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紅月下のGloria   作者: ユノ・サカリス
第五章《それぞれの守るもの》

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第30話《帰ってくる》

 翌朝、目を覚ましたルナが最初にしたのは、自分の右脚を触ることだった。


 毛布の下で膝を曲げ、伸ばし、今度は床へ下ろす。寝台から立ち上がろうとしたところで、グロリアは止めた。


「何をしてる」


「脚、見る」


「それは私がやる」


「痛くない」


「まだ聞いてない」


 包帯を外し、傷の周囲を確かめる。昨日は山へ行き、街へ戻ってからも歩いた。腫れが増えていないか気になっていたが、目立った変化はなかった。


「ここは?」


「痛くない」


「ここ」


「ちょっと」


「昨日より?」


 ルナは考えた。


「同じ」


「なら今日は午前中、歩かない」


「ニコ」


「午後だ」


「行く?」


「脚が痛くならなければな」


 それで納得したらしい。ルナは寝台へ座り直した。


 昼を過ぎても痛みが増えなかったため、二人は肉屋へ向かった。今日は荷台に鹿も兎も載っていない。売るものがないのに店へ向かうのは、グロリアには妙な感じがした。


 二輪を停め、ルナのヘルメットを外して抱き上げる。店へ入ると、ダリオが冷蔵ケースの中身を並べ直していた。


「いらっしゃ……なんだ、嬢ちゃんか。今日は肉はないのか?」


「ない」


「じゃあ買い物か?」


「違う」


 何と説明すればいいのか迷っていると、ルナが答えた。


「ニコに会いにきた」


「なるほど。今日はそっちの客か」


 ダリオが奥へ声を掛けると、ニコが顔を出した。ルナを見るなり引っ込み、昨日の紙を持って戻ってくる。


「続き描く?」


「描く」


「猪、描ける?」


「鹿描く」


「また鹿?」


「見たことあるから」


「猪も昨日見ただろ」


「肉だった」


「生きてるやつ見たことないの?」


「見てない」


 ルナを椅子へ座らせると、ニコも隣に腰を下ろした。昨日の紙には脚が六本ある猪が描かれている。ルナはその横に鹿を描き始めたが、こちらは頭から脚が生えていた。


「どっちも大差ないな」


 ダリオが呟いた。


「何がだ」


「絵だよ」


「そうか」


「嬢ちゃん、もう少し会話を続けようとは思わんのか」


「必要なら続ける」


「そういうところだよ」


 ダリオは笑い、作業台へ戻った。


 包丁の音が続いた。ルナとニコは鹿の角の形で揉めている。グロリアは通りの見える椅子へ座り、二人の声を聞いていた。


「嬢ちゃんは、ずっと猟をしてたのか?」


 肉を切りながらダリオが聞いた。


「いや」


「最近始めた割には慣れてるな」


「銃には慣れていた」


「兵隊か」


 グロリアは答えなかった。銃を扱えることは、もう知られている。だが、どこの軍にいたのかまで話せるわけもなかった。


 グロリアがダリオの左脚へ目を落とした。


「そういうあんたも、戦場にいたのか」


「まあな。昔は兵士だった」


「脚は戦争で?」


「ああ。吹き飛ばされて、気づいたら半分なかった」


「地雷か」


「似たようなもんだ」


 軽い口調だった。何度も話してきたからなのか、詳しく話したくないからなのかは分からなかった。


「それで軍を辞めた?」


「昔みたいには動けんからな。嬢ちゃんは?」


「何がだ」


「辞めた理由」


「自分で決めた」


「そうか」


 ダリオはそれ以上聞かなかった。所属も、戦った場所も。グロリアも聞き返さなかった。


「角、こっち」


 ルナの声がした。


「そんな曲がってないって」


「曲がってた」


「見ただけだろ」


「撃った」


「それ関係ないだろ」


 ダリオが笑い、切り分けた肉を容器へ移した。


「嬢ちゃん、明日も山へ行くのか?」


「行くつもりだ」


「なら、俺も連れてってくれ」


 グロリアはダリオを見た。


「なぜだ」


「久しぶりに撃ちたくなった」


 思っていなかった答えだった。


「銃はあるのか」


「古いのが一本な。手入れだけはしてる」


「山道だぞ」


「分かってる」


「その脚で来るのか」


「歩けないとは言ってない。昔ほど速くないだけだ」


「無理なら途中で引き返すぞ」


「獲物も見ずに帰されそうだな」


「鹿は待ってくれない」


「嬢ちゃん、元上官に嫌われてただろ」


「……多分」


「そこは否定してくれよ」


 ダリオは苦笑し、容器を冷蔵庫へ運んだ。


「どんな場所で獲ってるのかも見てみたいんだ。俺一人じゃ、もう山を歩き回って獲物を探すのはきついからな。でも嬢ちゃんが一緒なら話は別だ。鹿だけじゃなく、熊みたいな大物も狙えるだろ」


