第10話『風が隠した傷』
警報が鳴り止んでも、ファランディアを覆う緊張は解けない。
西部第三監視所も、救援へ向かった偵察隊も沈黙したままだ。
城壁の上では兵士たちが夜を徹して警戒を続け、魔力障壁へ注がれる魔力が、普段よりも強い光で空を染めている。
アレンたちはケイムの命令どおり第五兵舎へ戻り、いつでも動けるよう装備を整えた。しかし、その夜に新たな命令が届くことはなかった。
何が起きているのか分からないまま待つ時間は、戦うことよりも息苦しい。
◇
翌朝。
薄い雲に覆われた空の下、三人は再び南区画の訓練場に集められていた。
「こんな状況で訓練するのか?」
ドレイヴが壁の向こうを見ながら言った。
遠くでは、城壁を巡回する兵士たちの足音が絶え間なく響いている。
「命令が来るまで、何もしないで座ってろっていうなら、そうしてもいいぞ」
訓練場の中央では、リヴァが腕を組んで待っている。
昨夜は部隊の招集と軍本部への報告に追われていたはずだ。それでもリヴァは疲れを見せまいとしている。ただ、目の下の薄い影だけは隠せていない。
「……偵察隊を、捜しに行かなくていいの?」
マナが遠くの城壁を見やりながら尋ねた。
「第二偵察隊なら、夜明け前にもう出た。あたしの部隊も、出撃準備は終わってる」
「だったら、俺たちも――」
「お前らには、まだ命令が出てねえ」
ドレイヴの言葉を、リヴァが食い気味に遮る。
「何が待ってるかも分からねえ場所へ、実戦も知らねえ奴を放り込むほど、ファランディアは切羽詰まっちゃいねえよ」
「けど、ここで待ってるだけじゃ……何もできねえ」
「だから、今できることをやるんだろ」
リヴァは三人を順に見る。
「昨日の戦いで、自分に何が足りねえかくらいは分かったはずだ。命令が来てから慌てたって、身につくもんじゃねえ。時間があるなら――無駄にするな」
ドレイヴは言い返しかけたが、やがて奥歯を噛み、口を閉ざす。反論の言葉は、それ以上続かなかった。
「今日は、魔装の基礎を叩き込む」
リヴァは右手を掲げる。
詠唱も術式も用いていない。それにもかかわらず、淡い魔力が皮膚の下から滲み出し、拳の周囲を薄く包んでいく。
「学校でも習ったはずだが、魔装ってのは、自分の魔力を身体や装備にまとわせる技術だ。剣を硬くする。鎧を補強する。脚力を上げる。……基本は、まあ、それだけだ」
「昨日のリヴァの動きは、とても“それだけ”には見えなかったけどな」
アレンが言うと、リヴァはわずかに口元を緩めた。
「その“それだけ”を、何年も積み上げるんだ。そうすりゃ、同じ技でもまるで別物になる」
リヴァは拳を握ると、訓練場の端に置かれていた石製の標的へ歩み寄る。
その前で腰を落とし、軽く腕を引く。次の瞬間、突き出された拳が標的へ触れる。
大きな音はしない。だが、拳が当たった場所から瞬く間に亀裂が広がり、石の表面がぱらぱらと砕け落ちる。
「すごい……」
マナが砕けた標的を見つめたまま言葉を失う。
「でも今、腕に力を込めたようには見えなかった」
「腕力で殴ったんじゃねえ。触れる瞬間、魔力を拳へ集めただけだ」
リヴァは手についた石粉を払う。
「全身を強化し続ける必要はねえ。必要な場所に、必要な分だけ流せ。それができりゃ、少ない魔力でも効く」
「……簡単そうに言ってくれるな」
ドレイヴが砕けた石の標的を眺めながら呟く。
「基礎だけなら、実際そう難しくはねえよ」
リヴァは三人の前へ戻ると、短く言う。
「まず、目を閉じろ」
三人は言われたとおりに目を閉じる。
「魔法を使うときみたいに、外の魔力を集めるんじゃねえ。自分の中にある魔力を感じろ。胸の奥でも、腹でもいい。自分が一番分かりやすい場所を探せ」
