第30話《帰ってくる》
翌朝、目を覚ましたルナが最初にしたのは、自分の右脚を触ることだった。
毛布の下で膝を曲げ、伸ばし、今度は床へ下ろす。寝台から立ち上がろうとしたところで、グロリアは止めた。
「何をしてる」
「脚、見る」
「それは私がやる」
「痛くない」
「まだ聞いてない」
包帯を外し、傷の周囲を確かめる。昨日は山へ行き、街へ戻ってからも歩いた。腫れが増えていないか気になっていたが、目立った変化はなかった。
「ここは?」
「痛くない」
「ここ」
「ちょっと」
「昨日より?」
ルナは考えた。
「同じ」
「なら今日は午前中、歩かない」
「ニコ」
「午後だ」
「行く?」
「脚が痛くならなければな」
それで納得したらしい。ルナは寝台へ座り直した。
昼を過ぎても痛みが増えなかったため、二人は肉屋へ向かった。今日は荷台に鹿も兎も載っていない。売るものがないのに店へ向かうのは、グロリアには妙な感じがした。
二輪を停め、ルナのヘルメットを外して抱き上げる。店へ入ると、ダリオが冷蔵ケースの中身を並べ直していた。
「いらっしゃ……なんだ、嬢ちゃんか。今日は肉はないのか?」
「ない」
「じゃあ買い物か?」
「違う」
何と説明すればいいのか迷っていると、ルナが答えた。
「ニコに会いにきた」
「なるほど。今日はそっちの客か」
ダリオが奥へ声を掛けると、ニコが顔を出した。ルナを見るなり引っ込み、昨日の紙を持って戻ってくる。
「続き描く?」
「描く」
「猪、描ける?」
「鹿描く」
「また鹿?」
「見たことあるから」
「猪も昨日見ただろ」
「肉だった」
「生きてるやつ見たことないの?」
「見てない」
ルナを椅子へ座らせると、ニコも隣に腰を下ろした。昨日の紙には脚が六本ある猪が描かれている。ルナはその横に鹿を描き始めたが、こちらは頭から脚が生えていた。
「どっちも大差ないな」
ダリオが呟いた。
「何がだ」
「絵だよ」
「そうか」
「嬢ちゃん、もう少し会話を続けようとは思わんのか」
「必要なら続ける」
「そういうところだよ」
ダリオは笑い、作業台へ戻った。
包丁の音が続いた。ルナとニコは鹿の角の形で揉めている。グロリアは通りの見える椅子へ座り、二人の声を聞いていた。
「嬢ちゃんは、ずっと猟をしてたのか?」
肉を切りながらダリオが聞いた。
「いや」
「最近始めた割には慣れてるな」
「銃には慣れていた」
「兵隊か」
グロリアは答えなかった。銃を扱えることは、もう知られている。だが、どこの軍にいたのかまで話せるわけもなかった。
グロリアがダリオの左脚へ目を落とした。
「そういうあんたも、戦場にいたのか」
「まあな。昔は兵士だった」
「脚は戦争で?」
「ああ。吹き飛ばされて、気づいたら半分なかった」
「地雷か」
「似たようなもんだ」
軽い口調だった。何度も話してきたからなのか、詳しく話したくないからなのかは分からなかった。
「それで軍を辞めた?」
「昔みたいには動けんからな。嬢ちゃんは?」
「何がだ」
「辞めた理由」
「自分で決めた」
「そうか」
ダリオはそれ以上聞かなかった。所属も、戦った場所も。グロリアも聞き返さなかった。
「角、こっち」
ルナの声がした。
「そんな曲がってないって」
「曲がってた」
「見ただけだろ」
「撃った」
「それ関係ないだろ」
ダリオが笑い、切り分けた肉を容器へ移した。
「嬢ちゃん、明日も山へ行くのか?」
「行くつもりだ」
「なら、俺も連れてってくれ」
グロリアはダリオを見た。
「なぜだ」
「久しぶりに撃ちたくなった」
思っていなかった答えだった。
「銃はあるのか」
「古いのが一本な。手入れだけはしてる」
「山道だぞ」
「分かってる」
「その脚で来るのか」
「歩けないとは言ってない。昔ほど速くないだけだ」
「無理なら途中で引き返すぞ」
「獲物も見ずに帰されそうだな」
「鹿は待ってくれない」
「嬢ちゃん、元上官に嫌われてただろ」
「……多分」
「そこは否定してくれよ」
