第5話『灰色の城門』
西方防衛都市ファランディアの城壁は、遠くからでも空を塞いでいるように見えた。
灰色の巨石を幾重にも積み上げた外壁は、周囲の丘陵よりも高く、その上には魔導砲を備えた監視塔が一定の間隔で並んでいる。壁面には無数の術式が青白い線となって走り、都市全体を覆う半透明の魔力障壁へ絶え間なく力を送り続けていた。
薄曇りの空を背に広がる障壁は、巨大な硝子の天蓋にも見える。
しかし、表面を波紋のように伝っていく光は決して穏やかなものではない。外から何かが触れるたび、空気を押し潰すような低い音が響き、城壁の上に立つ兵士たちが、揃って西の地平を睨んだ。
「……あれが、ファランディア」
軍用馬車の窓から身を乗り出しかけたマナが、息を呑む。
ルミノヴァを発ってから三日。
舗装された街道を西へ進むにつれ、道沿いの風景から緑は減り、代わりに砦や監視所、焼き払われた畑が増えていった。
ファランディアへ近づいた今、街道の両側に広がっているのは、かつて農地だったと思われる荒れ地だけだった。黒く焦げた杭が地面から突き出し、崩れた石垣の隙間では、雨水を吸った軍旗が泥にまみれている。
「城っていうより、街そのものが砦だな」
向かい側の席に座っていたドレイヴが、窓の外を見ながら呟いた。
普段なら、新しい土地を前にすれば何かしら軽口を叩くはずだった。しかし今の彼は、腕を組んだまま険しい表情を崩さない。
馬車の脇を、東へ向かう一団が通り過ぎていく。
先頭にいたのは、泥と血に汚れた軍服を着た兵士だった。左腕を肩口から失い、布で固く縛られた傷口を右手で押さえている。
その後ろでは、担架を担いだ二人の衛生兵が足早に歩いていた。担架に横たわる若い兵士は目を閉じたまま動かず、胸に掛けられた毛布の端から、焼け焦げた防具が覗く。
さらに後ろには、足を引きずる者、頭に包帯を巻いた者、杖を頼りに歩く者が続いていた。
誰一人として話していない。
聞こえるのは、車輪が石を踏む音と、疲れ切った靴が地面を擦る音だけだった。
マナは窓枠に置いていた手を引っ込めた。
「……あの人たち、みんな前線から戻ってきたのかな」
「おそらくね」
御者台に近い席で報告書を読んでいたケイムは、紙面から目を上げないまま答えた。
「帝国軍は、正面から押してくるだけじゃない。少人数の部隊を国境の内側へ潜り込ませて、補給所や監視塔を狙わせている。ここ数日だけでも、戻っていない偵察隊がいくつもあるらしい」
「……そんな場所へ、俺たちを送ったってのか」
ドレイヴの声に、僅かな苛立ちがにじむ。
「卒業したばかりの三人を、ずいぶん高く買ってくれたもんだな」
「さてね。高く買われたのか、扱いに困って押しつけられたのか……そこは、意見の分かれるところだろうねぇ」
ケイムは悪びれる様子もなく、書類を一枚めくった。
本来なら、三人が上官であるケイムに、このような口を利くことは許されない。だが第七特別戦術小隊では、ケイム自身が三人に敬語を使わないよう命じていた。
戦場では、一瞬の言い淀みが命取りになる。必要なことを即座に伝えられるよう、普段から階級を意識せずに話せ――それがケイムの考えだった。
三人も初めこそ戸惑っていたが、今ではその話し方に馴染みつつある。ケイム自身に上官らしい威厳が乏しいことも、遠慮が薄れた理由の一つではあった。
アレンは二人のやり取りを聞きながら、自分の右手を見下ろした。
手の甲から指先までは、黒い革の手袋に覆われている。外から刻印を隠すため、ルミノヴァを発つ前に支給されたものだった。
内側には魔力の流出を抑える細い銀糸が織り込まれ、刻印が反応すれば、手首の留め具が赤く発光する仕組みになっている。
その下にある小指の感覚は、まだ完全には戻っていなかった。意識すれば僅かに曲げられるものの、自分の指というより、細い糸で遠くから引かれている何かを動かしているような感覚に近い。
握りしめたつもりでも力が抜け、剣の柄を掴み続けられる時間も以前より短くなっていた。
それでも軍部は、アレンを前線へ送った。
「俺が前線へ送られたのは……戦力として必要だから、なのか?」
アレンの問いに、ケイムはようやく書類から目を上げる。