アレンは呼吸を整え、外気に満ちる魔力ではなく、自分の内側へ意識を向ける。
心臓の鼓動。肺へ出入りする空気。そして、血が指先へ流れていく感覚。
それらを一つずつ辿っていくと、さらに奥に微かな熱があることに気づく。
普段、魔法を使うときには外へ向けて開いている力を、今度は体内に留め、ゆっくりと全身へ巡らせていく。
「見つけたら、腕へ流せ」
リヴァの声が聞こえる。
「押し込むな。水を流すみたいに、筋肉の形に沿わせろ」
アレンは胸の奥にある魔力を、右肩から腕へ移そうとする。
その瞬間、手袋の下で刻印が熱を持つ。
「っ……」
「アレン?」
すぐそばで、マナの不安げな声がした。
「目は開けるな」
リヴァが落ち着いた声で制する。
「刻印には流すな。右手を避けろ」
「避けろって……どうやって?」
「肩で止めろ。そこから胸へ戻せ。全部の魔力を腕まで通す必要はねえ」
アレンは右肩へ集まりかけた魔力を引き戻す。
ただ流れを変えるだけのことだが、細い糸を指先で操るような集中が必要になる。少しでも気を緩めると、魔力はすぐに刻印のある右手へ吸い寄せられそうになる。
「右手が駄目なら、左腕か脚を使え」
リヴァの声に従い、アレンは魔力を左肩へ流す。
今度は刻印が反応することもなく、魔力は皮膚の下を通って腕全体へ薄く広がっていく。やがて、左手に僅かな熱が宿る。
「そのまま維持しろ」
リヴァが告げる。
「力むな。呼吸を止めるな」
数秒、さらに十秒と時間が経つにつれ、腕の内側に鈍い痛みが生まれ始める。
まるで、筋肉を内側からゆっくりと引き絞られているような感覚。
「……きついな」
ドレイヴの苦しげな声が聞こえる。
「もう限界か?」
「いや……まだいける」
「なら、そのまま続けろ」
次の瞬間、何かが弾けるような音が響く。
アレンが目を開けると、ドレイヴの右腕から赤い魔力が溢れ出している。筋肉は不自然なほど張り詰め、手の甲には太い血管がくっきりと浮かび上がっていた。
「ドレイヴ、力を抜け!」
リヴァの声が鋭く飛ぶ。
「まだやれる!」
「いいから、抜けって言ってんだ!」
リヴァはドレイヴの腕を掴むと、掌から魔力を流し込み、暴れていた力を強引に外へ逃がす。
赤い光が霧のように散り、その直後、ドレイヴの右腕が力なく垂れ下がる。
「……腕が、動かねえ」
「そりゃそうだ」
リヴァは呆れたように息を吐く。
「筋肉が耐えられる以上の魔力を押し込んだんだ。しばらく痺れは残るぞ」
「さっき、押し込みすぎるなって言われたでしょ」
マナが心配そうに垂れた腕を覗き込む。
「少しくらい多い方が、強くなると思ったんだよ」
「お前は火を強くしたいからって、薪を全部まとめて放り込むのか?」
「……燃えるだろ」
「家ごとな」
リヴァはドレイヴの肩を軽く叩く。
「お前はもともと身体が強い。魔装との相性だって悪くねえ。だからこそ、力任せに流すな」
リヴァは動かないドレイヴの腕へ目を落とす。
「腕を壊したら、その重い剣も握れなくなるぞ」
「……分かったよ」
ドレイヴは痺れた腕を振ろうとしたが、思うように動かず、苦々しく顔をしかめる。
「マナ、お前はどうだ?」
リヴァがマナを見ると、その両腕には薄青い魔力がむらなくまとわりついている。
見た目だけなら、三人の中で最も安定している。
「たぶん……できてると思う」
「なら、歩いてみろ」
マナは目を開け、慎重に一歩を踏み出す。
その瞬間、腕を覆っていた魔力が崩れ、青い粒となって散っていく。
「あっ……」
「表面にきれいに並べることばかり考えてたな」
「だって、均等にしないと……防御に隙ができるでしょ?」
「突っ立ってるだけなら、それでもいい」
リヴァはマナの腕を指先で軽く叩く。
