均的なサラリーマンとして極めて順調だった。安定した職があり、何より――将来を誓い合った婚約者の女性がいた。
二人は堅実な人生設計に基づき、共同名義の貯金口座を開設していた。万が一の医療費、新生活の準備、そして何より――近く控えていた結婚式のための資金プール。二人はそれぞれの給与から毎月決まった額を積み立てており、アプリを通じて双方が残高を確認できるようになっていた。
すべては順風満帆だった。あの日、『Destiny Hearts』に新キャラクターが実装されるまでは。
「……あいつらが、新しい限定キャラを出したんだ」
Mamoru777の声が震え、己の犯した大罪を正当化しようとする人間の特有の、切迫した上ずりを見せ始めた。
「名前は『セラフィナ』。伝説の聖騎士の少女だ。性能もぶっ壊れで、固有のカットインアニメーションも神がかってて……デザインが、完璧だったんだよ……」
達也は無言で聞きながら、脳内でソシャゲ企業の認知ハッキングの手法を冷徹に分析していた。典型的な射幸心の煽動。
ピックアップの単発排出率は、わずか〇・六パーセント。
「ネットの攻略掲示板を見に行ったらさ……みんな発狂してお祭り騒ぎだったんだ」
ダンジョンのゲートが近づく中、男の告白は熱を帯びていく。
「みんなガチャ結果のスクショを貼りまくってて。『20連で引けた!』とか『50連溶かしたけど引く価値ある!』とか、三枚抜きした神引きの画像を貼って『神様ありがとう!』って叫んでる奴もいて……掲示板の空気が、まるで誰でも簡単に引けるような錯覚に満ちてたんだ」
絵に描いたような『生存者バイアス』。爆死して数十万円を失った人間は掲示板に書き込まない。成功体験の断片だけがタイムラインを埋め尽くし、観測者に「自分も引ける」という致命的な認知の歪みを与えるのだ。
男は、ほんの小手調べのつもりでガチャを回し始めた。
運試しにと、共同の結婚資金口座から引き出した額は――五千円相当。
「ちょっと試すだけ、あの掲示板の連中みたいにポロッと出るかもしれないって……五千円くらいなら、後で自分の小遣いから補填すればバレないって、そう思ったんだ……」
当然、奇跡など起きるはずもない。電子の海に五千円が吸い込まれ、画面には無価値な低レア装備のゴミが散らばった。
その瞬間、心理学における教科書通りの罠――『サンクコスト効果(埋没費用の誤謬)』が発動した。
損失を確定させることを脳が拒絶する。引くまで回さなければ、すでに投じた五千円が無駄になるという倒錯した論理。
続いて一万円。何も出ない。
二万円。すり抜けのゴミ。
「……もう、止まれなくなってた」男の声が掠れていく。「画面をタップするたびに、自分に言い訳してたんだ。『もうすぐ天井だ、これだけ外れたんだから確率は収束する、次の10連で絶対に来る。ここでやめたら今までの金が全部ドブに消える』って……」
達也は臨床心理学者がモルモットを観察するように、その独白を分析していた。数学の確率計算に記憶など存在しない。独立試行である以上、何百回外そうが次の一回の確率は〇・六パーセントのままだ。だが、人間の脆弱な脳髄は、事象の独立性を認識できない。
理性がギャンブル狂の興奮に完全に敗北し、乱数生成器がようやく当たりを吐き出した時――。
二人の結婚資金口座から、綺麗さっぱり消滅していた金額は――およそ六百ドル。日本円にして約十万円近かった。
八十七連目にして、セラフィナは降臨した。
男の証言によれば、その瞬間の彼は「完全な絶頂」の中にいたという。脳内を駆け巡る大量のエンドルフィンが、論理的思考を完全に麻痺させていた。液晶の中で舞う極彩色の神作画のアニメーション、有名声優による録り下ろしの甘い台詞。男は、己が費やした金額が完全に正当化されたと心の底から錯覚した。血反吐を吐く思いで二人で貯めた現実の紙幣よりも、スマートフォンの中で微笑む数メガバイトの電子データの方が、遥かに尊く思えてしまったのだ。
狂乱の多幸感の中で、男は常軌を逸した凶行に及んだ。