「それとも、何か起きたとき――被害をルミノヴァの外で食い止めるためか。そう聞きたいのかい?」
胸の内をそのまま言い当てられ、アレンは答えを返せなかった。
「……おそらく、どちらも正解だろうね」
ケイムは淡々と告げると、手にしていた書類を軽く揺らした。
「アレン」
マナの声に顔を上げる。彼女は心配そうに、アレンの黒い手袋を見つめていた。
「右手……また痛むの?」
「いや。痛くはない。少し痺れてるだけだ」
そう答えて右手の指を小さく握り直すと、隣のドレイヴが訝しげにこちらを見た。
「その“少し”を甘く見るなよ。前線で無理して、剣を落とすんじゃねえぞ」
「分かってる」
「分かってる奴は、もう少し早く人を頼るもんだ」
「……お前にだけは言われたくない」
「俺は剣を落とさねえ」
「だから、そういう話じゃない」
「二人とも、そういう話じゃないよ」
マナが呆れたように息をつく。
その小さなやり取りに、張り詰めていた馬車の空気が少しだけほどけた。
ケイムは三人を一瞥したものの、何も言わず、再び報告書を読み始めた。そうしているうちに、馬車は城門前にできた長い列の最後尾へと入る。
並んでいるのは、食料や薬品、武器、防具、魔法石などを都市へ運び込む荷車ばかりだった。それぞれの荷台には中身を記した札が下げられ、軍の検査官たちが封印術式に不備がないか、一台ずつ確認している。
中でも多かったのは、細長い木箱に収められた魔法石。
魔導砲や都市障壁へ供給するためのものらしく、箱の周囲には暴発を防ぐ銀色の封止具が取りつけられている。それを運ぶ兵士たちは、誰もが汗と埃にまみれ、休む間もなく城門と補給所を往復していた。
列の外側では、都市から出る許可を求める市民たちが兵士へ詰め寄っている。
「南の街にいる医者へ診せに行くだけなんです。お願いします、ここを通してください!」
「……駄目だ。許可証のない者を、城外へ出すことはできない」
「でも、この子、ずっと熱が下がらなくて……! 城内の治療院へ連れていったら、負傷した兵士でいっぱいだって、断られたんです!」
幼い子供を抱いた女性は、縋るように訴え続けた。門を守る兵士は苦しげに眉を寄せたが、それでも最後には、ゆっくりと首を横へ振る。
城門が開いている今でさえ、住民は自由に外へ出ることができない。
帝国の密偵が市民に紛れて城門を出入りするのを防ぐためであり、同時に、都市から人が流出して防衛機能が崩れるのを避けるためでもあるのだろう。
人々を守るために築かれた城壁は、今では内側の者を引き留める役目まで担っていた。
列が進むにつれ、巨大な城門が次第に頭上へ迫ってくる。門は黒く塗られた分厚い鉄板に覆われ、その表面には、土属性と防御術式を組み合わせた巨大な紋様が刻まれている。
左右の塔には弓兵だけでなく、杖を構えた魔術兵も並んでいる。彼らは一様に街道の先へ目を凝らし、空から飛来するものがないか、あるいは地平の向こうに軍勢が現れないかを警戒していた。
「次!」
検査官の声が響くと、馬車はゆっくりと城門前の術式陣へ進み入った。
地面に刻まれた円形の魔法陣が淡く光を放ち、車輪から馬、積み荷、乗員へと順番に走査していく。その光を横目に、ケイムは外套の内側から軍の身分証を取り出した。
「グランセレノ連邦軍、第七特別戦術小隊。指揮官ケイム・ホグナー以下、隊員三名。ルミノヴァ軍務局の命により、ファランディア防衛司令部へ出頭する」
検査官は差し出された書類を受け取り、記された名前を一人ずつ照合していった。
「ケイム・ホグナー……マナ・ナックドール。ドレイヴ・グレバー……」
書類の名前をたどっていた指が、最後の一行で止まる。
「……アレン・ライオネット」
その名を読み上げた途端、検査官の声色が変わった。
周囲にいた兵士たちまで反応し、馬車の中のアレンを見た。その目を一身に受け、アレンは無意識のうちに右手を握りしめていた。
検査官は書類とアレンの顔を交互に見たあと、低い声で続ける。
「特記事項……雷鳴の刻印」
その言葉に呼応するように、走査用の魔法陣がひときわ強く発光した。
