第4話『恐怖が雷を呼ぶ』
退院前の魔力制御試験を受けるため、アレンたちはルミノヴァ中央医療塔の西棟へ向かっていた。
目的地は最上階の隔離訓練庭。魔力障害を抱えた患者が、日常生活へ戻っても安全に術式を扱えるかを確かめる場所だ。
病室から西棟へ行くには、医療塔の中央広間を通らなければならなかった。
そこでは、昨日まで何もなかった壁の一面が大きな掲示板へと変わり、グリムフォードから救出された者と、死亡が確認された者の名前が、それぞれ長い紙に書き出されている。
しかし、救出された者の一覧に比べ、死亡者の一覧は遥かに長い。
掲示板の隣には、持ち主の分からない遺品も並べられていた。半分が焼け落ちた鞄、泥に汚れた指輪、片方だけの子供靴、熱で曲がった魔法学校の徽章、焦げた木彫りの人形――そのどれもが、つい数日前までは、誰かの日常の一部だったものだ。
掲示板の前では、負傷した避難民たちが失った家族や知人の名前を探している。
松葉杖に体を預けた男は、死亡者の一覧に指を添えたまま動かなくなっていた。頭に包帯を巻いた老女は、一つの名前を何度も撫でながら、声を殺して泣いている。
アレンは思わず足を止めた。
名前を読むつもりはなかった。それでも目は紙の上を勝手に辿り、見覚えのある名前を次々と拾い上げていく。
毎朝パンを焼いていた店の主人。畑へ向かう途中で、いつも声を掛けてくれた農夫。町の鐘を管理していた老人。そして、魔法学校の廊下で何度も顔を合わせた下級生。
それぞれの名前の横には、短く「確認」と記されていた。
生存が確認された、という意味ではない。
遺体が発見され、誰であるか確認されたという意味だった。
「……アレン」
マナに呼ばれ、アレンはようやく掲示板から目を離す。
彼女は急かすことなく、静かに告げた。
「……行こう」
アレンはもう一度だけ掲示板を振り返り、小さくうなずいた。
「ああ」
返事をして歩き出したものの、書き並べられた名前と焼け残った遺品は、頭から離れなかった。
◇
ルミノヴァ中央医療塔の西棟、その最上階には、周囲を高い壁と強固な結界で囲まれた隔離訓練庭が設けられていた。
中央には白い石を敷き詰めた円形の訓練場が広がり、外周には暴発した魔力を吸収する八本の封止柱が、等間隔に立てられている。
頭上を遮る屋根はなく、見上げればルミノヴァの空を薄い雲がゆっくりと流れていた。
閉ざされた病室や地下の検査室とは違い、冷たい風の中には薬草ではなく、町の煙や朝露の匂いが混じっている。
医療塔の外へ出たわけではない。それでもアレンは、久しぶりに閉ざされた部屋から解放されたような気がした。
「深呼吸を何度か繰り返して、異常がなければ円陣の中央まで歩く。それから右手を開いて、閉じる。最後に少しだけ安静時の反応を確かめる。今日の試験はそれだけだよ。拍子抜けするくらいで、ちょうどいい」
訓練場の外に測定器を並べながら、ケイムが試験の内容を説明する。
前日の検査で破損したものとは異なり、並べられた器具はどれも小型で、アレンの魔力を直接引き出すような機能は備えていなかった。
「魔法は使わないのか?」
「正確には、使わないんじゃない。こちらで使わせない、ということだね」
ケイムは細い水晶棒を一本取り上げ、刻まれた術式の向きを確かめながら続けた。
「今日は、君の力を測る試験じゃない。何もせずにいるとき、刻印がどんな反応を見せるのか――それを観察するんだ。だから魔力を集めなくていいし、術式も組まなくていい。できる限り、何もしないでいてくれ」
水晶棒を置き、ケイムはわずかに口元を緩める。
「何もしないことが試験になるなんて、なかなか贅沢な話だろう?」
「……本当に、それで試験になるのか?」
「刻印者にとってはね。力を引き出すより、大人しく眠らせておくほうが難しいこともある」
ケイムはアレンの右手を見た。