美しく舞うセラフィナの召喚画面をスクリーンショットに収め、あろうことか、それを婚約者のメッセージアプリへと送りつけたのだ。
「……『見てよ、信じられないくらい可愛いだろ!』って、そう送っちゃったんだ……」
ダンジョンの入口の石段の前で、Mamoru777のアバターが崩れ落ちるように立ち止まった。
「あの瞬間、俺の頭から……あのガチャを引いた金が、二人で貯めてた結婚資金だったっていう事実が、完全に、綺麗サッパリ抜け落ちてたんだよ……」
達也も足を止め、沈黙を守った。
これはもはや非合理という言葉ですら生ぬるい。自らの人生をブルドーザーで自爆解体した、救いようのない臨床例だった。
言うまでもなく、正気である婚約者の女性が、その狂気を受け入れるはずもなかった。
数分後に届いた返信は、わずか一言。
『あなた、最低』
それ以降、彼女との通信は完全に途絶した。その日の夕方、男がアパートへ帰宅した時、クローゼットの中の彼女の荷物はすべて消え失せていた。
男は完全なパニックに陥った。空っぽの部屋で立ち尽くし、何が起きたのかを理解するまでに致命的な時間を要した。
「電話をかけまくったよ。でも出ない。すべてのSNSに何十通も謝罪のメッセージを送った……でも全部『既読』がつくだけで、完全に無視された」
男の声は、もはや感情の抜け落ちたアンドロイドのように平坦だった。
そして、現実世界からのトドメの一撃。
男のスマートフォンを鳴らしたのは、彼の実の母親だった。元婚約者は、婚約破棄の理由を義理の母親になるはずだった人物へ、極めて客観的に通報していたのだ。
「お袋に言われたよ……」
Mamoru777の声が、耐え難い苦痛に歪む。
「『あんたをそんな無責任なバカに育てた覚えはない。結婚のために二人で貯めたお金、携帯の中のアニメの絵に全部注ぎ込んだって本当なの? 正気なの? あんた、これからどうやって生きていく気? 本当にどうしようもない大馬鹿者ね』って……」
悲喜劇の結末を見届けた達也の胸の奥底から、これまでの人生で一度も経験したことのない感情の波がせり上がってきた。
彼は人間の愚かさを誰よりも軽蔑してきた。金でマウントを取る課金者、弱者を嬲るいじめっ子。だが、この男がやらかした愚行は、あまりにグロテスクで、あまりに不条理で、あまりに芸術的なまでの純度を誇っていた。
達也の氷の仮面に、決定的な亀裂が入る。
男が言葉を失った直後、痛烈な沈黙が落ちた。
そして――達也は吹き出した。
「――っ、ぶ……ッ、くははははははははッ!!」
突如として爆発した達也の大爆笑が、の冷たいに木霊した。
安物の革鎧を着たアバターが、文字通り腹を抱えて前屈みに折れ曲がり、膝を激しく叩きながら、腹筋が引き攣るほどの笑いの発作に身を震わせる。
Mamoru777が、完全な呆然自失の態で固まった。
「え……ちょ、ちょっと!? 笑い事じゃないんだけど!? 俺、本気で打ち明けたのに……!」
「いや、すまん……っ、ふーっ、くくっ……無理だ、面白すぎる……ッ! 神よ……ちょっと待ってくれ、息が……っ」
笑いの発作を抑え込み、乱れた心拍と呼吸を整えるまでに、達也は数十秒の時間を要した。
これほど腹の底から笑ったのは、生まれて初めてだったかもしれない。息を吸い込み、ようやく顔を上げた達也の瞳には、まだ可笑しさの余韻が滲んでいた。
冷徹な理性のトーンを取り戻しながら、達也は人生の瓦礫の上に立ち尽くす哀れな戦士を見据えた。
「悪い、本当に悪かった」達也は言ったが、声音には一片の反省もなかった。「だが……ここ何年かで一番笑わせてもらったよ。断言するが、俺はこのゲームで無数のバカを見てきたが、お前はその頂点だ。お前の母親の言う通りだよ、お前は紛れもない本物の大馬鹿者だ」
「……慰めてくれる気がないなら、もういいよ」
Mamoru777のアバターが拗ねたように背を向け、粉々に砕け散ったプライドの残骸を抱え込むように俯いた。
