第7話『再会の風』
リヴァの言葉に、冗談めいた響きはなかった。その宣言は、食堂の喧騒の中へ静かに沈んでいく。
アレンの右手を包む指は硬かった。剣を振るい続けてきた者の手だ。強く掴まれているわけではない。それでも、その手からは簡単には揺らがない意志が伝わってくる。
「……怖くないのか?」
アレンがためらいがちに尋ねる。
「何がだ?」
「俺の刻印。……触っても、平気なのか」
「平気なわけあるか」
リヴァは、あっさりと言い切った。
「帝国の刻印者がどれだけの力を振るったか、あたしはこの目で見てる。何の警戒もせずに近づけるほど、馬鹿じゃねえよ」
マナの表情が僅かに強張る。
だが、リヴァはアレンの手を離し、自分の席へ戻りながら言葉を続けた。
「だからって、刻印者だから危険だと決めつけるのも違う。昔から知ってる相手だから、絶対に大丈夫だと思い込むのもな。どっちも、考えるのをやめてるだけだ」
リヴァは匙を手に取り、冷め始めたスープをひと口すする。
「お前がこれまで何をしてきたかは知ってる。けど、今のお前がその刻印をどこまで扱えるのかは知らねえ」
リヴァは器を置き、アレンと目を合わせた。
「だったら、自分の目で確かめる。それだけだ」
「……リヴァ、昔より厳しくなったね」
マナがどこか寂しそうに言った。
「昔のあたしが、甘すぎたんだよ」
「リヴァが?」
「ああ。あたしがだ」
リヴァは器の中を見つめたまま答える。
「学校にいた頃はさ、自分が強けりゃ、大抵のことは何とかなると思ってた。敵を倒せば仲間を守れる。誰よりも速く動ければ、誰も死なせずに済む――本気で、そう思ってたんだ」
リヴァの横顔に、微かな影が差した。ドレイヴがパンをちぎる手を止める。
「それで、飛び級したんだろ?」
「ああ。二年前に卒業認定試験を受けて、そのまま軍に入った」
「俺たちが中等戦闘術の課題で散々苦しんでた頃か」
「苦しんでたのは、お前だろ。最後までな」
「……余計なお世話だ」
「でも、ドレイヴ。筆記試験の前の日は、毎回アレンに泣きついてたよね」
マナが懐かしそうに笑う。
「泣きついてねえ。分からないところを確認してただけだ」
「夜中に窓を叩いて、『術式構築の範囲を教えてくれ』って頼むのが、確認なのか?」
アレンが言うと、リヴァは堪えきれずに吹き出した。
「ほんと、変わってねえな。お前ら」
「リヴァだって、変わってないよ」
マナは少しだけ頬を膨らませた。
「あのときも、急に飛び級するって決めたのに、わたしたちには何も言わなかった」
「急に決めたわけじゃねえよ」
「でも、卒業が決まったって聞いたのは、試験が終わったあとだった」
「先に言ったら、お前ら、騒いだだろ」
「騒ぐよ。友達が二年も早く卒業して、いなくなるんだもん」
その声に、責めるような響きはない。
「ちゃんと……お別れくらい、言いたかった」
リヴァは答えず、しばらくスープの表面を見つめていた。やがて居心地が悪そうに、銀灰色の髪を掻く。
「……悪かったよ」
「え?」
「あの頃は、軍に入ることしか頭になかったんだ。家の事情もあったし、少しでも早く力をつけたかった」
リヴァは顔を上げないまま、言葉を継いだ。
「それに……別れなんて、大げさなことをする必要はねえと思ってた。どうせ、また会えるってな」
「実際、会えたけどね」
「ああ。二年もかかったけどな」
ドレイヴがパンを置き、リヴァへ向き直る。
「せめて、もう少し早く連絡くらい寄越せよ」
「軍の配属先を好き勝手に話せると思うな。最初の半年は南部の討伐任務、そのあとは西方の監視線だ。手紙を書いたところで、届く頃には別の砦へ移ってた」
「じゃあ、ファランディアに来てからは?」
「……忙しかった」
「結局、そればっかりじゃねえか」
「事実なんだから、仕方ねえだろ」
交わされる言葉は、昔と何ひとつ変わらない。
けれど、目の前にいるリヴァは、魔法学校の食堂で言葉を交わしていた頃の彼女とは違っていた。
軍服には落としきれない土埃が染みつき、手には記憶にない傷がいくつも増えている。店内で談笑していた兵士たちも、リヴァが声を発するたび、ちらりとこちらを窺う。そこには、旧友を見るアレンたちとは異なる緊張があった。
自分たちの知らない二年間は、確かに彼女を変えている。
「飛び級で軍に入って……それから、すぐに部隊長になったの?」
