第50話『帰る場所はここだ』
――帰れ。
「……どこにだよ」
アレンの呟きに答えはなく、代わりに返ってきたのは、黒い扉の軋む音だった。
ぎ、ぎぎ……。
巨大な合わせ目が、さらに広がっていく。
だが、扉の奥には何も見えない。暗闇ですらなかった。
光が届かないのではない。その先にあるものが、こちら側の光を受け入れていない――そんな黒。
その黒の中から、細長い腕が伸びてきた。
「アレン!」
マナの声と同時に、アレンは左足を引いた。
爪が鼻先を掠めるのをかわし、身体を捻る。その勢いのまま、左手の剣を下から斬り上げた。
だが、手応えは浅い。黒い皮膚の表面に、細い傷が走っただけだった。
「下がれ!」
そこへ、ドレイヴが横から踏み込んだ。
全身を覆う魔装が赤く瞬き、腰だめに引いた大剣を一気に横薙ぎへ振り抜く。
「おらぁッ!」
伸びていた腕が肘から砕け飛ぶ。さらに刃の勢いに押し切られ、異界種の身体ごと黒い隙間へ叩き返された。
だが、その背後からもう一体、さらに一体と姿を現す。
骨の身体を持つスケルグールが四つん這いになって隙間から這い出し、その上を飛び越えるようにして、細長いデスリーチャーが床へ降り立った。
「また来たぞ!」
「分かってる!」
アレンは剣を構え直した。
黒い扉の前には、すでに何体もの異界種の残骸が転がっている。砕けた骨、切断された腕、黒い体液、消滅しかけた肉片。
それだけ倒したはずなのに、数が減っている感覚がまるでない。
「ドレイヴ、右!」
「分かってる!」
スケルグールの爪を大剣の腹で受け止め、ドレイヴは踏ん張る。
「……っらぁ!」
そのまま身体ごと、力任せに押し返した。
「炎よ、弾けて敵を焼け――フラメンシュトース!」
至近距離で火球が炸裂し、胸部を焼き砕かれたスケルグールが倒れる。
その向こうから飛び込んできた小型異界種へ、アレンは剣を振るった。だが、一撃目は浅い。さらに踏み込みながら二撃目を放ち、その首を刎ねる。
直後、左側から別の影が迫った。
「走れ、雷――ブリッツフンケ!」
青白い雷が一直線に走り、小型異界種の胴を撃ち抜く。
床へ落ちた身体を確認するより先に、アレンは右腕の状態を確かめた。いつもと変わらず、痺れが肘へ上ってくる感覚もまだない。
「ドレイヴ! 一歩下がれ!」
「なんでだよ!」
「そっちにデスリーチャーが二体来る!」
ドレイヴが一歩退いた直後、扉の隙間から二本の細長い脚が突き出した。
床へ着くより早く、アレンが剣でその一本を払う。体勢を崩したデスリーチャーへ、ドレイヴの大剣が上から振り下ろされ、その身体を石床ごと砕いた。
「次、来るぞ!」
ドレイヴがすぐさま叫ぶ。
だが、もう次が来ている。その次も、さらにその奥にも。
アレンは黒い扉の奥に目を凝らした。
そこで動いている何かは、今まで倒してきた異界種とは明らかに大きさが違う。
扉の隙間から見えているのは、ごく一部にすぎない。それでも、こちら側へ出ようとしている影は、地下遺構の天井へ届きそうなほど巨大に見えた。
「……なんだよ、あれ」
呟いた途端。
「見ないで!」
ディアナの鋭い制止が飛んだ。
「そっちは二人に任せて! 今は――こっちを近づけさせないで!」
アレンは弾かれたように振り返った。
戦線から数歩離れた場所では、ディアナとケイムが砕けた封印装置を挟んで向かい合っている。
床には無数の測定結晶が並び、その間を走る白い術式線が、砕けた石板の断面へと繋がっていた。
先ほどから続けていたのは、三十三系統の封印経路の解析だ。
雷鳴に似た一系統だけを繋ぎ直せばいい。そこへアレンの雷を通せば、封印を再起動できるかもしれない。
そう思っていたからこそ、五人で役割を分け、戦いながらここまで試してきた。
だが――。
「……駄目ね」
ディアナが測定結晶を持ち替える。
「接続先が見つからない」
「なら、もう一度。外側から組み直す」
ケイムが杖先を横へ滑らせると、白い術式線は砕けた石板の周囲を迂回し、別の経路へと伸びていった。
「第三系統から迂回する。十一と十七を中継にして――」
「待って。そこ、術式が欠けてます」
ディアナが鋭く制した。
「……欠けてる?」