「厄介な力ほど、持ち主の都合なんて聞いてはくれないものさ」
ケイムの口調はいつもどおり軽い。だが、水晶棒の向きを確かめる指先は、普段よりも慎重だった。
「感情が高ぶれば、君の意思なんて関係なく、刻印は反応する。日常へ戻りたいなら、歩いているだけで周囲に雷を撒き散らすようなことがないか――まずは、そのくらいの安全性を確かめておきたいところだね」
「退院させる気がある言い方には、聞こえねえな」
結界の外で腕を組んでいたドレイヴが、険しい顔で言った。
「あるから試すんだよ。退院させていいかどうかを決めるためにね」
「……また何か壊れたら?」
「念のため言っておくけれど、この訓練庭は昨日の検査器具より高価でね。壊されたら、君より先に僕の胃が痛むことになる」
「そこはアレンの心配をしろよ」
ドレイヴが眉をひそめる。その隣で、マナが呆れたように息を吐いた。
「もう……二人とも。始める前からアレンを疲れさせないでよ」
マナの手には、薄い革表紙の帳面が握られている。
前夜からアレンの症状を記録し始めたらしく、痺れが強くなった時刻や耳鳴りの有無、眠っている間に放電が起こらなかったかということまで、細かく書き留めていた。
ディアナは八本の封止柱を一つずつ確認し、最後の柱へ杖の先端を触れさせる。
「結界は正常です。異常値を検出したら、その時点で外部との経路を閉じます」
「昨日みたいに、術式そのものを書き換えられる可能性は?」
アレンが尋ねると、ディアナは測定器の数値を確かめた。
「今回は精神波へ接続しない。だから、黒い反応が現れる可能性は低いと思う。ただ――低いからといって、起こらないとは言い切れないわ」
「……ずいぶん安心できる説明だな」
「根拠のない安心よりは、役に立つでしょう」
ディアナは淡々とそう返すと、露わになったアレンの右手を見下ろした。
包帯はすでに外されており、手の甲には紫色の雷紋が露わになっている。だが、小指は今朝になっても動かず、触れられている感覚さえ曖昧なままだった。
「試験の途中でも、熱、痺れ、耳鳴り、息苦しさのどれかを感じたら、その時点で報告して」
「分かった」
「ほんの僅かな変化でも、すぐに言って」
「……分かってる」
「アレンの『分かってる』は、あまり信用できないけどね」
マナはそう言いながら、帳面を開いた。
「そこまで言うか?」
「昨日だって、右手が冷たくなってるのに気づいてたでしょ。わたしが聞くまで、何も言わなかった」
「大したことじゃないと思ったんだ」
「大したことかどうかを決めるために、記録してるの」
声は柔らかかったが、マナに譲る気はないらしい。
ドレイヴも横から身を乗り出し、アレンの右手を覗き込む。
「少しでも変だと思ったら、黙ってねえで言えよ」
「お前まで何なんだよ」
「爆発するって分かってる樽が音を立て始めたのに、黙って眺めてる奴はいねえだろ」
「俺を火薬樽みたいに言うな」
「昨日、検査器具を吹き飛ばした奴が言うことか?」
「吹き飛んだのは結晶だけだ」
「二人とも、言い争いはそのくらいにしてくれるかな」
ケイムが間に入り、訓練場中央の円陣へ手を差し出した。
「準備ができたなら始めよう。アレン、中央へ」
アレンは肩の力を抜くように息を吐き、白い石の上へ一歩を踏み出す。
円陣へ足を入れると、床に刻まれた術式が薄い青色に輝き、周囲の測定器も順番に起動していった。
「まずは、中央まで歩いて」
ディアナの指示に従い、アレンは一定の速度を保ったまま足を進める。
一歩、二歩、三歩と慎重に踏み出していくが、右腕に痛みはなく、手の甲に刻まれた紋様も光っていない。
そのまま円陣の中央まで辿り着くと、ケイムは測定器の表示を確かめた。
「魔力量は通常範囲内。刻印も……今のところ、ほとんど反応していないね」
「じゃあ、これで終わりか?」
「まさか。まだ始めたばかりだよ。次は右手を開いて、ゆっくり握ってみてくれ」