マナが尋ねると、リヴァは小さく鼻を鳴らした。
「まさか。最初は、ただの魔術剣士だよ」
リヴァは匙を置き、少しだけ俯く。
「補給部隊の護衛に、魔物の討伐、国境の監視……命じられた仕事は、片っ端からやった。階級が上がり始めたのは、帝国との衝突が増えてからだ」
「じゃあ、刻鎖隊は?」
「帝国が前線に刻印者を出し始めた頃に作られた」
リヴァの声が低くなった。
「普通の部隊じゃ、刻印者を相手にしたときの損害が大きすぎた。魔法は防がれる。剣は届かねえ。どうにか傷を負わせても……痛みなんか、最初からないみたいに動き続ける奴までいる」
アレンは何も言わず、膝の上で右手を握りしめる。
ケイムの話では、刻印者は力を使わずとも、身体能力や魔力そのものが底上げされるという。それだけでも、普通の兵士には十分すぎる脅威だった。
「帝国の刻印者と戦って、それでも生き残った兵を集めて、少人数の部隊が作られた。あたしは、その最初の作戦に参加した」
「……勝ったのか?」
ドレイヴに問われても、リヴァはすぐには答えない。
「敵は、撤退した」
勝った、とは言わない。
「けど、こっちは十二人で出て……生きて戻れたのは、五人だけだ」
マナが小さく息を呑む。
「その戦功で、隊長になったのか」
「戦功なんて、そんな立派なもんじゃねえよ」
リヴァは吐き捨てるように言った。
「指揮官が死んだ。その次に階級が高かった奴も死んだ。最後まで動けたのが……たまたま、あたしだった。それだけだ」
「それでも」
アレンが静かに口を開いた。
「お前がその五人を連れて帰ったんだろ」
「……帰れなかった七人もいる」
リヴァはアレンの言葉から逃げることなく、正面から彼と向き合う。
「部隊長ってのはな、生きて戻った人数だけ数えてりゃいい仕事じゃねえ。誰を前へ出すか。誰を退かせるか。誰を助けて……誰を諦めるか。そういうことを、決めなきゃならねえ」
その言葉の奥に、今も取り返せない選択が残っていることは分かった。
「この前も……一人、死なせた」
店内の物音が、急に遠のいたように感じられる。
「帝国の刻印者が、国境の監視所を襲った。救援要請は来たが、あたしは命令に従って持ち場を離れなかった」
「監視所にいた兵士たちは……」
「全滅した。その中に、あたしの部下もいた。十五だった」
リヴァは、卓上で拳をゆっくりと握る。
「最後まで、あたしが助けに来るって信じてたよ。……それでも、あたしは行かなかった」
軍人として、命令に従うべきだったのか。それとも、命令に背いてでも助けへ向かうべきだったのか。
どちらが正しかったのか、アレンには判断できない。おそらくそれは、リヴァ自身にも分からないのだろう。
「帝国の刻印者に殺された部下って……その子なの?」
マナが声を落として尋ねた。
「ああ」
リヴァは短く答え、僅かにまぶたを伏せる。
「遺体は……まともな形じゃ残ってなかった」
手袋の下で、アレンの刻印が微かに熱を帯びた。
彼女の部下を殺したのは帝国の刻印者であって、自分ではない。それでも、同じく刻印を宿す者として、リヴァが自分をどう見ているのか――考えずにはいられない。
「……だから、俺のことを調べるのか?」
「それもある」
リヴァは、隠そうとはしなかった。
「お前が昔のアレンのままだってことは、信じてる。けどな……お前の中にある刻印まで、同じように信じるつもりはねえ」
「……ああ」
「気を悪くしたか?」
「いや」
アレンは小さく首を振る。
「それでいいと思う」
自分でも驚くほど、素直に答えられた。無条件に信じられるより、危険を理解したうえで向き合ってくれる方が今はありがたい。
「俺自身も、まだ自分の刻印を信用できてない」
「だったら、まずはそこからだ」
リヴァの表情が、ほんの僅かに和らいだ。
「自分でも信用できねえものを、他人にだけ信じろって言うのは無茶だろ」
しばらく、誰も口を開かなかった。冷めたスープの表面だけが、食堂を行き交う人々の足音に合わせて、かすかに揺れている。
「でも、アレンのことは信じてるんでしょ?」
やがて、マナが静かに尋ねる。
リヴァはマナへ向き直った。
「全部は信じてねえよ」
「え?」
「こいつ、昔から無茶するときに限って、誰にも相談しねえからな」
アレンは返す言葉を失う。隣で、ドレイヴが深く頷いた。