「いや、真面目な話だ。馬鹿にしているわけじゃない」達也は呼吸を整え、分析的な声音へとシフトした。「ある意味で、天才的だよ。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。どれほど射幸心に脳を焼かれれば、婚約者との共同預金を溶かして引いたガチャの絵を、当の本人に自慢げに送りつけられるんだ? 認知機能の完全なメルトダウンだ。三流の脚本家がそんなドラマを書いたら、リアリティがなさすぎると批評家に叩き潰されるぞ」
「だから……夢中だったんだってば」男は消え入りそうな声で弁解した。「自分でも何やってるか分かってなかったんだ。依存症みたいなもんで、脳が勝手に……」
「いいや、それは違うな」達也は鼻を鳴らし、容赦なくその言い訳をメスで切り裂いた。「自らの破滅を安っぽい『依存症』という言葉に逃がすな。依存症なら、引けた瞬間に止まれるはずがない。お前の課金プロセスは、目当てのデータが排出された瞬間にピタリと停止した。お前はただ、幼児性の極致で目先の欲求に負けただけだ。リスクアセスメントの致命的なバグだよ」
男は沈黙した。図星を突かれ、反論の余地など一ミリも残されていなかった。
「……あの件があってから、もう二度とソシャゲはやらないって決めたんだ」やがて、男が絞り出すように言った。「VRMMOなら、自分の腕でキャラを動かして、モンスターを倒して進むゲームだから、ガチャの誘惑もないと思って……でも、現実はこのザマだ。五ドルのスターターパックすら買えない奴は、門前払い。俺にはゲームをやる資格すらないのかもしれないな。いっそ全部のアカウントを消して、ネットから消えるべきか……」
その言葉を聞いた瞬間、達也の思考が鋭く跳ね上がった。
彼の目の前に、極めて魅力的な「観測対象」が転がっていた。社会的にも経済的にも人生の底辺に叩き落とされ、己の無価値さを骨の髄まで理解し、すべてを投げ出そうとしている哀れなモルモット。
「おい。早まるな」
達也の声が、低く、逆らい難い重みを帯びた。
「逃げることは解決策じゃない。……お前に、一つ提案がある」
Mamoru777が警戒するように身を固くした。
「提案……?」
「ああ。極めて奇妙で、不条理で、お前の理解を超える提案だ。最初は詐欺を疑って拒絶したくなるかもしれない。だが、感情を捨ててよく聞け」
達也は一歩間合いを詰め、獲物の目を覗き込むように言った。
「もしお前が、この先一生、いかなるゲームであっても課金ガチャやマイクロトランザクションに一銭たりとも金を払わないと誓うなら――」
冷徹なビジネス交渉のトーンで、達也は条件を突きつけた。
「今この場で、お前の現実の銀行口座へ――一万ドル(約百五十万円)を振り込んでやる」
静寂。
ダンジョンの環境音すら消え去ったかのような錯覚。
男の脳梁がショートしたのが、アバターの硬直からありありと見て取れた。見ず知らずの初期装備の初心者が、ただの口約束と引き換えに、自分の人生の負債を帳消しにして余りある大金をポンと出すと言い放ったのだ。狂気の沙汰だった。
「……は? な、何言ってんの? 冗談だろ?」
「金に関して、俺が冗談を言ったことは一度もない」達也は淡々と返した。「口座番号を教えろ」
「待てよ! 一万ドルって……百万円以上だぞ!? なんでそんなことすんだよ!?」
「言っただろ、さっきの漫才のチップだ」達也は口角を上げた。「ここ最近で一番笑わせてもらった対価だ。俺は極めて満足した。だからその授業料を払ってやる。お前はその金を持って、今すぐ婚約者に全額を土下座して返還し、生活再建の頭金にしろ」
「でも……そんな大金……」
「お前にとっては人生を左右する大金でも、俺にとってはが一時間で吐き出す端た金にすぎない」達也は内心で呟きながら、口元骸に冷たい笑みを湛えた。「俺がどこから金を得ているかを詮索するな。俺にはそれが可能で、そしてお前が誓いを守れるかどうかに、知的な興味がある。それだけだ」
男の中で、猜疑心と、極限の困窮が生み出す悪魔的な誘惑が激突していた。
