第9話『恐れと共に剣を握れ』
「次は一人で来い」
リヴァの剣先が、まっすぐアレンへ向けられていた。
つい先ほどまで三人で立っていたはずの訓練場は、今では急に広くなったように感じられる。マナとドレイヴは壁際まで下がり、観覧席にいるケイムの近くに並んでいた。
アレンは武器棚から刃を潰した訓練用の片手剣を手に取る。剣身には威力を抑える封止術式が刻まれているが、内部には魔力を伝導させるための金属が使われている。
左腕には小型の訓練盾を固定し、アレンはリヴァへ向き直った。手袋の下では雷鳴の刻印がかすかな熱を帯びていたものの、今のところ、力が溢れ出す気配はない。
「……本当に、一人でやるの?」
マナが不安を隠しきれない声で尋ねた。
「ああ。そのつもりだ」
「でも、無理だと思ったら……そのときは、すぐに止めてね」
「分かってる」
「お前の分かってるほど、信用できねえ言葉もないけどな」
ドレイヴが脇腹を押さえ、顔をしかめた。
「危ねえと思ったら、俺が割って入る」
「それじゃ訓練にならないだろ」
「安心しろ。お前が一度ぶっ倒されてからにする」
「……それ、助ける気あるのか?」
「あるさ。墓まで運んでやる」
「もう、縁起でもないこと言わないでよ」
マナが呆れたようにドレイヴの腕を軽く叩いた。
二人のやり取りを聞いているうちに、アレンの肩からは不思議と力が抜けていく。
先ほどの模擬戦では、二人を傷つけてしまうことばかり考えた末に、結局は動けなくなってしまった。だが、今は違う。戦うのは自分一人であり、マナもドレイヴも雷の射線にはいない。
だからといって、恐怖まで消えたわけではなかった。
右手へ魔力を集めようとするたび、あの夜の光景が脳裏に蘇る。マナの腕を焼いた雷。命令を受けつけなくなった指。そして、自分の意志を無視して広がっていった紫電。
アレンはその記憶を振り払うように、剣の柄を強く握った。
恐怖は消えていない。
それでも、手を離すつもりはなかった。
アレンはゆっくりと息を整え、リヴァを見据える。
「準備はできたか?」
リヴァの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
魔力測定器を確認していたケイムが、待ったをかけるように片手を上げる。
「条件はさっきと同じだ。使っていいのは通常の雷魔法だけ。刻印の出力が規定値を超えたら、君の意思に関係なく僕が止めるよ」
「……分かってる」
「結構。それとリヴァ――彼を壊さない程度に頼むよ」
「努力はする」
「そう言われると、なぜだろうねぇ。むしろ不安が増すんだけど」
ケイムは小さく息をつき、上げていた手を下ろした。
「それじゃ――始め」
先に動いたのは、リヴァだった。
地面を蹴る音が響く。
踏み込みを捉えたはずだった。だが次の瞬間には、リヴァは盾の間合いまで入り込んでいる。
「っ……!」
アレンは反射的に盾を上げた。
木剣が盾の中心を激しく打ち据え、左腕へ強烈な衝撃が走る。盾の縁では、金属製の留め具が一つ、半ば外れかけていた。
アレンの体は大きく後方へ押し流される。
足を踏ん張る間もなく、今度は右側から二撃目が迫った。アレンは剣を立て、辛うじてその一撃を受け止める。
剣同士がぶつかり合う乾いた音とともに、衝撃で腕が痺れた。木剣による一撃とは思えないほどの重さ。
「一人なら、さっきより反応がいいな」
アレンは盾を強く押し出し、強引に距離を作ると、続けて剣を振るった。
だが、刃が届く頃には、すでにリヴァの姿はそこにない。
背後で風が鳴る。
振り返るよりも早く、剣先が肩口を鋭く掠めた。痛みが走ると同時に体勢を崩し、アレンは地面を転がった。
「……速すぎる」
「戦場でも、待ってくれと言うつもりか?」
リヴァは追撃せず、数歩離れた場所で二本の木剣を構えていた。その立ち姿には、まだ余裕が残っている。
先ほどの三対一でさえ、本気ではなかったのだろう。
