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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第四章『故郷の底に眠るもの』

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第51話『夜明けのあとで』


 石床へ崩れ落ちたケイムのそばで、マナが真っ先に膝をついた。


「ケイム!」


 杖を脇へ置き、ケイムを仰向けにすると、胸元に手を当て、次いで首筋に指を添え、呼吸と脈を確かめた。


 アレンもすぐそばに膝をつき、その手元を見守る。


 つい先ほどまで封印装置を過去の状態へつなぎ止めていた男の顔からは、完全に血の気が失われていた。額には冷たい汗が浮かび、鼻から流れた血が頬まで伝っている。


 その瞼は固く閉じられたまま、ぴくりとも動かなかった。


「おい!」


 ドレイヴがケイムのそばへ屈み込む。


「ケイム! おい……大丈夫なんだろうな!」


「ドレイヴ、ちょっと黙って!」


 マナはケイムの状態を追いながら手をかざすと、淡い水色の魔力を胸元へ流し込み、ゆっくりと頭部へ巡らせていった。


 魔力の流れを調べるための、ごく弱い観測だった。

 数秒後、張り詰めていたマナの肩がようやく少し下がった。


「……大丈夫。呼吸も脈も落ち着いてる。命に別状はないよ」


「……本当か?」


「ああ」


 アレンはようやく、詰めていた息をゆっくりと吐き出したが、マナの表情は晴れなかった。


「ただ……魔力が、ほとんど残ってない。あれだけの術式を維持したんだから、それ自体は分かるんだけど……」


 手のひらに灯る淡い光がケイムのこめかみ付近で不自然に揺れた。


「……変なの」


「何がだ?」


 ドレイヴが身を乗り出す。


「ただ魔力を使い切っただけじゃない。精神のほうに……ものすごく強い負荷がかかってる」


「時空魔法の反動じゃないのか?」


 アレンが問うと、マナは小さく首を振った。


「……それだけじゃないと思う。魔法の反動なら、魔力経路の疲労も一緒に出るはずなの。でも、これは……」


 マナはケイムの顔を見下ろし、言い淀んだ。


「別の何かに……内側から精神を傷つけられたみたいな……」


 そこで、マナの言葉が止まった。

 ディアナを見たからだ。


 彼女だけは驚いていなかった。顔は青ざめ、その指先は小さく震えている。

 だが、その負荷が何なのか分からない者の顔ではなかった。


「ディアナ?」


 アレンが呼びかけても、彼女は答えず、唇を固く結んだ。


 そのとき。


「……人の上で、そんな深刻そうな話をするのはやめてくれないかな……」


 床のほうから掠れた声が割り込んだ。


「ケイム!」


 マナの肩が跳ね、すぐに身を乗り出すと、ケイムの瞼がゆっくりと開いた。

 しかし、瞳はまだ焦点を結ばず、しばらく天井の一点をさまよっていた。


「おい!」


 ドレイヴがすぐさま顔を覗き込む。


「ケイム! 死んでねえよな!」


 ケイムは何度か瞬きをしてから、かすかに口元を動かした。


「……死んでいたら、返事のしようがないと思うけどね」


「なら立て!」


「立てるわけないでしょ!」


 間髪入れず、マナが怒鳴る。


「見れば分かるでしょ! 魔力、ほとんど残ってないんだから!」


「いや、いつもみてえに寝転がって軽口叩いてるからよ。いけるのかと――」


「軽口が叩けるのと、歩けるのは別!」


「……僕も、今はマナに一票かな」


「お前は黙ってろ!」


「……ずいぶん理不尽な話だね」


 ケイムが力なく笑う。つられて、アレンの口元にもかすかな笑みが戻った。


 黒い扉は閉じ、その輪郭も闇へ溶けるように消えていた。異界種の気配もない。封印装置からは、安定した弱い光が途切れることなく続いていた。


 つい数分前まで、生きてここから出られるかさえ分からなかったというのに、その地下で、今はまたいつものようなくだらない言い合いをしている。


 それだけで、ようやく終わったのだという実感が、少しずつ湧いてきた。