「けど、戦場でじっとしてる奴はいねえ。走るし、転ぶ。杖も振るし、誰かを抱えて動くことだってある。そのたびに、筋肉の形も変わるんだ」
「じゃあ……どうすればいいの?」
「外から塗り固めるな。身体の内側から、絶えず流れ続けるようにしろ。形を決めようとするな」
「流れ続ける……」
「水魔法が得意なら、分かるだろ。器に水を詰めて固めるんじゃねえ。川みたいに、身体の中を巡らせろ」
マナはもう一度目を閉じると、今度は魔力の膜を作ろうとはせず、呼吸に合わせて腕の中へ力を巡らせる。
すると、淡い青色の光が先ほどよりも不揃いに浮かび上がる。見た目こそ安定していなかったが、マナが歩いても消えることはない。
「その方がいい」
リヴァが頷く。
「きれいに見せる必要はねえ。動きながら維持できる方が大事だ」
マナは安堵したように息を吐く。
だが、数歩進んだところで足元が揺らぐ。
「マナ!」
アレンは反射的に左手を伸ばし、崩れかけた身体を支える。
「大丈夫か?」
「うん……少し、目が回っただけ」
「魔力を流す方に集中しすぎたな。呼吸が浅くなってた」
リヴァが言った。
「魔装は魔力だけじゃなく、体力も集中力も削る。呼吸が浅くなりゃ、今みたいに倒れる」
「でも、魔法みたいに大きな術式は使ってないよね」
「だから厄介なんだ。消耗に気づきにくい。無理に流し続ければ、筋肉や内臓まで傷つく」
ドレイヴの顔がわずかに引きつる。
「……学校で習う基礎の魔装に比べて、ずいぶん物騒だな」
「剣だって、扱い方を間違えりゃ自分の指を落とすだろ」
「それと同じにするか?」
「同じだよ。力を扱うってのは、そういうことだ」
リヴァは右手を開く。
再び魔力が全身を薄く覆う。
「魔装の強さは、どれだけ多くの魔力を出せるかじゃねえ。必要な量を、必要な場所へ、どれだけ正確に流せるかで決まる」
魔力が両脚へ集まった次の瞬間、リヴァの姿が揺らぎ、気づけば数歩離れた場所にいる。
続いて魔力の流れが右腕へ移り、拳を突き出した瞬間だけ空気を震わせる。役目を終えた力は、すぐさま全身へ戻っていく。
「足へ集めれば、腕の守りは薄くなる。腕へ集めれば、脚の動きは落ちる。全部を強化しようとすれば、消耗が増える」
リヴァは三人の前へ戻ってくる。
「だから選べ。何を守るのか。どこを強くするのか。いつ使うのか」
アレンは左腕に残る熱を感じながら、自分の右手へ目を落とす。
刻印の力もまた、ただ使えばいいわけではない。使うのか、使わないのか。使うとして、どれほどの力を引き出すのか。その都度、自分で選ばなければならない。
魔装と刻印は違う。それでも、力を選ぶという点では同じなのかもしれない。
「もう一度やるぞ」
リヴァがそう告げる。
「今度は歩きながら、片腕だけに魔装を維持しろ。ドレイヴは半分の出力。マナは見た目を整えようとするな。アレンは右手へ流すな」
「右腕は使わない方がいいのか?」
「今はな」
リヴァの目が黒い手袋へ向く。
「刻印が魔力を引っ張る癖を理解するまでは、無理に右手へ流すな。まずは左腕と両脚で感覚を覚えろ」
アレンは頷き、三人は再び呼吸を整える。
魔力を体内へ巡らせながら、歩き、止まり、腕を上げる。そうした単純な動作を繰り返すたびに、体の奥へ疲労が積み重なっていく。
一時間も経つ頃には、ドレイヴでさえ地面へ座り込み、肩で息をしていた。
「……地味すぎるだろ、これ」
「派手な魔法でも期待してたのか?」
リヴァが呆れたように尋ねる。
「いや、もう少しこう……一気に強くなるような方法があると思ってたんだよ」
「ねえよ。そんな都合のいいもんは」
リヴァは即座に答える。
「魔装はな、今日覚えて、明日には強くなれるような技術じゃねえ。呼吸と同じだ。意識しなくても使えるようになるまで、何度でも繰り返す。何か月も……何年もな」