アレンは立ち上がりながら、リヴァの全身に目を凝らした。
思い返してみれば、彼女が動き出す直前、足元の空気がわずかに揺れていた。風属性魔法の術式は見えず、詠唱もない。それでも、踏み込む瞬間にだけ両脚を包む淡い魔力が濃くなっている。
「見てるだけじゃ、勝てねえぞ」
リヴァが再び踏み込む。
アレンは右手を前へ出した。
「走れ、雷――ブリッツフンケ!」
青白い電撃が、一直線にリヴァへ向かって放たれた。
威力を抑えた小規模な初級雷魔法だったが、彼女は慌てることなく、わずかに体を傾ける。
雷撃はリヴァの肩口を捉えた。
だが、皮膚へ届く寸前、青白い光が体表を滑るように逸れ、空中へ散った。
「なに……?」
リヴァは速度を緩めない。一気にアレンの懐へ踏み込んでくる。
右の剣が肩口へ迫り、アレンは咄嗟に盾で受け止めた。だが、間を置かずに左の剣が脇腹を狙ってくる。
身を捻ってかわしたものの、剣先が服の表面を浅く擦った。
アレンは反撃に転じ、剣を突き出す。だが、リヴァは左の剣で軌道を逸らすと、同時に右脚をアレンの足へ絡めた。
右脚を絡め取られ、視界が一気に地面へ傾く。
アレンは倒れる寸前に左手をつき、そのまま体を転がした。遅れて、つい先ほどまで頭のあった場所へリヴァの剣が鋭く突き立つ。
「今の避け方は……まあ、悪くなかった」
「褒める余裕があるなら、少しくらい手加減してくれ」
「手加減してどうする。お前のためにならねえだろ」
「せめて、痛みを減らすくらいはできる」
「そいつは治療師に頼め」
リヴァが剣を引き抜いた。
その瞬間、アレンは剣先を地面に触れさせる。
「ブリッツフンケ!」
青白い電流が剣身を駆け抜け、切っ先から地面へと流れ込んだ。
湿り気を帯びた土の表面には細い紫電が枝分かれしながら広がっていく。だが、その光はリヴァの足元へ届く前に次第に弱まり、やがて完全に消えた。
「狙いは悪くねえ。だが、土に流しただけじゃ――あたしまでは届かねえぞ」
「……分かってる」
アレンは後退しながら、訓練場の地面へ視線を走らせる。
砂の混じった地面には、模擬戦で外れた金属製の留め具や盾の鋲、標的人形を固定していた細い鉄杭が散らばっていた。
その一部は訓練場の中央へ向かい、途切れ途切れの道筋を作っている。
アレンはリヴァから目を離さないまま、金属片の位置を一つずつ頭に刻み込んだ。
これまで攻撃するときは、相手だけを見ていた。魔法を当てること、剣を届かせること――考えていたのは、ただそれだけだった。
だが今は、相手だけでなく、訓練場全体が視界に入っている。
そんなアレンの視線を追うように、リヴァは目を細めた。
「……何か、思いついた顔だな」
「さあな。どうだろうな」
「隠しても無駄だ。顔に出てるぞ」
「……前にも、同じことを言われたよ」
アレンは盾を前へ構えたまま、ゆっくりと左へ移動する。
リヴァも一定の距離を保ちながら、彼を中心に円を描くように歩いていく。
二人の間には、訓練用の防具から外れた金属輪が転がり、その少し先には鉄鋲が幾つも散らばっていた。
アレンは足を止めないまま、金属輪と鉄鋲を結ぶ雷の経路を頭の中で組み立てる。
「来ないなら、こっちから行くぞ」
リヴァの足元で魔力が揺らいだかと思うと、次の瞬間、踏み込みの勢いで砂が弾け飛んだ。
その動きを読んでいたアレンは、正面ではなく、左斜め前へ向けて剣を振り下ろす。
切っ先が地面へ食い込んだ。
「走れ、雷――ブリッツフンケ!」
剣身へ青白い光がまとわりつく。
だが、雷は正面にいるリヴァへは放たれず、切っ先から土へ流れ落ちると、近くに転がっていた金属輪へ飛び移った。
そこから鉄鋲へ、さらに別の金属片へと伝わり、幾つもの小さな導体を渡りながら、地面の上に不規則な線を描いていく。
その紫電が進行方向で弾けたため、リヴァは踏み込みを止めざるを得なかった。
「なるほどな」
