第8話『三人の弱点』
ファランディア南区画の訓練場は、魔法学校のそれとはまるで違っていた。
石造りの壁には無数の斬撃痕が刻まれ、地面の一部は炎に焼かれて黒く変色している。片隅には、砕けた標的人形や修理を待つ訓練用の盾が、無造作に積み上げられている。
ここでは、訓練さえも戦場の続きなのだ。
吹き抜けの天井から風が入り込み、砂混じりの土を薄く巻き上げていた。その砂煙の向こう、訓練場の中央には、すでにリヴァが立っている。
リヴァは本物の双剣を壁際に置き、代わりに二本の訓練用木剣を逆手に握っている。
対するアレンたちも、それぞれ訓練用の装備を身につけていた。アレンは片手剣と小型の盾を構え、ドレイヴは重量のある片刃の木剣を担いでいる。マナは魔力出力を抑制する術式が刻まれた訓練杖を握っていた。
さらに訓練場の外周では、ケイムが設置した封止用の魔法陣が淡い光を放っている。
「始める前に、念のため確認しておこうか。まあ、形式みたいなものだけどね」
壁際の観覧席から、ケイムが声をかけた。
「殺傷性の高い魔法は禁止。アレン、君は刻印を使わない。それと――刻印に少しでも異常が出たら、その時点で僕が試合を止める。君たちが続けたいと言ってもだ。ここだけは、話し合うつもりはないよ」
「普通の魔法なら?」
アレンが尋ねる。
「それは構わない。ただし、出力は訓練場の制限値までだ。試合のついでに、壁の耐久試験まで始められると困るからね」
ケイムは手にした魔力測定器を軽く振ってみせた。
「超えれば、こいつが先に教えてくれる。たぶん、君が自分で気づくより早くね」
「……分かった」
アレンは右手を覆う黒い手袋を見下ろす。
刻印は静まり返っている。だが、これから戦闘が始まると意識しただけで、指先には微かな痺れが走った。
「それと、もう一つ」
リヴァは二本の木剣を肩に担いだ。
「あたしに一撃でもまともに入れられたら、その時点でお前らの勝ちだ」
「三人がかりだからって、ずいぶん余裕じゃねえか」
ドレイヴが挑発するように笑う。
「気に入らないなら、あたしが一発もらった時点で負けってことにしてもいいぞ」
「……いや、同じだろ、それ」
「ん? ……ああ、そうだったな」
リヴァは悪びれもせず、軽く肩をすくめた。
マナは杖を胸元へ引き寄せ、二人にだけ聞こえる声で呼びかける。
「始める前に、せめて最初の動きだけでも決めよう」
三人はリヴァから少し離れた場所へ集まった。その間、リヴァは欠伸を噛み殺しながら、二本の木剣を退屈そうに回している。
「まずは俺が前に出る」
ドレイヴが迷いなく言う。
「正面からリヴァを止める。その隙にアレンが横から入れ。マナは後ろで援護だ」
「止めるって……リヴァを、そんな簡単に止められるか?」
アレンの問いに、ドレイヴはリヴァから目を逸らさず答えた。
「簡単じゃねえから、俺が行くんだろ。誰も前に出なきゃ、何も始まらねえ」
「それはそうだけど……先にマナの防御術式を――」
「うん。まず二人に防御強化。その次にドレイヴを水で補助して、最後にアレンの魔力を――」
マナは指で手順を確かめるように、杖を握り直す。
「待て。全部やるつもりか?」
ドレイヴが途中で遮った。
「そんなことしてたら、終わる頃にはリヴァが目の前にいるぞ」
「でも、順番を崩したら術式が不安定になるの」
「なら、戦いながら順番にやればいい」
「……だから、そんな簡単に言わないでよ」
二人の声が少しずつ強くなっていく中、アレンは相談の輪から目を上げ、リヴァの様子をうかがう。
彼女は口を挟むことなく、その場に立ったまま三人の相談を眺めている。だが、その表情には、すでに何かを見抜いているような色が浮かんでいた。
「とにかく――」
アレンは言い合いになりかけた二人の間へ割って入った。