 だが。


「先生」


 静かな呼びかけひとつで、笑いは途切れた。


 ディアナはケイムを見下ろしている。いつもの彼女なら、まず身体状態を確認し、数値を取り、原因を分け、危険度を判断してから口を開く。


 だが、今は違った。

 両手は強く握られていた。ケイムはその手を見てから、ディアナの顔を仰いだ。


「……怒っているのかい?」


「当たり前です」


「……まあ、そうだろうね」


「王命違反ですよ」


「うん。それについては、否定できないね」


「否定できないねじゃありません!」


 鋭い声が地下に響き渡り、アレンたち三人はそろって黙り込んだ。

 ディアナがここまで声を荒らげるのを、アレンは初めて見た。


「何を考えてるんですか! どうなるか分かっていたでしょう! 魔力の問題だけじゃないんですよ! あの術式が作動すれば――」


「ディアナ」


 ケイムが穏やかに遮った。


「少なくとも、みんな生きてる」


「結果の話をしているんじゃありません!」


「分かっているよ。けれど、あの場では――」


「分かっています!」


 抑えていた感情が再び言葉に滲んだ。


「分かってますよ! 先生が使わなければ、封印装置は戻らなかった! 扉も閉じられなかった! 分かっているから……!」


 その先が続かず、ディアナは顔を伏せた。


 怒っている。それは間違いない。

 けれど、その奥にあるものが、今度はアレンにも理解できた。


 ケイムが死ぬかもしれなかったことが、怖かったのだ。

 数秒の沈黙のあと、アレンが口を開いた。


「……王命って、どういうことなんだ?」


 ディアナの肩がかすかに揺れた。それから伏せていた顔を上げる。


「さっきも言ってたよな。時空魔法を使うなって……王から命令されてるって」


 マナも、ケイムとディアナを交互に見た。


「ケイムの精神に出てる負荷も……それと関係あるの?」


 今度ばかりは、ドレイヴも何も挟まなかった。

 ディアナは答えず、話していいのかと、許しを求めるようにケイムをうかがった。


 ケイムはしばらく黙っていたが、やがて息をひとつ吐いた。


「……ここまで見られたなら、もう隠しておく意味もないか」


 ケイムに止める意思はない――ディアナはそう受け取ったのだろう。

 彼女は一度だけ目を閉じた。


「先生の時空魔法は、王から直接命令が下るか、明確な許可がある場合を除き……使用を禁じられています」


「なんでだ?」


 ドレイヴの問いに、ディアナはすぐには答えなかった。


「……危険だからよ」


「魔法なんて、強けりゃ大抵危険だろ」


「そういう意味じゃない」


 ディアナの声から熱が引き、代わりに重さが増した。


「過去に一度……本当に、街を一つ巻き込んでるの」


 ドレイヴの顔から、苛立ちが消えた。


「……街を?」


「ええ」


 ディアナは続けた。


「時空魔法は……先生が自分で作り上げた魔法よ」


 アレンの眉がかすかに寄る。


「……作った?」


「ええ。先生には、生まれ持った属性があった。でも、時を操るための術式を研究して……それまで存在しなかった魔法を、一から組み上げたの」


 そこで、ディアナはひと呼吸置いた。


「その代わりに……その属性を失った」


 告げる前に、横たわるケイムを一瞥する。


「今でも、時空魔法を使えるのは先生だけよ」


「ケイムだけ……?」


 マナが聞き返す。


「そう。術式を見たところで、他の魔術師に真似できるものじゃない。先生自身の魔力と、あの術式制御があって初めて成立する魔法なの」


 少し間を空けて、ディアナは続けた。


「少なくとも……同じ魔法を使える人間は、他にはいない」


 アレンは黙ったまま、横たわるケイムを見た。

 先ほど目の前で見たのは、壊れた封印装置だけを、壊れる以前の状態へ戻す異常な力だった。


 誰かから教わった魔法でもなければ、遥か昔から伝わる術式でもない。

 ケイム自身が生み出し、ケイムだけが扱える力。


「最初は……ほんの小さなものだったそうよ。物体一つ、狭い範囲、ほんの短い時間。それだけ」