リヴァは右へ進路を変えたが、その先にも鉄鋲が散らばっている。
アレンはすぐに剣の角度を変えた。剣身を走る魔力は切っ先で枝分かれし、別の金属片へと飛び移る。
雷そのものの威力は低く、まともに触れたとしても大きな傷にはならない。だが、踏みつければ脚の筋肉が一瞬だけ強張る。
高速で動くリヴァにとって、その僅かな遅れは決して無視できないはずだった。
「移動先を削っているのか」
観覧席からケイムの呟きが聞こえた。
アレンは剣を握ったまま走り出し、今度は自分から距離を詰めていく。
リヴァは電流の流れていない僅かな隙間へ踏み込み、迫る剣を双剣で受け止めた。乾いた音が、一度、二度、三度と立て続けに響く。
繰り出した攻撃は、すべて正確に弾かれた。
だが、この連撃で剣を当てるつもりはない。
狙っているのは、リヴァを金属片の多い場所へ誘導することだ。剣を振るうたびに自らの立ち位置を変え、彼女が安全に踏み込める範囲を少しずつ狭めていく。
「……考えたな」
リヴァが楽しそうに口元を緩めた。
「だが――まだ足りねえ」
彼女の全身を覆っていた魔力が大きく揺らぎ、両脚へ集まっていた光が一瞬で右腕へ移る。
振り下ろされた剣がアレンの盾へ激突した。
先ほどまでとは比べものにならない重さが、左腕を貫く。
「ぐっ……!」
盾に亀裂が走り、左腕が大きく外側へ弾かれた。
無防備になった脇腹へ、もう一本の剣が迫る。アレンは片手剣で防ごうとしたが、間に合わない。
鈍い一撃が脇腹へ深く食い込み、肺の中の空気が一気に押し出された。
「がっ……!」
体が地面へ転がる。
右手から離れた剣が数歩先へ飛び、先ほど位置を覚えた金属片の近くへ斜めに突き刺さった。
「アレン!」
マナの声が訓練場に響く。
アレンは立ち上がろうとしたものの、その瞬間、脇腹に激痛が走った。肺がうまく空気を取り込めず、滲んだ視界の向こうでは、リヴァがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「ここまでか?」
アレンは地面へ手をついた。
右手には何もない。だが、飛ばされた剣は位置を覚えていた金属片の近くへ突き刺さっている。
偶然だった。
それでも、使える。
剣身には、先ほど流し込んだ雷もわずかに残留していた。
離れた魔力は弱まる。
だが、まだ消えてはいない。
アレンは地面についた右手を持ち上げ、離れた場所にある剣へ向ける。
「……まだだ」
「剣も持たずに、どうするつもりだ?」
「剣なら――そこにある」
アレンは指先へ魔力を集めた。
強い魔法は必要ない。剣身に残された魔力へ再び電流を送り込むための、ほんの小さな雷があれば十分だ。
「ブリッツフンケ!」
指先から放たれた電撃は、リヴァではなく地面へ向かう。
雷は近くの鉄鋲へ飛び移ると、そこから次の金属片へ、さらに土へ食い込んだ片手剣へと次々に伝わっていった。
その瞬間、剣身に残留していた魔力が呼び起こされ、青白い光を放つ。
「っ!」
リヴァが初めて表情を変えた。
彼女の背後で、地面に刺さった剣から電流が放射状に広がる。
足元へ迫る紫電に気づいたリヴァが、咄嗟に左へ跳んだ。
だが、アレンはその動きを待っていた。
地面に伏せたまま、アレンは左手の盾を傾け、その縁を叩く。
最初の一撃で浮いていた留め具が外れ、狙いどおりリヴァの着地点へ転がっていった。
剣から流れてきた電流が、その留め具へ飛び移り、青白い火花を弾けさせる。
リヴァの左脚が強張り、着地がほんの僅かに遅れた。
リヴァが左へ跳んだことで、剣までの道が開く。
アレンはその隙を逃さず立ち上がると、脇腹の痛みを無視して土を蹴った。
地面へ食い込んでいた片手剣の柄を掴み、駆け込んだ勢いのまま一気に引き抜く。
「おおおっ!」
アレンは全身の力を乗せ、剣を横薙ぎに振るった。
リヴァは体勢を崩しながらも、右の剣を跳ね上げた。二本の剣が激突し、鈍い音が訓練場へ響き渡る。
