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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第一章『雷鳴の刻印』

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第1話『闇を破る閃光』


その朝、グリムフォードに太陽は昇らなかった。


 夜明けの時刻はとうに過ぎていたが、空には夜の名残を引きずるような黒雲が垂れ込め、冷たい雨が絶え間なく屋根や窓を打ち続けていた。


 町外れに広がる畑の端にひっそりと建つアレン・ライオネットの家は、まるで世界から切り離されてしまったかのように静まり返っている。いつもなら聞こえてくる鳥の声も、畑仕事へ向かう荷車の音も、朝を告げる町の鐘も、今日は何ひとつ聞こえない。


 それでもアレンは、深い眠りの中にいた。前日まで続いていた魔法学校の卒業試験による疲れが、鉛のように体に残っていたのだ。


 学校を卒業したあと、町の守備隊に入るのか。連邦の魔術師資格を目指すのか。それとも、亡き両親が残した畑を継ぐのか。


 何ひとつ決められないまま卒業の日を迎えたが、昨夜のアレンは、答えなど目を覚ましてから考えればいいと思っていた。


 目を覚ませば、昨日までと変わらない日常が始まる。そのことを疑いもしなかった。


「アレン!」


 鋭く切迫した声が、家を包んでいた静寂を引き裂く。


「起きて、アレン!」


 肩を激しく揺さぶられ、アレンは重いまぶたを開いた。


「……マナ?」


 霞む視界の中に立っていたのは、幼なじみのマナ・ナックドール。


 肩より下まで伸びた髪は雨に濡れ、頬や首筋にべったりと貼りついている。服の裾は泥で汚れ、肩を大きく上下させながら、浅い呼吸を繰り返している。


 どれほど苦しいときであっても、誰かを安心させるように笑う少女だった。だが今朝の彼女の顔には、普段の明るさの欠片さえ残されていない。


「なんだよ……まだ鐘も鳴ってないだろ」


 寝起きの掠れた声でそう言うと、マナは窓の外を確かめてから、震える手で雨戸を閉じた。


「鐘は鳴らない」


「……何?」


「鐘楼に、もう誰もいないの」


 その言葉で、眠気に沈んでいたアレンの意識は一気に覚醒する。


 そもそも、なぜマナが自分の寝室にいるのか。玄関から入ってきたのであれば、物音で気づいたはずだ。ましてや、彼女が断りもなく二階まで上がってくることなど、これまで一度もなかった。


 訝しんでマナの手元を見ると、古びた小さな鍵が握られている。亡くなったアレンの母が、何かあったときのためにと彼女に預けていた勝手口の合鍵だった。


「裏から入ったのか?」


「何度も窓を叩いたけど、起きてくれなくて……」


 言葉を続けるマナの声は掠れ、唇は寒さだけが原因とは思えないほど震えている。


「町で何かあったのか?」


 問いかけるのとほぼ同時に、階下から鈍い音が響く。


 ドン――。


 重たい何かが玄関にぶつかり、古い家全体が小さく震える。天井から細かな埃が落ち、寝台の脇に置かれていた魔導時計がかすかな音を立てた。


 アレンは寝室の扉を振り返った。


「……誰だ?」


 しかし、返事はない。


 代わりに聞こえてきたのは、硬い何かが木製の扉をゆっくりと引っ掻く、ぎい、ぎい、という不快な音だった。まるで刃物を押し当て、玄関の扉を少しずつ削っているかのようだ。