「それを、毎日やってたの?」
マナが尋ねる。
「ああ」
「軍の任務をこなしながら?」
「寝る前も、歩いてるときも、食ってる最中もだ」
「食事中まで?」
「匙を持つ指に、魔力を流してた」
「……それ、本当に必要だったのか?」
ドレイヴが眉をひそめる。
「結果だけ見りゃ、無駄じゃなかった」
リヴァは自分の右手へ目を落とす。
「どんな状態でも魔力を動かす。そのための訓練にはなった」
その指先が、ほんの一瞬、震える。
リヴァはすぐに拳を握り、その震えを隠した。マナとドレイヴは気づかなかったようだが、正面にいたアレンの目には、はっきりと映っていた。
◇
訓練を終えたあと、マナとドレイヴは道具を片づけるため、訓練場の倉庫へ向かった。
アレンも後を追おうとしたが、背後からリヴァに呼び止められた。
「アレン」
「……何だ?」
「お前は少し残れ」
二人きりになった訓練場を、冷たい風が吹き抜ける。
リヴァは壁際の長椅子へ腰を下ろすと、右手の指を確かめるように何度か開閉する。
「その手……痛むのか?」
「見てたのかよ」
「少し震えてた」
「このくらい、大したことじゃねえ」
「……俺が同じこと言ったら、リヴァは怒るだろ」
リヴァはアレンを見上げる。
やがて、諦めたように息を吐く。
「魔装の使いすぎだ」
「昨日の訓練で、か?」
「昨日だけじゃねえよ。何年も使い続けてきた、その積み重ねだ」
リヴァが右手の手袋を外すと、掌から手首にかけて、幾つもの細い傷跡が残っている。
剣で斬られたものとは違う。まるで皮膚の下から裂けたような、不規則な跡。
「魔力を流しすぎりゃ、筋肉も血管も内側から傷つく。見た目は治っても……完全には戻らねえこともある」
「それでも、使い続けてるのか?」
「使わなきゃ死んでた。そんな場面が、何度もあったからな」
リヴァは傷跡を隠すように、手袋をはめ直す。
「魔装は刻印より安全だ。……だが、何の代償もないわけじゃねえ」
アレンは手袋の下へ消えた傷跡を見つめる。
刻印とは違う。それでも、力を使うほど身体を削るという点では、魔装も無傷では済まない。
「昨日、警報が鳴ったときさ」
アレンは静かに切り出す。
「監視所って聞いた途端、顔が変わった」
リヴァの目が、わずかに細くなる。
「……よく見てるな」
「食堂で話してた部下のことと、関係があるのか?」
リヴァは答えない。
訓練場を吹き抜ける風が、壁に掛けられた軍旗を揺らしている。
「あいつがいたのも……監視所だった」
しばらくして、リヴァが口を開く。
「西部第五監視所だ。帝国軍に襲われたとき、あたしは別の防衛地点にいた」
「そこから、救援要請が来たのか?」
「ああ……来た」
リヴァは両肘を膝に置き、指を組む。
「敵が第五監視所を襲ってる。その一方で、別働隊がファランディアへ向かってる可能性もあった。だから司令部は、あたしの部隊に持ち場を守れと命じた」
「……リヴァは、その命令に従ったんだな」
「従った」
声に迷いはない。
だが、その奥には、今も消えずに残る痛みが滲んでいる。
「命令そのものは正しかった。あたしたちが動いてたら、本当に防衛線を破られてたかもしれねえ。そうなりゃ、もっと大勢が死んでた可能性だってある」
「それでも……監視所にいた人たちは死んだ」
「全員な」
リヴァは淡々と答える。
「最後まで、救援信号は届いてた。あたしの部下も、通信越しにずっと呼び続けてた」
そこで、声がわずかに掠れる。
「隊長なら……きっと来てくれるって」
アレンは何も言えない。
「信号が途絶えたあとも、あたしは持ち場を離れなかった。翌朝になって監視所へ向かったときには……もう、誰も生きてなかった」