だが、口座番号を教えるだけでリスクはない。もし万が一、この狂人が本気なら――失われたすべてを取り戻すための、唯一無二の蜘蛛の糸。
やがて、チャットのプライベートメッセージに、細工された文字列が届いた。SROのRMT検知フィルターを回避するため、数字の間に巧妙にスペースと仮名文字を挟んだ、銀行の口座情報。
達也は即座に行動へ移った。
VRギアのOSバックグラウンド機能を呼び出し、仮想空間の上に銀行のブラウザ画面をオーバーレイ表示させる。小林の息のかかったフロント企業名義の、足のつかない雑費決済用口座。達也は迷うことなく、一万ドルに相当する日本円の数値をインプットし、送金ボタンを叩いた。
暗号化されたパケットが金融機関のゲートウェイを駆け抜ける。
数秒後。
仮想空間のMamoru777のアバターが、突如として『AFK(離席)』のアイコンを点灯させた。現実世界でスマートフォンを狂ったように確認している姿が目に浮かぶ。
十秒の沈黙。
そして――。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?!? マジで振り込まれてるぅぅぅぅぅッ!?」
鼓膜を破らんばかりの絶叫が回廊に木霊した。
「言ったはずだ。俺は本気だと」達也は耳元を軽く小突きながら、冷然と告げた。
だが、狂喜乱舞の直後、男の声に急速に底知れぬ恐怖が混ざり始めた。タダより高いものはない。あまりに美味すぎる話の裏に潜む、黒い影。
「お、おい……俺、何をさせられるんだ……? 臓器でも売らされるのか……? 条件ってなんだよ……!」
「条件は最初に言った通りだ」達也は繰り返した。「今後一切、あらゆるゲームのガチャに金を落とさないこと。そしてその金を持って、婚約者に心からの謝罪と共に全額を渡すこと。それだけだ」
「も、もし……破ったら……?」
「俺には分かる」達也は、小林たち極道の幹部が使う独特の、静かで重苦しいトーンを真似て囁いた。「そして、破ればどうなるか……お前自身が一番よく分かっているはずだ」
「わ、分かるって……どうやって!? ゲームの向こうの俺の口座なんて監視できるわけ……」
「お前はたった今、俺に口座番号を渡したんだぞ、兄弟」
達也の声の温度が、一気に氷点下へと落ちた。
「特定のアクセス権を持つ人間にとって、口座番号から戸籍と現住所を割り出し、資産の移動をリアルタイムで追跡することなど、児戯に等しいんだよ」
Mamoru777のアバターが、目に見えて震え上がり、後ずさりした。
顔が青ざめることはないが、その精神が完全なパニックと戦慄に支配されたことを、達也は正確に読み取っていた。
目の前の冴えない初心者が、何らかの巨大な闇の組織――裏社会の怪物の手先であるという確信。この男はただの金持ちではない、怒らせれば現実の肉体を消されかねない本物の捕食者だという恐怖。
そのパラノイアは、いかなる道徳的説教よりも強固に、男のギャンブル欲への抑止力として機能する。
精神的圧迫が限界値に達したのを見計らい、達也はわずかに毒を抜いた。
「安心しろ。約束を守っている限り、お前の口座や身元に手出しはしない。だが、裏切れば俺は極めて……失望する」
「は、はいぃぃっ! 絶対に使いません! ガチャなんて二度と見ません!!」
男は直立不動で誓いを立てた。
「よし。なら今すぐログアウトしろ。婚約者と母親に連絡を取れ。金が用意できたと伝え、直接会って頭を下げろ。もし会ってくれないなら、彼女の口座に全額を送金しろ。お前が撒き散らした人生の汚泥を、少しでも自分の手で片付けてこい」
「わ、分かりました……!」男は何度も何度も頭を下げた。「あ、あの……どうして、見ず知らずの俺にここまで……?」
達也は肩をすくめ、一拍置いて答えた。
「さあな。お前が、ここ最近のこのサーバーで見た人間の中で、一番面白かったからだ。誰も彼もが虚栄を張り、金と装備の自慢に明け暮れている中で、お前だけは本物の、純度百パーセントの救いようのない大馬鹿者だった。……だが、リアルだったよ」
