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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第一章『雷鳴の刻印』

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第6話『戦場の街で』


 第五兵舎で荷物を置いた三人を待っていたのは、休息ではなかった。


「第七特別戦術小隊の新入り――お前たちだな?」


 兵舎の入口で声をかけてきたのは、分厚い帳簿を脇に抱えた中年の兵士だった。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、右耳の上半分が欠けている。腰に下げているのは剣ではなく、幾つもの鍵と、文字の書かれた木札だった。


「俺は補給部のバルガス。階級は曹長だ。お前たちの部屋と食事、それから装備品の管理を任されている」


「ケイムからは、夕刻までは自由にしていいって聞いたんだが」


 ドレイヴが不満を隠さず言うと、バルガスは片方の眉を上げる。


「自由になったら、街を見て回るつもりだったんだろう?」


「まあ……そのつもりだったけどよ」


「なら、ちょうどいい。物資を運びながら回れ。道も覚えられるし、街の人間にも顔を覚えてもらえる。こっちの仕事も片づく……一石三鳥だ」


「……最後の一つ、あんたが楽できるって話じゃねえだろうな?」


 バルガスは口元だけで笑った。


「そこまで分かるなら話が早い。察しのいい奴は嫌いじゃない」


 バルガスは悪びれる様子もなく答え、三枚の木札をそれぞれに差し出した。


 治療院へ運ぶ包帯と薬草。南門の詰所へ届ける魔法灯の交換部品。そして、共同炊事場へ回す乾燥豆と塩。木札には、それぞれの届け先と数量が記されている。


 どれも、戦時下の都市を支えるためには欠かせない物資だった。


「荷車は裏にある。届け先で受領印をもらって戻ってこい。道が分からなければ、近くの兵士に聞け」


 それだけ告げると、バルガスは帳簿を抱え直し、兵舎の中へ戻っていった。

 ドレイヴは渡された木札を眺め、これ見よがしに深いため息をつく。


「……自由時間って、なんだったんだろうな」


「街を見て回れるんだから、いいじゃない」


 マナは不満どころか、どこか楽しそうだった。


「それに、怪我をしてる人たちの役に立てるかもしれないし」


「お前、本当に真面目だよな」


「ドレイヴが不真面目すぎるんだよ」


「不真面目じゃねえ。俺は効率を重視してるだけだ」


「荷物を運ばないことの、どこが効率的なんだ?」


 アレンが尋ねると、ドレイヴは言葉に詰まり、しばらく木札と荷車を見比べた。

 やがて兵舎の裏に置かれていた荷車へ歩み寄り、その取っ手を掴む。


「……三人でちまちま運ぶより、俺一人で引いた方が速いだろ」


 荷台には木箱が隙間なく積まれていたが、ドレイヴは苦もなく荷車を動かした。車輪が石畳の溝にはまり、荷物が大きく跳ねる。


「ほらな」


「壊したら意味ないよ」


 マナが慌てて木箱を押さえた。


 三人はそんなやり取りをしながら、第五兵舎を離れていく。


     ◇


 ファランディアの通りは、遠くから眺めた以上に複雑だった。


 城壁から中心部へ大通りが伸び、その両側から細い路地が幾重にも枝分かれしている。敵が侵入しても、真っ直ぐ中心部へ進めないように造られているのだろう。


 角を曲がるたび、低い防壁や鉄柵が現れた。建物の二階には弓兵が身を隠せる狭い窓があり、市内の至るところに戦争への備えが施されている。


 広場では噴水の水が止められ、空になった水盤には消火用の砂袋が積み上げられていた。露店の屋根も、警報が鳴ればすぐに取り外せる簡素な造りになっている。


 通りの端には、避難経路を示す赤い矢印が描かれていた。その意味は、子供でさえ理解しているようだった。


「そこを右に曲がれば治療院だ」


 道を尋ねた兵士が、荷車を引くドレイヴへ顎をしゃくった。


「ただ、正面は負傷兵専用になってる。物資なら裏口へ回ってくれ」


「分かった。助かる」