「それは、リヴァのせいじゃない」
「……そうかもしれねえな」
彼女は否定も肯定もしない。
「命令を出したのは司令部だ。第五監視所を襲ったのは帝国軍で、仲間を殺したのは帝国の刻印者だ。……あたしが、この手で殺したわけじゃねえ」
リヴァは膝の上で、拳を強く握る。
「それでも、助けに行かないと決めたのは――あたしだ」
冷たい風が、二人の間を通り抜けていく。
「だから決めたのか。もう、仲間を見捨てないって」
「ああ」
「たとえ、命令に逆らうことになっても?」
リヴァはすぐには答えない。
やがて顔を上げ、まっすぐにアレンを見る。
「何もかも無視するって意味じゃねえよ」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「命令を言い訳にして、自分で考えるのをやめねえってことだ」
その声は静かだった。
「命令されたから仕方なかった。規則だから助けられなかった。……そうやって、自分の選んだことを誰かのせいにするのは、もうやめる」
「……最後は、自分で選ぶ」
「そうだ」
リヴァは立ち上がる。
「あのときと同じ状況になったとして……今のあたしが何を選ぶかは、分からねえ。防衛線を守るかもしれないし、命令を破って救援へ向かうかもしれない」
「……まだ、決めてないのか?」
「決められるわけねえだろ」
リヴァは苦く笑う。
「戦場に立つ前から正しい答えが分かってるなら……誰も、あんなに悩まねえよ」
アレンは訓練場の地面へ目を落とす。
自分も同じだ。刻印を使うことが正しいのか、それとも使わないことが正しいのか。その答えを先に決めておくことはできない。
結局は、その場で考え、自分で選ぶしかない。
「ただ……一つだけ、決めてることがある」
リヴァが言う。
「仲間の声を、聞こえなかったことにはしねえ」
その言葉が、アレンの胸へ重く沈む。
「助けられるかどうか分からなくても、最後まで考える。自分が諦めるために、命令を盾にすることだけはしねえ」
「……強いな、リヴァは」
「強くねえよ」
間を置かず、言葉が返ってくる。
「あたしが強かったなら、あいつは今も生きてた」
「それは違う」
「何が違うんだよ」
「全員を救えなかったことと、弱いことは……同じじゃない」
リヴァは黙ったまま、アレンを見つめる。
「マナに言われたんだ。何もかも一人で抱え込むなって」
アレンは右手をゆっくりと握る。
「俺だって、まだうまくできてない。でも……リヴァも同じなんじゃないか?」
「何がだよ」
「部下が死んだ責任を、全部自分で背負おうとしてる」
リヴァの眉が、わずかに動く。
「ずいぶん偉そうなこと、言うようになったな」
「……自分でもそう思う」
「だったら黙ってろ」
「でも、リヴァが俺に言ったんだろ。無茶するところは信用してねえって」
「それとこれとは別だ」
「いや……同じだ」
アレンは一歩も引かない。
「仲間を見捨てないって言うならさ……自分を支える役目くらい、仲間に任せてもいいんじゃないか?」
リヴァはしばらく何も言わない。
やがて額へ手を当て、深く息を吐く。
「……二年会わねえうちに、ずいぶん面倒くせえ奴になったな、お前」
「リヴァほどじゃない」
「……言うようになったじゃねえか」
リヴァの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
それは食堂で見せていた不敵なものとは違い、まるで長い間閉じ込めていた息を、ようやく少しだけ吐き出せたような表情。
◇
午後になると、アレン、マナ、ドレイヴの三人は、軍本部の作戦室へ呼び出された。