アレンは右腕を胸の高さまで持ち上げた。親指から薬指までをゆっくりと曲げ、再び開く。
小指だけは、少しも動かなかった。
「ほかの指は、昨日より動きが良くなっています」
記録板へ書き込みながら、ディアナが尋ねる。
「痛みは?」
「ない」
「痺れは?」
「……変わらない」
嘘ではなかった。
少なくとも、その時点では、何も変わっていない。
「もう一度、お願い」
アレンは指を開き、ゆっくりと握った。
紫色の紋様は、沈黙したままだった。
「うん……安定してるね」
マナの強張っていた表情が、ようやく和らぐ。
「このまま何も起きなければ……退院できるのか?」
ドレイヴが尋ねた。
「医療塔の外へ出る許可は出せるかもしれない。ただし、私かディアナの監督下という条件がつくだろうね」
「結局、自由じゃねえな」
「刻印の性質も、黒い反応の正体も分からない状態で、好きに町を歩かせる方が無責任だよ」
アレンは二人の会話を聞きながら、もう一度右手を握りしめた。
けれど、動かない小指だけが掌の外へ取り残される。その不自然な形を目にするたび、ケイムから告げられた呪縛の結末が脳裏に蘇った。
麻痺は指先から始まり、やがて腕や脚へと広がっていく。そして最後には、呼吸することさえできなくなる。
今は、まだ小指一本にすぎない。だがその一本は、確かに死へと続く最初の一歩だった。
「アレン」
ディアナの声に、沈みかけていた意識を引き戻される。
「呼吸が浅くなってるわ」
「……大丈夫だ」
「何か異常は?」
アレンは右手の紋様をちらりと見て、首を振った。
「いや……何もない」
そう答えた直後、右手の内側にかすかな熱が生まれる。
昨日、放電が始まる直前にも感じたものと同じ熱だった。だが、紋様はまだ光っておらず、測定器から警告音が鳴る気配もない。
この程度で試験を止めていては、いつまで経っても医療塔から出られない。何より、またマナたちを心配させたくはなかった。
「では、最後の確認に入ろう」
ケイムが静かに告げた。
「目を閉じて、呼吸を一定に保ってくれ」
「……何を考えればいい?」
「できれば、君が落ち着ける場所を思い浮かべるといい。安静な状態で、刻印がどこまで沈静化するかを確かめる」
アレンは目を閉じる。
落ち着ける場所と言われて、最初に思い浮かんだのは自分の家だった。
町外れに広がる畑。雨漏りのする屋根。朝になると窓から差し込む光と、壁に掛けられた両親の肖像。
特に用事があるわけでもないのに、勝手口から入ってくるマナ。畑仕事を手伝うと言いながら、半分以上の野菜を踏み潰してしまうドレイヴ。
それはもう、二度と戻ることのできない場所だった。
やがて、懐かしい家の光景に赤い炎が重なっていく。
玄関へ落ちた割れた額縁。町を歩く骸骨。道端に倒れた人々。中央広間で目にした死亡者の一覧。
焼けた鞄と、片方だけの子供靴。
記憶が鮮明になるほど、右手の熱は少しずつ強くなっていった。耳の奥でも高い音が鳴り始める。
アレンは目を閉じたまま、乱れかけた呼吸をどうにか整えようとした。
「魔力値、僅かに上昇」
ディアナの声が、静かに耳へ届く。
「アレン、何か変わったことは?」
「……いや、何もない」
答えは、考えるより先に口をついて出た。
熱も耳鳴りも、まだ耐えられる。力を使ったわけでもない。ここで自分さえ落ち着けば、きっと元へ戻る。
「呼吸を続けて」
ケイムの声が、ひどく遠くから聞こえた。
アレンは家の記憶を追い払おうとした。だが、その代わりに脳裏へ浮かんだのは、砦へ降り立った光る者の姿。
怪物だけを消し去り、自分の右手を握った存在。そして、あれに触れられたあと、雷鳴の刻印は現れた。
だとすれば、怪物の襲撃と光る者は、本当に無関係だったのだろうか。
怪物たちは、町を滅ぼすためではなく、あの光を呼び寄せるために現れたのではないか。
あるいは――自分を見つけるために。