 その音に、マナの顔からさっと血の気が引いた。


「見つかった……」


「見つかったって、誰に?」


 ドン――。


 二度目の衝撃は先ほどよりも激しく、壁に掛けられていた額縁が大きく傾く。棚の上の魔法灯が床へ落ち、灯具の中で青白い光が不規則に明滅した。


「町の酔っぱらいか? 朝から――」


 口にしたものの、自分でもそうは思えなかった。


「違う!」


 寝台から起き上がろうとしたアレンの腕を、マナが強く掴む。雨に打たれた指先は、氷のように冷たい。


「人じゃないの」


「人じゃない?」


「わたし、見たの。広場でみんなが逃げていて、その後ろから……」


 マナはそこで言葉を失い、思い出すことさえ恐ろしいというように喉を震わせる。


「骨が、歩いてた」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……骨?」


「剣を持って、人を襲ってた。何体もいた。倒された人が、目の前で……」


「落ち着け。幻覚魔法かもしれない。誰かが町に大規模な術式を仕掛けて――」


 階下で、扉の砕ける音が家の中を打った。


 今度ばかりは、聞き間違えようがない。


 裂けた木片が床を跳ねる音に続き、何かが家の中へ足を踏み入れる。やがて階段がぎしりと軋み、一段ずつ、ゆっくりと硬い足音が近づいてきた。


 それは人間の足音にしては奇妙に軽く、硬いもの同士がぶつかり合うような、乾いた響きを伴っていた。


 アレンの手が、壁に立てかけてあるはずの剣へ伸びた。だが、そこには何もない。卒業式の演武で使うため、昨日、学校へ持っていったままだった。


「くそ……」


 マナも杖を持っていなかった。おそらく、ここへ逃げ込む途中で落としたのだろう。


 やがて、階段を上っていた足音が止まる。寝室の扉のすぐ向こうに、何かが立っている。


 アレンは自分の呼吸が浅くなっていくのを感じながら、マナを庇うように背後へ押しやった。


「窓から逃げられるか?」


「ここ、二階だよ」


「下は畑だ。骨くらい折れるかもしれないけど、剣で斬られるよりはましだろ」


「アレンはどうするの?」


「俺も、あとから行く」


「嘘」


 即座に返された言葉に、アレンの返事が一拍遅れた。


 マナの瞳が、彼の考えを見透かすようにまっすぐ向けられている。


「そう言って、自分だけ残るつもりでしょ」


「今は言い争ってる場合じゃない」


「だったら一緒に――」


 その言葉を遮るように、寝室の扉が内側へ弾け飛ぶ。


 アレンはマナを抱き寄せ、そのまま床へ伏せる。次の瞬間、無数の木片が二人の頭上を飛び越え、壁や家具に鋭く突き刺さった。


 開け放たれた入口からは、冷たい風と湿った雨の匂いが流れ込んでくる。そして、その向こうに“それ”は立っていた。


 輪郭だけを見れば、人間と大きな違いはない。だが、その体には肉も皮膚もなく、黄ばんだ骨格には泥と黒ずんだ布切れが絡みついていた。空洞となった眼窩の奥には、光も感情も存在していない。


 それでもアレンには、その虚ろな穴が確かに自分たちを見つめているように思えた。


 骸骨は右手に錆びついた剣を握っている。その欠けた刃には、雨水とは明らかに異なる赤黒い液体がこびりついていた。


「……なんだよ、それ」


 口からこぼれた自分の声が、ひどく遠く聞こえる。


 魔法学校では、魔力の影響によって変異した獣や植物など、さまざまな魔物について学んできた。だが、死者の骨が自らの意思を持つかのように立ち上がり、武器を手に人を襲う存在など、教科書にも講義にも一度として登場したことはなかった。


「……ドレイヴの悪ふざけ、だよな」


 笑おうとしたが、口元は引きつるだけ。


「趣味が悪すぎるぞ。こんな人形、どこで――」


 骸骨が動く。


 剣を振りかぶる予備動作すら見せないまま、錆びた刃がアレンの視界を横切る。遅れて、左肩に焼けつくような激痛が走った。


「ぐっ……!」


 寝間着が裂け、開いた傷口から血が噴き出す。


 その痛みが何を意味するのかを理解するまで、ほんのわずかな時間がかかった。


 これは幻でも、人形でもない。


 目の前の存在は、間違いなく自分を殺そうとしている。


「アレン!」


 マナの悲鳴が響く。


 骸骨は血のついた剣を引き戻すと、そのまま彼女へ向き直る。考えるより先に体が動き、アレンは横合いから骸骨に体当たりした。


 衝撃を受けた骨同士が、乾いた音を立ててぶつかり合う。骸骨の体は見た目どおり軽かったものの、踏ん張る力は異常なほど強く、わずかによろめいただけで倒れようとはしなかった。


