第3話『黒い扉の残響』
ルミノヴァ中央医療塔の地下には、患者を治療するのではなく、その体内で起きている異常を調べるための区画が設けられている。
地上の病室とは異なり、地下区画には窓が一つもなかった。白い石壁の内側には、厚い鉛と魔力遮断材が埋め込まれている。廊下の床にも、暴発に備えた封止術式が一定の間隔で刻まれていた。
アレンが案内された魔力検査室も、重い金属製の扉と幾重もの結界によって、外部から隔離されている。
「……ここ、本当に病人を連れてくる場所かよ」
背後から室内を覗き込んだドレイヴが、露骨に顔をしかめた。
「そう見えるでしょうね。でも――ここは、病人を治す場所じゃないもの」
答えた少女の声を聞き、アレンは足を止める。
検査室の中央に設置された器具を調整していた少女が、手元の水晶から顔を上げた。
腰まで伸びた艶のある黒髪を、作業の邪魔にならないよう緩くまとめ、魔法院の紺色の外套を身につけている。細い銀縁の眼鏡の奥には灰色の瞳があり、その視線は昔と変わらず、相手の言葉だけでなく、その裏に隠されたものまで見通そうとするように静かだった。
「ディアナ……?」
「久しぶり、アレン」
ディアナ・グレイス。
術式解析と魔力制御では、いつも上位にいた。教師が黒板に書き間違えた術式さえ、授業の途中で淡々と指摘する。ディアナはそういう少女だった。
卒業試験を終えてから、まだ数日しか経っていない。それにもかかわらず、同じ教室で学んでいた日々が、今では何年も前のことのように感じられる。
「どうして……ディアナが、ここにいるんだ?」
「卒業してすぐ、魔法院の研修でルミノヴァに来ていたの。そこへグリムフォードの報告が届いて……それで、ケイム先生の観測を手伝うことになった」
ディアナの声は落ち着いていたが、アレンの右手を見たときだけ、灰色の瞳が一瞬揺れた。
右腕の包帯は前日よりも薄く巻き直されているものの、その下に刻まれた雷の紋様は今も消えず、小指もまだ思うように動かない。
「本当に……動かないの?」
「ああ」
「痛みは?」
「痛みはない。ほかの指は触られてるのが分かる。でも、小指は自分じゃ曲げられない」
「耳鳴りは? 視界が明滅したりは?」
「……今はない」
「今は、ね。前にはあったのね」
アレンが答えるより早く、ディアナは手にした記録板に書き込んだ。
「相変わらずだな」
「何が?」
「一度にいくつも聞くところ」
「アレンが必要なことを自分から話さないからよ」
「学校にいた頃は、そこまで聞かなかっただろ」
「術式を壊した理由なら、何度も聞いたわ」
「壊してない。少し焦がしただけだ」
「三日も使えなくなった術式灯を、普通は壊したと言うの」
ディアナの返答は相変わらず淡々としていたが、その短いやり取りが、アレンにはひどく懐かしく感じられた。
グリムフォードが失われる前と同じように、言葉を交わせる。ただそれだけで、足元から崩れ続けていた現実の中に、ほんの一瞬だけ立ち止まれる場所ができた気がする。
「二人とも、同窓会は検査が終わってからにしてくれるかな」
検査室の奥から、ケイムが声を掛けてきた。
銀灰色の髪を無造作に後ろへ流し、昨日と同じ濃紺の外套を身につけた彼は、三本の細長い水晶棒と複雑な術式が刻まれた金属環を両腕に抱えている。
「昔の話をするのは、患者の気持ちを落ち着かせるためです」
ディアナがすかさず答えた。
「なるほど。なら、その失敗談を聞かせながら刻印にも刺激を加えれば、さらに正確な反応が――」
「刺激は与えません」
ケイムの言葉を、ディアナが即座に遮る。
「今日は自然な状態を観測するだけです。刻印を意図的に活性化させる許可は出していません」
「ほんの弱い刺激だよ。通常の雷魔法に置き換えれば、指先に静電気を起こす程度の――」
「昨日は、その“程度”の放電で治療器具が三つ止まりました」
「器具なら直せる」
「でも、患者の神経は交換できません」
短い沈黙が落ちた。