「ええ。経路だけじゃない。効果式そのものが、途中から消えてる」
ケイムが目を細める。その間にも背後では、大剣と爪が激しくぶつかり合っていた。
「っ、くそ……こいつら、どんだけ出てくんだよ!」
ドレイヴの叫びが響く中、マナは杖を向ける。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
数本の水針が飛び、ドレイヴの脇を抜けようとした小型異界種の脚を撃ち抜く。
「助かった!」
「倒さなくていい、押し戻して! 前に出すぎないで!」
「分かってる!」
「分かってる人は、毎回そこまで出ないの!」
「向こうから来るんだから仕方ねえだろ!」
いつもの言い合いではあったが、その声にいつもの余裕はなかった。
ドレイヴの呼吸はすでに荒く、大剣を振るたびに肩の動きが少しずつ遅れている。全身を覆う魔装も、最初より明らかに薄い。
マナも同じだった。
支援、防御、小規模な攻撃。それに加えて、二人の身体状態まで確認し続けている。
二人が治癒魔法を必要とするほど傷つかないよう立ち回っていても、魔力の消費そのものは止められない。
「アレン!」
マナが鋭く呼ぶ。
「右、三体!」
「分かった!」
アレンは一体目の爪を剣で受け流し、そのまま外へ逸らした。
続けて二体目へ蹴りを入れるが、三体目が低い姿勢のまま足元へ飛び込んでくる。
左手だけでは間に合わない。
マナも状況を察し、ほんの一拍だけ迷って――。
「……少しだけだよ!」
「ああ!」
右腕へ雷が走る。
雷鳴の刻印。
紫電が麻痺した神経の代わりに筋肉を動かし、垂れていた右手が跳ね上がった。
その手で剣を掴み、抜く。二本目の剣だ。
右から迫る異界種の首へ一閃し、返す刃で二体目の脚を斬る。そのまま身を沈め、一体目の脇を抜けた。
「今だ!」
「おう!」
間髪入れず、ドレイヴの大剣が振り抜かれ、三体まとめて薙ぎ払う。
アレンは右手の剣を鞘へ戻すと、すぐに刻印を止めた。紫電が消え、右手から力が抜けていく。
その手を下ろすアレンの横を、小型異界種の黒い体液が流れていった。
まだ戦える。もっと使えば、もっと倒せる。
そういう考えが浮かばないわけではない。だが、それが扉を閉じる方法ではないことも、もう分かっている。
百体倒しても、千体倒しても、扉が開いたままなら次が来る。
必要なのは勝つことではない。
閉じることだ。
「ディアナ!」
アレンは刃を振るいながら叫ぶ。
「まだ駄目か!」
「今やってる!」
返ってきた声には、苛立ちよりも焦りが滲んでいた。
ディアナは砕けた石板の前へ膝をつくと、空中へ術式を書き込んでいく。
「……現代術式で置き換える!」
白い線が幾重にも重なり、壊れた封印装置の欠損部へ滑り込む。
「起点符をこっちへ。対象指定は残存部から拾って……効果式は――」
光は一度だけ走った。
だが、白い術式線は途中で途切れた。
「……駄目」
「次、試そう」
ケイムが別の結晶を差し出す。
「欠けた部分だけ補修する」
「……やってみます」
ディアナはすぐに術式を切り替えた。
砕けた石片を並べ、残された術式から本来の経路を逆算し、欠損部に仮の線を重ねていく。
一本、二本、三本。
しかし四本目で、ディアナの杖先が止まった。
「……先生」
「うん」
「ここから先が……ない」
「推測はできる?」
「接続先は三つあります。でも、どれが正しいか判断できる情報がない」
「……全部試すのは?」
「誤接続した瞬間、封印術式そのものに逆流する可能性があります」
「……それは駄目だね」
ケイムはすぐに引いた。
「じゃあ、外から重ねよう」
「別の封印術式を?」
「元が直せないなら、それしかない」
二人の手が、再び動き出す。
円を描き、線を繋ぎ、起点符、対象宣言、封止文を重ねていく。
やがて現代の封印術式が、黒い扉を囲うように組み上がった。
「巡る魔力よ、術式を閉ざせ――アルカンシュロス!」
ディアナの杖から白い光が伸び、そこへケイムの術式が重なる。
白い術式線は黒い扉の周囲に絡みつき、開き続ける接続に干渉した。
「いけるか!」
ドレイヴが叫ぶ。
「まだ!」
直後――。
ゴン――!