ダリオは苦笑し、容器を冷蔵庫へ運んだ。
「どんな場所で獲ってるのかも見てみたいんだ。俺一人じゃ、もう山を歩き回って獲物を探すのはきついからな。でも嬢ちゃんが一緒なら話は別だ。鹿だけじゃなく、熊みたいな大物も狙えるだろ」
「熊を獲るつもりか?」
「いたらな。肉屋にとっちゃ鹿一頭よりありがたい」
「それも理由か?」
「半分はな」
「残りは?」
「言っただろ。久しぶりに撃ちたい」
グロリアは少し考えた。慣れた人間が一人増えれば、獲物を運ぶのにも助かる。脚に合わせて道を選べば、同行できない理由はなかった。
「ルナも連れていく」
「あの脚で?」
ダリオが、ニコの隣に座るルナへ目を向けた。
「昨日も連れていった」
「だから今日は休ませてるんだろ」
返す言葉がなかった。
「ここに置いてけばいい。うちのに、ニコと一緒に見てもらう」
「妻がいるのか」
「いるよ。ニコが俺一人から生まれたように見えるか?」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
「分かってる」
ダリオは笑い、奥へ声を掛けた。
「サラ! ちょっと来てくれ」
出てきた女は、前掛けで手を拭きながら話を聞いた。
グロリアはルナの右脚がまだ治療中で、歩く練習を始めたばかりだと説明した。
「長く歩かせないでほしい」
「分かった。痛がったら座らせればいいのね」
「ああ」
サラは椅子に座るルナへ目を向けた。
「店の奥で遊ばせておくよ。明日は私もここにいるから」
「頼む」
「何かあったときのために、出る前に行き先も教えておいて」
グロリアは頷いた。
ルナは紙に向かったまま、ニコと話している。グロリアがダリオたちと話しているあいだ、一度も呼ばなかった。
それは良いことのはずだった。
自分以外の誰かと話し、自分がいなくても過ごせる場所ができる。それなのに、胸の奥には妙な引っかかりが残った。
これまで、ルナを置いていくことは別れることだった。安全な場所へ届け、自分は去る。そのつもりで北へ向かっていた。
今は違う。
置いていっても、戻ってくればいい。
「ルナ」
呼ぶと、ルナが顔を上げた。
「なに?」
「明日、山へ行く」
「ルナも行く」
「お前はここで脚を休ませろ」
ルナの手が止まった。
「グロリアは?」
「ダリオと山へ行く。お前はニコとここにいろ」
灰色の瞳がダリオを見て、それからニコへ向いた。
「明日も絵描こうよ」
ニコが言った。
「猪?」
「鹿でもいいけど」
「鹿」
「じゃあ俺、猪描く」
ルナはしばらく考えていた。
「グロリア」
「なんだ」
「帰ってくる?」
「ああ」
「いつ?」
「夕方までには戻る」
「絶対?」
グロリアは一瞬、答えを止めた。
ニコと遊んでいる今はよくても、自分が見えなくなれば、また探しに出ようとするかもしれない。まだ脚も治っていない。
けれど、ルナは服を掴まなかった。ただ、返事を待っている。
「ああ。帰ってくる」
「じゃあ、待ってる」
答えは思ったより簡単だった。
「本当にいいのか?」
「うん」
聞き返したのはグロリアの方だった。
ルナはもう紙へ視線を戻し、ニコが描いた猪に何かを足していた。
「それ何?」
「角」
「猪に角ないよ」
「つけた」
「なんで?」
「強そうだから」
「それ猪じゃないだろ」
グロリアは二人を見た。
ルナはもう、こちらを見ていなかった。
「決まりだな」
ダリオが言った。
「……ああ」
「朝、店に寄ってくれ。俺も支度しておく」
「昼を過ぎたら切り上げる。獲れなくてもだ」
「随分早いな」
「夕方までに戻ると言った」
ダリオは子供たちへ目を向けた。
「そうだったな」
グロリアは椅子へ座り直した。
以前なら、置いていくという言葉だけで、小さな手は服を掴んでいた。今は紙の上で、鹿の隣に角の生えた猪を描いている。
離れることと、いなくなることは同じではない。明日、自分は山へ行く。そして帰ってくる。それだけのことを、今までのグロリアは知らなかった。