「でも先生は、そこで止まらなかった。止められる時間を伸ばして、作用する範囲を広げて……最後には、過去へ干渉するための術式まで組み上げた」


 その言葉を聞きながら、ケイムが苦笑する。


「……若かったのさ」


「今も十分若いでしょう」


「こういうときくらい、少し年上らしい顔をさせてくれないかな」


「駄目です」


「……なかなか手厳しいね」


 普段なら、そのやり取りに誰かが笑っていたかもしれない。

 だが、今は誰も笑わず、ディアナは話を続けた。


「自分にしか扱えない、新しい魔法を作れる。それが……楽しかったんでしょうね」


 ケイムは否定しなかった。


「次は何ができるのか。どこまで時間に干渉できるのか……先生は、その研究に夢中になっていた。そして一度、限界を見誤った」


 ディアナの次の一言だけは、地下の冷気より重かった。


「制御を失った時空魔法が……都市全域にまで広がったの」


 その言葉に、先ほど一瞬だけ目にしたケイムの異変がアレンの脳裏に蘇った。

 術式が揺らいだときに見せた、震える手。鼻から流れた血。そして、何かを見ているような目。


『……今回は』


『間違えない』


「あれ……」


 アレンがかすかに呟く。


「さっきケイムが見てたのって……」


 ケイムは答えず、代わりにディアナが口を開いた。


「……ヴェルグレン」


 聞き覚えのない名前だった。


「セリオス領南部の丘陵地帯にある、旧都市よ」


 ディアナは一拍置いた。


「その街の時間は……今も止まったままなの」


「……今も?」


 マナが聞き返す。


「ええ」


 ディアナは静かに頷いた。


「人も、動物も。流れていた水も、燃えていた炎も……崩れ落ちかけた瓦礫さえ、あの瞬間のまま止まってる」


 ドレイヴが何か言いかけて、結局その口を閉じた。


「中にいる人たちが生きているのかどうかも、分からない。生命活動そのものが止まっているのか……それとも、ただ時間の外側に固定されているだけなのか」


 ディアナの目が石床へ落ちた。


「今も、判断できていないの」


 しかも、解除する方法は今も見つかっていない。


 ヴェルグレンは現在も封鎖され、許可なく立ち入ることさえ禁じられているうえ、事故の原因がケイムであることも一般には公表されていない。


 その事実を知るのは、連邦上層部やケイムと古くから関わる者、そしてディアナのような一部の人間だけだった。


「その事故のあと、先生の時空魔法は危険指定されたの」


 ディアナは横たわるケイムへ顔を向けた。


「時空魔法そのものを封じる手段はなかった。だから王命で……先生本人に、使用禁止が命じられた」


 マナが再び、ケイムの頭部へ観測魔力を流す。


「じゃあ……この精神への負荷って……」


「王命を破ったときのためのものよ」


「……何?」


 アレンの声が低く沈んだ。


「先生の身体には……王の許可なく時空魔法を使ったとき、精神へ強烈な苦痛を与える術式が刻まれてる」


「そんなもの……」


 マナの顔色が変わった。


「これ……下手したら――」


「死ぬわ」


 ディアナははっきりと言い切った。


「負荷が強すぎれば……精神が耐えきれない」


 誰も、言葉を返せなかった。


 地下はしんと静まり返り、遠くで小さな石が崩れ落ちる音だけが響いている。ドレイヴさえ、何も言わなかった。


 アレンの意識は、横たわるケイムへ戻った。


 いつも余裕があり、何かが起これば先に理由を探す。分からないことは分からないと言いながら、それでも次に何をすればいいのかを見つけ、自分たちより前を歩いて道を示してきた。


 ケイムは、そんな人物だった。


 だからこそ、どこかで思っていたのだ。自分たちとは違い、自分の力に怯えたり、使った結果を恐れたり、もう一度間違えるかもしれないと迷ったりすることなどないのだと。


 けれど、違った。


 ケイムもまた、自分の力が意思を越えて誰かを傷つける怖さを知っていた。しかも、その力は誰かに預けることもできなければ、自分以外に使える者もいない。自ら生み出した力の責任を、ずっと一人で負い続けてきたのだ。