ケイムは両腕に抱えていた器具へ目を落とすと、名残惜しそうに近くの机に置いた。
「優秀な補佐というのは、研究者の好奇心をちょうどいいところで殺してくれるものなんだね」
「先生の好奇心なら、少しくらい殺したところで減りません」
「……それもそうか」
二人のやり取りを聞いていたドレイヴが、アレンの肩へ顔を寄せる。
「なあ。本当に、こいつに任せて大丈夫なのか?」
「ディアナがいるなら……たぶん」
「俺が聞いてんのは、ケイムの方だ」
「だからだよ。ディアナがいるなら大丈夫だ」
「……全部聞こえているよ」
ケイムが不満そうに口を挟んだ。
「聞こえるように言ったんだ」
ドレイヴが返したが、ディアナは二人を無視して検査室中央の台へ近づき、その周囲に置かれた六本の水晶柱を順番に確認していく。
部屋の中央には椅子に似た検査台が固定され、その周囲を銀色の線で描かれた円形術式が取り囲んでいる。
円形術式は三重。
内側は肉体の魔力を測り、中間層は精神波を記録する。最外周に刻まれているのは、異常が起きたとき、その力を室内へ閉じ込めるための封止文だ。
円陣の外には透明な結界板が設置されており、マナとドレイヴはそこから検査の様子を見ることになっている。
「マナとドレイヴも、中には入れないのか?」
アレンが尋ねると、ディアナは検査台の留め具を一つずつ確かめながら答えた。
「いつもの測定なら構わないわ。でも今回は、何が起きるか分からない。見ているなら、結界の外からにして」
「何かあったら、すぐ止めろよ」
ドレイヴがケイムを睨みつけた。
「もちろん。そのためにディアナがいるんだよ」
「お前も止めるんだよ」
「……努力はしよう」
「努力ではなく、必ず止めてください」
ディアナに訂正され、ケイムは大人しく頷いた。
その様子を横目に、アレンは検査台へ腰を下ろす。背中に冷たい金属の感触が伝わり、両腕を台の上に置くと、ディアナが右手首に細い銀環を取りつけた。
銀環が肌に触れた瞬間、紋様は微かに熱を帯びたものの、放電は起こらない。
「何か、感じる?」
「少し……熱い」
「痛みは?」
「いや、ない」
「痺れは? 昨日と変わらない?」
「小指だけは、まだ動かない。ほかは……昨日より少しだけ動く」
ディアナはアレンの指先に一本ずつ触れ、反応を確かめていく。
「これは分かる?」
「ああ」
「じゃあ、ここは?」
「……少し弱い」
「小指は?」
アレンは自分の小指を見下ろした。
「触ってるのか?」
ディアナはそこで手を離した。表情は変わらなかったが、記録板を握る指だけが強ばる。
「……小指は、感覚も落ちてる」
「それって、昨日より悪くなってるってこと?」
結界の外から、マナが不安を隠しきれない声で尋ねた。
「まだ断定はできないわ。昨日は、ここまで細かく感覚を調べていないから……比べられる記録がないの」
「じゃあ、治る可能性は?」
「それを確かめるために、今こうして調べてるのよ」
希望を持たせるための言葉も、必要以上に不安を煽る言葉も使わず、ディアナは事実だけを伝える。
アレンには、その冷静さがありがたかった。
ケイムのように残酷な結論をそのまま差し出されるのも恐ろしいが、根拠のない慰めを口にされれば、それはそれで自分が壊れかけたものとして扱われているように感じただろう。
「始めるわ」
ディアナが細い杖を手に取り、円形術式の起点符に先端を触れさせると、床に刻まれた銀色の線が、内側から順番に青白く輝き始めた。
六本の水晶柱にも光が灯り、それぞれの内部に細かな文字と数値が浮かび上がる。
「まずは、普段の魔力反応から測るわ。魔力を集めようとしないで、いつもどおり呼吸して」
「何もするなって言われる方が、かえって難しいな」
「卒業試験のときも、同じことを言っていたわね」
「あのときは、何かしろって言われてただろ」
「言われた以上のことをしない、という意味では同じよ」