紫色の光は地面を這うように走り、馬車の床を通り抜けると、吸い寄せられるようにアレンの右手へ集まっていく。それと同時に、手袋の内側で刻印がじわりと熱を帯びた。
「っ……」
その瞬間、指先に鋭い痺れが走る。
続けて手首の留め具が赤く光り、城門脇に設置された魔力感知器が耳障りな警告音を響かせる。その音に反応し、兵士たちの手がほとんど同時に武器へ走った。
塔の上にいた魔術兵たちも、間を置かず杖の先端を馬車へ向ける。
「動くな!」
検査官が叫ぶ。
マナが反射的にアレンの前へ出ようとしたが、アレンは左手を上げて制した。
「大丈夫だ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
刻印は走査術式に反応しただけで、暴走しているわけではない。そう分かっていても、周囲から向けられた無数の杖と剣を前にすると、呼吸は次第に浅くなっていく。
それに呼応するように、右手の痺れも心臓の鼓動に合わせて強まっていった。
「警告を解除しなさい」
ケイムの声が響いた。その声音からは、先ほどまでの軽い調子が消えている。
検査官の肩がこわばり、ケイムを見る。
「ですが、感知器は危険値を示しています」
「刻印を検出すれば反応するよう作られた装置が、刻印を検出した。それだけの話だよ。実に正常な働きだ。あとで褒めてやるといい」
「しかし規則では、規定値を超える魔力反応が確認された者を拘束し、司令部の許可が下りるまで――」
「その許可なら、ここにある」
言葉を遮り、ケイムは別の書類を取り出すと、検査官の胸元へ突きつけた。
黒い封蝋には、連邦軍中央司令部の紋章が刻まれている。
「アレン・ライオネットは、第七特別戦術小隊の正式な隊員だ。拘束対象でもなければ、輸送中の魔法兵器でもない」
だが、周囲の兵士たちは武器を下ろさない。
そのうちの一人が、かろうじて聞き取れる声で呟いた。
「……隊員、だって?」
隣にいた兵士が、鼻で笑った。
「呼び方を変えただけだろ。あの小隊は、刻印者の監視役だって話じゃねえか」
「暴れたら、指揮官が始末する――そういう部隊なんだろ」
「英雄じゃない。首輪をつけた危険物だ」
ドレイヴの重みを受け、座席が低く軋んだ。
彼は拳を握ったまま、立ち上がる。
「今……なんつった?」
「ドレイヴ」
アレンが低く呼び止めた。
「聞こえなかったのかよ」
「聞こえてた」
「だったら――」
「もういい」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
もちろん、怒りがないわけではない。胸の奥では、雷とは別の熱が激しく渦巻いている。
それでも、ここでドレイヴが兵士たちと争えば、彼らの言葉を自分たちで証明することになる。刻印者だけでなく、その仲間まで危険であり、第七特別戦術小隊は扱いづらい者を集めた部隊なのだと――そう思わせるだけだった。
「行こう」
「……くそっ」
ドレイヴは拳を固く握ったまま、渋々、席へ腰を落とした。
マナも何か言いたげに唇を開いたものの、結局は言葉にせず、アレンの隣へ腰を下ろした。その拍子に彼女の肩がふと触れ、その温もりだけで、乱れかけていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。
それを見届けると、ケイムは兵士たちを順に見回した。
「彼を恐れるなとは言わない」
穏やかな声だった。
だからこそ、その言葉は城門前によく響く。
「未知の力を警戒する。その判断は正しいよ。戦場では、警戒を手放した者ほど早く、生存者の名簿から名前が消えていく」
ケイムは、アレンへ向けられた杖の先を指差した。
「だが、警戒と侮辱は別だ。そこを取り違える者が守っているのは、都市ではなく自分の安心だけだよ」
検査官の表情が硬くなる。
「……武器を下ろせ」
命令を受け、兵士たちはようやく剣と杖を下げた。
魔力感知器の警告音が止められ、城門を塞いでいた鉄柵がゆっくりと持ち上がっていく。
「通行を許可する」
検査官は、警戒を解かないまま書類をケイムへ返した。それ以上、何も口にはしなかった。
やがて馬車が、城門へ向けて動き出す。
城門を通り抜ける直前、アレンは塔の上を仰いだ。そこには、自分を見下ろす兵士たちがいた。
