第2話『刻まれた雷』
音のない白い世界が果てしなく広がっていた。
空も大地もない。自分が立っているのか、それとも深い場所へ沈んでいるのかさえ分からない。その果てのない白の中に、アレンはたった一人で取り残されていた。
「マナ……」
呼びかけても、声は届かない。
「ドレイヴ!」
確かに叫んだはずなのに、言葉は口元を離れた瞬間、白い静寂へ吸い込まれるように消えていった。
雨に濡れた大通り。砦に群がる無数の怪物。差し伸べられたドレイヴの手。そして、青白い光が三人に衝突した瞬間――そこから先の記憶は、鋭利な刃物で断ち切られたように途絶えている。
アレンは前へ進もうとした。しかし、いくら足を動かしても、周囲の景色は少しも変わらなかった。
やがて遥か彼方に、小さな黒い影が浮かび上がる。白い世界を切り裂く染みのように、影はじわじわと輪郭を広げながら、こちらへ迫ってくる。
いや、違う。
近づいているのは影ではなく、自分の方だ。
逃れようと足を止めても、距離は縮まり続ける。やがて黒い影は、アレンの視界を覆い尽くすほど巨大な姿を現す。
それは、扉だった。
グリムフォードの正門よりも、町の鐘楼よりも遥かに大きい。天そのものを支える柱のような漆黒の扉には、無数の鎖が幾重にも巻きついていた。
それは、ただの錆びた鎖ではなかった。鎖の表面には見たことのない文字がびっしりと刻まれ、その一つ一つが脈打つように淡い光を放っている。
何かを閉じ込めるための封印なのだと、それだけは魔法学校を卒業したばかりのアレンにも理解できた。
やがて、扉の向こうから何かの呼吸が聞こえてくる。
一度目の呼吸が響くと、白い世界全体が震える。
二度目には、扉に巻きついた鎖が引き絞られ、耳障りな金属音を響かせる。
そして三度目の呼吸が伝わった途端、アレンの右手を激痛が貫く。
「っ……!」
焼けた針を何本も突き刺されたような痛みに耐えきれず、アレンは右手を押さえながら、その場に膝をついた。
紫色の光が、皮膚の下を走った。手の甲から手首へ、さらに肘へと、血管とは異なる道筋を稲妻のように枝分かれさせながら、紋様を刻み込んでいく。
「やめろ……!」
左手で強く押さえつけても、光は止まらない。
突然、扉の中央に一本の細い亀裂が走り、周囲を縛っていた鎖が激しく震え始めた。細く開いた隙間の向こうには、白い世界の光さえ届かない底知れぬ闇が広がっている。
やがて、その奥で巨大な何かが動いた。
それは、瞳だった。
瞼のない赤黒い目が、暗闇の中からアレンだけを見つめている。
目を逸らせと本能が激しく警告しているのに、首も腕も、指先さえ動かすことができない。
巨大な瞳の奥では、無数の影が蠢いていた。人の形をしたもの。獣のようなもの。骨だけで歩くもの――そのどれもが、扉の隙間から外へ這い出そうとしている。
不意に、声が聞こえた。
男とも女とも判別できず、老いているようにも幼いようにも聞こえる奇妙な声だった。だが、それは耳から届いたものではない。冷たい指先で頭蓋の内側に直接文字を書き込まれるように、意識の奥へ響いてくる。
――見つけた。
「誰だ……」
問いかけても、答えは返ってこない。代わりに、赤黒い瞳がかすかに細まった。
それが笑ったのだと、アレンは直感した。
――目覚めた。
その言葉とともに、右手を貫く痛みがさらに強くなった。
「俺は……」
震える息を吐きながら、アレンは巨大な瞳を睨み返した。
「お前のものじゃない」
扉を縛る鎖の一本が大きく軋んだ瞬間、白い世界は音を立てて砕け散った。
◇
意識が戻ったとき、最初に感じたのは薬草の苦い匂いだった。
強い香りが鼻の奥に残り、雨上がりの石を思わせる湿った冷気が肌に触れる。少し遅れて、一定の間隔を刻む小さな音が耳へ届いた。
かちり。
かちり。
魔導時計よりも硬質で、ひどく規則正しい音だった。
アレンは鉛のように重いまぶたを持ち上げた。
視界に入ったのは、見覚えのない白い天井だった。そこには円形の術式灯が埋め込まれ、青白い光を穏やかに放っている。