扉の向こうから衝撃が走り、白い術式線全体が大きく歪む。何本もの線が、その途中で途切れた。
「嘘……」
マナが封印装置へ顔を向ける。
間を置かず――。
ゴン――!
もう一度、衝撃が走り、重ねた術式が粉々に崩れ散った。
「……止めきれない」
ディアナの声が沈む。
「いや――」
ケイムは砕けた封印装置を見据えた。
「止め方が違うんだ。僕らは、開き続ける接続を外から塞ごうとしてる。でも古代の装置は……たぶん、接続そのものを閉じてた」
「なら、その方法を――」
アレンが言いかけたが、ディアナは答えず、砕けた石板を見つめていた。
その沈黙に、アレンは嫌なものを感じた。
「……ディアナ?」
呼ぶと、彼女は測定結晶を石板へ近づけた。
位置を変え、さらにもう一つを重ねて結果を確かめる。
そして、静かに杖を下ろした。
「……無理よ」
その声はかすかで、アレンは聞き間違えたのかと思った。
「……何が?」
ディアナがゆっくりと顔を上げる。
その表情には、悔しさすら浮かんでいなかった。ただそこにあったのは、答えを最後まで探した人間だけが見せる、静かな行き止まりだった。
「……術式を直す以前の問題よ」
ディアナは砕けた石板のひとつに指を触れた。
「壊れてるのは、線だけじゃない」
そう言って足元の石片を拾い上げると、そこには古い文字の一部が刻まれていた。
だが、その文字は途中で砕けている。
「ここ。本来なら、この先にも効果式が続いていたはず。でも……残ってない」
ディアナは隣の石板へ手を移す。
「こっちは、魔力経路そのものが削れてる」
さらに別の破片を拾い上げた。
「魔法石も割れてる。内部まで壊れてて、もう魔力を保持できない」
ディアナは、周囲に散らばった破片を見回す。
「……失われた部分が、多すぎる」
アレンは何も言えなかった。
「欠けた文字なら、前後から推測できることもある。切れた経路なら、残った流れから繋ぎ直せることもある。でも――」
指先が、何もない床の上で止まる。
「何があったのかさえ分からない部分は……直しようがない」
ケイムも、何も言い返さなかった。
そのことの方が、アレンには重かった。
いつもなら、ケイムは何か言う。可能性が低くても別の組み方を探し、記録がないなら現場で作ればいいと笑う。
そのケイムが、砕けた装置を前に黙っている。
「ケイム」
アレンは呼びかけた。
「三十三系統は?」
「見たよ」
ケイムは短く返す。
「残っている経路は、全部ね」
「なら、別の系統から回せないのか?」
「できない」
「じゃあ……俺のところだけでも――」
「それも駄目だ」
答えに迷いはなかった。
アレンは黒い手袋に覆われた右手をわずかに持ち上げた。その下には雷鳴の刻印がある。
さっきまでは、この力が最後の一系統を繋ぐ鍵になると思っていた。
そして、ケイムに問いかける。
「ケイム」
「うん」
「俺の雷で……何か、できないか?」
ケイムは、すぐには答えなかった。
封印装置、雷鳴に似た紋章、砕けた石板、そして失われた魔力経路。
一つずつ確かめるように見たあと、静かに首を横へ振った。
「できない」
「……そうか」
「君の力が足りないわけじゃない」
ケイムはアレンの右腕へ目をやった。
「ここに雷を百倍流したところで、壊れた装置は直らない」
杖先で、床に散らばった石片を示す。
「消えた術式まで、雷が作り直してくれるわけじゃないからね」
アレンは黒い手袋の先へ目を落とした。
百倍。
以前なら、その言葉の中から別の意味を探したかもしれない。百倍で駄目なら、もっと使えばいい。自分なら耐えられる。耐えられなくてもやる。
そんな考えにすがっていた。
けれど今は。
「……分かった」
右腕を下ろした。
何も解決していない。扉も閉じていない。
それでもアレンは、もう一度右腕へ雷を流そうとはしなかった。
代わりに、左手の剣を握り直す。
そのとき――。
ゴン――!