――見つけた。
黒い扉の奥から聞こえた声が、鮮明に蘇る。
もし、あれが自分へ向けられた言葉なら。
町の人々は、自分を見つけるためだけに殺されたことになる。
思考がそこへ辿り着いた途端、右手の紋様が紫色の光を放ち、耳鳴りが一気に強くなった。
「刻印反応、上昇しています」
ディアナの声が鋭くなる。
「アレン、目を開けて」
アレンが目を開くと、視界の端で紫色の火花が弾けていた。
右手の指の間を走った細い雷は、瞬く間に消える。
「……試験は中止だ」
ケイムが測定器から手を離した。
「待ってくれ。まだ抑えられる」
「抑えなくていい。今日は制御するための試験じゃない。刻印がどう反応するかを見るためのものだ」
ケイムは記録板の数値を確かめる。
「必要なものは、もう取れた」
「でも、本当に大丈夫だ」
アレンは右手を固く握りしめた。
動かない小指を除く四本の指が、震えながら掌へ食い込んでいく。内側に生まれた熱を押し込めるようにさらに力を込めると、皮膚の下で何かが脈打った。
「アレン、円陣から出て」
ディアナが鋭く命じる。
「大丈夫だ。歩ける」
円陣を出ようと一歩踏み出した途端、右腕から肩へ鋭い痛みが突き抜け、アレンの足がその場で止まった。
「っ……!」
直後、紫色の雷が腕を這い上がり、肘から肩へ駆け抜ける。それに呼応するように、周囲の封止柱が一斉に強い光を放った。
「反応値、規定範囲を超えました」
ディアナが即座に杖を構える。
「アレン、右手を開いて!」
「駄目だ……開かない!」
右手は硬く握り込まれ、もう自分の意思では指一本動かせない。
雷は拳の内側で膨れ、抑え込もうと力むたびに、紫色の輝きを増していく。
「アレン!」
結界の向こうから、マナが名前を呼んだ。
「来るな!」
アレンが叫んだ直後、右手から紫色の雷が勢いよく噴き出した。
放たれた紫電は白い石床を這うように走り、最も近くに立っていた封止柱へ直撃する。柱に刻まれた術式は眩い光を放って雷を吸収したものの、その衝撃に耐えきれず、表面には細い亀裂が走った。
「外周結界、閉鎖!」
ディアナが杖を振り下ろすと、訓練場を囲む八本の封止柱から一斉に白い光が立ち上がる。
光は瞬く間に半球状の結界を形作り、円陣全体を覆っていく。その直後、外へ逃れようとした雷が透明な壁へ激突し、激しい破裂音を響かせた。
「右手を床へ向けなさい」
結界が閉じ切る寸前、ケイムが迷いなくその内側へ踏み込んだ。
「できない……腕が動かない!」
「なら、せめて体から離すんだ。胸へ近づけるな――雷が心臓を通る」
アレンは左手で右腕を掴み、必死に体から引き離そうとする。
だが、肩から先の筋肉は意思に逆らうように勝手に引きつり、右手は少しずつ胸元へ近づいてくる。その拍子に、紋様から迸った雷が胸を掠め、アレンの呼吸が止まった。
「ぐっ……!」
膝が石床につく。途端に、周囲の景色が白く明滅した。
轟く雷鳴に重なって、いくつもの声と光景が脳裏へ蘇った。
死者の名前を撫でながら泣いていた老女。母親を捜していた少女。そして、町を覆っていた人々の悲鳴。
もし、自分がいなければ。
自分が見つからず、あの光が触れることもなかったなら。
グリムフォードは、失われずに済んだのではないか。
「俺が……」
喉の奥から、掠れた声がこぼれた。
「俺がいたから……こんな――」
右手から迸る雷が、さらに太くなる。
一本目の封止柱が耐えきれずに砕け、外周結界の一部が大きく揺らいだ。
「全員、結界から離れて!」
ディアナが叫ぶ。
それでもマナは退かなかった。杖を強く握りしめたまま、揺らぐ結界へ近づいていく。
「マナ、来るな!」
アレンの声が雷鳴に呑まれる。
「聞こえてるんでしょ! だったら返事して!」
「近づくなって言ってるだろ!」
「アレン!」
マナは結界の切れ目を見つけると、ディアナが制止するよりも早く訓練場へ踏み込んだ。