部屋の中央には大きな地図台が置かれ、その周囲をケイムとリヴァ、数名の将校が囲んでいる。広げられた地図には、ファランディアから西へ伸びる国境線と複数の監視所が記されており、連絡を絶った西部第三監視所の位置には黒い駒が置かれている。
さらにそこから北西へ目をやると、帝国と連邦、どちらの領土にも属さない中立地帯に、一つの古代遺跡「アルカナリウム」の名が記されている。
「……全員、揃ったね」
ケイムが地図から顔を上げる。
いつもの軽い笑みはない。
「第二偵察隊から報告が入った。西部第三監視所は――無人だったそうだ」
「無人?」
ドレイヴが眉をひそめる。
「戦った跡は、残ってないのか?」
「見つかっていない」
ケイムは一枚の報告書を地図台の上へ置く。
「扉は内側から開いていた。食料も装備も、そのまま残されている。争った形跡も、血痕もない」
そこで、わずかに間を置く。
「消えていたのは……駐留していた兵士だけだ」
「最初に出た偵察隊は?」
マナが尋ねる。
「まだ、見つかっていない」
部屋の空気が重くなる。
「ただ……監視所の通信記録に、最後の報告が残っていた」
ケイムは別の紙を取り出す。
「西の空に紫色の光を確認。アルカナリウム方面より、正体不明の魔力波が接近中――記録は、そこで途切れている」
「何か、手がかりは見つかったのか?」
「監視所では見つかってない。ただ、こっちは観測塔が記録した共鳴波だ」
ケイムは地図台の端へ小さな記録水晶を置く。
その内部には細い紫色の光が閉じ込められ、一定の間隔で静かに明滅している。
「共鳴波?」
「グリムフォードで、アレンの刻印が目覚めたときに観測された波形と……よく似ている」
アレンの背筋を、冷たいものが走る。
「それは……同じものなのか?」
「完全に一致してるわけじゃない。ただ、根にある性質は同じだと見てる」
「その波は、どこから来たの?」
マナの問いに、ケイムは地図上の遺跡を指す。
「アルカナリウムだ」
全員の目が、その一点へ集まる。
「アルカナリウムは、帝国と連邦が共同管理する古代遺跡だ。街道から外れ、兵站にも軍事拠点にも向かない」
「じゃあ、なんでそんな場所から異常反応が出るんだ?」
「遺跡そのものに、何かがあるからだろうね」
ケイムが記録水晶へ指先で触れると、内部の紫色の光が一度だけ強く明滅する。
「それと今朝、アルカナリウムから戻った連邦側の研究員が、ファランディアに着いた」
「戻ったって……無事だったのか?」
「正確に言えば、戻ったんじゃない。追い出されたんだ」
ケイムの目が細くなる。
「三日前、帝国軍がアルカナリウムへ進入した。共同研究区画を封鎖して、連邦の研究員と警備兵を遺跡の外へ退去させたそうだ」
「三日前だと?」
リヴァが地図台へ手をつく。
「どうして今まで報告が来なかった」
「通信術式が妨害されてた。研究員たちは、徒歩で国境を越えてきたらしい」
「つまり……帝国が中立地帯を占拠したってことか」
ドレイヴが低く言う。
「ああ」
ケイムは静かに頷く。
「戦争中でも、アルカナリウムの共同管理協定は破棄されてない。帝国の行動は、明らかな協定違反だ」
「でも……わざわざ占拠するほど価値のある場所じゃないんでしょ?」
マナが地図上の遺跡を見つめる。
「……そのはずだった」
ケイムの静かな声が、室内に落ちる。
「帝国が、軍事的価値の乏しい場所を、わざわざ危険を冒して奪うとは思えない。遺跡で何かを見つけたんだ。そして、その何かが……アレンの刻印と共鳴した可能性がある」
アレンは右手を強く握りしめる。
「帝国は……遺跡で、刻印に反応する何かを動かしたってことか?」
「可能性はある」
グリムフォードで刻印が目覚めたときと、よく似た性質の波。その発生源を、帝国軍は三日前から占拠している。