アレンは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
検査室には水晶柱の低い駆動音が響いている。結界の向こうではマナとドレイヴが見守り、ディアナは記録板に目を走らせていた。少し離れた場所では、ケイムが複数の測定器を同時に観察している。
右手首の銀環からは、一定の間隔で微弱な魔力が流れ込んでくるが、痛みはない。
アレンの体を通った魔力はすぐに水晶柱へ送られ、その内部に紫色の光を浮かび上がらせた。
「雷属性の反応を確認」
ディアナが測定値を読み上げる。
「魔力量は通常範囲内。流れに多少の乱れはありますが、刻印が活性化している兆候はありません」
「精神波は?」
ケイムが尋ねた。
「安定しています。……少なくとも、今のところは」
「今日はずいぶん従順だね。昨日は、器具に雷を浴びせてくれたのに」
「好きでやったんじゃない」
「分かっているよ。だからこそ興味深いんだ。普通の雷魔法なら、術式も意志もなしに発動することはない。君の刻印は、いったい何をきっかけに動くんだろうね」
「感情だろ。昨日、そう言ってたじゃないか」
「感情だけとは限らないよ。危機への反応かもしれない。痛み、他人の魔力、記憶……あるいは――」
ケイムがアレンの顔を見る。
「夢、かもしれない」
「夢」という言葉に、アレンの背中を冷たいものが走った。呼応するように水晶柱の紫色の光がかすかに波打つ。
「精神波に変化が出ました」
測定値を見たディアナが告げた。
「ケイム先生、誘導するような聞き方はやめてください」
「私は、ただ質問しただけだよ」
「順番次第では、それも立派な誘導です」
ディアナは記録板を脇に置き、検査台の前に立つ。
「アレン。無理に答えなくていいわ。ただ……昨日、白い空間で見たものを、最初から話してくれる?」
アレンは一度、結界越しにマナとドレイヴの様子を確かめた。
マナは不安そうにこちらを見つめ、ドレイヴは腕を組んだまま、結界が解けた瞬間に駆け寄れるよう身構えている。
「話したら……また、刻印が反応するかもしれない」
「ええ。その可能性はあるわ」
「それでも、危なくないのか?」
「異常が出たら、すぐに止める。それに、話すこと自体がつらいなら……そこで止めていいわ」
「でも、調べなきゃ分からないんだろ」
「ええ」
ディアナはわずかに目を細めた。
「でもね、調べることと、無理に聞き出すことは違う。話すかどうかを決めるのは、アレンよ」
アレンは右手を見下ろした。手の甲の紋様は、まだ暗いままだ。
それでも目を閉じれば、黒い扉が浮かんでくる。幾重にも巻きついた鎖も、その向こうからこちらを見ていた巨大な瞳も、記憶に焼きついたまま消えてくれない。
話さずにいれば、いつか忘れられるかもしれない。ただの夢だったと思い込むこともできるかもしれない。
だが、その扉が本当に自分の中に存在しているのなら、目を逸らしたところで消えるわけではない。
「……話す」
アレンは顔を上げた。
「記録してくれ」
ディアナは小さく頷くと、再び記録板を手に取る。
「白い空間にいた。空も地面もなくて……自分が立ってるのか、それすら分からなかった。声を出しても、何も返ってこない」
精神波を測る水晶柱の光が、ゆっくりと上下している。
「その先に、黒い扉があった。グリムフォードの正門よりも……鐘楼よりも、ずっと大きな扉だ」
「その扉、何でできていたか分かる?」
ディアナが尋ねた。
「分からない。石にも金属にも見えなかった。ただ……光まで吸い込んでるみたいに、真っ黒だった」
「扉には、何か刻まれていた?」
「鎖に覆われてて、扉そのものはよく見えなかった」
「じゃあ、その鎖は?」
「見たことのない文字が刻まれてた。でも……あれが封印のためのものだってことだけは、なぜか分かった」
「どうして、そう思ったの?」
「……分からない」
答えながら、アレンは記憶を探るように眉を寄せる。
「誰かに教えられたわけじゃない。ただ……見た瞬間に分かったんだ。あの鎖は、扉を開かせないためにあるって」