マナが踏み込んだ途端、握り込まれたアレンの右手が、本人の意思に逆らうように持ち上がる。
震える拳が、まっすぐマナへ向けられた。
「逃げろ!」
紫色の閃光が放たれ、マナは反射的に腕で顔を庇った。
雷は彼女の頬を掠めるように軌道を外れ、そのまま背後の石壁へ直撃する。轟音とともに壁が砕け、弾け飛んだ石片がマナの髪を掠めていった。
外套の肩口は黒く焦げ、数本の髪も熱によって縮れている。
あと少しでも軌道がずれていれば、雷はマナの体を貫いていた。
「……マナ」
黒く焦げた外套を見た途端、アレンの視界からすべての色が失われる。
自分の腕から放たれた雷と、その先で立ち尽くすマナ。黒く焦げた外套だけが、やけに鮮明に目へ焼きついていた。
自分は今、彼女を殺しかけたのだ。
「違う……」
手を下ろそうとしても、右腕は動かない。
「俺は、そんなつもりじゃ……」
恐怖が胸の内で膨れ上がるほど、それに呼応するように刻印の輝きも強さを増していく。
雷を止めなければならない。マナを傷つけてはいけない。早く、今すぐにでも――。
だが、そう焦れば焦るほど、右手から迸る紫電はさらに激しさを増していった。
「これ以上、自分で抑えようとするな!」
ケイムの声が響くと同時に、彼はアレンの前へ踏み込む。
両手を広げ、右腕を包み込むように複数の封止術式を展開する。半透明の円環が肩、肘、手首へと次々に重なり、暴れ回る雷を一層ずつ閉じ込めていった。
それでも紫電は封止を逃れるように弾け、ケイムの外套を裂き、頬に細い傷を走らせる。だが、彼は一歩も退かない。
「ディアナ、空間経路を閉じろ!」
「閉鎖します!」
ディアナが杖を床へ突き立てると、円陣を覆っていた結界が内側へ収縮し、アレンの周囲だけを囲む小さな檻へ変わった。
逃げ場を失った雷が、封止術式の中で激しく跳ね回る。
「アレン。私の声が聞こえるか?」
ケイムが、雷鳴の向こうから呼びかけた。
「……聞こえる」
「なら、力を止めようとするな。まず右手から目を離せ」
「でも、このままじゃ……」
「君は今、雷を恐れるあまり、そこへ意識を集中しすぎている。止めようとすればするほど、刻印に力を与えてしまうんだ」
「じゃあ……どうすればいい?」
「何もしなくていい。まず、息を吐け」
アレンは息を吸おうとした。だが肺がうまく動かず、呼吸が喉の奥で引っかかる。
「吸おうとしなくていい。残っている息を、ゆっくり吐くんだ」
ケイムの声に従い、アレンは震える息を少しずつ吐き出した。
呼気とともに、右手を覆っていた紫色の光が少し弱まる。
「そうだ。もう一度」
もう一度ゆっくりと息を吐くと、耳を打っていた雷鳴が少しずつ遠ざかっていった。
腕を走る激痛は消えなかったものの、次第に自分の心臓の音が聞こえるようになる。荒れ狂っていた紫電も、一本、また一本と細くなり、やがて指先で小さく弾けたのを最後に、完全に消え失せた。
その途端、右手だけでなく、全身から力が抜ける。
アレンの体はそのまま前へ傾いたが、石床へ倒れ込む寸前で、ケイムが受け止めた。
◇
壊れた封止柱からは細い煙が立ち上り、石床には雷に焼かれた黒い筋が何本も残っていた。さらに、マナの背後にあった壁には、人の頭ほどの穴が開いている。
アレンは訓練場の隅にある長椅子へ座らされ、右腕にはディアナが用意した緊急用の封止布を巻かれていた。紫色の紋様は布の下に隠れているものの、腕の奥には焼けるような痛みがまだ残っている。
その目の前では、マナが焦げた外套を脱いでいた。頬にも肩にも傷はなく、雷が当たっていないことは分かっている。
それでも、その事実を何度確かめても、アレンの震えは止まらなかった。
「……俺から離れろ」
俯いたまま、アレンは言った。
伸びかけていたマナの手が止まる。
「アレン……」
「今のは外れた。でも、次も外れるとは限らない」
右手を押さえる左手に、いっそう力が入った。