 骸骨はそのまま、人間ではあり得ない角度に腕をねじり、体勢を崩さずアレンへ剣を振り下ろしてくる。


 アレンは身を守ろうと右腕をかざす。


 錆びた刃が前腕を切り裂き、遅れて、全身を突き抜けるような激痛が走る。


「っ、あああ!」


 視界が白く明滅し、膝から力が抜けそうになる。


 それでも、アレンは退かない。背後には、マナがいる。


 両親を失った日から、何も言わず隣にいてくれた少女だ。だから今度は、自分が彼女を守る番だった。


「マナ、窓へ行け!」


「でも……!」


「早く!」


 骸骨が、再び剣を振り上げる。


 武器に使えそうな椅子までは、わずか三歩。だが、その距離を詰めるよりも、目の前の刃が振り下ろされる方が明らかに速い。


 残された手段は、魔法しかなかった。


 アレンは痛む右腕をかばいながら左手を前へ突き出し、空気中に満ちる魔力を必死に引き寄せる。すると指先に痺れが走った。掌の上で、青白い火花が弾ける。


 術式を組み上げる時間はない。威力を捨て、発動だけを急ぐ。


「走れ、雷(いかづち)――ブリッツフンケ!」


 青白い閃光が部屋を貫く。


 放たれた雷撃は骸骨の胸に直撃し、肋骨の表面を這いながら背後の壁へ抜ける。焦げた臭いが狭い室内へ広がった。


 だが、骸骨は止まらなかった。


「効かない……?」


 筋肉も、神経もない。雷で痺れさせられる相手ではなかった。


 骸骨は何事もなかったかのように剣を振り上げ、空虚な眼窩(がんか)をアレンへ向ける。


 二発目の魔法を組み上げている時間はない。血に濡れた右手も、すでに指先から感覚を失い始めている。


 もう、残された手はない。


 素手で飛びかかり、その体を押さえ込めれば、ほんの数秒は稼げるかもしれない。その数秒で、マナが逃げられるのなら。


「マナ」


 アレンは骸骨から目を逸らさず、背後の少女へ呼びかける。


「動けるか?」


「……何をするつもり?」


「こいつに組みつく」


「無理だよ。そんな傷で……」


「分かってる」


 怖かった。


 喉を塞がれたように息苦しく、心臓は痛いほど激しく脈打っている。今すぐ逃げ出したかったし、誰かに助けてほしかった。


 だが、自分たちを助けに来る足音も、声も、どこからも聞こえない。


「俺が抑えている間に逃げろ」


「嫌」


「頼む」


 それだけを告げると、アレンは一歩を踏み出した。


 そのとき、階下から荒い足音が響き、階段を一気に駆け上がってくる。


 だが、それを確かめるより早く、骸骨の剣が振り下ろされる。


 避けるつもりはなかった。たとえ腕を斬られても、そのまま胴体へしがみつき、動けなくなるまで離さないつもりだった。


 覚悟を決めたアレンが両腕を広げたところへ、横合いから飛び込んできた太い木材が、骸骨の側頭部を激しく打ち抜く。


 鈍い破砕音とともに頭蓋骨が砕け、白い破片が部屋中へ飛び散る。アレンの頬を掠めた骨片が床の上を跳ね、頭を失った骸骨は二歩ほどよろめいた末、糸を切られた人形のようにその場へ崩れ落ちる。


「斬れねえなら、砕けばいい!」


 荒い呼吸とともに寝室へ踏み込んできたのは、燃えるような赤茶色の髪と、同年代とは思えないほど鍛えられた体を持つ少年だった。


 ドレイヴは、玄関脇の柵から引き抜いてきたらしい太い支柱を握っている。


「ドレイヴ……」


「無事か、アレン! マナ!」


 ドレイヴ・グレバーは床に倒れた骸骨を見下ろすと、再び動き出す可能性を警戒しているのか、胸部を支柱で強く打ち砕く。


 骨がばらばらになった後も、切り離された指先だけはしばらく何かを求めるように床を掻き続けている。


「気味の悪い野郎だ」


 ドレイヴは支柱を握り直し、血に濡れたアレンの肩と腕へ視線を落とす。


「……無事ってわけじゃなさそうだな」


「助かったよ」


「礼はあとだ」


 ぶっきらぼうに答えながら、ドレイヴは倒れかけたアレンの体を支えた。


 だが、その手はわずかに震えている。平気なはずなどない。


 どれほど頼もしく見えても、彼もまた、自分たちと同じ恐怖を必死に押し殺していたのだ。


「町はどうなってる?」


「分からねえ。俺が外へ出たときには、もうあちこちで火が上がってた。守備隊の姿も見えねえし、鐘楼もやられてる」


「怪物は何体いるの?」


 マナの問いに、ドレイヴは険しい表情のまま首を振った。


「俺が直接見たのは、十体もいねえ」


「それだけで、町が……?」


 グリムフォードは決して大きな町ではないが、守備隊は常駐しており、簡単な攻撃魔法を扱える住民も少なくない。


 十体にも満たない魔物だけで、これほど早く町全体が沈黙するとは思えなかった。


「正門の砦へ行くぞ」


 考え込むアレンを急かすように、ドレイヴが言う。


「兵士が残っているかもしれねえ。避難した住民も、そこへ集まってるはずだ」


「でも、アレンの傷が……」


 マナはアレンの右腕に両手を添え、続いて左肩の傷にも指先で触れた。


 やがて指の間から淡い光が生まれ、二つの傷口を順番に柔らかく包み込んでいく。本格的な治癒魔法ではなく、傷を洗い、冷たい魔力の膜で圧迫するだけの簡易術式だったが、それでも流れ続けていた血は少しずつ止まり始めた。