「ドレイヴが前に出る。俺は少し後ろからついていく。マナは、最初から全部の術式を使おうとしなくていい。その場で必要なものを――」
「必要なものって、何?」
マナに問い返され、アレンは言葉を止める。
相手はリヴァだ。何を仕掛けてくるのか、考えたところでまるで読めない。
「……それは、動きを見て決めよう」
「だから、それを決めるために作戦を立ててるんだろ」
ドレイヴが呆れたように言った。
「――もういい」
離れた場所から、リヴァの声が飛んでくる。
「相談はそこまでだ。戦場じゃ、敵がいつまでも話し合いを待ってくれるとは限らねえぞ」
三人は慌てて距離を取った。アレンが中央に立ち、ドレイヴがやや前へ出て、マナが後方へ下がる。
魔法学校で何度も繰り返し練習してきた、基本的な三人編成。
対するリヴァは、木剣を下ろしたまま、力みのない自然体で立っている。
「準備はできたか?」
「……ああ。いつでもいい」
アレンが答えると、リヴァの口元がわずかに上がった。
「そうか。なら――始めるぞ」
その言葉が落ちるより早く、ドレイヴが真っ先に駆け出す。
「おおおっ!」
「待って、まだ防御術式が――!」
マナの制止も間に合わず、ドレイヴは一直線にリヴァへ迫ると、片刃の木剣を大きく振りかぶった。
踏み込みにも、振り下ろす刃にも迷いはない。だが、アレンとマナは、その背中を追うことさえできていない。
「先走るなよ」
リヴァは斜め前へ一歩踏み出す。
振り下ろされた剣を避けるのではなく、その懐へ入り込んだ。
「なっ――」
予想外の踏み込みに、ドレイヴの反応が一瞬遅れる――その瞬間。
横合いから振るわれた木剣が、狙い澄ましたようにドレイヴの手首を叩いた。鈍い音とともにドレイヴの指が開く。握っていた片刃の木剣は、そのまま宙へ弾き飛ばされる。
それでもドレイヴは止まらない。木剣を弾かれると同時に、左腕を伸ばしてリヴァの肩を掴もうとした。
「悪くねえ」
低く呟いたリヴァは体を沈め、伸びてきた腕の下を潜り抜ける。
もう一方の木剣の柄がドレイヴの脇腹に突き込まれた。
「ぐっ……!」
巨体が横へ崩れる。それでもドレイヴは落とした木剣へ手を伸ばしている。
「ドレイヴ!」
マナは杖を掲げた。
「水よ、守りの壁となれ。包み込め――」
空中に青い術式が浮かび上がる。
青い術式は正確に組み上がっていく。ドレイヴが倒れたあとも、マナが選んだのは最初に予定していた防御術式だった。
「遅い」
リヴァは倒れたドレイヴを飛び越え、その勢いのままマナへ迫る。
「ヴェレンヴァル!」
マナの前に水の盾が広がった。
しかし、リヴァは正面からぶつかろうとはせず、踏み込む直前に進路を変えると、水の盾の側面へ素早く回り込む。
「えっ――」
マナが杖を向け直そうとしたときには、すでにリヴァは目の前にいる。
木剣の切っ先がマナの喉元に突きつけられた。
「マナ、脱落。一人目だ」
そう告げると、リヴァはマナの杖を軽く払い上げる。
杖はあっけなく手を離れ、そのまま地面へ転がっていく。剣を構えたまま、アレンは二人が倒されるのを見送るしかなかった。
あまりにも速い。
ドレイヴが倒され、マナの防御を抜かれるまで、ほんの数秒しか経っていない。
「アレン!」
マナに名を呼ばれ、アレンの意識が戦いへ引き戻される。リヴァはマナの前に立ったまま、こちらへ背を向けていた。
今なら撃てる。
そう判断したアレンは右手を前へ突き出し、空気中の魔力を一気に引き寄せる。青白い火花が、指先で弾け始めた。
「走れ、雷――」
だが、詠唱はそこで止まった。
リヴァのすぐ横にはマナがいる。倒れたドレイヴも、射線から完全には外れていない。
出力を落とせばいい。
そう考えた直後、別の言葉が脳裏をよぎった。
――また、逸れたら。
ルミノヴァの訓練場で、雷がマナの腕を焼いた光景が鮮明に蘇る。
指先へ集まっていた魔力は、迷いに引きずられるように不安定に揺らいでいく。