アレンの一撃は、リヴァの体には届かなかった。
それでも、受け止めた右の木剣を弾き上げ、その手からもぎ取る。
木剣が宙を回り、地面へ落ちた。
「……初めて、崩した」
マナが小さく呟いた。
アレンはそのまま踏み込みを続けようとしたが、リヴァはすでに体勢を立て直していた。
残った左の剣が下から跳ね上がり、アレンの片手剣を大きく弾く。胸元が無防備になった次の瞬間、リヴァの右掌がまっすぐ突き出された。
その掌がアレンの胸元に触れた瞬間、右腕へ集中していた魔力が一気に弾ける。
「っ――!」
衝撃が全身を貫き、アレンの体は後方へ大きく吹き飛ばされた。
背中から地面へ叩きつけられ、息を吸おうとしても、肺がうまく動かない。
苦しさに顔を歪めながら目を開けると、すでにリヴァの剣先が喉元へ突きつけられていた。
「終わりだね」
ケイムの声が訓練場へ響くと、それを合図に、周囲を囲んでいた封止術式の光がゆっくりと消えていく。
アレンはしばらくその場から動くことができなかった。全身が痛み、脇腹には熱が残り、左腕にも盾を打たれたときの痺れが続いている。
それでも、悔しさだけではなかった。
アレンは右手を開き、ゆっくりと握り直した。雷は溢れ出さない。
恐怖は最後まで消えなかった。それでも、放つかどうかも、どれだけの威力にするかも、自分で決めることができた。
「……俺の負けだ」
「ああ」
リヴァは剣を引くと、倒れたアレンへ手を差し出した。
「文句なしの完敗だな」
「……そこまで言われなくても、分かってるよ」
アレンは苦笑し、彼女の手を掴んだ。
引き起こされる途中、脇腹が痛み、思わず顔をしかめる。
「……痛むか?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「それだけ言えるなら、問題ねえな」
「勝手に決めないで。診るのはわたしなんだから」
マナが呆れたように言いながら、二人のもとへ駆け寄った。
アレンの脇腹へそっと手を当て、傷の状態を確かめる。
「骨は……たぶん折れてない。でも、かなり腫れてるよ」
「これくらいなら大丈夫だ」
「ほら、またそうやって言う」
「いや、本当に大丈夫だって」
「はいはい。そういう話は、ちゃんと診てからにしようね」
ドレイヴは地面へ落ちたリヴァの剣を拾い、感心したように眺めた。
「けど、リヴァの剣を弾いたじゃねえか」
「弾いただけだ。本人には届かなかった」
「さっきの俺たちなんて、その剣に触れることすらできなかったんだぞ」
「それは、お前が真っすぐ突っ込んでいったからだろ」
「……今、それを言うか?」
アレンは小さく笑った。
その傍らで、リヴァはドレイヴから剣を受け取ると、表面を確かめるように静かに目を走らせる。刃にあたる部分には、アレンの片手剣が当たった浅い傷が残っていた。
「……でも、今の動きは悪くなかった」
アレンはリヴァを見た。
「最初のお前は、ただ雷魔法をあたしに当てようとしてた。けど、途中から地面と金属片を使って、あたしが動ける場所を少しずつ削っていった」
「ああ」
「剣も、ただの避雷針にしたわけじゃねえ。雷の通り道を作って、流れる方向を変えるために使った」
リヴァは剣が食い込んでいた地面へ視線を落とす。
「一度流した魔力を剣にわずかに残して、離れた場所からもう一度通電させた。あれも悪くねえ。威力で押すんじゃなく、使い方を選んだんだ」
「……それでも、負けた」
「当たり前だろ。二年も戦場にいるあたしが、学校を出たばかりのお前に負けてたまるか」
リヴァはさも当然という顔で言い切った。
「最後、お前は剣を取り戻すために正面から走った。あたしが足の痺れを無視して踏み込んでたら、柄に触る前に終わってたぞ」
「……そうだな」
「それに、雷の道を作れたのも、たまたま地面に金属が落ちてたからだ。どこでも同じ戦い方ができるわけじゃねえ」