「これ以上は、杖がないと無理」


「十分だ」


「十分なわけないでしょ」


 マナは泣き出しそうな顔でアレンを睨んだ。


「もう少し、自分の体を大事にしてよ」


 普段の彼女なら、もっと強い口調で怒っていたに違いない。だが今は、声を荒らげるだけの力さえ残っていないのだろう。


 アレンは返す言葉を見つけられず、ただ小さくうなずいた。


 出血は弱まっても、右手の感覚は戻っていない。傷ついた腕を胸元へ抱え込み、二人とともに階段を下りた。


 玄関の扉は完全に破壊され、外から吹き込む雨が廊下の床を濡らしている。泥の足跡や骸骨が落とした錆びた剣、散乱する木片の中には、割れた額縁が落ちていた。


 中に収められていたのは、両親の肖像。砕けた硝子に走る亀裂が、穏やかに笑う父と母の顔を斜めに分断していた。


 額縁を拾い上げ、割れた硝子を取り除いている時間などない。それは分かっていた。それでもアレンはその前で足を止めずにはいられなかった。


 この家を一度出てしまえば、もう二度と戻ることはできない。


 確かな理由などないまま、そんな予感だけが胸の内へ静かに広がっていく。


「アレン」


 マナの声に促され、アレンは額縁から目を逸らした。左手を強く握りしめる。


「……行こう」


 三人は、冷たい雨が降り続ける外へ飛び出した。


     ◇


 グリムフォードの町は、死んでいた。


 畑を抜けて居住区へ足を踏み入れると、そこに広がっていたのは、アレンが毎日のように歩いてきた道とは思えない光景。


 見慣れた家々は崩れ、雨に濡れた石壁が墓標のように並んでいる。


 毎朝パンの匂いを漂わせていた店は正面の壁を失い、剥き出しの窯だけが赤く燃えている。子供たちが魔法を練習していた広場には、折れた杖と片方だけの靴が散らばっていた。


 石畳では、誰かが最後に放った術式の光が雨に削られ、消えかけている。


 その先の角を曲がったところで、一人の男が仰向けに倒れている。アレンの家へ何度も野菜を届けてくれた顔なじみの農夫。


 男は目を見開いたまま、黒雲に覆われた空を見つめている。その瞳にはもう何も映っていないはずなのに、まるで最後の瞬間まで、空の向こうに救いを探していたかのようだった。


 その姿に気づいたマナが足を止めた。


「待って。まだ、生きてるかも」


 駆け寄ろうとした彼女の手を、アレンは掴んだ。


「だめだ」


「でも!」


 男の胸は、すでに動いていない。


 アレンに手を引かれて足を止めたマナは、そこで初めて、男の体には上半身しか残っていないことに気づく。腰から下は引き裂かれ、雨に濡れた衣服の裾から、赤黒く染まった石畳が覗いていた。地面を流れる血は雨水に薄められながら、細い筋となって路地の奥へ続いている。


 助けられないと分かっていても、マナを止めたアレンの胸には、鉛を飲み込んだような重さが残った。


「……ごめんなさい」


 マナは誰にともなく小さく呟くと、再び雨の中を走り出した。


 石畳の隙間では、雨水と血が混ざり合い、赤黒い筋となって町の低地へ流れている。その両側には、崩れ落ちた家々や逃げる途中で捨てられた荷車、道端に折り重なるように倒れた人々が続いていた。