これまでとは比べものにならない音が、地下を揺らした。
「っ!」
床が大きく跳ね、石片が宙へ浮かぶ。測定結晶も転がり、天井からは砂と小石が降り注いだ。
マナは杖を掲げ、頭を庇った。
「なんだ!?」
ドレイヴが足を踏ん張る。
その直後、黒い扉の隙間が一気に押し広げられた。
「まずい!」
ケイムが鋭く警告した。
扉の向こうで、巨大な何かが動いた。
それは腕だった。アレンたちが今まで戦っていた異界種なら、その身体ごと掴めるほどの巨大な腕だ。
指のようなものが一瞬だけこちら側へ伸び、空間を探るように動く。ただそれだけで、周囲の異界種が押し退けられた。
やがてその影が再び向こう側へ消え、アレンは言葉を失った。
「……あんなのまで、出てくるのかよ」
「ディアナ!」
ケイムの鋭い声が飛ぶ。
ディアナは床へ転がった測定結晶を拾い上げ、光、数字、測定線の変化を確かめた。
数値を見た途端、ディアナの顔色が変わった。
「接続が……!」
ディアナの手が、測定結晶の上を走る。
「さっきより速い!」
「……まずいね」
ケイムの声から、完全に軽さが消えた。
「あと、どれくらい?」
マナが問いかける。
「数分」
「……数分?」
「それで、完全に繋がる」
ドレイヴが肩越しに怒鳴った。
「だったら早く閉じろ!」
「だから、その方法を探してるの!」
怒鳴り声が地下に反響し、誰も言葉を返せなかった。
彼女自身も、自分が声を荒らげたことに気づいたらしい。わずかに唇を噛む。
「……探してる、けど」
続く言葉は、小さかった。
方法が、ない。
その間にも、異界種がまた扉から這い出してくる。
「ドレイヴ!」
「分かってらぁ!」
ドレイヴが大剣を構える。
だが――。
「っ……!」
振り上げかけた腕が、わずかに落ちる。
そのわずかな失速を、アレンは見逃さなかった。
「おい」
「なんでもねえ!」
「……もう限界だろ」
「お前にだけは言われたくねえ!」
吐き捨てるように返し、ドレイヴはそのまま走った。
スケルグールの攻撃を受け止め、魔装と大剣、さらに火魔法を重ねて押し返す。
それでも、最初のような勢いはない。
そこへ、マナが防御術式を展開した。
「水よ、壁となれ――ヴェレンヴァル!」
水の壁が広がり、デスリーチャーの触手を受け止める。
しかし水面が激しく揺れた。
「マナ!」
「大丈夫!」
返事は、すぐに返ってきた。
けれど――杖を握る指は、かすかに震えている。
魔力を使い続けた疲労と、積み重なった精神の消耗。それでもマナは術式を維持していた。
アレン自身も同じだった。
雷魔法に魔装。必要最低限とはいえ、刻印も使っている。
これ以上、長く刻印を使えば、呪縛が進む。右手首から先だけで済んでいる麻痺が、また上へ広がるかもしれない。
そのとき、頭の中へ一つの考えが浮かぶ。
撤退。
ここから離れ、地下遺構を上へ戻る。グリムフォードを出て助けを呼ぶ。
生き残るためには、それが正しい。戦場ならきっと。
勝てない戦いから退くことは、間違いではない。
だが、アレンは黒い扉を見た。
ここから逃げても、あれは残る。数分後には完全に開き、そうなれば、今ここにいる異界種だけでは済まない。
あの巨大な腕の持ち主まで現れ、グリムフォードへ――壊れた故郷へと踏み込んでくる。
そして、そこからさらに外へ。セリオス領へ。その先の連邦全土へ。
それが分かっているのは、アレンだけではない。
それでも、誰一人として「撤退」とは言わなかった。
言葉にする必要すらなかった。
扉の隙間から流れ込む冷気はさらに強まり、黒い向こう側とこちら側、その境目が少しずつ失われていく。
もう、間に合わないかもしれない。
仲間たちの表情にも、同じ予感が浮かんでいた。
「……くそ」
ドレイヴが吐き捨てる。
「こんなとこで終わりとか……笑えねえぞ」
マナは何も言わず、アレンの横に立った。
肩で呼吸しながらも、杖は前へ向けたままだ。
ディアナは砕けた封印装置から目を離さず、ケイムも同じように黙っていた。