壁も床も白い石で造られ、窓には薄い結界膜が張られていた。寝台の周囲には複数の魔導器具が整然と並び、透明な管の中を淡い光が流れている。
胸元に貼りつけられた小さな魔法石は、鼓動に合わせて明滅していた。先ほどから聞こえていた音は、その魔法石につながる計測器から発せられていた。
「ここは……」
声を出した途端、乾ききった喉に鋭い痛みが走った。
何日も水を飲んでいなかったかのように舌も喉も乾いており、体を起こそうとすると左肩と右腕が同時に痛んだ。
「っ……」
痛みに刺激され、途切れていた記憶が一気に蘇る。
寝室へ踏み込んできた骸骨、錆びついた剣、切り裂かれた肩と腕、炎に包まれた町、崩れ落ちた正門砦、無数の怪物。
そして、空から降りてきた光。
「マナ……ドレイヴ……」
痛みを無視して、もう一度起き上がろうとしたとき、寝台の脇で何かが動いた。
「アレン?」
窓際の椅子から立ち上がったのは、マナだった。
掠れた声を漏らし、弾かれたように駆け寄ってきた。髪は整える余裕もなかったのか、乱れたまま肩に垂れ、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
「……目、覚めたの?」
聞き慣れた声を追うように、アレンは顔を向けた。
「マナ……」
彼女の姿を確かめた途端、胸の奥に張りつめていたものがようやく緩んだ。
マナは寝台の傍まで来ると、アレンの肩に触れかけたが、そこに傷があることを思い出したように手を止めた。
「よかった……ほんとに、よかった」
震える声で呟き、こぼれそうな涙を堪えるように、マナは何度も瞬きを繰り返した。
「……ドレイヴは?」
「大丈夫。生きてるよ」
マナはすぐに答えた。
「隣の部屋で休んでる。怪我はしてるけど……アレンより、ずっと軽いから」
「そうか……」
アレンは小さく息を吐いた。
「町は?」
その問いに、マナの表情が凍りついた。ほんのわずかな沈黙だったが、それだけで続く答えを聞くのが恐ろしくなった。
「……グリムフォードは、どうなった?」
「それは……」
マナが答えを探すように俯いた、その直後だった。
病室の扉が勢いよく開いた。
「アレン! 目ぇ覚ましたか!」
飛び込んできたのは、ドレイヴだった。
左の額には厚い布が巻かれ、片腕を吊っている。歩き方も僅かにぎこちなかったが、表情を見る限り、命に関わるような傷ではなさそうだった。
「ドレイヴ」
「まったく……いつまで寝てやがる。こっちは何度も起こしに来たんだぞ」
「患者を殴って起こそうとした人が、それ言う?」
「殴ってねえよ。ちょっと叩いて起こそうとしただけだ」
「握った拳で?」
「……その方が、早く起きると思ったんだよ」
言葉だけなら、いつもと変わらない二人のやり取りだった。だが今はその軽口さえ、失われた日常の名残のように聞こえた。
二人が生きている。
その事実を噛みしめるように、アレンは二人の姿を順に確かめた。
ドレイヴは寝台の傍まで来ると、アレンを頭から足元まで素早く見回した。
「……気分はどうだ?」
「最悪だ。体中が痛い」
「それだけ言えるなら、まあ大丈夫そうだな」
「ここ……どこなんだ?」
「ルミノヴァだ」
「……ルミノヴァ?」
ルミノヴァは、グランセレノ連邦の首都だ。グリムフォードからは、馬車を何度も乗り継がなければ辿り着けない。
なぜ自分がそんな遠い場所にいるのか、アレンはすぐには理解できなかった。
「正確には、ルミノヴァ中央医療塔だよ」
マナが静かに続けた。
「連邦軍の救助隊が、ここまで運んでくれたの。グリムフォードじゃ……もう、まともに治療できる状態じゃなかったから」
「救助隊が……来てくれたのか」
「ああ」
答えたドレイヴの口調は、もう先ほどまでの軽さを失っていた。
「砦で起きたあの異常な光を……近くの監視所が見てたらしい。グリムフォードとの連絡が途絶えたのを確認して、連邦軍が救助隊を出した」
「じゃあ……町の人たちは?」
「生き残ってた人たちは、救助された」
ドレイヴはそこで口を閉ざし、続く言葉を飲み込んだ。
救助された人数を口にしない。言えないのだと、アレンには分かった。
「……町は?」