「熊を獲るつもりか?」


「いたらな。肉屋にとっちゃ鹿一頭よりありがたい」


「それも理由か?」


「半分はな」


「残りは?」


「言っただろ。久しぶりに撃ちたい」


 グロリアは少し考えた。慣れた人間が一人増えれば、獲物を運ぶのにも助かる。脚に合わせて道を選べば、同行できない理由はなかった。


「ルナも連れていく」


「あの脚で?」


 ダリオが、ニコの隣に座るルナへ目を向けた。


「昨日も連れていった」


「だから今日は休ませてるんだろ」


 返す言葉がなかった。


「ここに置いてけばいい。うちのに、ニコと一緒に見てもらう」


「妻がいるのか」


「いるよ。ニコが俺一人から生まれたように見えるか?」


「そういう意味で聞いたんじゃない」


「分かってる」


 ダリオは笑い、奥へ声を掛けた。


「サラ! ちょっと来てくれ」


 出てきた女は、前掛けで手を拭きながら話を聞いた。


 グロリアはルナの右脚がまだ治療中で、歩く練習を始めたばかりだと説明した。


「長く歩かせないでほしい」


「分かった。痛がったら座らせればいいのね」


「ああ」


 サラは椅子に座るルナへ目を向けた。


「店の奥で遊ばせておくよ。明日は私もここにいるから」


「頼む」


「何かあったときのために、出る前に行き先も教えておいて」


 グロリアは頷いた。


 ルナは紙に向かったまま、ニコと話している。グロリアがダリオたちと話しているあいだ、一度も呼ばなかった。


 それは良いことのはずだった。


 自分以外の誰かと話し、自分がいなくても過ごせる場所ができる。それなのに、胸の奥には妙な引っかかりが残った。


 これまで、ルナを置いていくことは別れることだった。安全な場所へ届け、自分は去る。そのつもりで北へ向かっていた。


 今は違う。


 置いていっても、戻ってくればいい。


「ルナ」


 呼ぶと、ルナが顔を上げた。


「なに?」


「明日、山へ行く」


「ルナも行く」


「お前はここで脚を休ませろ」


 ルナの手が止まった。


「グロリアは?」


「ダリオと山へ行く。お前はニコとここにいろ」


 灰色の瞳がダリオを見て、それからニコへ向いた。


「明日も絵描こうよ」


 ニコが言った。


「猪?」


「鹿でもいいけど」


「鹿」


「じゃあ俺、猪描く」


 ルナはしばらく考えていた。


「グロリア」


「なんだ」


「帰ってくる?」


「ああ」


「いつ?」


「夕方までには戻る」


「絶対?」


 グロリアは一瞬、答えを止めた。


 ニコと遊んでいる今はよくても、自分が見えなくなれば、また探しに出ようとするかもしれない。まだ脚も治っていない。


 けれど、ルナは服を掴まなかった。ただ、返事を待っている。


「ああ。帰ってくる」


「じゃあ、待ってる」


 答えは思ったより簡単だった。


「本当にいいのか?」


「うん」


 聞き返したのはグロリアの方だった。


 ルナはもう紙へ視線を戻し、ニコが描いた猪に何かを足していた。


「それ何?」


「角」


「猪に角ないよ」


「つけた」


「なんで?」


「強そうだから」


「それ猪じゃないだろ」


 グロリアは二人を見た。


 ルナはもう、こちらを見ていなかった。


「決まりだな」


 ダリオが言った。


「……ああ」


「朝、店に寄ってくれ。俺も支度しておく」


「昼を過ぎたら切り上げる。獲れなくてもだ」


「随分早いな」


「夕方までに戻ると言った」


 ダリオは子供たちへ目を向けた。


「そうだったな」


 グロリアは椅子へ座り直した。


 以前なら、置いていくという言葉だけで、小さな手は服を掴んでいた。今は紙の上で、鹿の隣に角の生えた猪を描いている。


 離れることと、いなくなることは同じではない。明日、自分は山へ行く。そして帰ってくる。それだけのことを、今までのグロリアは知らなかった。

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