長い沈黙ではない。ほんの数秒だったが、アレンには妙に長く感じられた。
やがて、ケイムがゆっくりと杖を下ろした。
「……一つだけ、ある」
アレンがケイムへ向き直る。マナも動きを止め、ドレイヴさえ戦いながらそちらを窺った。
「先生……?」
ディアナの声が揺れた。
ケイムは、砕けた封印装置を見つめたまま答える。
「直すんじゃない」
杖を握り直す。
「壊れる前まで戻す」
一瞬――。
ディアナの顔から、さっと血の気が引いた。
「……駄目です」
「ディアナ?」
アレンが思わず呼ぶ。
ケイムは答えず、杖を前へ出した。
すると、見たことのない術式が展開される。
円でもなければ、封印線とも違う。幾つもの輪が互いに逆方向へ回り、その内側を細かな記号が流れていく。
やがて床へ落ちていた砂粒が浮かび、石片が震え始めた。
「先生!」
ディアナが立ち上がる。
「やめてください!」
「ディアナ」
ケイムは振り返らなかった。
「装置が戻ったら、君が封印を起動するんだ」
「先生!」
ディアナが、さらに一歩踏み出す。その顔に浮かんでいるものを、アレンは初めて見た。
それは怒りでも、焦りだけでもない。
恐怖だった。
「先生! それは禁忌です!」
「……禁忌?」
アレンが聞き返すと、隣にいたマナの表情も曇った。
「何の話だ?」
ドレイヴも、その意味を理解していない。
けれどディアナだけは、ケイムが何をしようとしているのか分かっているらしかった。
「王命で禁じられているはずです!」
声が震える。
「王の許可なしでは、絶対に使わないって――!」
「うん」
ケイムは、いつもの調子で頷いた。
「たしかにそういう命令だったね」
「だったら……!」
そこで初めて、ケイムは開き続ける黒い扉を見据えた。
開き続ける闇の向こうでは、巨大な影が動いている。
「でも」
ケイムは短く言った。
「このまま扉が開き切ったら――」
一拍。
「王様が命令を出す、その国自体がなくなる」
ディアナは何も言えず、返す言葉を失っていた。
アレンは問いを重ねた。
「ケイム……何をするつもりだ?」
「時間を戻す」
「……時間?」
「全部じゃない」
ケイムが杖先を下げ、砕けた封印装置を示した。
「これだけだ」
「これだけって……」
「この装置だけを、正常に動いていた時間まで戻す」
アレンは、その意味を理解しようとした。
壊れたものを直すのではない。失われた術式を作るのでもない。
文字が残り、石板が繋がり、魔法石が砕けていなかった――壊れる前の時間まで戻す。
「そんなこと……」
マナが小さく呟いたが、「できるのか」と続ける前に、その言葉は消えた。
できるのだ。だからこそ、ディアナがあれほど止めている。
ケイムが杖を両手で構えると、空中に浮いた幾つもの輪が、ゆっくりと回転を速めていった。
「ケイム……!」
「大丈夫だよ」
ケイムはそう言ったが、アレンはその声に、いつもの余裕がないことに気づいた。
冗談もなければ、笑ってもいない。
そしてディアナの顔には、今までに見たことがないほど、はっきりとした怯えが残っている。
何があったのか。なぜ王命で禁じられているのか。
アレンには分からない。
だが今は、それを聞いている時間もない。
「アレン!」
ドレイヴの怒声が割り込む。
異界種が迫り、アレンはすぐに戦線へ向き直った。
「分かってる!」
今はただ、ケイムの仕事を止めさせない。それだけだった。
「マナ、ケイムたちは任せた!」
「うん!」
アレンはドレイヴの隣へ駆け込む。
「おせえぞ!」
「今来ただろ!」
「来るぞ!」
黒い扉の隙間から三体が飛び出し、その後ろからさらに二体が続く。
アレンは剣を構えた。
背後で、ケイムの術式が完成した。
「――戻れ」
低い声が落ちた途端、地下から音が消えた。
アレンが剣を振るい、異界種の爪とぶつかる。だが、音はない。
ドレイヴの大剣が床を打っても、異界種が口を開いても、何も聞こえない。自分の呼吸さえ消え、世界から音だけが切り取られていた。