 割れた窓。開いたままの扉。泥の中へ転がった食器や玩具。


 町のどこを見ても、つい先ほどまでそこにあった日常が乱暴に引き裂かれた痕跡ばかり。


 それにもかかわらず、これほどの惨状を生み出した怪物たちの姿は、ほとんど見当たらない。


 遠くの通りでは、二体の骸骨が骨を鳴らしながら、正門の方角へゆっくりと歩いている。こちらには、まだ気づいていないようだ。


 目に入る怪物は、それだけ。


 だからこそ、残りのすべてがどこへ消えたのかという疑問が、冷たいものとなって胸の奥へ沈んでいく。


「なあ」


 傷の痛みに耐えながら走り続けていたアレンは、息を切らしてドレイヴに呼びかけた。


「おかしくないか?」


「何がだ?」


「怪物の数だ。町をここまで壊すほどいるようには見えない」


 ドレイヴは速度を落とさず、険しい顔で周囲の建物を見回した。


「襲ったあと、どこかへ移動したのかもしれねえ」


「どこへ?」


「それは……」


 答えが続くより先に、低い振動が地面を通して伝わってくる。


 雷鳴ではない。まるで地面の遥か下で、巨大な何かが身じろぎしたような、不吉な音だった。


 三人の足が同時に止まる。雨に煙る町並みの向こう、正門の砦がある方角から黒い煙が立ち上っていた。


「急ぐぞ」


 ドレイヴが再び駆け出す。


 砦さえ無事であれば、連邦兵が残っているかもしれない。負傷者の治療を受けることも、町で何が起きているのかを知ることもできる。


 アレンも、そのわずかな希望に縋るように足を動かした。


 やがて建物が途切れ、正門へ続く幅広い大通りが姿を現す。


 そして、その道の先が見えた途端、三人は示し合わせたわけでもないのに、そろって足を止める。


「……なんだよ、あれ」


 ドレイヴの声が掠れた。


 これまで町を守ってきた堅牢な砦は、巨大な獣に食い荒らされた死骸のように崩れている。


 中央部は陥没し、正門は上から押し潰されたようにひしゃげている。深い亀裂の走る外壁には、錆びた剣を掲げた骸骨、四本の脚を石壁に突き立てる獣型の魔物、黒い泥をまとった異形が隙間なく群がっていた。


 怪物たちは互いの体を踏み台にして壁を這い上がり、落ちた仲間さえ足場に変えている。骨と石の砕ける音が、雨の中へ絶え間なく響いていた。


 遠くから眺めるその光景は、腐敗した巨大な肉塊に無数の蛆虫が群がっているようにしか見えない。


 町の中でほとんど姿を見せなかった怪物たちは、消えたのではない。獲物の匂いに導かれるように、すべてこの砦に集まっていたのだ。


「砦が……」


 マナが、信じたくない現実を否定するように呟いた。


「もう、落ちてる……」


 唯一の避難場所も、残されていたわずかな希望も、三人が辿り着くより先に失われていた。


 そのとき、背後で乾いた骨の鳴る音がした。


 振り返ると、大通りの奥から骸骨たちが次々と姿を現す。数は五体、十体と増え続け、そのさらに後方からも、雨に滲んだ無数の影がゆっくりと近づいてくる。


 前方には崩壊した砦と、そこに群がる魔物の大群。背後には、自分たちを追ってきた骸骨たちが迫っていた。


 もはや、逃げ道はどこにも残されていない。


 ドレイヴは太い支柱を構えると、二人を庇うように一歩前へ出た。


「俺がここで止める。アレン、お前はマナを連れて逃げろ」


「どこへ逃げるんだよ」


「どこでもいい! 生きてさえいれば、あとから考えられる!」


「お前を置いていけるわけないだろ!」


「だったら三人で仲良く死ぬのか!?」


 ドレイヴの怒声が雨音を切り裂く。だが、アレンは何も言い返せない。


 恐怖で喉が固まった。


 卒業後の進路も、マナへ伝えられずにいる言葉も、ドレイヴと交わした旅の約束も、何ひとつ終わっていない。


 死ぬには、あまりにも途中だった。


 それでも死は、こちらの事情など考えてはくれない。


 骸骨たちは錆びた剣を構えたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。アレンは動かなくなりつつある右手を押さえ、残された左手に魔力を集めた。