それでも、アレンはもう一度問いかけた。
ドレイヴは目を逸らさなかった。
「砦は落ちた。守備隊も……ほとんど残ってねえ。居住区も商店街も、ひどい有り様だ」
「じゃあ……俺の家は?」
「アレン」
マナが止めるように名を呼んだ。
「頼む。教えてくれ」
ドレイヴは一度だけ強く歯を噛みしめてから、低い声で告げた。
「町外れまで火が回った」
それだけだったが、アレンには十分だった。
玄関に落ちていた両親の肖像、割れた硝子、畑、寝室、そして何も決められないまま迎えた卒業の日。
目を覚ませば昨日までと変わらない日常が始まると、何の疑いもなく信じていた。
その日常は、もうどこにも残っていない。
「そうか」
自分の口からこぼれた声が、ひどく遠く聞こえた。
マナが何か言おうとしたが、アレンは小さく首を振った。今は慰められても、何を返せばいいのか分からなかった。
胸元の魔法石が、鼓動に合わせて変わらない音を刻み続けていた。
かちり。
かちり。
自分の心臓は動いている。マナもドレイヴも生きている。
助かったはずなのに、胸の奥には、埋めようのない冷たい穴が空いていた。
しばらくその音を聞いたあと、アレンはようやく顔を上げた。
「……最後に、何があった?」
アレンは二人の顔を見比べた。
「光が落ちてきたところまでは覚えてる。そのあと……白い場所にいた」
黒い扉と鎖、その奥から覗いていた巨大な瞳。思い出した瞬間、背中に冷たい汗が滲んだ。
「白い場所?」
マナが眉を寄せた。
「ああ。何もない、真っ白な空間だ。そこに……黒い扉があった」
「夢でも見てたんじゃねえのか?」
「分からない。でも、夢にしては……妙に、はっきりしてた」
右手にかすかな熱が走り、アレンはそこで口を閉ざした。
「それから、どうなった?」
「俺たちは……あの光に吹き飛ばされた」
ドレイヴが説明を引き継いだ。
「気づいたときには、砦に群がってた怪物どもは一匹残らず消えてた。骨も灰も……何ひとつ残ってねえ」
ドレイヴはそこで短く間を置いた。
「俺もすぐ意識を失った。あとのことは、マナの方が知ってる」
話を振られたマナは、記憶を辿るように俯いた。
「わたしも……ほとんど覚えてないの。でも、一度だけ目を開けた」
マナの両手は、膝の上で強く握りしめられていた。
「そのとき、何が見えた?」
「……あの、光る人がいた」
怪物だけを消し去り、自分たちへ向かってきた人型の存在。全身が眩い光に包まれていたため、顔も服装も確認できなかった。
「あの人……倒れてるアレンのそばに膝をついてた」
「俺の……そばに?」
マナは静かに頷いた。
「右手を握ってた。まるで……何かを確かめてるみたいに」
アレンは包帯に覆われた自分の右手を見下ろした。右の前腕から手の甲にかけて、白い包帯が巻かれていた。
「それから、どうなった?」
「救助隊の人たちが近づいたら……そのまま光になって、消えたって。兵士の人たちも見てたみたい」
「だったら、俺たちを助けたんじゃねえのか?」
ドレイヴが低い声で言った。
「怪物どもを消したのは、あいつだ。俺たちが生きてるのも……たぶん、あいつのおかげだろ」
「でも……それなら、どうしてアレンの手を?」
マナの言葉が、途中で途切れた。
包帯の下で、心臓とは別の脈動が生まれた。それに呼応するように、右手の熱が急速に強まっていった。
まるで自分のものではない何かが皮膚の内側に根を張り、そこで息づいているような感覚だった。
アレンは左手を伸ばし、包帯の留め具に指を掛けた。
「待って」
マナが咄嗟に手を伸ばした。
「先に治療師を呼んだ方が――」
「違う。傷が痛むんじゃない」
包帯を少しずつ解いていくと、骸骨の剣に裂かれた前腕の傷が、薄い治癒膜に覆われているのが見えた。
さらに包帯を外し、手の甲が露わになった瞬間、ドレイヴが息を呑んだ。
「なんだよ……それ」
アレンの右手には、紫色の紋様が刻まれていた。
手の甲の中央から稲妻のような線が枝分かれし、手首と五本の指へ向かって伸びている。
染料で描かれたものでも、傷痕でもない。皮膚のさらに奥から浮かび上がった紋様は、呼吸に合わせるように明滅していた。