ケイムが計測器の一つへ歩み寄った。
「知識として覚えたんじゃなく、意味だけが直接流れ込んできた……そういうことかもしれないね」
「それなら、普通の夢でも起こり得ます」
ディアナがすぐに釘を刺した。
「今の段階で、特殊な現象だと決めつけないでください」
「もちろん、そのつもりだよ」
そう答えながらも、ケイムの声には隠しきれない興味が滲んでいる。
「それで――扉の向こうには、何がいた?」
アレンの喉の奥で、呼吸が止まった。
巨大な瞳を思い出す。
暗闇の奥から、自分だけを見つめていた赤黒い目。
声を発していないはずなのに、確かに笑ったと感じた。
「何かが……向こうで、呼吸してた」
右手の紋様が淡く光り、水晶柱へ紫色の線が走る。
「刻印反応、上昇しています」
ディアナの声に緊張が混じった。
「アレン、まだ続けられる?」
アレンは右手を握ろうとした。親指から薬指までは曲がったが、小指だけが動かない。
ここで止めれば、あの扉が何なのかは分からないままだ。
「ああ。続ける」
「無理はしないで。少しでも変だと思ったら、すぐに止めるから」
「扉が、少しだけ開いたんだ。その隙間から……巨大な目が、俺を見てた。赤黒くて――人間の目じゃなかった」
紫色の光がさらに強まり、右手首の銀環から細かな火花が弾けたものの、外周の封止術式に吸い込まれる。
これは雷鳴の刻印による反応だ。前日にも見た。
水晶柱の中を走る光も、手の甲から広がる熱も、自分の内側に根を張った刻印が引き起こしているものだった。
しかし、そのときだった。
精神波を測定していた中央の観測結晶に、小さな黒い点が浮かび上がる。
「ディアナ」
ケイムが低い声で呼んだ。
「見ています」
黒い点は焦げ痕のようなものではなく、透明な結晶の中心でゆっくりと形を変え、墨を水に垂らしたように細い糸を伸ばしていく。
それは紫色の雷に混ざろうとはせず、その隙間を縫うように広がりながら、結晶の底へ沈んでいった。
「……雷属性の反応じゃない」
ディアナが計測値を見つめたまま呟く。
「闇属性かい?」
「いいえ。波形が違います。属性魔力にあるはずの周期がない」
「なら、精神波の残滓は?」
「それとも一致しません」
黒い糸が観測結晶の底に触れると、床に刻まれた円形術式の一部が黒く染まった。
最初に変化したのは、精神波を測定する中間層。
銀色に輝いていた線の上を黒い何かが逆流し、本来の魔力の流れに逆らいながら、起点符へ向かって這い進んでいく。
「検査を中止します」
ディアナが杖を振ると、術式へ流れていた魔力が遮断され、水晶柱の光が一斉に弱まる。
それでも、黒い線だけは止まらない。
「魔力の供給は切ったはずだろ」
アレンが言った。
「切っています」
ディアナの声に、初めて明確な緊張が滲んだ。
黒い線は外部から魔力を与えられていないにもかかわらず、自らの意志を持つかのように術式の上を進み続けている。
やがて中間層に刻まれていた対象宣言へ到達すると、測定対象を示す文字が端から一つずつ消えていく。
「術式が……」
マナが結界の向こうで息を呑んだ。
消えた文字の代わりに、見たことのない黒い記号が浮かび上がる。
直線とも曲線ともつかない文字が互いに絡みつき、元の術式を内側から塗り替えていった。
「これは、アレンが見たと言っていた文字かい?」
ケイムが尋ねた。
「分からない」
アレンは黒い記号から目を離せなかった。
「でも……似てる気がする」
文字を読めるわけではない。それでも、それが何をしようとしているのかだけは、はっきりと伝わってくる。
観測しているのではない。
こちらを探している。
そう悟るや、あの声が脳裏に蘇った。
――見つけた。
「止めろ!」
叫ぶと同時に、右手の紋様が紫色に輝いたが、雷が放たれるよりも早く、ディアナが杖を床へ突き立てる。
「外周封止、閉鎖!」
円陣の最外周に刻まれた封止文が白く発光し、黒い線を内側へ押し戻す。