その無音の中、砕けていた封印装置の破片が、ゆっくりと浮かび上がる。
一つ、また一つと、床に転がっていた石が宙へ上がっていく。
落ちるのではない。
戻っている。
破片が砕けた石板の断面へ吸い寄せられ、離れていた二つが触れた瞬間、亀裂が消えた。
次の石、その次と続き、失われていた文字が少しずつ繋がっていく。欠けていた線が伸び、切れていた魔力経路も、一つの形へ戻っていった。
砕けていた魔法石も、細かな欠片が逆向きに集まり、割れる前の姿を取り戻していく。
アレンは戦いながら、その光景から目を離せなかった。
時間が、逆に流れている。
だが、戻っているのはそこだけで、周囲までは変わらない。
崩れた壁は崩れたままで、床の傷も消えず、倒した異界種の死骸も戻らない。
遠く、地上にあるグリムフォードも、あの日へ戻ることはなかった。
戻っているのは封印装置だけで、そこに残っている時間だけを、ケイムが逆向きへ引いている。
やがて音が戻り、最初に聞こえたのは、ケイムの荒い呼吸だった。
「先生……」
ディアナが異変に気づく。ケイムの手が震えていた。
術式の輪が一つ、大きく揺れ、それに呼応するように、復元しかけていた石片が不意に止まる。
「先生!」
「そのまま!」
ケイムが鋭く叫ぶ。
「触るな!」
額を汗が伝い、次の瞬間、鼻から赤いものが流れた。
「ケイム!」
マナが思わず一歩踏み出す。
ケイムの瞳が、今ここではない何かを見るように揺れた。
同時に、ケイムの意識へ断片的な光景が閃く。
――崩れる街。
――叫ぶ人々。
――あり得ない方向へ歪む建物。
時間も、形も、場所も壊れていく。
ほんの一瞬。
ケイムは目を閉じ、杖を握り直した。
「……今回は」
揺れていた術式の輪がぴたりと止まり、ケイムが目を開いた。
「間違えない」
途切れかけた魔力が再び流れ込み、復元が続く。
欠けていた文字が戻り、最後の魔力経路が繋がる。石板の中央を走っていた亀裂も、ゆっくりと閉じていった。
そして、完全に消える。
封印装置が光を取り戻した。
古く、弱い。それでも、確かな光だった。
「ディアナ!」
「はい!」
ディアナが走った。
ここから先は、彼女の仕事だ。
ケイムは杖を動かさない。いや、動かせない。
封印装置を過去の状態へ繋ぎ止めるだけで、すでに限界なのだ。
ディアナは復元された石板の前に膝をつき、測定結晶を置くと、杖先を差し込んだ。
「起点符……正常」
一つ目の光が灯る。
「対象宣言……保持」
二つ目。
「第一経路、接続」
床を走る古代の線が光を帯びる。
「第二経路……接続」
続いて別の線にも光が走り、三つ、四つと、その数を増やしていく。
中央区画から続いていた三十三の紋章、その一つ一つへ魔力が巡り始めた。
「来るぞ!」
ドレイヴが叫ぶ。
異界種の動きが変わった。
今までアレンたちを狙っていたものが一斉に向きを変え、ディアナと復旧した封印装置へ向かって走り出す。
「行かせるかよ!」
ドレイヴが正面へ割り込み、大剣で一体を弾き飛ばす。
続く二体目の爪は、魔装で受け止めた。
「ドレイヴ!」
「いいからディアナ守れ!」
「俺もやってる!」
アレンは吐き返し、剣を構え直した。
一体が左から迫る。刃を合わせ、そのまま押し返す。
その隙に、別の影がディアナの背後へ回り込もうとした。
「マナ!」
「分かってる!」
マナが杖を振り抜く。
「水よ、壁となれ――ヴェレンヴァル!」
青い水壁が一気に立ち上がり、異界種がぶつかって進路を逸らす。
そこへアレンが入り込み、剣を突き込んだ。
「第十七経路、接続!」
ディアナの声が響く。
「十八!」
光が走る。
「十九!」
さらに一つ、光が繋がる。
封印装置を中心に、次々と光が広がり、地下遺構そのものが目を覚ましていく。
「あといくつだ!」
ドレイヴが叫ぶ。
「数える暇があるなら前見て!」
「言い方ってもんがあるだろ!」
「二十四!」
「そこは聞いてねえ!」
「聞いたの、そっちでしょ!」
ドレイヴが一瞬だけ笑った。