「礼はいい。それより、その格好でうろつかれて、また道を聞かれる方が面倒だ」


 兵士は、三人の胸元に縫いつけられた第七特別戦術小隊の所属章を一瞥し、すぐに目を逸らした。その表情には、城門の兵士たちが見せたものと同じ警戒が浮かんでいる。


 治療院へ近づくにつれて薬草と血の匂いは強まり、石造りの建物の前には幾つもの担架が並べられ、院内へ収容しきれない負傷者たちが天幕の下で治療を受けていた。


 辺りには、負傷者の呻き声や、水を求める掠れた声が絶え間なく響いていた。治癒魔法の淡い光が明滅する中を、治療師たちが慌ただしく行き交っている。


 その光景を前に、マナの表情から先ほどまでの明るさが消えていく。


「こんなに……」


 ルミノヴァの中央医療塔でも、多くの負傷者を見た。だが、そこでは患者一人一人に寝台が与えられ、治療用の魔導器具も揃っていた。


 ここでは違う。


 血の止まっていない兵士が地面に敷かれた布の上へ横たわり、治療の順番を待っている。治癒魔法を使える者は足りず、傷を洗い、布で縛るだけの処置を受けている者も多かった。


「止まるな! そこを空けろ!」


 入口に立っていた治療師が、三人へ鋭く叫んだ。


「物資なら裏口だ! ここを塞がれると、負傷者が入れない!」


 三人は慌てて荷車を押し、建物の裏へ回った。


 裏口では、二人の衛生兵がすぐに木箱を受け取った。中身と数量を確認し、木札へ受領印を押している間にも、担架に乗せられた負傷者が次々と運び込まれていく。


「……包帯、これだけですか?」


 箱を開けた若い衛生兵が、中を覗き込んだまま顔をしかめた。


「これじゃ、三日も持ちませんよ」


「次の補給便は明後日だ」


 年長の衛生兵は手を止めずに答えた。


「それまでは、洗って使い回せ」


「でも、血が落ちないものもあります」


「なら、落ちるものだけでも使え。何もないよりはましだ」


 二人の会話を聞きながら、マナは杖を握る手に力を込める。


「……わたしも、何か手伝えないかな」


「気持ちは分かるけど、勝手に治療へ入るのはまずいだろ」


 アレンは、次々と運び込まれる負傷者を目で追った。


「術式も薬も、向こうで管理してるはずだ。まずは現場の指示を聞いた方がいい」


「でも、このまま見てるだけなんて……」


 マナが言葉を続けようとした、そのときだった。


「危ない!」


 通りから鋭い叫びが飛んだ。


 続けて、木箱が崩れ落ちる激しい音が響いた。三人が振り返ると、大通りを進んでいた補給用の荷車が大きく傾いていた。


 車輪の一つが石畳の割れ目にはまり、その衝撃で積み荷を固定していた縄が切れたらしい。荷台から幾つもの木箱が滑り落ち、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。


 ただ一人、七、八歳ほどの少年だけが動けずにいた。抱えていた籠を取り落とし、迫る木箱を見上げて立ち尽くしている。


「どけ!」


 ドレイヴが地面を蹴る。

 少年を抱え、横へ飛ぶ。直後、木箱が石畳へ激突した。


 箱の角が砕け、中に詰められていた金属部品が通りへ散乱する。


「大丈夫か?」


 ドレイヴの腕の中で、少年は声も出せずに震えていた。命に関わる怪我はないように見える。

 しかし、倒れた際に地面へ打ちつけたのか、右脚の膝から下が不自然な角度に曲がっていた。


「足が……!」


 少年は遅れて痛みを自覚し、堪えきれず泣き出した。


「動かすな」


 アレンがすぐに膝をつき、少年の脚へ目を凝らした。


「骨が折れてるかもしれない。下手に触るな」


「だったら、すぐ治療院へ運ぶぞ」


 ドレイヴが少年を抱き上げようとする。


「待って」


 マナはその手を止め、少年の傍らへ座り込んだ。


「今動かしたら、折れた骨が中の傷を広げるかもしれない。先に固定するね」


 杖を地面へ置き、少年の脚へそっと両手をかざす。


「少しだけ冷たくなるけど……我慢できる?」


 少年が涙を流しながらも小さく頷くと、マナはひとつ呼吸を整え、周囲の空気に満ちる魔力を集める。少年の脚を包み込むように術式を組み上げていき、やがて淡い青色の光がその手のひらに灯った。