「俺は、自分の腕を止められなかった。お前に向けるつもりなんてなかったのに……勝手に動いたんだ」
「それは――」
「俺がいなければ、町は狙われなかったのかもしれない」
口にした途端、胸の奥へ押し込めていた考えが、逃げ場のない形を持つ。
「光る者は、俺の右手を握ってた。あいつが俺を探してたなら……怪物も、町への襲撃も、全部、俺を見つけるためだったのかもしれない」
「そうだと決まったわけじゃねえだろ」
壁際に立っていたドレイヴが言った。
「でも、違うとも言い切れない」
「だから何だ。一人で消えるつもりか?」
「俺の近くにいなければ……少なくとも、二人を傷つけずに済む」
ドレイヴはゆっくりと歩み寄り、アレンの正面に立った。
「さっき、いつからおかしかった?」
「……何が?」
「刻印だよ。何の前触れもなく、いきなり爆発したわけじゃねえだろ」
アレンは答えられなかった。
「手が熱くなってたんじゃねえのか。耳鳴りもしてただろ」
「……ああ」
「ケイムに聞かれたとき、何て答えた?」
「異常はないって……言った」
ドレイヴの眉間に、深い皺が刻まれる。
「なんで黙ってた」
「大したことじゃないと思った。それに……また心配させたくなかったんだ」
「それで爆発して、余計に心配させたのか」
アレンは何も返せない。
ドレイヴは深く息を吐き、怒りを隠そうともせずに告げた。
「怖いなら怖いって言え。黙って爆発される方が迷惑だ」
乱暴な言い方だった。
だが、最後の一言だけ、ドレイヴの声には震えが混じっていた。
彼は視線を逸らさなかった。離れるとも言わなかった。
その言葉を引き継ぐように、マナは焦げた外套を椅子へ置くと、ゆっくりとアレンの前まで歩いてきた。
「アレンが私たちを守るかどうか、それだけじゃない」
先ほど雷を向けられた恐怖が残っているのか、マナの顔にはまだ強張りが残っていた。
それでも、アレンをまっすぐ見つめる。
「そばにいるかどうかは、私たちが決めるの」
「でも……また同じことが起きたら」
「起きるかもしれない」
マナは迷わず言い切った。
「だから、少しでも変だと思ったら言って。大丈夫じゃないのに……大丈夫だなんて、もう言わないで」
アレンは、封止布に包まれた右手を見下ろした。
この力が怖かった。呪縛が進み、やがて体が動かなくなることも、黒い扉の向こうにいる何かが、自分を通して外へ出てくることも。
そして何より、その前にマナやドレイヴを傷つけてしまうことが怖かった。
これまで、その恐怖を口にすれば、本当に自分が弱くなってしまうような気がしていた。守ると決めた相手に、不安を押しつけることになるとも思っていた。
だが、黙って抱え込んだからといって、恐怖が消えるわけではない。行き場を失ったそれは刻印の奥へ沈み込み、ついには雷となって二人へ向かったのだ。
「……怖い」
声が震える。
それでも、アレンは言葉を止めなかった。
「また、二人を傷つけるかもしれない」
マナは何も答えず、封止布に包まれたアレンの右手へ、そっと自分の手を重ねた。
一瞬、彼女の指が震えたものの、それでも手を離そうとはしない。ドレイヴもそれ以上は何も言わず、長椅子の空いている場所へ腰を下ろした。
やがて、三人の間に静かな時間が流れる。
慰めの言葉も、大丈夫だと言い切れる根拠も、いつか必ず力を制御できるという約束もない。
それでも、二人は今も隣にいる。
その事実だけが、今のアレンには何よりも必要だった。
「……次からは、ちゃんと言う」
アレンは小さく息を吐いた。
「熱でも、痺れでも、耳鳴りでも……少しでも変だと思ったら、もう隠さない」
「うん。全部、帳面に書くからね」
「怖いって言ったことまでか?」
「必要ならね」
「……最後のは書かなくていい」
「それを決めるのは、わたし」
マナの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