「撃たねえのか?」
リヴァが振り返った。
アレンは答えられない。
「だったら、こっちから行くぞ」
次の瞬間、リヴァの姿が消える。
そう錯覚するほどの速度で間合いを詰められ、アレンは考えるより先に盾を跳ね上げた。直後、木剣が盾の中心を真正面から打ち据え、左腕へ強い衝撃が走る。
衝撃を殺しきれず、盾ごと左腕が外側へ流された。
「っ!」
体勢を崩しながらも、アレンは右手の剣を横薙ぎに振るう。リヴァは上体を反らしてその刃をかわしたが、アレンはさらに一歩踏み込み、間を置かず二撃目を放つ。
しかし今度は、リヴァが片方の木剣で受け止めた。乾いた音が訓練場へ響き渡る。
「剣筋は悪くねえ」
リヴァが淡々と言った。
「守りも、丁寧だ。けど――」
もう一本の木剣が、盾の縁を下から鋭く打ち上げる。
盾ごと左腕を上へこじ開けられた。
「考えすぎなんだよ」
木剣の先端がアレンの胸元にそっと触れる。
それはほんの軽い一撃にすぎなかったが、勝敗を決めるには十分だった。
「二人目」
その声に重なるように、背後から荒い足音が迫ってくる。
「勝手に終わらせんな!」
脇腹を押さえていたドレイヴは落とした木剣を拾い上げると、痛みを振り切るように再びリヴァへ突進した。
だが、足取りは一度目より明らかに乱れている。剣を振り上げる動きも隠せていない。狙いは正面から見ても分かるほど単調だった。
「今度こそ――!」
「……変わってねえよ」
リヴァが静かに言うと、体をわずかに横へずらし、ドレイヴの斬撃を紙一重でかわす。
勢いを止められない彼の背へ木剣を添え、そのまま足を払う。巨体は前方へ投げ出され、土の上を何度も転がった。
ドレイヴが起き上がろうとしたときには、すでにリヴァの切っ先が首元へ突きつけられている。
「三人目」
訓練場に静寂が戻った。開始からまだ一分も経っていない。
アレンは胸元に触れた木剣の感触を思い返しながら、呆然とその場に立ち尽くしている。
何もできなかった。
三人で戦ったはずなのに、実際には連携することもできず、一人ずつリヴァへ向かっては、ただ倒されていっただけだった。
「ここまでだね」
壁際にいたケイムが告げた。
封止用の魔法陣の光が弱まり、訓練場を囲んでいた術式が消えていく。
「……もう一回だ」
ドレイヴは服についた土を乱暴に払いながら、立ち上がる。
「今のは、最初の動きが噛み合わなかっただけだ」
「やり直しても同じだ」
リヴァは二本の木剣を無造作に下ろした。
「少なくとも、今のお前らじゃな」
「俺たちは、まだ全力を出してねえ」
「違う」
リヴァはドレイヴをまっすぐ見据える。
「全力を出さなかったんじゃねえ。出せなかった。それが問題なんだよ」
ドレイヴが言葉を詰まらせた。
リヴァは三人の前へ歩み寄る。
「先に言っておく。お前らは、弱くねえ」
思いがけない言葉に、三人が顔を上げた。
「ドレイヴには突破力と、倒れても立つしぶとさがある。マナの術式は正確で、防御と治療を任せられる。アレンは剣の基礎が安定してるし、相手を見る冷静さもある」
リヴァはそこで一拍置き、三人の顔を順に見る。
「――一人ずつなら、な」
リヴァの声が低くなった。
「お前らはな、三人で戦った途端に弱くなる」
ドレイヴの眉がぴくりと動く。
「……どういう意味だよ」
「言ったままの意味だ」
「まずは、お前だ」
「俺からかよ」
「真っ直ぐ進むのは悪くねえ。その体格と突破力なら、前衛はお前だ」
リヴァは木剣の切っ先でドレイヴの胸を軽く叩く。
「だが、仲間がついてきてるかも見ずに飛び出せば、突破じゃない。ただの孤立だ」
「……マナの支援を待てってことか」
「支援だけじゃねえ。後ろの二人が何をしようとしてるのか、見ろ」
ドレイヴは言い返せず、悔しそうに奥歯を噛んだ。
続いて、リヴァはマナの前で足を止める。