 ふと、動かない右手が目に入った。


 黒い手袋に覆われた手首から先には、もう感覚がない。刻印を使うたびに自分自身が壊れていく。そして、もし暴走すれば、壊れるのは自分だけでは済まない。


 アレンも何度となく、それを怖いと思ってきた。


「……ケイムも、だったんだな」


 ケイムの眉がかすかに動いた。


「……ん?」


「自分の力が……怖いって思うこと」


 しばらく返事はなかった。


 ケイムは一度アレンを見てから、黒い扉の消えた石壁へ顔を向けた。

 だが、そこにはもう何もなく、古代の石壁と封印の光だけが残っていた。


「……まあ、そうだろうね」


 ケイムは短く答えた。


「怖くない力なんてものは、おそらく存在しないよ」


 それだけだった。


 ヴェルグレンで何を見たのか、どんな人間がそこにいたのか、そして何を失ったのか。ケイムは話さず、アレンも聞かなかった。


 話さなくても分かることがあり、聞かないほうがいいこともある。


 アレンはもう右手を見なかった。

 怖いから使わない。怖くないから使う。


 きっと、そんな単純な話ではない。


 怖さを抱えたまま、それでも何のために使うのかを選ぶ。

 ケイムが先ほどしたことも、きっとそういうことだったのだろう。


     ◇


 それからしばらくして、撤収の準備が始まった。


 ケイムをすぐに動かすことにマナは反対したが、この地下に長く留まるほうが危険だという点では、全員の意見が一致していた。


 デモンズゲートは再封印されたものの、遺構そのものが安全になったわけではない。

 戦闘と崩落によって通路は傷み、今もどこかから小さな落石の音が響いている。


「最低限だけ確認するわ」


 ディアナはそう言って、復旧した封印装置の周囲を調べ始めた。測定結晶を使い、接続経路と三十三の紋章を一つずつ確認していった。


 その少し離れた場所で、アレンは壁にもたれて座るケイムのそばに立っていた。


「動くなよ」


「……ずいぶん急に、僕の扱いが雑になったね」


「立とうとするからだろ」


「研究者としては、確認しておきたいことがいくつもあるんだけどね」


「倒れた研究者は休んでろ」


「アレンまで、ドレイヴみたいなことを言うようになったね」


「誰がドレイヴだ」


「俺だよ!」


 少し離れた場所から本人が怒鳴った。


「いや、知ってるよ」


「だったら変な言い方すんな!」


「元気だねぇ……」


 ケイムが笑った、その直後だった。


「……待って」


 ディアナの呼び止める声に、全員の動きが止まった。


「どうした?」


 アレンがそちらへ向かうと、ディアナは崩れた壁の前に立っていた。


 そこは先ほどまでの戦闘で大きく破損した区画で、石材がいくつも落ち、もともと壁だった部分の奥が露出している。


「ここ……今まで壁だったはず」


 ディアナが杖先を隙間へ差し入れ、崩れた石を数個動かす。

 その奥には、黒ずんだ土と石片の間から、平らな面が覗いていた。


「……石板?」


 マナがそばへ寄る。


「みたいね」


 ドレイヴが大きな瓦礫に手をかけた。


「これ、退けりゃいいんだな?」


「ゆっくりね。割らないでよ」


「分かってるって」


 全身に薄く魔装をまとい、ドレイヴは重い石を慎重に持ち上げた。

 その下から姿を現したのは、人の上半身ほどの大きさがある古い石板だった。


 表面には何本もの線と円が彫られており、土埃を払っていたディアナの手が不意に止まった。


「……これ」


「何か分かったのか?」


 アレンが横から覗き込むと、最初は意味のない模様にしか見えなかった。


 大小さまざまな円が並び、その間を細い線が結んでいる。途中で枝分かれするものもあれば、複数の線が一つの円へ集まっているものもあった。


 だが、見ているうちに、アレンは一つだけ気づいた。


「これ……今いる場所か?」


 アレンは石板の端に刻まれた一つの円を指した。

 その周囲に刻まれた構造が、ここまで通ってきた地下遺構の形によく似ている。


「おそらくね」


 ディアナが指先で線をなぞる。


「この広い区画が中央部。ここが私たちの入ってきた経路だとすれば……位置関係も合う」


「じゃあ、これがグリムフォードの地下ってことか」


「ええ」


 ディアナの指がその円から伸びる線を辿り、やがて別の円で止まった。

 しかし、彼女は何も言わなかった。


「どうした?」


 アレンも顔を寄せる。


「……これ」


 ディアナの指先がその輪郭を確かめるように一周する。

 一つの円の周囲に複数の区画が配置され、そこから伸びた線が中央の円へ集まっている。


 どこかで見た形だった。

 アレンの記憶にも、何かが引っかかる。


「……アルカナリウム?」


 マナが先にその名を口にすると、ディアナは小さく頷いた。


「……構造が似てる」


「似てるって……」


 ドレイヴが石板全体へ目を走らせた。


「じゃあ、これ全部……あの扉がある所なのか?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 石板には、まだいくつもの円が残っている。一つ、二つ、三つ――どれもアレンには見覚えがなかった。