「水よ、痛みを鎮め、傷を包め――アクア・リクィエム!」


 少年の脚の周囲に生まれた薄い水の膜は、皮膚に沿って流れながら傷ついた部分を覆い、やがて冷たいまま柔らかな氷へと形を変えて、膝から足首までを固定した。


 本格的な治癒ではないものの、痛みを和らげ、折れた骨がこれ以上ずれるのを防ぐことはできたらしく、少年の強張っていた表情が僅かに緩む。


「痛みはどう? まだ強い?」


「さっきよりは……痛くない」


「そっか。よかった」


 マナはほっとしたように微笑んだ。


「でも、まだ治ったわけじゃないからね。脚は動かさないで。すぐ治療師さんに診てもらおう」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 少年が涙の残る顔で笑った。その笑顔を見て、マナもようやく安堵の息を吐く。


「ユリオ!」


 人混みを掻き分けて駆けてきたのは、作業用の前掛けを身につけた三十代ほどの女性だった。少年の姿を見つけるなり、その場へ膝をつき、強く抱きしめる。


「よかった……本当に、よかった。どこが痛いの? いったい何があったの?」


「積んであった荷物が崩れたんです」


 マナが事情を手短に説明した。


「脚を痛めています。でも、応急処置は済ませました。今すぐ治療院へ運べば、大丈夫だと思います」


「あなたが……この子を助けてくれたの?」


「いえ。箱から庇ったのはドレイヴです。わたしは、脚を固定しただけで」


 母親は、ドレイヴとマナを何度も見比べた。


「ありがとうございます。本当に……なんてお礼を言えばいいのか」


「礼なんかいいって」


 ドレイヴは気まずそうに鼻を擦った。


「ちゃんと間に合ったんだ。それで十分だろ」


 治療院から衛生兵を呼ぼうと、アレンは立ち上がる。

 そのとき、少年が彼へ手を伸ばした。


「お兄ちゃんも……ありがとう」


「俺は何もしてないよ」


「でも、ずっとそばにいてくれた」


 小さな手が、アレンの右手を掴む。


「あ――」


 止める間もなく、少年の指が黒い手袋の留め具へ引っかかった。

 手首の布がずれ、右手の甲に刻まれた紫色の紋章が、曇った陽光の下へ露わになる。


 母親が息を呑んだ。


 その顔から感謝の色が消え、彼女は我が子を守るように強く抱き寄せた。


「その手……」


 少年の母親は、露わになったアレンの右手から目を離せずにいる。

 アレンの喉が強張る。慌ててずれた手袋を戻した。


「これは……」


「刻印、なの……?」


 母親の声が震えた。

 恐怖と困惑に顔をこわばらせ、少年を抱き寄せながら、地面を這うように後ろへ下がっていく。


「待ってください」


 マナが一歩踏み出した。


「アレンは何もしてません。この子を助けようとしただけで――」


「近づかないで!」


 鋭い叫びに、周囲の人々が何事かと振り返った。

 母親は少年を庇うように抱きしめ、震える声で言った。


「その人……刻印者なんでしょう?」


 通りの空気が変わり、市民たちの目がアレンへ集まる。


 彼らは軍服の所属章を見た。黒い手袋を見た。そして、その下から一瞬だけ露わになった紫色の紋章を見た。


 やがて人々は、汚れたものを避けるように距離を取り、声を潜めて囁き始める。


「あれが……雷鳴の刻印者か」


「ルミノヴァから来たっていう、あの……」


「本当にファランディアへ入れたのかよ」


「よりによって前線の街に刻印者なんか連れてきて、軍は何を考えてるんだ」


「災いまで呼び込むつもりか……」


 囁きは、次第に人垣の中へ広がっていった。


 囁きに混じっていたのは、未知の力への警戒だけではない。そこには、アレンという人間ではなく、刻印者という存在そのものを遠ざけようとする拒絶があった。


 少年だけは母親の腕の中から、周囲の反応が理解できないようにアレンを見つめている。