「お前は、その逆だ」
「わたしは……何が駄目だったの?」
「正しい順番にこだわりすぎた」
マナは杖の柄を強く握り締めた。
「最初に防御、次に補助、そのあとで拘束。学校で習った通りに組み立てようとしたんだろ」
「だって、順番を崩したら術式が不安定になるから……」
「じゃあ、戦場で仲間が倒れかけてても、教本どおりの順番を守るのか?」
マナの返事が途切れる。
「ドレイヴが飛び出した時点で、予定はもう崩れてた。なら、防御を張るより先に、水であいつの進路を逸らす手もあった」
「でも……そんな使い方をしたら、失敗するかもしれない」
「失敗しないことばかり考えて、何もできずに終わる方が悪い」
厳しい言葉だった。
だが、リヴァの声に責めるような響きはない。
「正しい術式ばかり見るな。今、目の前にいる仲間を見ろ」
マナは俯き、しばらくして小さくうなずいた。
「……うん」
「お前の正確さは武器だ。捨てろって言ってるんじゃねえ」
リヴァは手の中で木剣をくるりと回す。
「何を、いつ使うのか。それを自分で決めろって言ってるんだ」
マナはゆっくりと顔を上げ、今度ははっきりと頷いた。
最後に、リヴァがアレンの前へ来る。
「お前が一番厄介だな」
「……分かってる」
「いや。分かってねえよ」
アレンは眉を寄せた。
「撃てる瞬間があった。そうだろ?」
「ああ」
「じゃあ、どうして撃たなかった」
「マナとドレイヴが近くにいた。巻き込みたくなかったんだ」
「それは、本当に正しい判断だったか?」
アレンは答えられない。
「出力を落とすこともできた。地面に流して、あたしの足を止めることもな。撃つと見せかけて、一瞬動きを鈍らせるだけでもよかった」
「でも……もし、制御できなかったら――」
「そこだ」
リヴァが言葉を断ち切った。
「お前は二人を守るために撃たなかったんじゃねえ。怖くて、撃てなかったんだ」
胸の奥を見透かされたようだった。
「……違う。巻き込む可能性が――」
「撃たないと決めるのと、怖くて撃てないのは違う」
その言葉には、アレンの言い訳を許さない鋭さがある。
「撃たないと決めたなら、その次に動いてたはずだ。剣で援護する。声をかける。二人を下がらせる。けど、お前はそこで止まった」
アレンは唇を噛む。
「……そうだ」
もう、認めるしかなかった。
あの瞬間、アレンはマナを傷つけた記憶に呑まれていた。
撃たないと決めたのではない。ただ、恐怖に足を止められたのだ。
「……二人を、傷つけたくなかった」
「それは間違ってねえよ」
リヴァの声が少しだけ柔らかくなる。
「仲間を巻き込みたくないと思えるのは、お前の長所だ。けどな、その気持ちに足を止められたら――結局、誰も守れなくなる」
アレンは倒された二人の姿を確かめる。
ドレイヴは脇腹を押さえ、マナは拾い上げた杖を強く握り締めている。
これが実戦なら、二人とも死んでいたかもしれない。
「……俺は、どうすればよかった?」
「それを、これから確かめる」
リヴァはそう答えると、アレンの手にある片手剣を顎で示す。
「三人で動くと、お前は仲間を気にしすぎる。だから先に、一人でどこまで戦えるのかを見る」
「俺一人で?」
「ああ」
ドレイヴが眉をひそめた。
「待てよ。次は連携を直すんじゃねえのか?」
「直すさ。けど、自分にできることが分からなきゃ、何を仲間に任せるかも決められねえ」
リヴァは木剣の切っ先をアレンへ向ける。
「刻印は使うな。そのうえで、どこまで戦えるのか……まずは見せてみろ」
右手の手袋の下で、刻印が微かな熱を帯びた。
恐怖が消えたわけではない。それでもアレンは恐怖を抱えたまま、剣の柄を握り直す。
その様子を見たリヴァの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。