そこに浮かんでいたのは、憎しみではない。恐怖。
理解できず、何をするのかも分からない。いつ襲いかかってくるかさえ知れない――それは、グリムフォードで骸骨を目にしたとき、アレン自身が抱いたものと同じ恐怖だった。
彼らにとっての自分は、あの日の怪物と、そう大きく変わらないのかもしれない。
◇
城門の内側へ入った瞬間、ファランディアの騒音が馬車を包み込んだ。
石畳を走る荷車の音に、鍛冶場から響く金属音、訓練場の号令、負傷兵を運ぶ衛生兵たちの怒鳴り声が重なっている。街路の上には何本もの魔力導線が張り巡らされ、城壁や監視塔、治療院へ青白い光を絶え間なく送り続けていた。
立ち並ぶ建物のほとんどは灰色の石造りで、窓は小さく、屋根は砲撃を受け流すため、急な傾斜をつけて造られている。とりわけ外壁に近い一帯には修復の跡が多く残り、新しい石と古い石がまだらに入り混じっていた。中には、崩れた壁の半分を木材と鉄板で塞いだだけの家もある。
それでも、人々の暮らしが途絶えているわけではない。
通りの端では、パン屋の店主が配給用の黒パンを籠へ並べていた。井戸の前には水を求める人々が列を作り、その傍らでは、子供たちが自分の体ほどもある桶を運んでいる。
角を曲がった先では、片足を失った男が椅子に腰掛けたまま、若い兵士の剣を研いでいた。
誰もが立ち止まることなく、黙々と手を動かしている。
まるで、立ち止まれば戦争に追いつかれてしまうと知っているかのように。
「もっと……暗い街だと思ってた」
窓の外を眺めながら、マナが呟いた。
「暗いさ」
ケイムは静かに答えた。
「ただね、暗闇の中にいたって、人は腹を空かせる。服は破れるし、朝が来れば仕事にも出なきゃならない」
ケイムは流れていく街並みを眺め、かすかに息を吐く。
「戦争が始まったからといって、暮らしのほうまで気を利かせて止まってくれるわけじゃないのさ」
馬車は、軍本部へ続く大通りの手前で止まった。
ケイムが先に降りると、アレンたち三人も荷物を手にして後へ続く。目の前には、周囲の建物よりも一段高く造られた軍本部がそびえていた。
正面には連邦旗とヴァルディア領旗が並んで掲げられ、その下を伝令や将校たちが絶え間なく行き交っている。
「僕は司令官殿にご挨拶してから、机の上に築かれた書類の要塞を攻略してくるよ」
ケイムは抱えていた報告書を軽く持ち上げた。
「君たちは第五兵舎へ行って、ひとまず荷物を置いてくるといい。部屋は用意されているはずだよ――軍の手配が、珍しく予定どおり進んでいればね」
「そのあとは?」
ドレイヴが尋ねた。
「夕刻までは自由にして構わない。ただし、城外へは出ないこと。それから、軍事区画へ勝手に入り込まないこと」
そこで言葉を切り、ケイムの目がアレンで止まる。
「それと、右手に少しでも異常を感じたら、すぐ近くの兵士へ伝えるんだ。一人で何とかしよう、なんて判断はしないように」
「分かってる」
「君のその分かってるはね、今のところ一人で何とかすると、ほとんど同じ意味に聞こえるんだよ」
「……分かった。気をつける」
「よろしい」
ケイムは満足そうに頷くと、軍本部へ向かいかけた。
しかし、数歩進んだところで足を止める。
「アレン」
振り返った彼の声には、先ほど城門で兵士たちを諭したときの鋭さはなかった。
「さっきの言葉を気にするな、なんて無責任なことは言わないよ。人間は、言われたからといって都合よく忘れられるほど器用にはできていないからね」
アレンは黙ってケイムを見た。
「彼らは実際に、刻印者の手で仲間を失っている。恐怖にはね、たいてい恐怖なりの、厄介で無視できない理由があるものさ」
「じゃあ、どうすればいい?」
「無理に理解させようとしなくていい。人の認識は、正論を一つ聞かせた程度で都合よく変わってはくれないからね」
ケイムは肩をすくめた。
「君が何者であるかは、肩書きでも噂でもなく、これから君自身が選ぶ行動で決まる。英雄だの怪物だの危険物だの――人はずいぶん気軽に札を貼りたがるけれど、その権利まで譲ってやる必要はないさ」
そう言い残すと、ケイムは今度こそ軍本部の中へ姿を消した。