「お母さん、このお兄ちゃんは――」


「見ちゃ駄目」


 母親は少年の顔を自分の胸へ押しつけ、アレンから我が子を遠ざけるように後ずさった。


「刻印者には関わっちゃいけないの。あいつらがいるところでは……必ず、災いが起きるから」


 その言葉だけは周囲の囁きに埋もれることなく、拒絶の意思を伴ってアレンの耳へはっきりと届く。


「グリムフォードだって、そうだったんでしょう。町が滅びた日に、刻印が現れたって……」


「それは違う」


 アレンは反射的に答えた。


「刻印が現れたのは、町が襲われたあとだ」


「それでも、災厄の中心にいたあなたに現れた」


 母親は少年を抱く腕へ、さらに力を込めた。


「そんな偶然を、どう信じろっていうの?」


「アレンが望んだことじゃない!」


 マナが勢いよく立ち上がる。


「アレンだって、家も、知ってる人たちも……全部失ったんです。それなのに――」


「マナ」


 アレンが低く制した。


「もういい」


「よくないよ」


「……今は、この子を治療院へ運ぶ方が先だ」


 少年の脚を固定している氷は、長くは保たない。ここで言い争えば、困るのは怪我をしている少年だった。


 アレンは近くにいた衛生兵へ声をかける。


「この子をお願いします。右脚を痛めています。水魔法で一時的に固定してあります」


 衛生兵は一瞬だけアレンの手袋へ視線を向けたものの、すぐに担架を用意し、少年は母親に付き添われながら運ばれていった。


 担架が通りの向こうへ消える直前、少年が母親の腕の隙間から顔を出す。


 そして、アレンたちへ小さく手を振った。

 それに気づいた母親は、何も言わず、その小さな手をそっと押し下げる。


 アレンは手を振り返すこともできないまま、遠ざかっていく二人の姿を見送った。


     ◇


 三人は再び荷車を押して次の届け先へ向かったが、先ほどまで交わしていた軽口はすっかり途絶え、車輪が石畳を転がる音だけが妙に大きく響いていた。


「……なんだよ、あの言い方」


 しばらく歩いたところで、ドレイヴが堪えきれないように吐き捨てる。


「助けてもらった直後だぞ。よく、あんなことが言えるな」


「怖かったんだよ」


 アレンは抑えた声で答えた。


「だからって――」


「俺たちだって、グリムフォードで骸骨を見たときは怖かっただろ」


「あんな化け物と、お前を一緒にするな」


「でも、向こうには……同じように見えてるのかもしれない」


 ドレイヴが荷車を止め、アレンを振り返る。


「お前まで、あいつらの言い分を認めるのか?」


「認めるとか、そういう話じゃない」


 アレンは、黒い手袋に覆われた右手を見下ろした。


「俺だって、この力が何なのか分かってない。完全に制御できるなんて、今はまだ言い切れない。実際に……マナを傷つけた」


「それは、暴走したときの話でしょ」


 マナがすぐに言葉を挟む。


「今のアレンは、あのときとは違うよ」


「……本当に、そうかな」


 口にした瞬間、マナの表情が曇った。

 アレンは後悔したが、胸に溜まっていた言葉を止められなかった。


「グリムフォードが襲われた日に、俺の刻印は目覚めた。帝国軍が動き出したのも、そのすぐあとだ。ケイムは……全部、どこかでつながってるかもしれないって考えてる」


「だからって、お前が原因だって決まったわけじゃねえだろ」


「分かってる。でも……違うって言い切れるだけのものも、まだない」


 城門で自分へ向けられた武器と、母親の告げた刻印者がいる場所では、災いが起きるという言葉が、頭の中で重なった。


 刻印が何かを引き寄せている可能性は、まだ否定されていない。帝国が刻印者である自分を追っているのだとしたら、自分がここへ来たことで、ファランディアまで戦火を招くことになる。