「分かってる」
「ならいい。だが――使えるものを見つけて、迷わず利用した。その判断は正しい」
リヴァの視線がアレンの右手へ移る。
「それに……刻印が暴れ出す気配もなかった」
手袋の内側で、紋章は静かなままだった。
「怖くなかったわけじゃない」
「だろうな」
「雷魔法を使うたびに、また暴走するんじゃないかって考えた」
「それでも、自分で使い方を選んだ」
「……ああ」
「今は、それでいい」
リヴァは厳しく言ったが、その口元にはわずかな笑みがある。
アレンは静かに頷いた。
「ただ、一つ気になることがある」
アレンはリヴァの全身に目を向ける。
「俺の魔法を、どうやって防いだんだ?」
最初に放ったブリッツフンケは、確かにリヴァへ命中していた。
それにもかかわらず、雷は彼女の皮膚へ触れる直前で軌道を逸らされ、そのまま散ってしまった。
剣で防いだわけではなく、リヴァが得意とする風魔法の術式も見えなかった。
「それと……リヴァが動く瞬間だけ、魔力の流れが変わってた」
リヴァの眉がわずかに上がる。
「見えてたのか?」
「はっきりじゃない。足に魔力が集まったと思ったら、盾を殴るときには腕へ移ってた」
ケイムが興味深そうに目を細めた。
「戦いながら、そこまで見ていたのかい?」
「最初は何も分からなかったよ。でも、何度も攻撃を受けてるうちに……少しずつ見えるようになった」
「何度も殴られた甲斐があったな」
ドレイヴが愉快そうに笑う。
「……他人事だと思って、好きに言うよな」
リヴァは自分の右手をゆっくりと掲げた。
詠唱はなく、術式も現れない。それにもかかわらず、淡い魔力の膜が皮膚を覆い始め、その周囲では陽炎のように空気が揺らいでいる。
「これは、魔法じゃねえ」
リヴァはそう言って、ゆっくりと拳を握った。
「体の表面に魔力をまとわせて、肉体と装備を強化する技術だ」
「……魔装」
マナが小さく呟く。
「学校で習った、あの魔装?」
「ああ。それだ」
リヴァは拳に集めていた魔力を解くと、今度は両脚へ流していった。
「魔法戦闘じゃ、基礎中の基礎だ。とはいえ、大抵の奴は剣を少し硬くするか、鎧の強度を上げるくらいで終わる」
風もないのに、足元の砂がわずかに押し退けられる。
「だが、突き詰めれば使い方は変わる。足に集中させれば速く動ける。腕に集めれば、重い一撃も受け止められる。全身を薄く覆えば、威力の低い魔法を逸らすことだってできる」
「……それを、全部同時にできるのか?」
アレンが尋ねると、リヴァは即座に首を振った。
「全部を同じ強度で使うのは無理だ」
「魔力にも、集中力にも限界がある。足へ多く集めれば、その分だけ腕の守りは薄くなる。全身を覆えば、今度は一か所あたりの強度が落ちる。お前に剣を弾かれたとき、あたしは足へ多く回してた」
「……だから、剣を完全には受け止めきれなかったのか」
「ああ。そういうことだ」
アレンが戦いの最中に見た魔力の揺らぎは、その切り替えの痕跡だったのだ。
「刻印とは、まるで違う」
リヴァはアレンの右手を覆う手袋へ目を向けた。
「習い始めたその日から、自在に使える技術じゃねえ。自分の体の感覚を確かめながら、何年もかけて積み上げていくものだ」
「……俺にも、できるのか?」
「基礎だけなら、誰にでもできる」
そう答えると、リヴァはマナとドレイヴにも視線を向ける。
「ただ、そこからどこまで伸ばせるかは本人次第だ。才能もいる。だが、それ以上に時間がかかる」
「じゃあ……刻印を使わなくても、今より戦えるようになるのか?」
「ああ」
リヴァは迷いなく頷いた。
「お前に必要なのは、刻印の力を振り回すことじゃねえ。刻印を使わなくても、戦場に立っていられるだけの土台だ」
その言葉を受け、アレンは右手へ視線を落とした。
いつか、刻印の力を使わなければならないときは来る。そのたびに恐怖を消し去ることはできないだろう。