 それぞれには異なる記号が添えられ、複雑な線によって互いにつながっている。


「分からない」


 ディアナははっきりと言った。


「ただ、同じような地下遺構を示してるだけかもしれない」


「でも、グリムフォードとアルカナリウムは……」


「似たものがあった。それは事実よ」


 ディアナは刻まれた円を順に指で追う。


「でも、それだけで全部がデモンズゲートだとは言い切れない」


 指先が次の円へ移る。


「同じ場所へ繋がるための遺構なのかもしれないし……」


 一拍置く。


「それとも、それぞれが……別の何かを封じているのか」


 最後の言葉だけが、地下の冷気の中に残った。


 アレンは石板を見つめる。

 自分の家の地下に、こんな遺構があるとは知らなかった。しかも、似た構造はグリムフォードだけではなく、アルカナリウムにも存在していた。


 そして、この図が正しいのなら――まだある。

 自分たちの知らない場所にも。


「持ち帰ろうか」


 後ろからケイムの声がして、全員が振り向く。

 いつの間にか立ち上がろうとしており、壁へ手をついていた。


「先生!」


 ディアナの声が鋭くなる。


「いや、待ってくれ。私が運ぶと言ったわけじゃないよ」


「座っていてください」


「分かったよ。大人しくしているさ」


 ケイムは壁に背中を戻した。


「ここで眺めていても、答えは出ないよ。術式も文字も持ち帰って、落ち着いて調べたほうがいい」


 ディアナも異論はなく、石板を保護して持ち運べるよう固定した。

 その後、封印装置の最終確認を終えると、五人はようやく地上へ向かうことにした。


     ◇


「重てえぞ」


 長い階段の途中で、ドレイヴが言った。


「そこは、もう少し丁寧に扱ってくれてもいいんじゃないかな」


「だったら自分で歩け」


「それができないから、頼んでいるのさ」


「じゃあ黙って運ばれろ」


「……僕は荷物扱いかい?」


「荷物のほうが文句言わねえ」


「ドレイヴ」


 後ろからマナが呆れた声を出す。


「二人とも、階段で喧嘩しないで」


「俺はしてねえ!」


「僕もそのつもりはないよ」


「してるでしょ!」


 アレンは前を歩きながら、小さく笑った。


 ドレイヴの肩に腕を回しているケイムは、一人ではまともに歩けず、一段上るたびに呼吸も深くなっている。それでも、口だけはいつもと変わらなかった。


 ディアナはその少し後ろを歩き、ずっとケイムの足取りを気にしていた。ふらつくたびに手を伸ばしかけたが、結局はドレイヴに任せている。


 そうして、長い階段を上っていく。


 地下へ入ったときは、どこまで続いているのかと思った。だが今は逆に、一段、また一段と進むたび、確実に地上へ近づいているのが分かる。


 地下へ降りてから、どれほど時間が経ったのか。戦いと探索を繰り返すうちに、もう誰も正確な時刻を意識していなかった。


 やがて、湿った地下の空気に、少しずつ地上の気配が混じり始める。


 土と、焼けた木。朝露。

 そして、風。


「……明るい」


 マナが呟く。

 頭上、階段の終わりには白い光が見えていた。


 アレンが最後の数段を上り、足を踏み出した瞬間、強い光が顔へ当たった。


「……っ」


 思わず目を細める。

 地下の暗さに慣れた目には、あまりにも眩しかった。


 それでも少しずつ瞼を開くと、空が見えた。


 黒くない。


 雲の隙間から淡い朝の光が町へ降り注ぎ、その中を風が吹き抜けていく。崩れた建物の隙間を抜け、伸び放題になった草を揺らしながら、焼けた石壁の表面を撫でていった。


 その朝、グリムフォードに太陽が昇った。


 あの日とは違う。


 すべてが始まったあの朝、グリムフォードに太陽は昇らなかった。黒雲が町を覆い、鐘は鳴らず、日常は何の前触れもなく終わった。


 けれど今は、光がある。

 そして、その光の中に廃墟がある。


 アレンは立ち止まった。


 太陽が昇ったからといって、何も元には戻っていない。町は壊れたままだった。

 商店街だった場所には崩れた壁が並び、鐘楼は傾いたまま空へ影を伸ばしている。


 死んだ人間は戻らない。


 壊れた家も、学校も、店も、あの朝まで続いていた暮らしも同じだ。


 ケイムの時空魔法は、封印装置を過去の状態へ戻した。

 けれど、失われた時間そのものまでは取り戻せない。


 ケイムにしか使えない奇跡のような魔法でさえ、起きたことのすべてをなかったことにはできない。そのことを、この朝の光がかえってはっきりと見せていた。