白い世界で皮膚の下に刻まれた紋様と同じ形だった。
「こんなもの、気を失う前にはなかった」
左手の指先が紋様に触れると同時に、紫色の光が強く輝いた。鋭い刺激が指先を貫いた。
「っ……!」
反射的に右手を引くと、紫色の火花が指の間から弾け、寝台の金属枠へ飛び移った。
右手はいつの間にか固く握り込まれていた。開こうとしても、指は自分の意思に従わなかった。
乾いた破裂音が病室に響き、胸元の魔法石が激しく明滅した。寝台横の計測器から甲高い警告音が鳴り響き、表示板の針が限界まで跳ね上がった。
「アレン、手を開け!」
ドレイヴが前へ出た。
「俺は何もしてない!」
魔力を集めた覚えはなく、術式も組んでいない。雷属性の魔法を発動するための起点符も、対象宣言も、封止文も組んでいないはずだった。
それでも火花は止まらず、指の間で弾けた雷が透明な管へ走り、内部を流れていた治療用の光を一斉に消してしまった。
警告音がさらに大きくなった。
「動かないで、アレン!」
マナが呼び出し用の魔法石へ手を伸ばした。
直後、病室の外で足音が止まり、扉が開いた。
「おや……これはまた、ずいぶん派手な目覚め方だね」
聞き覚えのない声だった。
何の警戒も見せず病室へ入ってきたのは、長身で痩せた男だった。銀灰色の髪は無造作に伸び、研究者用らしい濃紺の外套には、大小さまざまな測定具や魔法石が取りつけられている。
男は警告音を鳴らしている計測器には目もくれず、淡い琥珀色の瞳を興味深そうに細め、アレンの右手に見入っていた。
「……君、面白いね」
「誰だ、お前」
ドレイヴが一歩前へ出て、アレンと男の間に割って入った。
「これは失礼。目を覚ました患者に掛ける言葉じゃなかったかな」
「そうじゃねえ。名前を聞いてる」
「ケイム・ホグナー。連邦魔術研究部門の人間だ。今はこの医療塔で、グリムフォードで起きた異常現象を調べている」
ケイムは外套の内側から、薄い水晶板を取り出した。
「それから――君の友人に何が起きているのかを説明できる人間でもある。この塔では、おそらく僕だけだろうね」
「……おそらく?」
「知識に例外はつきものだからね。絶対だと言い切る研究者ほど、信用しない方がいい」
軽い口調のまま、ケイムは寝台へ近づこうとした。だが、ドレイヴが一歩も退かず、その行く手を塞いだ。
「先に説明しろ」
「そう睨まなくても、彼を切り開いたりはしないよ」
「そこに『今は』って付けたら殴るぞ」
「まったく……困ったものだねぇ」
ケイムは肩をすくめ、ドレイヴから距離を保ったまま、水晶板をアレンの右手へ向けた。
板の表面に複雑な術式が浮かび上がり、紋様から発せられる紫色の光をそのまま写し取っていく。
火花は徐々に弱まり、やがて指先から完全に消えた。それに合わせて警告音も止まり、病室に静寂が戻った。
「……やはり、間違いない」
ケイムの口元に浮かんでいた薄い笑みが消えた。
「君に根づいたのは――雷鳴の刻印だ」
「刻印……?」
アレンは、その聞き慣れない響きを確かめるように繰り返した。
「魔法の紋様とは……違うのか?」
「ああ。まったくの別物だよ」
ケイムは、水晶板に記録された紋様を三人に見せた。
「刻印は、術式じゃない。空気中の魔力を集め、形を与えて現象を起こす――そういう普通の魔法とは、根本から違うんだ」
ケイムは、アレンの右手に視線を落とした。
「持ち主の肉体と精神に直接根づいて、意志や感情に応じて力を引き出す」
「俺は……そんなもの、望んでない」
「ああ。だが刻印は、持ち主の望みを聞いてくれるとは限らない」
「じゃあ、あの光る人が……アレンに刻んだんですか?」
マナの問いに、ケイムは水晶板から目を上げた。
「それは、まだ分からない」
「でも、あいつはアレンの右手を握ってたんだぞ」
「そこで新しく刻印を与えたのかもしれない。もともと眠っていたものを起こしただけかもしれない」
ケイムはひと呼吸置いた。
「あるいは……刻印とは別の目的で、彼の手に触れていた可能性もある」
「だったら――今、何が分かってる?」