「……俺がいなければ、この街は狙われずに済むのかもしれない」


「アレン」


 マナが足を止めた。


「それ以上、言わないで」


「でも、もし本当に――」


「自分一人が、全部の原因みたいに言わないでよ」


 マナの声には、怒りよりも悲しみが滲んでいる。


「グリムフォードを襲ったのは、アレンじゃない。帝国が戦争を始めたのも、アレンじゃないよ」


 マナは一つずつ確かめるように言った。


「誰かが刻印を利用しようとしてるなら、悪いのは……利用しようとしてる、その人でしょ」


「それでも、俺がいなければ利用はできない」


「じゃあ、刃物で人を傷つける人がいたら……悪いのは刃物だけなの?」


「俺は道具じゃない」


「そうだよ」


 マナは、真っ直ぐにアレンを見た。


「アレンは道具じゃない。災厄でも、危険物でもない。自分で考えて、自分で選べる人だよ」


 城門で兵士たちから浴びせられた言葉を、彼女も覚えていたのだろう。アレンは返事ができなかった。

 ドレイヴが荷車の取っ手を握り直す。


「お前がこの街に来たせいで危険になるっていうなら、俺とマナだって同じだろ」


「どうしてそうなるんだよ」


「お前についてきたからだ」


 ドレイヴは、さも当然のことのように言った。


「危険だと思えば、ルミノヴァに残ることだってできた。でも、俺たちはここへ来た。誰かに言われたんじゃねえ。自分で決めてな」


「わたしも同じだよ」


 マナが小さくうなずく。


「だから……アレン一人で、全部の責任を背負わないで」


 二人の言葉は嬉しかった。だが、それだけで不安が消えることはない。


 もし本当に帝国軍が自分を狙って現れたとき、この二人まで巻き込むことになる。その未来を想像するだけで、右手の刻印が微かに熱を帯びた。


 アレンはそれを隠すように、右手を強く握りしめる。


 マナもドレイヴも、その変化には気づかない。三人は再び荷車を押し、残りの届け先へ向かった。


     ◇


 すべての物資を届け終えた頃には、昼の鐘が鳴っていた。

 三人は空になった荷車を第五兵舎へ戻し、バルガスに受領印を確認してもらった。


「初日にしちゃ、上出来だ」


 バルガスは受領印の押された木札を帳簿へ挟みながら言った。


「昼なら共同炊事場でもらえる。まだ街を見て回るつもりなら、東通りへ行け。兵士向けの安い食堂が何軒かある」


「……今度こそ、本当に自由時間なんだよな?」


 ドレイヴが疑うように念を押す。


「呼び出しがなければな」


「それを自由って言っていいのか?」


「軍人の自由なんてのは、だいたいそんなもんだ」


 バルガスは笑いながら次の荷物を抱えて兵舎の奥へ消えた。

 三人はそのまま東通りへ向かう。


 昼時の通りは朝よりも多くの人で混み合い、鍛冶職人や荷運び人、休憩中の兵士、治療院から戻ってきた衛生兵たちが行き交うなか、通りに並ぶ食堂の前からは焼いた肉や煮込んだ野菜の匂いが漂っていた。


「……腹減った」


 ドレイヴが、とうとう耐えきれないように言った。


「さっきから、それしか言ってないよ」


「そりゃ、働いたからな」


「荷車を引いただけでしょ」


「その荷車が一番重かったんだよ」


 二人のやり取りを聞きながら、アレンはふと、通りの端にある古びた木札へ目を留める。


 そこには、剣と鍋を組み合わせた絵が描かれている。扉の隙間から漂う香りに、アレンはどこか懐かしさを覚えた。


「……ここにしないか」


 三人が中へ入ると頭上の鐘が鳴り、背後で扉が閉じた。店内は外から見た以上に広く、長い木製の卓が幾つも並び、客の大半を兵士が占めている。


 壁際には剣や槍を置くための棚が設けられ、天井からは乾燥させた香草が吊るされており、厨房では火に掛けられた大きな鍋から白い湯気が絶え間なく立ち上っていた。


「三人か?」


 顔に大きな火傷痕のある店主が、三人を見渡した。


「空いてる席へ座れ。今日の昼は、豆と根菜の煮込みだ。パンは別料金になるぞ」


「じゃあ三人分。パンもつけてくれ」


 ドレイヴが迷いなく答える。


「俺たちの分まで、勝手に決めるなよ」


「いらねえのか?」


「……いるけど」


「なら、何も問題ねえだろ」


 三人はカウンターの端に並んで腰を下ろし、しばらくすると、湯気の立つ器が目の前へ置かれた。


 濃い茶色のスープには、豆や芋、玉葱、干し肉が形を崩すほど煮込まれている。見た目は決して華やかではない。それでも、香草と肉の匂いが強く空腹を刺激した。


 アレンは匙を取り、スープを口へ運ぶ。


「……あったかいな」


 熱いスープが喉を通り、冷えていた胸の奥へぬくもりが広がっていく。少し強めの塩味も、柔らかく煮崩れた豆も、肉の旨味を吸った根菜も、今はひどく優しい味に思えた。


「おいしい……」


 マナは両手で器を包み、湯気の向こうで目を細める。


「野菜もたくさん入ってるし、香草もちゃんと効いてる。戦場に近い街でも……こんな優しい味があるんだね」


 ドレイヴは大きな一口を飲み込み、ちぎったパンをスープへ浸した。


「こういうもんがあるから、持ちこたえられるんだろうな」


「何が?」


「兵士も、この街の連中もだよ」


 ドレイヴが店内を見回すと、隣の卓では腕に包帯を巻いた兵士が仲間と笑い合い、別の席では鎧を脱いだ女性兵士が机へ突っ伏して眠る傍らで、同僚が彼女の分のパンを布に包んでいた。