検査室全体が低く震え、六本の水晶柱に亀裂が走ると、中央の観測結晶から甲高い音が鳴り響いた。
「アレン、右手の力を抜いて!」
「抜いてる! 俺は何もしてない!」
「呼吸を整えて。黒い扉のことは考えないで!」
「そんなこと言われたって――」
記憶の奥で巨大な瞳が開き、扉の向こう側から、何かがこちらへ手を伸ばしてくる。
黒い線は外周封止に食い込みながら、白い光を少しずつ濁らせていく。
「ディアナ、結晶を外せ!」
ケイムが叫んだ。
「今外したら、反応が術式全体へ流れ込みます!」
「なら、経路ごと切る!」
「患者の精神波とつながってるんです!」
「三秒で切断する。二秒目で遮断してくれ」
「失敗した場合は?」
「失敗させない。三秒で切る」
ディアナは一瞬だけケイムを睨んだが、すでに杖を構え直している。
ケイムが両手を中央の観測結晶へ向けると、その周囲の空間が歪み、結晶と床の術式を結ぶ魔力経路が、目に見えない刃によって少しずつ切り離されていく。
「一」
黒い線が激しく波打った。
「二――」
「遮断します!」
ディアナの杖から白い光が迸り、薄い膜となってアレンの周囲を包み込む。次の瞬間、右手首の銀環が弾けるように外れ、検査台との接続が断ち切られた。
「――三」
ケイムが指を閉じるのと同時に、中央の観測結晶が内側から弾けた。
破片が飛び散る寸前、ディアナの展開した結界がそれらを受け止める。透明な欠片は白い膜に雨粒のように打ちつけられたあと、硬質な音を立てて床へ落ちていった。
それと同時に、円形術式を侵食していた黒い線が消え、六本の水晶柱も光を失う。検査室を満たしていた駆動音が一斉に止まり、あとには耳が痛くなるほどの静寂だけが残った。
アレンは荒い呼吸を繰り返していた。
体に痛みはなく、右手から雷が溢れ出したわけでもない。それでも、自分の内側を何かに覗き込まれ、皮膚の下へ冷たい指を差し込まれたような不快感が残っている。
「……終わったのか?」
結界の外から、ドレイヴが声を張った。
「待って。今、開けます」
ディアナは周囲の反応が完全に消えたことを確かめてから、外側の結界を解除する。
それを待ちきれなかったように、ドレイヴとマナが検査台へ駆け寄った。
「アレン、大丈夫?」
マナが不安そうに顔を覗き込んだ。
「……たぶん」
「たぶんじゃ、分からねえだろ」
「痛みはない。痺れも……さっきと変わってない」
右手を持ち上げると、親指から薬指までは動きが鈍いながらも曲げることができた。
小指だけは変わらず、アレンの命令を受けつけない。
「耳鳴りは?」
ディアナが間を置かずに尋ねた。
「ない」
「吐き気は? 意識が遠のくような感じも?」
「……どっちもない。大丈夫だ」
「今も、黒い扉が見える?」
その問いを聞き、アレンは目を閉じた。
白い世界も、黒い扉も見えない。巨大な瞳の気配も、今は感じなかった。
「……いや。今は見えない」
「分かった。ただ、消えたとは限らないわ。見えなくなっただけかもしれない」
ディアナはそう訂正すると、床に散った観測結晶の破片を一つずつ確かめていく。
「検査はここで中止します。今日はもう、精神波に触れない方がいい」
「だが、もう一度だけ確認できれば、反応の起点を――」
「しません」
ケイムが言い終えるより早く、ディアナがきっぱりと遮った。
「今の反応は、外周封止にまで干渉しました。次も同じ程度で収まる保証はありません」
「同じ条件を再現できる機会は、そう多くないよ」
「再現性より、アレンの安全が先です」
「その言い方だと、まるで私が人でなしみたいじゃないか」
「人でなしだとは言っていません」
ディアナは砕けた結晶の一つを拾い上げる。
「ただ先生は、ときどき好奇心が倫理を追い越します」
「……手厳しいな」
軽い口調で返しながらも、ケイムは再検査を求めなかった。彼もまた、床に残った書き換えられた術式の痕跡を、険しい表情で見つめている。