 せめて一体だけでも倒したい。たとえ一秒でも長く時間を稼ぎ、マナとドレイヴが生き延びる可能性を残したかった。


 不意に、黒雲の奥で何かが白く輝く。


 最初は雷だと思った。だが、いくら待っても雷鳴は聞こえてこない。


 厚い雲の一点に細い亀裂が走る。それは瞬く間に空を横断し、世界そのものに刻まれた巨大な傷口のように開いていった。


 あまりにも強い輝きに包まれ、周囲からすべての色が失われていく。


「伏せろ!」


 ドレイヴが叫んだ、その直後だった。


 空から光が落ち、鼓膜を破るような轟音とともに大地が激しく跳ね上がる。続いて押し寄せた巨大な衝撃が、降り続けていた雨を一瞬で吹き飛ばした。


 アレンはマナの体を抱き寄せ、そのまま地面へ倒れ込む。


 だが、覚悟していた痛みは訪れない。


 恐る恐る顔を上げると、砦に群がっていた怪物たちが青白い光に包まれている。


 骸骨は音もなく崩れ落ち、獣型の魔物は断末魔を上げる間もなく灰へ変わっていく。黒い泥をまとった人影も、輪郭を失いながら雨の中へ溶けていった。


 光は怪物だけを正確に選び取り、一体ずつ消し去っていく。


 それほどの力でありながら、砦も、周囲の建物も、倒れた人々も傷つけてはいない。


 術式の痕跡も、属性魔法の残滓も、魔力の流れさえ感じられない。


 アレンの知る魔法ではない。


「神の……裁き……?」


 マナの唇から、震える声がこぼれる。


 やがて砦の上空に青白い光が集まり始め、その輝きの中心に、人の形をした影が浮かび上がる。


 男なのか、女なのか。顔さえも見えない。


 ただ、人の姿をした何かが何の支えもない空中に静かに佇んでいる。


「人……なのか?」


 アレンの呟きに応えるように、光る者が静かにこちらを向く。


 見えないはずの視線に捉えられた途端、胸の奥で何かが大きく脈打つ。


 それは心臓ではない。肉体よりもさらに深い場所に、生まれたときから埋め込まれていた何かが、今この瞬間、初めて目を覚ました――そんな感覚。


「っ……!」


 堪えきれず、アレンは胸元を押さえる。


 皮膚の下を細い雷が這い回るような熱が生まれ、胸から傷ついた右腕へ向かって広がっていく。


「アレン?」


 すぐ傍らにいるはずのマナの声が、ひどく遠く聞こえる。


 そのとき、光る者が動く。


 何もない空間を蹴るように一気に加速し、一直線にアレンたちへ向かってくる。


「来るぞ!」


 ドレイヴが差し出した手へ、アレンも左腕を伸ばす。


 あと少し。


 互いの指先が触れ合う、その寸前。


 光が三人に衝突し、世界が弾ける。


 すべての音が消え、降り続けていた雨粒さえ空中で静止する。手を伸ばしたドレイヴも、風に揺れていたマナの髪も、時間から切り離されたかのように動かない。


 ただ一人、アレンだけが白い世界に取り残されている。


 いや、自分が本当にそこに立っているのかどうかさえ分からない。


 上下も、距離も、時間も存在しない。果ての見えない白だけが、どこまでも広がっている。


 やがて、その遥か向こうに巨大な影が浮かび上がる。


 扉。


 アレンには、そう見える。


 天を支える柱よりも巨大な黒い扉。その表面には無数の鎖が幾重にも巻きつき、わずかな隙間から赤黒い光が漏れ出している。


 そして、扉の向こう側では、何かがゆっくりと息をしている。


 一度目の呼吸で、白い世界全体が大きく震える。


 二度目には、扉を封じる鎖が軋み、耳障りな金属音を響かせる。


 三度目の呼吸が伝わると、アレンの胸に鋭い痛みが走り、雷に似た紋様が皮膚の下に一瞬だけ浮かび上がる。


 そのとき、どこからか誰かの声が聞こえる。


 ひどく遠く、底の見えない深淵から響いてくるような声だ。


 それは人間の言葉ではないはずなのに、意味だけが直接意識の奥へ流れ込んでくる。


 ――見つけた。


「誰だ……」


 アレンが問いかけても、返事はない。


 代わりに、黒い扉がわずかに開き、その細い隙間の向こうで無数の何かが蠢いているのが見える。


 見てはいけない。


 本能が激しく警鐘を鳴らす。だが、目を逸らそうとしても指一本も動かせず、まぶたを閉じることさえできない。


 やがて、深い闇の奥で、ひとつの巨大な瞳がゆっくりと開く。


 直後、白い世界は音を立てて砕け散った。


 グリムフォードの上空では、光に引き裂かれた黒雲が、何事もなかったかのようにゆっくりと閉じていく。


 結局その日、太陽が町を照らすことは一度もなかった。


 そして遥か遠くで、まだ誰にも正体を知られていない扉が、ほんのわずかに軋んだ。


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