それでも、刻印に頼らずに済む場面を増やすことはできる。自分の意思で選べる余地を、少しずつ広げていくことならできるはずだった。
「……教えてくれ」
アレンはまっすぐにリヴァを見た。
「教科書に載ってるだけじゃない――実戦で使える魔装を」
「そのつもりで――」
リヴァが答えかけた、そのときだった。
訓練場の外から、低い鐘の音が響き渡る。
ゴォン――。
重い音が一度鳴り、続けて短い鐘が三度打ち鳴らされた。
ゴン、ゴン、ゴン――。
その合図を耳にした瞬間、リヴァの表情が変わった。先ほどまでの教官としての顔は消え、代わりに戦場へ立つ部隊長の鋭い眼差しが浮かんでいる。
「この警報は?」
マナが不安そうに尋ねた。
「西方監視線からの緊急報告だ」
リヴァは壁際へ向かい、本物の双剣を腰へ差した。
訓練場の扉が勢いよく開く。
「リヴァ隊長!」
若い兵士が息を切らしながら訓練場へ駆け込んできた。軍服には泥が跳ね、額から流れた汗が頬を伝っている。
「どうした。何があった?」
「国境監視所から、定時連絡が届いていません」
「……どこの監視所だ?」
「西部第三監視所です」
リヴァの拳が一瞬だけ強く握られた。
「偵察隊は出したのか?」
「はい。一時間前に、五名を派遣しました」
「それで、報告は?」
兵士は答えかけ、わずかに言葉を詰まらせる。
「先ほどから……通信術式で呼びかけていますが、応答がありません」
訓練場の空気が、重く沈んだ。
「偵察隊も、消息を絶ちました」
リヴァに迷いはなかった。
「刻鎖隊に招集をかけろ。各員、装備を整え次第、軍本部に集合だ」
「はっ!」
兵士は鋭く敬礼すると、来た道を駆け戻っていった。
ケイムは魔力測定器を外套の内側へしまい、訓練場の外へ視線を向ける。
「国境で帝国軍が動いている時期に、監視所と偵察隊がそろって沈黙した。ただの通信障害で片づけるには、できすぎているねぇ」
リヴァが眉を寄せ、ケイムを見た。
「何か心当たりがあるのか?」
「いや。まだ仮説と呼べる段階ですらない。ただ、国境で帝国軍が動いているなら、まずは司令部の情報を確かめる必要がある」
ケイムはアレンたちを振り返った。
「君たちは第五兵舎へ戻って待機だ」
「俺たちも行く」
ドレイヴが間を置かずに言った。
「今回は訓練じゃないんだよ」
「分かってる。だから――」
「分かっているなら、命令に従いなさい」
ドレイヴの言葉を遮ったケイムの声に、普段の軽さはなかった。
「状況も分からないまま前線へ出れば、救援どころか……捜索する人間を増やすだけだ」
ドレイヴが悔しげに歯を食いしばる。その傍らで、アレンは右手を強く握った。
先ほどまで静まり返っていた刻印が、警報に呼応するかのように、手袋の下でかすかな熱を帯び始めている。
「……ケイム」
「どうした?」
「刻印が、反応してる」
全員の視線が、アレンの右手へ集まった。
黒い手袋の縁から、いつもの紫とは異なる弱い赤色の光が漏れている。それを見たケイムはすぐにアレンの手首を掴み、刻印の反応を確かめた。
「……暴走の兆候じゃない」
「だったら、何に反応してるんだ?」
「それを調べる必要がありそうだね」
遠くで再び警報の鐘が鳴り響いた。
その直後、都市を覆う魔力障壁の光が、一度だけ大きく揺らめく。
ケイムが空を見上げ、わずかに目を細めた。
「……障壁まで反応しているのか」
リヴァは訓練場の扉の前で足を止めると、アレンを振り返った。
「さっきの戦い――忘れるなよ」
「……何を?」
「怖くても、自分で次を選んだ。それをだ」
それだけ告げると、リヴァは冷たい風の吹き込む廊下へ駆け出していった。
残されたアレンは右手へ視線を落とした。
答えはまだ分からない。
それでも、手袋の隙間から漏れる赤い光は消えなかった。
遠くで鳴り続ける警報を聞きながら、アレンは訓練だけで済んでいた時間が終わったことを悟った。