アレンも笑おうとしたが、その前にディアナが右手の状態を確認するため、細い針を持って近づいてくる。
「では、感覚を確かめます」
封止布の指先だけを開き、まず親指へ針の先端をそっと触れさせた。
「……分かる?」
「ああ。そこは分かる」
ディアナは人差し指、中指、薬指の順に針を当てていき、いずれにも弱い痛みがあることを確かめる。
そして最後に小指へ針を近づけると、アレンはその動きを黙って目で追った。
「どう?」
しかし、何も感じなかった。
押されている感覚も、針先が皮膚に触れている感覚もなく、まるで小指だけが自分の体から切り離されてしまったかのようだった。
昨日までは、弱いながらも触れられていることだけは分かった。だが今は、残っていた感覚さえ失われている。
「……感覚がない」
アレンは、今度は迷うことなく答えた。
その言葉を聞き、マナが重ねていた手に、そっと力がこもる。ディアナは小指から針を離すと、無言のまま記録板へ結果を書き込んだ。
「暴発の影響で、呪縛が進んだ可能性があります」
「……元に戻る可能性は?」
「分からないわ」
ディアナは慰めを挟まず、事実だけを告げた。
ケイムは壊れた封止柱の傍らに膝をつき、術式に焼きついた雷の痕跡を調べている。
「力を使う意思がなくても、感情だけでここまで出力が上がるのか……」
「実験の感想を言ってる場合じゃねえだろ」
ドレイヴが鋭く睨んだ。
「感想じゃない。今後を考えるうえで、見過ごせない事実だよ」
ケイムは立ち上がり、アレンを見た。
「今回の暴発は、魔力を集めたせいじゃない。君が恐怖を押し殺して、誰にも言わず、自分の中だけで抑え込もうとした――その感情に、刻印が強く反応したんだ」
「……隠してたことが、原因なのか?」
「少なくとも、悪化させた原因の一つではある。もっと早く伝えてくれていれば、ここまで出力が上がる前に試験を止められた」
アレンは、動かない小指をじっと見つめた。
昨日までは、動かせなくても僅かに感覚は残っていた。だが今は、その感覚まで失われている。異変を隠した代償が、消えない形となってそこに残っていた。
「力そのものより、どう扱うかのほうが危険なこともある」
ケイムは、珍しく冗談を挟まなかった。
「恐怖をなくせとは言わない。そんなことは、たぶん誰にもできない。ただ――隠されてしまえば、私たちは君を助けられない」
「……分かった」
アレンは黙ってうなずく。
「もう、隠さない」
答えた声は小さかったが、今度は誰にも聞き返されなかった。
その言葉が訓練庭へ落ちた直後、入口の重い金属扉が開く。
数名の連邦兵を従え、一人の上級士官が姿を現した。
濃い灰色の軍服を一分の隙もなく着込み、胸元には連邦防衛軍軍務局の徽章をつけている。士官は訓練場へ足を踏み入れると、砕けた封止柱と焼け焦げた石床を一瞥したが、その表情に驚きは浮かばなかった。
「ケイム・ホグナー殿」
「軍務局がわざわざ医療塔まで来るとは……どうやら、良い知らせではなさそうだね」
「我々は、良い知らせを届ける部署ではない」
士官はそう言うと、封印の施された一通の報告書を差し出した。
ケイムはそれを受け取り、表面に刻まれた封印術式を解除する。書面に目を通すと、彼の表情から残っていた軽さが消えた。
「昨日報告された、国境拠点の沈黙についてだ。状況が確定した」
士官はアレンたちへ向き直る。
「グラウ帝国軍は昨夜、連邦の西方国境を越えた。複数の監視拠点が、ほぼ同時に陥落している。帝国軍は現在も、連邦領内へ向けて進軍中だ」
「帝国が……」
マナが小さく息を呑んだ。
「待てよ。小規模な攻撃じゃねえのか?」
ドレイヴが問い返した。
「確認された兵数と魔導兵器の規模から見て、その可能性はない」
士官は一拍置き、重く告げた。
「本格的な侵攻作戦だ」