「ケイム」
アレンは検査台から腰を上げた。身体がふらついたが、マナの手を借りずに踏みとどまる。
「あの黒いものは何だ?」
ケイムはすぐには答えず、砕けた観測結晶の欠片を拾い上げると、術式灯の光にかざした。
本来は透明だった結晶の中心には、紫色の雷とは異なる、光を放たない細い黒い糸が一本だけ残っている。しかも、その糸は死んだ虫の脚のように、結晶の内部で微動していた。
「……分からない」
ケイムは静かに答えた。
「闇属性の魔力じゃないのか?」
「違う。闇属性であっても、魔力である以上は固有の波形と周期を持つ。だが、今の反応には、そのどちらもなかった」
「じゃあ……精神の一部なのか?」
「それも違う。精神波とも一致していない」
「雷鳴の刻印は?」
「もちろん、別物だ」
アレンの喉が詰まる。
「だったら……俺の中には、刻印とは別の何かがいるのか?」
マナの唇がかすかに開き、ドレイヴの表情が険しくなった。
ケイムは結晶を光にかざしたまま、目を細める。
「君の中にいると決まったわけじゃない」
「でも、俺が扉のことを話した途端に現れた」
「君の記憶と結びついている可能性は高い」
ケイムは結晶の中で動く黒い糸を見つめ直した。
「精神を通して、外から触れているのかもしれない。あるいは――刻印そのものが、別の場所へ通じる道になっている。今はまだ、どれとも判断できないけれどね」
「別の場所へ通じる……道」
アレンは右手の甲を見下ろす。
脳裏に浮かぶのは、黒い扉と、それを封じる幾重もの鎖。そして、その向こう側から自分を見つめていた巨大な瞳だった。
もし、あれが夢ではなかったとしたら。
雷鳴の刻印が、ただ力を与えるだけのものではなく、あの扉と自分をつなぐ鍵なのだとしたら。
動かない小指よりも、力を使うたびに迫る死よりも、その想像の方が恐ろしい。
自分の中に、何かがいるのかもしれない。あるいは、自分を通して、何かがこちら側へ出ようとしているのかもしれない。
アレンは右手を握りしめようとしたが、小指だけは開いたまま、曲がらなかった。
「今の段階で、確かに言えることは一つだけよ」
ディアナが静かに口を開く。
「さっきの黒い反応は、雷鳴の刻印だけでは説明できない」
「……それだけか?」
「ええ。それ以上を口にすれば、事実じゃなくて推測になる」
冷たくも聞こえる答えだった。それでもディアナは、ケイムが手にした黒い糸の残る結晶を見据えたまま。
「でも――分からないままにはしないわ」
短い言葉。
必ず助けるとも、何も心配はいらないとも言わず、ただ未知のものから目を逸らさず、答えが見つかるまで調べるという意思だけが込められていた。
◇
検査室を出たアレンたちは、病室へ戻るため、中央医療塔の長い廊下を歩いた。
地下区画には人の気配がほとんどなかったが、階段を上がるにつれて、治療師たちの慌ただしい足音や患者の呻き声が聞こえてくる。
医療塔へ運ばれてきたときには意識が朦朧としていたため、アレンは建物の中をまともに見ていなかった。
地上階へ上がったところで、廊下の光景は一変する。
本来なら患者を移動させるための広い通路に、毛布や簡易寝台が隙間なく並べられていた。
負傷者の数が多すぎて、病室だけでは収容しきれないのだ。
腕や脚に包帯を巻いた者や、顔の半分に火傷を負った者、魔力を使い果たし、虚ろな目で天井を見つめている者たちの傍らでは、グリムフォードから避難してきた家族が、互いの体を寄せ合うように座り込んでいる。
壁際に積まれた荷物は、わずかなものばかり。
焦げた鞄に、泥で汚れた衣服。割れた食器を布で包んだものまである。
家から持ち出せた財産は、それだけなのだろう。
「……こんなに、いたのか」
ドレイヴの声が低く沈んだ。
「救助された人の多くは、この塔か近くの避難施設へ運ばれたそうよ」
ディアナが答えた。
「重傷者だけでも、まだ全員の身元を確認できていないの」
廊下の途中で、小さな子供が治療師の外套を強く掴んでいる。