アレンが問いかけると、ケイムは外套の内側から小さな金属製の円盤を取り出した。その表面には、三十三の異なる紋章が円を描くように刻まれている。
「この世界には、全部で三十三の刻印が存在すると伝えられている」
ケイムは指先で円盤をゆっくりと回した。
「炎、水、雷、大地、風――自然に干渉するものもあれば、記憶や感情、時間に作用するものもある。性質はそれぞれ違う。だが、共通点が一つだけある」
ケイムの声音が、そこで初めて硬くなった。
アレンの右手に、再び痺れが走った。
「刻印には、必ず呪縛が伴う」
「……呪縛?」
「ああ。力を得るために、持ち主が支払う代償だ」
手の甲にはまだ熱が残っていた。それとは対照的に、指先は冬の川に浸したように冷たかった。
「雷鳴の刻印は、雷を操る。それだけじゃない。電気負荷を全身にかけて、持ち主の身体能力そのものを引き上げるんだ」
ケイムは淡々と説明を続けた。
「記録には、自らを雷と同化させた刻印者までいたらしい」
「そんな力が……俺に?」
「ああ。力だけで済むなら、実に華々しい話なんだけどね」
ケイムの琥珀色の瞳が、アレンをまっすぐに捉えた。
「雷鳴の刻印は、使うたびに持ち主の神経を蝕んでいく」
誰も何も言えなかった。
窓の外から遠い鐘の音が聞こえてくる。あの朝、グリムフォードでは鳴ることのなかった鐘だった。
「最初は、指先の痺れや軽い耳鳴りだ。だが、そこから少しずつ感覚が失われていく。指が動かなくなり……さらに進めば、麻痺は腕や脚、喉にまで広がる」
ケイムはそこで口を閉ざした。
これから告げることを、冗談や比喩で濁すつもりはないらしい。
「最後には、歩くことも、話すことも……自分で息をすることさえ、できなくなる」
「それって……」
マナの声が震えた。
「死ぬってこと、ですか?」
「ああ」
ケイムはマナの問いを正面から受け止めた。
「最終的には、死に至る」
次の瞬間、ドレイヴがケイムの胸ぐらを掴んだ。
「ふざけんな」
「ふざけてはいないよ」
「だったら消せ。研究者なんだろ」
「ドレイヴ……」
「アレンが望んだ力じゃねえんだぞ! 勝手に身体に根づいたってんなら、引き剥がせばいいだろ!」
ケイムは抵抗せず、胸元を掴まれたまま、静かにアレンを見つめていた。
「……消す方法は?」
アレンは、自分でも驚くほど静かな声で尋ねた。
ケイムはわずかに目を伏せた。
「分からない」
「普通の魔法じゃ、駄目なのか?」
「消せない」
ケイムは慎重に続けた。
「皮膚を焼いても、腕を失っても……消えなかったという記録さえ残っている」
ドレイヴの手から力が抜けた。
「じゃあ……どうしろってんだよ」
「使わないことだ」
ケイムは、掴まれて乱れた外套の襟を静かに直した。
「少なくとも、今の段階ではそれが一番確実だ。力を使えば呪縛は進む。だが使わなければ、進行を遅らせられる可能性は高い」
「……可能性、か」
「すまない。断言できるほど、刻印についての記録は残っていないんだ」
「俺は、これからずっと……」
アレンは刻印の残る右手を見下ろした。
「いつ動かなくなるかも分からない身体で、生きていくのか」
ケイムは答えなかった。
だが、その沈黙こそが、何よりも明確な答えだった。
あの砦で、マナもドレイヴも、そして自分も生き残った。だが、何ひとつ失わずに済んだわけではない。
家を失い、町を失い、知っている人々を失った。そのうえ、自分の身体には、力を使うたびに命を奪う何かが深く根を張っている。
助かった代わりに、背負わされたのだ。
その事実が冷たい鉛のように胸の奥へ沈んでいった。
「アレン」
マナが名前を呼んだ。
しかし、アレンは答えず、紫色の紋様が刻まれた右手を目の前まで持ち上げた。
先ほどまで明滅していた紋様はすでに光を失い、ただの痣のように皮膚に残っていた。放電は止まり、熱もほとんど消えていた。
見た目だけなら、もう危険は去ったようにも思えた。
アレンは確かめるように、右手を握ろうとした。
親指、人差し指、中指、薬指が、一本ずつ掌へ折り畳まれていく。
だが、小指だけは、自分のものではないかのように動かなかった。