訓練庭を吹き抜ける風が、急に冷たさを増したように感じられる。
グリムフォードが襲撃されてから、まだ数日しか経っていない。連邦は一つの町を失った傷も癒えぬまま、今度は人間の軍隊による侵攻を受けようとしていた。
「連邦防衛軍は、非常時法に基づく臨時動員を決定した。魔法学校を卒業し、実務資格を持つ者も対象となる」
士官は三人を見渡した。
「アレン・ライオネット。ドレイヴ・グレバー。マナ・ナックドール。君たちも例外ではない」
マナの手が、杖の柄を強く握る。
「ただし、君たちを通常部隊へ配属する予定はない」
「待ってください」
アレンは思わず立ち上がろうとしたが、右腕に走った痛みに顔を歪めた。
「二人は、グリムフォードから逃げてきたばかりです。前線に出られるような状態じゃない」
「……それは、お前だって同じだろ」
ドレイヴが低く言った。
「俺には刻印がある。さっきだって、あれだけ――」
「俺たちのことまで、お前一人で決めるな」
短い言葉だった。
けれど、アレンにはそれで十分だった。
つい先ほど、そばにいるかどうかは自分たちが決めるのだと、マナにも告げられたばかりだ。守るという理由で二人の意思を奪ってしまえば、結局また同じことを繰り返すことになる。
アレンは口を閉じ、マナを見た。
彼女は不安を隠してはいなかった。杖を握る指は強張り、顔色も僅かに青ざめている。それでも、後ろへ下がろうとはしない。
士官はそのまま続けた。
「雷鳴の刻印を持つアレン・ライオネットを一般兵と行動させるのは、本人にとっても、周囲にとっても危険性が高すぎる。それに、グリムフォード襲撃と刻印覚醒の関連についても、軍として調査する必要がある」
「……つまり、監視下に置いておきたいわけだ」
ケイムは報告書を折り畳んだ。
「否定はしない」
士官は、感情を交えずに答える。
「軍務局は、刻印――そして通常部隊では対処の難しい魔力異常を専門に扱う部隊として、第七特別戦術小隊を新設する」
アレンたちの間に、短い沈黙が落ちた。
「指揮官は、連邦魔術研究部門所属――ケイム・ホグナー」
「……やはり、私か」
「不満でもあるのか?」
「責任の重い仕事は、あまり好みではなくてね」
「適任かどうかに、本人の好みは関係ない」
士官は取り合わず、そのまま続ける。
「隊員は、アレン・ライオネット、ドレイヴ・グレバー、マナ・ナックドールの三名。任務は西方防衛への協力、帝国軍の侵攻経路の調査――そして、刻印に関係する異常現象の確認だ」
「待てよ。俺たち四人だけで、一つの部隊ってことか?」
ドレイヴが訝しげに尋ねた。
「現時点では、そうなる。必要があれば、順次増員される予定だ」
「……出発はいつだ?」
ケイムが尋ねると、士官は間を置かずに答えた。
「明朝。ケイム・ホグナー殿の監督下で、西方防衛都市ファランディアへ移ってもらう」
「明日……?」
マナの声が上ずった。
「医療監督は継続される。だが、戦争は君たちの回復を待ってはくれない」
士官はそれだけ告げると、ケイムへ正式な命令書を差し出した。
「装備と身分証は、本日中に支給する。詳しい内容は、軍務局から追って通達される」
兵士たちとともに士官が訓練庭を去ると、重い扉がゆっくりと閉じていった。
静けさを取り戻した最上階には、遠くで鳴る鐘の音だけが響いている。
アレンは、膝の上の封止布に包まれた右手を見つめた。
つい先ほど、その手でマナを殺しかけた。そして、小指の感覚も完全に失われている。
それでも明日には、この力を抱えたまま戦場へ向かわなければならなかった。
グリムフォードで相手にしたのは、人の言葉を話さない怪物だった。だが、今度の敵は違う。自分たちと同じように家族を持ち、恐怖を感じ、それでも命令に従って武器を手にした人間たちだ。
「……今度は、人との戦いか」
アレンの呟きは冷たい風にさらわれ、壊れた訓練庭の空へと消えていった。