 アレンは歩き出し、数十歩ほど崩れた道を進むと、かつて自分の家だった場所の前で足を止めた。


 焼けた石と倒れた壁。その間には、辛うじて形を残している土台があり、その下へ続く穴は今回の調査で大きく崩れている。


 ここに家があった。


 十八年間、自分が暮らした場所だ。

 母がいた。父がいた。


 もっと幼かったころの声や姿には、もう細部まで思い出せないものもある。それでも、ここが家だったことだけは忘れない。


 あの朝、勝手口の鍵を使ってマナが飛び込んできた。


『アレン!』


 必死な声で起こされ、何が起きているのか分からないまま外へ出た。

 町を走り、ドレイヴと合流した。


 学校。鐘楼。商店街。そして、逃げ惑う人たち。

 自分が知っていた世界が、目の前で壊れていった。


 そんな短い記憶が、朝の光の中を通り過ぎていく。

 アレンは、それを追わなかった。


 戻りたいとは思う。


 もし戻れるなら、あの朝が始まる前へ戻り、全部をなかったことにできるのなら――そんなことを一度も考えなかったと言えば、嘘になる。


 だが、もう知っている。


 失ったものを、なかったことにはできない。

 ここへ帰ってきたのは、過去を取り戻すためではない。


 自分の家の下に何があったのか。グリムフォードで何が始まっていたのか。

 それを知り、そのうえで自分がどこへ行くのかを決めるためだった。


 足音が近づき、マナが隣に立った。

 何も言わず、アレンと並んで家の跡の前に立つ。

 風に髪を揺らしながら、しばらく二人とも黙っていた。


 やがてマナが小さく言う。


「……帰ろっか」


 アレンはすぐには答えず、もう一度、家を見た。

 壊れた壁と焼けた石。そこには、もう誰もいない。


 けれど、隣にはマナがいる。

 少し離れた場所では、ドレイヴがケイムを支えながら待っていた。


「いつまで見てんだー?」


 声が飛んでくる。


「こいつ重てえんだけど!」


「さっきから、そればかりだね」


「事実だから言ってんだよ!」


「なら、そろそろ僕を置いていくかい?」


「本当に置いてくぞ!」


「先生、煽らないでください」


 ディアナが呆れた声を挟む。

 四人のやり取りを聞きながら、アレンは黒い扉の中で自分が口にした言葉を思い出した。


『帰る場所くらい……俺が決める』


 あのときは、ただ向こう側へ行かないために言ったのだ。

 自分はあの黒い場所へ帰らない。あの声に決めさせない。


 けれど今なら、その先にあるものも分かる。


 帰る場所は、失った家と同じ形をしている必要はない。建物でも、町でも、過去でもない。

 今、一緒に歩いている人たちがいるのなら、そこへ戻ればいい。


 マナはもう一度だけアレンを見る。


 急かすことなく、ただ答えを待っている。

 アレンは最後に家の跡を見納めると、顔を上げた。


「……ああ」


 一度、息をつく。


「帰ろう」


 その言葉を合図に、五人は歩き始めた。

 朝のグリムフォードを抜け、町の外へ続く道へ向かう。


 アレンは数歩進んだところで一度だけ足を止め、振り返った。


 グリムフォード。


 生まれ育った町であり、失った場所。そして、知らなかった過去が眠っていた場所。


 もう、元には戻らない。


 それでいいとは、まだ思えない。きっとこれからも、そう思えない日はある。

 それでも、前へ進むことはできる。


 アレンは町に背を向けると、今度こそ振り返らなかった。


     ◇


 遠く離れた土地。


 人の気配はなく、地上からどれほど深いのかさえ分からない場所に、古い石室があった。

 入口は崩れ、通路は土砂に埋まり、長い年月にわたって誰一人として足を踏み入れていない。


 壁には、今では意味を知る者もほとんどいない古代の紋章が刻まれ、床を覆う厚い埃にも足跡一つ残されていなかった。


 何も動かず、風も音もない。


 ただ、石室の中央だけが完全な暗闇に沈んでいる。

 その奥へ向かって、何本もの鎖が伸びていた。


 錆びた鎖には太いものも細いものもあり、壁から、床から、天井から伸びたそれらすべてが闇の中心へ集まり、何かを縛りつけている。


 長い、長い静寂が続く。

 やがて、その中で一本の鎖がほんのわずかに震えた。


 じゃら……。


 音はすぐに途切れ、石室は再び無音に沈む。


 そして――


 闇の奥から。


 ゴン――。


 何かが、内側から叩いた。


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