 アレンは、湯気の向こうに浮かぶ人々の顔を見つめる。

 ここは戦場の街である前に、彼らが笑い、食べ、誰かの帰りを待つ暮らしの場所なのだ。


「……おいおい」


 背後から、やや低い女性の声が聞こえた。


「まさかとは思ったけど、本当にお前らじゃねえか」


 三人の動きが止まったのは、聞き覚えのある声が店内へ響いたからだった。


 アレンがゆっくりと振り返る。


 店の入口には、彼らと同年代ほどの少女が立っていた。肩に触れるほどの銀灰色の髪が、外から入り込んだ風に揺れている。


 少女は軍服の上に軽量の防具を身につけ、腰には二本の剣を帯びていた。胸元には、風と交差する二本の刃を象った部隊章が縫いつけられている。


 彼女の姿に気づいた周囲の兵士たちは、僅かに姿勢を正した。


「……リヴァ?」


 確かめるように、その名がアレンの口からこぼれる。


「久しぶりだな、アレン」


 リヴァ・セインは片眉を上げ、昔と変わらない不敵な笑みを浮かべた。


「マナもドレイヴも元気そうじゃねえか。まあ……相変わらず辛気くせえ顔してるけどな」


「リヴァ!」


 マナが弾かれたように立ち上がる。椅子が床を擦り、大きな音を立てた。


「本当に……リヴァなの?」


「なんだよ。幽霊にでも見えるか?」


「だって、二年も何の連絡もくれなかったじゃない!」


「仕方ねえだろ。忙しかったんだよ。国の未来を背負ってたからな」


「ずいぶん大きく出たな」


 ドレイヴが呆れたように笑った。


「お前が部隊長になったって噂……あれ、本当だったんだな」


「噂じゃねえ。正式な辞令もちゃんとある」


「偽造じゃなくて?」


「もう一度言ってみろ。最初にお前から斬る」


「ははっ……そこは昔と変わってねえな」


 ドレイヴの笑みが、さらに深くなる。


 リヴァは三人の隣の椅子を引き、そのまま腰を下ろした。


「邪魔するぞ」


「もう勝手に座ってるだろ」


「細けえことは気にすんな」


 店主はリヴァの姿を確認すると、何も聞かずにスープを一皿置いた。


「言っとくが、これ以上ツケを増やすなよ」


「給料日にまとめて払うって」


「その台詞、先月も聞いたぞ」


「今月は昇給する予定なんだよ」


「予定じゃ腹は膨れても、金にはならん」


 リヴァは面倒そうに手を振り、スープを一口飲む。

 マナはまだ信じきれない様子で、何度もリヴァの顔を確かめていた。


「どうしてここにいるの? ファランディアに配属されたって話は、聞いてたけど……」


「あたしは刻印者対抗部隊――刻鎖隊(こくさたい)の隊長だ。帝国が刻印者を前線へ出してきてる以上、ほかにいる場所なんてねえだろ」


 その言葉を境に、場の空気がわずかに変わる。


 考えるより先に、アレンは右手を膝の下へ隠した。だが、リヴァがその動きを見逃すはずもなかった。


「隠すなよ」


「……知ってるのか」


「お前が刻印者になったことか?」


 リヴァは匙を器へ戻した。


「軍の中じゃ、知らねえ奴を探す方が難しい。グリムフォードの生存者。雷属性、十八歳。ルミノヴァで暴走事故を起こした可能性あり。現在は、ケイム・ホグナーの監督下――そう記録されてる」