偶然だと切り捨てるには、出来事が重なりすぎている。
「帝国は、それが刻印に反応するって知ってたのか?」
「それは、まだ分からない」
「じゃあ、監視所の異変も……帝国が遺跡で何かを動かした影響なのか?」
「……否定はできないね」
リヴァがケイムへ鋭い視線を向ける。
「まさか、アレンを遺跡へ連れていくつもりじゃねえだろうな」
「私一人で決めていいなら、もう少し材料が揃うまで動きたくはないんだけどね」
「軍は、待つ気がねえのか」
「司令部は、帝国が遺跡の中で古代兵器を見つけた可能性を警戒してる」
ケイムは一枚の命令書を地図台の上へ置く。
黒い封蝋には、ファランディア防衛司令部の紋章が刻まれている。
「夜明けと同時に、アルカナリウムへ奪還部隊を出すことが決まった」
「刻鎖隊も加わるのか?」
「刻鎖隊には先行してもらう。帝国の刻印者が配備されていないか、確認してほしい」
リヴァは命令書を手に取り、素早く内容へ目を走らせる。
「……アレンたちは、どうする」
その問いに、ケイムはわずかに間を置いた。
「遺跡内部の魔力障壁は、通常の術式では開けない可能性がある」
「それで、刻印の力を使わせるのか?」
「使わせると決まったわけじゃない」
「同じことだろ」
リヴァの声に、抑えきれない怒気が混じる。
「共鳴するか確かめるために、こいつを遺跡まで連れていく。軍にとっちゃ、鍵と変わらねえ」
「私も、その危険は分かっている」
「だったら断れ」
「私が断っても、別の指揮官が彼らを連れていくだけだ」
ケイムの声は静かだ。
「それなら、せめて私の目が届くところに置く」
リヴァとケイムの視線が、鋭くぶつかる。
アレンは二人の間へ、一歩進み出る。
「俺は行く」
「アレン……」
マナが不安げに名前を呼ぶ。
「刻印と遺跡が関係してるなら、自分の目で確かめたい」
「危険だぞ」
リヴァが低く言う。
「分かってる」
「分かってねえよ。遺跡で刻印が暴走したら、訓練場みたいに止められる保証はねえ」
「それでも……何も知らないまま、目を背け続けることはできない」
アレンは右手を覆う手袋へ目を落とす。
「グリムフォードが襲われた理由も、刻印が俺を選んだ理由も分からない。このままじゃ、次に何が起きても選ぶことすらできない」
怖くないわけではない。
遺跡へ近づけば、刻印が再び暴走するかもしれない。黒い扉の向こうにいた何かが、また自分へ呼びかけてくる可能性もある。
それでもアレンは顔を上げ、リヴァをまっすぐに見返す。
「俺も行く」
ドレイヴが、すぐに続いた。
「アレン一人だけ行かせるわけにはいかねえ」
「わたしも行く」
マナは杖を胸元へ引き寄せる。
「三人で動けって、言われたばかりだもの」
リヴァは三人の顔を順に見る。
その表情には、呆れと心配が入り混じっている。
「昨日、一分も持たずに叩きのめされた奴らが……よく言うぜ」
「だから、リヴァも来るんだろ?」
ドレイヴが臆せず返す。
「俺たちが使い物になるかどうか、まだ見極めてる途中のはずだ」
「……口だけは、ずいぶん達者になりやがったな」
リヴァは命令書を地図台へ戻す。
ケイムは三人の意思を確かめるように目を細め、それから改めて姿勢を正す。
「出発は明朝。目的は、アルカナリウムを占拠した帝国軍の排除と、遺跡内部の安全確認だ」
ケイムは地図に記された古代遺跡を指し示す。
「遺跡の中で何が起きているのかは、まだ分からない。帝国の刻印者がいる可能性も高い」
ケイムはそこで言葉を切り、アレン、マナ、ドレイヴをまっすぐに見る。
「これは訓練じゃない。ただの調査任務でもない」
室内の空気が、静かに張り詰める。
「アルカナリウム奪還作戦――第七特別戦術小隊にも、参加してもらう」