「それは間違いない」
「ちょっと、ドレイヴ」
「グリムフォードでも、自分だけ残ろうとしただろ」
「あれは――」
「ほらな」
リヴァが呆れたように肩をすくめる。
「刻印より先に、直すところが山ほどありそうだ」
「そこは今、みんなで直してる途中なの」
マナが庇うように言った。
「直すって……俺は壊れた道具か何かなのか?」
「一人で何でも抱え込む癖の話だよ」
「それなら、マナだって人のことは言えないだろ」
「わたしは、ちゃんと相談してるよ」
「心配をかけたくないって、無理して治癒魔法を使い続けたことがあったよな」
「それは昔の話でしょ」
「半年前だ」
二人のやり取りを聞いていたリヴァが、堪えきれずに声を上げて笑った。
「二年経っても、その調子かよ」
「そういうリヴァはどうなんだよ」
ドレイヴが問い返す。
「一人で何でも背負い込む癖、少しは直ったのか?」
リヴァの笑みが一瞬、固まった。
「……お前、たまに妙なところで鋭いよな」
「たまには余計だ」
そのとき、食堂の扉が開く。
頭上の鐘が鳴り、冷たい風が店内へ流れ込んだ。
「ずいぶん楽しそうじゃないか」
聞き慣れた軽い声に、四人はそろって入口を振り返る。
そこには、長い外套の裾を揺らしながら立つケイムの姿。片腕に書類の束を抱え、もう片方の手には小さな紙袋を提げている。
「ケイム」
アレンが名前を呼ぶと、ケイムは書類を抱えたまま、彼らの卓へ歩いてきた。
「司令部の会議は、もう終わったのか?」
「会議はね。ようやく終わったと思ったら、今度は書類仕事が増えていてねぇ。いやはや、困ったものだよ」
ケイムは抱えていた書類を卓上へどさりと置く。その厚みで、空になりかけた器が僅かに揺れた。
「見たまえ、この見事な紙の山を。人類が文字を発明したことを、これほど恨めしく思った日はないよ」
「それ、毎日言ってそうだな」
「今日はいつにも増して、心を込めて言っているんだよ」
ケイムは近くを通りかかった店主へ、軽く手を上げる。
「スープを一つ。それから、この袋の中身も温めてもらえるかな」
「持ち込みは追加料金だぞ」
「軍の機密費で落としておくよ。なに、こういうときのための予算だからねぇ」
「食事代を機密費にするな」
店主は呆れた顔で紙袋を受け取り、そのまま厨房へ戻っていった。
「その中、何が入ってるの?」
マナが紙袋を目で追いながら尋ねる。
「軍本部の食堂でもらった焼き菓子だよ。会議中につまんでいたら、司令官殿にひどく睨まれてしまってねぇ。仕方がないから、残りは君たちへの土産にしたというわけさ」
「会議中に食うからだろ」
「空腹の頭で下した判断なんて、たいてい碌なものじゃない。つまりこれは、極めて合理的で、軍事的にも重要な補給行動なんだよ」
そう言って、ケイムはリヴァへ話を振った。
「それにしても、久しぶりだね。リヴァ・セイン部隊長」
「その呼び方、気持ち悪いからやめろ」
「では……リヴァ君」
「さっきより気持ち悪い」
「まったく。相変わらず注文が多いねぇ」
「二人、知り合いなのか?」
ドレイヴが尋ねると、リヴァは露骨に嫌そうな顔をした。
「前に、こいつの調査に付き合わされた」
「調査ではなく、共同研究と呼んでほしいな」
「帝国の遺物を調べるとか言って、いきなり爆発させた奴が何を言ってんだ」
「あれはねぇ……さすがに僕の想定を超えた反応だったんだよ」
「部屋の壁が三枚、吹き飛んだぞ」
「四枚目は無事だったと記憶しているよ」
「そこを誇るな」
アレンは、二人の顔を交互に見る。
「それで、ケイム。リヴァに何か用があるのか?」
「もちろん」
ケイムは卓上の書類へ手を伸ばし、その中から一枚の命令書を抜き取った。
「君には、第七特別戦術小隊の戦力を見定めてもらいたい。できれば、報告書の数字だけでは拾えないところまで含めてね」
リヴァの視線が差し出された命令書へ落ちる。
「……こいつらのか?」
「ああ。ルミノヴァで、基礎的な検査は一通り済ませている。ただ、あれは戦闘訓練というより――アレンの刻印がどんな刺激に反応するのかを確かめるための観察に近かったからね」
ケイムは、アレン、マナ、ドレイヴの順に指を向ける。
「三人とも、魔法学校を出たばかりの新米だ。教本どおりの戦い方なら、一通り身についているだろう。けれど――戦場まで教本どおりに動いてくれるとは限らないからねぇ」