だが、その直後――異界種の爪が肩を掠める。
「っ!」
「ドレイヴ!」
「浅い!」
血が飛んでも、ドレイヴは退かずに大剣を振るう。
アレンもその隣に並んだ。
「右は俺がやる!」
「なら、左は任せろ!」
二人は並んで前を塞いだ。
封印そのものは、アレンたちには完成させられない。
封印術師はディアナで、術式を過去へ繋ぎ止めているのはケイム。その代わりを務めることはできない。
なら、守る。
それでいい。
「二十九!」
光が増える。
「三十!」
ケイムの術式が大きく揺らぐ。
「……っ」
膝が、崩れかけた。
「ケイム!」
マナが一歩、そちらへ寄りかける。
「僕じゃない!」
血の伝った顔で、ケイムが鋭く叫んだ。
「ディアナを守って!」
マナは一瞬だけ動きを止めた。
助けたい。その思いが表情に滲む。
けれど――。
「……うん!」
前へ向き直り、杖を構え直した。
「水よ、三重の渦となり、我を守れ――ヴェッサー・トリブス!」
三重の水流が広がり、飛び込んできた小型異界種を巻き込んで弾き返す。
「三十一!」
ディアナの額にも汗が滲み、杖先がかすかに震える。
「三十二!」
残るのは、雷鳴に似た紋章ただ一つ。
ディアナが最後の系統を繋ぐのを待つ。
「……三十三」
紫色に似た光が走り、最後の紋章が灯る。
ディアナは杖を両手で握り、封印装置の中心へ向けた。
「封印術式――起動!」
封印が起動した途端、アレンの右腕が跳ねた。
「っ――!」
黒い雷。
紫でも、青白くもない。
あの雷が、手袋の隙間から迸る。
「アレン!」
マナの声が届く。
だが、答えるより先に、視界が暗転した。
◇
黒い空間だった。
音もなければ、地面も空もない。その中に、アレンは立っていた。
目の前には、巨大な黒い扉がある。
以前より近い。近すぎるほどに。
手を伸ばせば、触れられるのではないかと思うほどだった。
やがて、その表面を縛る鎖の一本が光を帯びる。続いて次の一本、さらにもう一本。
失われていたはずの鎖が、扉へ戻り始めていた。
その向こうから、意味が届く。
――お前は戻る。
アレンは答えなかった。
――最初から。
鎖が鳴る。
――お前はこちら側のものだ。
アレンは扉を見つめたまま、これまで何度も聞き、何度も考えてきたことを思う。
自分は何なのか。
なぜ黒い扉と繋がるのか。なぜ黒い雷が出るのか。なぜ異界種が恐れたのか。
そして、なぜグリムフォードの自分の家の下にこれがあったのか。
答えはない。
今も、自分が何者なのかは分からない。
だから――。
「……俺が昔、何だったのかは知らない」
扉が震える。
「俺の中に何があるのかも……お前が何を知ってるのかも、分からない」
黒い雷が、右腕を這った。
それでも――「自分は絶対に違う」とは言わない。
否定できるだけの答えを、アレンは持っていない。
向こう側の言葉が真実なのか、嘘なのか、それとも誘惑なのか。今は答えが出ない。
なら、分からないものは、分からないままでいい。
――ならば。
意味が響く。
――帰れ。
アレンは少しだけ目を伏せた。
浮かんだのは、マナだった。
ずっと隣にいて、何度無茶をしても、そのたびに止めようとしてくれた。
次に浮かんだのは、ドレイヴ。
口は悪く、考えるより先に身体が動く。それでも、必要なときには必ず前に立つ。
ディアナは、分からないことを分かったと言わず、最後まで答えを探し続ける。
ケイムは、いつも何でも知っているように見える。それでも、できないことがあり、怖いものもある。今も、その怖さの中で杖を握っている。
そして、グリムフォード。
魔法学校、商店街、鐘楼、砦、町外れの家。
朝になれば起きて、マナが来て、ドレイヴと馬鹿な話をする。そんな、何も知らなかった日々。
もう戻らない。
戻さなくていい。
失ったものを、なかったことにはできない。
けれど今、自分がどこへ戻るかは、まだ選べる。
アレンは顔を上げ、黒い扉をまっすぐ見据えた。
「でも」
「帰る場所くらい……俺が決める」