「事故じゃない」


 マナがすぐさま言い返した。


「訓練中に、刻印が勝手に暴走して――」


「分かってる。けど、軍の記録じゃ同じことだ」


 リヴァの声は落ち着いていた。突き放しているわけではない。ただ、事実を飾らずに口にしているだけだった。


「力が制御を離れて、味方に被害が出た。軍は、そういうものを事故と呼ぶ」


 アレンは、黒い手袋に覆われた右手へ目を落とした。


「……マナを傷つけたのは、事実だ」


「アレン……」


「だったら、城門で警戒されたのも仕方ない」


 リヴァがわずかに目を細める。


「城門で、何か言われたのか?」


「危険物だとさ」


 ドレイヴが、吐き捨てるように代わりに答えた。


「第七特別戦術小隊は、こいつを監視するための部隊で、暴走したら処分するんだってよ」


「……間違っちゃいねえな」


 その返答に、ドレイヴの表情が一気に険しくなる。


「お前まで、そんなこと言うのかよ」


「最後まで聞け」


 リヴァの声が低くなった。

 鋭く、それ以上の反論を許さない声だった。


 ドレイヴは口を閉じる。


「軍が刻印者を危険視するのは当然だ」


 リヴァの目から、先ほどまでの軽さが消えた。


「あたしの部下は、帝国の刻印者に殺された。剣も魔法も通じなかった。そいつが腕をひと振りしただけで、何人もまとめて吹き飛ばされた」


 店内の喧騒が、急に遠のいたように感じられる。


「人間が持つには、でかすぎる力だ。国や民を守れば英雄になる。だが、制御を失えば悪魔にもなる」


 リヴァはアレンを真っ直ぐに見た。


「お前を避ける奴らを、あたしは臆病だとは思わねえ。今のお前は、自分の力を完全には制御できてない。怖がるだけの理由はある」


「……じゃあ、リヴァも、俺を危険だと思ってるのか?」


「ああ」


 リヴァは迷わず答えた。


「ただ、危険な力を持ってることと、お前自身が敵かどうかは、まったく別の話だ」


 アレンはゆっくりと顔を上げる。


「お前は、アレン・ライオネットだろ」


「……そうだけど」


「なら、それでいい」


 リヴァは昔と変わらない調子で肩をすくめた。


「あたしはあたしで、お前はお前だ。刻印が現れたからって、昨日までのお前が急に別人になるわけじゃねえ」


「でも……刻印に呑まれたら?」


 問いかける声は、自分で思っていた以上に小さかった。

 今日一日、胸の中に溜まり続けていた不安が、言葉となってこぼれる。


「グリムフォードみたいなことが、ここでも起きるかもしれない。帝国軍が俺を狙って来るかもしれない。俺自身が暴走して、街の人を傷つけるかもしれない」


 マナとドレイヴは、何も言わなかった。否定するだけでは、アレンの不安を消せないと分かっていたのだろう。


「俺がファランディアに来たことで、この街を危険にしたんじゃないかって……そう思う」


 リヴァはしばらく黙っていた。

 やがて立ち上がると、アレンの前へ回り込む。


「右手、見せろ」


 アレンはしばらく迷った末、黒い手袋に覆われた右手を卓上へ置いた。

 リヴァはその手をためらいなく取る。


 手袋越しに伝わる掌は、長く剣を握り続けてきた者らしく硬かった。


「……震えてるぞ」


「少し痺れてるだけだ」


「嘘つけ。怖いんだろ」


 アレンは、否定できなかった。


「怖くていい」


 リヴァは声を落として言った。


「むしろ、刻印を怖がらなくなったときの方が危ねえ。自分の力で何が起きるか分かってるなら、怖くて当然だ」


「じゃあ……俺は、どうすればいい?」


「使い方を覚えろ。自分の限界を知れ。それから、止まるための方法を持て」


「そんなの、簡単にできるわけ――」


「簡単じゃねえよ」


 リヴァの声が鋭くなる。


「簡単じゃねえから、あたしがいる」


 リヴァはアレンの右手を握ったまま、真っ直ぐに目を合わせた。

 そこに同情も慰めもない。ただ、戦場を生き抜いてきた者の揺るぎない覚悟だけがあった。


「お前がその力を使うなら、あたしが見ててやる。限界を越えそうになったら止める。誰かを傷つける前に……あたしが叩き伏せる」


「リヴァ……」


「安心しろとは言わねえ。今すぐ信用しろとも言わねえよ」


 リヴァは、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「ただ、これだけは覚えとけ」


 黒い手袋の下で、刻印が微かに熱を帯びる。


 だが、先ほどのような恐怖の熱ではない。自分が呑まれたとき、止めてくれる者がいる――その言葉に反応したように思えた。


 リヴァはアレンの右手を一度見やり、最後に告げた。


「その力に呑まれたときは――あたしがお前を止めてやる」


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