「それを、あたしに見極めろって?」
「刻印者を相手にする戦いを想定するなら、君以上の適任者はそう多くない。少なくとも、僕の知る限りではね」
ケイムは、いつもの軽い調子を崩さないまま続けた。
「それに、君は彼らの性格も知っている。初対面の教官に任せるより、ずっと正確に見られるだろう?」
「昔のこいつらならな」
リヴァは三人の様子をひとりずつ確かめる。
「二年もあれば、少しくらい変わってるかもしれねえ」
「さっき、変わってないって言ってただろ」
ドレイヴがすかさず指摘した。
「性格はな。腕の方までは知らねえよ」
リヴァの目が、アレンの右手で止まる。
「特に、そいつは」
その瞬間、ケイムの表情が引き締まった。
「アレンには、刻印を使わないことを前提にした戦い方が必要だ」
「呪縛があるからか?」
「それだけじゃない。あの刻印は感情に反応して、本人の意志を無視して発動する危険がある」
「暴走事故の報告なら読んだ」
「なら、話は早いね。刻印を封じた状態で、彼に何ができるのか――まずは、それを知っておきたい」
「刻印は使わせなくていいのか?」
「最初から強大な力に頼る癖をつけさせるつもりはないよ。切り札は、切る時を選べてこそ意味があるからね」
ケイムは、アレンへまっすぐ言葉を向けた。
「力を持っていることと、その力がなければ何もできないことは、まるで違う。便利な力ほど、頼りすぎれば……真っ先に弱点へ変わるものさ」
アレンは、その言葉を受け止めるように一度頷き、黒い手袋に覆われた右手を見る。
刻印と向き合うことと、刻印に頼ることは違う。必要なときに自分の意志で使うためにも、まずは使わずに戦える自分でいなければならない。
「マナとドレイヴも同じだ」
ケイムは続ける。
「見てほしいのは、三人それぞれの腕前だけじゃない。彼らが三人で一つの小隊として、どこまで噛み合って動けるのか――そこまで確かめてもらいたいんだ」
ケイムはそこで言葉を切り、かすかに笑った。
「優秀な個人を三人並べたところで、それだけで小隊になるとは限らないからね。互いの長所を潰し合うようなら、戦場では三人分の戦力どころか、三人分の弱点を抱えることになる」
「俺たちなら問題ねえ」
ドレイヴが胸を張る。
「そう言う奴に限って、いざとなったら真っ先に突っ込むんだよ」
リヴァが間髪を入れずに返した。
「……なんで分かるんだよ」
「昔から、そうだっただろ」
「今は違う」
「なら、確かめさせてもらう」
リヴァは椅子の背に体を預け、ゆっくりと腕を組む。
「一人ずつ見るより、三人まとめて見た方が早い」
マナが不安そうに瞬いた。
「まとめてって……どうするの?」
「お前ら三人で、あたし一人を相手にしろ」
リヴァは立ち上がると、腰に佩いた双剣に静かに手を添える。
その仕草だけで、周囲にいた兵士の何人かが会話を止めた。戦場で幾度も彼女の剣を目にしてきた者たちには、リヴァが本気で三人を試すつもりだと分かったのだろう。
「武器は訓練用を使う。殺傷性の高い攻撃は禁止。アレン、お前は刻印を使うな」
リヴァは真っ直ぐにアレンを見据えた。
「もし勝手に出そうになったら、そのときはあたしが止める」
「……分かった」
「それと、三人とも勘違いすんなよ」
リヴァの視線がアレンからマナ、ドレイヴへと移っていく。
「これは、昔の友達同士の遊びじゃねえ。あたしはお前らの弱点を探す。見つけたら、遠慮なくそこを突くからな」
「望むところだ」
ドレイヴが拳を掌に打ちつける。
マナも傍らの杖へ手を伸ばした。指先には緊張が滲んでいたが、それでもリヴァに向かってしっかりと頷く。
「……わたしも、やる」
アレンは、黒い手袋に覆われた右手を見下ろした。
刻印は静まり返っている。だが今は、その静けさも不気味には感じられない。むしろ、試される瞬間をじっと待っているように思えた。
リヴァは三人の顔を順に見渡す。誰も目を逸らさない。それを確かめると、不敵に口元を歪めた。
「訓練場は南区画だ。食い終わったら来い」
食堂の出口へ向かいかけたリヴァは、肩越しに振り返る。
銀灰色の髪が、開いた扉から吹き込む風に揺れた。
「三人まとめてかかってこい。お前らが小隊として使い物になるか――あたしが見てやる」