――帰れ。
ゴン――。
巨大な扉が震えたが、アレンは退かなかった。
「俺の帰る場所は――そっちじゃない」
◇
三十三の紋章が、一斉に輝いた。
「アレン!」
マナの声が届き、アレンの意識が現実へ戻る。
気づけば片膝をついており、黒い雷はすでに消えていた。
目の前では、封印装置から光が放たれている。
一本の光の鎖が伸び、黒い扉に巻きついた。
続いて二本、三本、四本と、扉の上から、左右から、床から次々に光の鎖が伸び、巨大な黒い扉を縛っていく。
異界種たちが叫んだ。
だが、それはこれまでのようなこちらへ向けた咆哮ではない。
逃げようとしているのだ。
身体が次々と崩れ始め、腕は黒い灰となり、脚は砕け、爪も消えていった。
「閉じて……!」
ディアナが杖をさらに押し込むと、封印装置の光が一段と強まった。
「閉じて!」
その声に応えるように、扉が動き始める。
だが、開く方向ではない。
隙間を少しずつ狭めながら、向こう側へ押し返されるように閉じていく。
「もう少しだ!」
ドレイヴが叫びながら大剣を振り抜いて、最後に残った異界種を弾き飛ばす。
「ケイム!」
マナが叫ぶ。時空術式は揺らぎ、その輪郭も崩れ始めていた。
ケイムの杖を握る手には、もうほとんど力が残っていない。
「まだ……!」
ケイムが歯を食いしばる。
「まだ、離せない!」
ここで時空術式が崩れれば、封印装置を正常な状態に保てなくなり、封印は完成しない。
「ディアナ!」
「分かってます!」
三十三の光。
だが、起動したはずの最後の一系統――雷鳴に似た紋章だけが、まだ定着せず明滅している。
アレンの右腕がわずかに疼いた。
それでも手を添えず、雷も流さない。明滅する紋章を見守る。
やがて、ディアナの術式がそこへ届いた。
「……繋がって!」
光が走り、最後の紋章の明滅が止まった。
「――っ!」
ディアナが杖を振り下ろすと、轟音とともに黒い扉が一気に閉じた。
押し出された空気にアレンの身体が後ろへ流され、マナも倒れそうになる。ドレイヴは大剣を床へ突き立て、その場で踏みとどまった。
光の鎖が何重にも扉を縛る。
閉じた。
今度こそ、完全に。
そして、向こう側から最後に一度だけ――。
ゴン――。
誰かが、扉を叩いた。
アレンはその音を聞いたが、もう鎖は揺れず、扉も開かない。
巨大な黒い形が縦に細くなり、やがて黒い光の線へと変わる。その線も少しずつ薄れ、ついには完全に消えた。
静寂が訪れる。
五人は、その場に立ち尽くしていた。
異界種はいない。鳴き声も、足音も、爪が石を引っ掻く音も聞こえない。
黒い扉も消えていた。
残っているのは、砕けていたとは思えない姿へ戻った封印装置と、その表面に灯る淡い光だけだった。
アレンは、肺の奥に残っていたものをすべて押し出すように、長く息を吐いた。
隣ではマナが杖を下ろし、まだ信じられないというように、扉の消えた場所を見つめている。
ドレイヴは大剣に体重を預けたまま、肩で息をしていた。
しばらく、言葉は出なかった。
やがて――。
「……終わったのか?」
ドレイヴが掠れた声で聞いたが、ディアナは答えなかった。
封印装置へ近づき、測定結晶を一つずつ確認していく。次の経路、別の経路、三十三の紋章、封印反応、接続値。
何度も確かめるディアナを、アレンは黙って待った。マナも、ドレイヴも、ケイムも同じだった。
そして、ディアナが小さく頷いた。
「……ええ」
声が震える。
「再び封印することができたわ」
その瞬間、ケイムの周囲に残っていた時空術式が消えた。
輪がほどけ、文字が途切れ、光も落ちていく。
それとともに、杖先がゆっくりと床へ下がった。
「……先生?」
ディアナがケイムへ向き直るより早く、その身体が大きく揺れた。
「先生!」
杖が手を離れ、乾いた音を立てて床へ落ちる。
そのまま、ケイムの膝から力が抜けた。
「ケイム!」
「おい!」
「先生!」
ケイムの身体がその場に崩れ落ちると、アレンたちは一斉に駆け寄った。