「お母さんは?」
片腕に包帯を巻いた少女だった。
泥に汚れた服の胸元には、グリムフォードの収穫祭で子供たちに配られていた麦穂の飾りがついている。
「今も捜しているから、もう少しここで待っていてね」
「……さっきも、そう言った」
「必ず確認するから」
「いつ? お母さん、いつ戻ってくるの?」
治療師は答えられなかった。
少女は木彫りの人形を胸へ抱き寄せ、顔を伏せたまま、声を押し殺して泣き始める。
マナが足を止めた。
今にも駆け寄りそうになったが、治療師に抱き上げられた少女は、そのまま別の避難区画へ連れていかれた。
アレンは遠ざかっていく麦穂の飾りを見つめていた。
グリムフォードで失われたのは、自分の家だけではない。
両親の肖像も、畑も、卒業後に選ぶはずだった未来も、アレンにとってはかけがえのないものだった。
だが、この廊下にいる一人一人にも、奪われた家と、大切な者と、続くはずだった生活がある。
生き残った者の数だけ、失われた日常がある。
その事実が胸の奥へ重く沈む。
「俺たち……助かったんだよな」
アレンが確かめるように呟いた。
「何だよ、急に」
ドレイヴが振り返った。
「いや……こんなのを見てたらさ。助かったって、簡単に言っていいのか分からなくなった」
マナは何も言わず、泣いている少女が消えた廊下の先を見つめている。
アレンは右手を外套の内側に隠した。自分の体には、刻印とは別の何かが存在しているかもしれない。もしそれが再び現れれば、ここにいる人々まで危険に巻き込んでしまうのではないか。
その考えが脳裏をよぎり、アレンは足を止めかける。だが、今この場で答えのない恐怖に飲み込まれても、何も変わらない。
アレンは動かない小指を左手で押さえ、再び歩き始めた。
そのとき、廊下の奥から軍靴の音が響く。二人の連邦兵が、人々の間を縫うように急いで近づいてきた。
先頭の兵士が手にしていたのは、赤い縁取りのある黒い筒――軍の緊急命令を運ぶための封印通信筒。
「ケイム・ホグナー殿」
兵士が足を止め、姿勢を正して敬礼した。
「連邦軍令部より、緊急召集がかかっています」
「……私にかい?」
ケイムは通信筒を受け取り、表面に刻まれた封印術式に指を触れる。
赤い光が走り、筒の中から一枚の薄い魔法紙が現れた。
内容に目を通したケイムの表情から、普段の掴みどころのない笑みが消える。
「何があったんですか?」
ディアナが尋ねる。
ケイムはすぐには答えず、文面を最初から読み返した。
「……西方国境の監視拠点が、立て続けに沈黙した」
廊下に響いていた患者たちの声が、不意に遠のいたように感じられる。
「同時に、大規模な魔力反応も観測されています」
兵士が言葉を継いだ。
「軍令部は、刻印との関連を調査するよう命じています」
「いつ出頭しろと?」
「即時です」
「ずいぶん気の短い命令だね」
そう言いながらも、ケイムは魔法紙を外套へ収めた。
「ディアナ、観測結晶を持ってきてくれ。無事なものも、壊れたものも……全部だ」
「アレンに出た黒い反応も、報告するんですか?」
「隠す理由はないよ。グリムフォードの襲撃、雷鳴の刻印、それに今度は西方国境だ。無関係だと片づけるには、時期が重なりすぎている」
ケイムは歩き出しかけ、ふと足を止めると、アレンを振り返った。
「君は病室へ戻って、休んでいなさい。少なくとも、私たちが戻るまでは刻印を使わないこと」
「西方で……何が起きてるんだ?」
「まだ分からない」
ケイムは短く答えた。その声に、いつもの冗談めいた響きはない。
「ただ――グリムフォードだけで終わる話ではなさそうだ」
ケイムとディアナは、兵士たちとともに廊下の向こうへ消えていった。
アレンはその背中を見送ることしかできない。
右手の甲では、紫色の紋様が光を失ったまま沈黙していた。
しかし、そのさらに奥で、検査装置に残された黒い糸とよく似た何かが、微かに脈打ったような気がする。