「……ありがとう、ございます……」
「礼はいい。さっさと行け」達也は踵を返した。「それと――明日の同じ時間に、また広場に来い。レベル30まで引率してやる。ポーション代くらいは稼がせてやるよ」
「は、はいッ! 絶対に行きますッ!」
光の粒子となって、Mamoru777のアバターが虚空へとログアウトしていった。
静寂の戻ったダンジョンの前で、達也は一人、暗闇を見つめていた。
奇妙な脱線だった。だが、たまにはこういう非効率な実験も悪くない。彼はメニューを開き、いつもの処刑対象を物色するための情報収集へと意識を戻していった。
***
夜、邸宅の書斎。
達也はPCの暗号化回線を通じて、小林の組織のデータラインへと簡易な照会リクエストを送信していた。口約束だけで安心するほど、彼のリアリズムは甘くない。
四十分後、端末にプロファイルが着弾した。
名義人は『山田健太』、二十四歳、物流企業の事務職。
トランザクション履歴のログを確認する。着金した百五十万円相当の残高から、ゲーム会社や不審な決済への流出はゼロ。その全額が、即座に『柚木七海』という個人口座へと電信送金されていた。
達也は静かにファイルを閉じた。
脅迫は完璧に機能した。男は自制心を保ち、指示通りの行動を完遂したのだ。
***
翌日の同時刻。
SROのルナリア・タウンの広場へ降り立つと、噴水の傍らにはすでに『Mamoru777』の姿があった。
遠目からでも、その佇まいの変化は明白だった。アバターはもはや落ち着きなく跳ね回ることもなく、地に足のついた静かな気迫を漂わせていた。
戦士が歩み寄ってくる。
「……来てくれたんだな」達也が声をかける。
「昨日は……本当にありがとうございました」男の声は、昨日とは打って変わって深く、誠実なトーンを帯びていた。「彼女に、全額を振り込んで長文の謝罪を送りました。そしたら……『一度だけ、直接会って話を聞く』って返信が来ました。まだ許してもらえたわけじゃないですけど……でも、スタートラインに立てました。本当に、あなたのおかげです」
「始まったばかりだ。次はヘマをするなよ」
達也は冷ややかに釘を刺し、踵を返した。
「行くぞ。俺のスケジュールは過密なんだ、無駄にする時間はない」
続く二時間、ルナリア・ダンジョンの浅層は、一方的な殲滅劇の舞台となった。
達也はオークションで購入しておいた中堅クラスの戦士装備を纏い、「腕の立つ中堅の先輩」というロールを完璧に演じ分けた。次々と群がるモンスターの群れを一撃で薙ぎ払い、後方に控えるMamoru777へと安全に経験値を流し込んでいく。
SROの仕様上、格上のプレイヤーがパーティを組んで敵を瞬殺しても、同伴する適正レベルのメンバーには満額の経験値が分配される。このパワーレベリングの効率は凄まじく、二時間が経過する頃には、ファンファーレと共に戦士の頭上に『Level 30』の光柱が立ち昇っていた。
ダンジョンの出口へ帰還した際、達也は無言でトレードウィンドウを開き、五万ゴールドのゲーム内通貨を放り込んだ。
「これを受け取れ。オークションで一通りの青装備が揃う額だ」
「えっ……!? いや、これ以上は貰えませんよ!」
「断るな。装備を整えて自立しろと言っているんだ。二度と広場で物乞いをするなよ」
「……っ、はい! ありがとうございます……! この恩は、絶対に忘れません!」
光となって消えていく戦士の背中を見送りながら、達也は一人、静まり返ったダンジョンゲートの前に佇んでいた。
彼がこの先、再びギャンブルの狂気に身を落とすか、それとも真っ当な人生を再建できるかなど、達也には分からない。人間の意志など、常に乱数のように不確定なものだ。
だが、死神として他者を切り捨てるだけの破壊の連鎖の合間に、自らの手で誰かの歪んだ運命の軌道を、ほんのわずかに押し戻したという事実。
その未知の感覚は――。
青森達也の乾いた胸に、意外なほど、心地よい余韻を残していた。