大通りに残された三人の周囲を、兵士や市民たちが絶え間なく通り過ぎていく。その中の何人かは、アレンの黒い手袋と軍服の所属章に気づくと、さりげなく歩幅をずらして距離を取った。
第七特別戦術小隊。
その名だけは、まだ何ひとつ成し遂げていない彼らよりも先に、この街へ届いているらしい。
しかも、人を救うための部隊としてではない。アレンの力を見張るための部隊として。
アレンは空を見上げた。
都市を覆う巨大な魔力障壁が、雲の下で青白く揺らめいている。それは帝国軍から人々を守るための盾でありながら、同時に、壁の内側にいる者たちを閉じ込める檻のようにも見えた。
「行こう」
アレンがそう告げると、マナとドレイヴは何も尋ねず、自然にその両側へ並んだ。
そして三人は、灰色の街並みの中を第五兵舎へ向かって歩き始める。
◇
その頃、ファランディア西部の丘には、冷たい風が吹き抜けていた。
城壁の外側に設けられた軍人墓地には、同じ形をした灰色の墓標が、丘を埋めるように規則正しく並んでいる。新しい土が盛られた墓だけでも、二十を超えていた。
その中の一つを前に、銀灰色の髪をした少女が膝をついていた。
リヴァ・セイン。
腰には二本の剣を帯び、肩には風と剣を象った部隊章をつけていた。対刻印者部隊として設立された、連邦軍刻鎖隊の部隊長であり、年齢に似合わぬ戦功を挙げてきた剣士だった。
だが墓標の前に膝をつく今の彼女には、ファランディアの兵士たちが畏れるほどの鋭さはない。
リヴァは右手の手袋を外し、墓標に刻まれた名前を指先でなぞっていた。風雨に晒されてはいても、その刻み跡はまだ新しい。
あの日、西側の監視所が帝国軍に包囲されたとき、リヴァは救援へ向かおうとした。
しかし、司令部から届いた命令は撤退だった。
敵の主力は別方向から迫っていた。監視所を救うために部隊を動かせば、ファランディアへ続く防衛線が崩れる。
少数ではなく全体を守れ――司令部の命令は、部隊長として正しいものだった。
少なくとも、地図の上では。
『隊長なら、必ず来てくれる』
その声を聞きながら、リヴァは監視所へ背を向けて走った。魔力信号が途絶えるまで、一度も振り返らなかった。
翌朝、奪還された監視所に生存者はいない。
最後の通信は、今も耳から離れなかった。
「……悪かった」
リヴァは墓標へ額を近づけた。
「あたしが、命令を選んだ」
冷たい風が丘を吹き抜け、リヴァの軍服の裾を揺らす。墓地に生えた乾いた草も、それに押されるように同じ方向へ倒れていった。
その風音に混じって、背後から誰かの靴音が近づいてくる。
「リヴァ隊長」
呼びかけに、リヴァは墓標から顔を上げなかった。
若い兵士は数歩離れたところで足を止め、敬礼する。
「ルミノヴァより、第七特別戦術小隊が到着しました」
「……第七?」
「新設された特殊部隊です。指揮官はケイム・ホグナー。それと、隊員の中に……例の雷鳴の刻印者がいるとのことです」
墓標に触れていたリヴァの指が、ぴたりと止まった。
「そいつの名前は?」
「アレン・ライオネットです」
それは、懐かしい名前だった。
魔法学校で共に学んだ、慎重でどこか不器用な少年。誰かが傷つけば自分のことのように顔を曇らせるくせに、いざというときには、ためらいなく自分の身を投げ出してしまう。
そんな彼の名と、刻印者という言葉は、リヴァの中ですぐには一つに結びつかなかった。
「……そうか」
「司令部から、隊長にも軍本部へ出頭するよう命令が出ています」
「分かった。先に戻ってろ」
「はっ」
兵士が丘を下り、その背中が見えなくなったあとも、リヴァはしばらく墓前に座り続けていた。
やがてリヴァは立ち上がると、外していた手袋をはめ直し、墓標に刻まれた名前にもう一度だけ触れる。
正しい命令。守るべき防衛線。そして、そのために切り捨てなければならなかった少数。
あの日、自分が選んだ答えが間違いだったとは、今も言い切れない。それでも、もう二度と同じ選択をしたくはなかった。
リヴァは墓標へ背を向ける。
丘の下では、灰色の城壁と、それを覆う巨大な魔力障壁が淡く光っていた。
「今度は、命令だけで正しさを決めない」




