第49話『向こう側から』
黒い扉を縛る無数の鎖。その震えは、すぐには収まらなかった。
一本や二本ではない。扉の上部から床近くまで幾重にも巻きついた鎖、そのすべてが同時に引かれ、巨大な地下空間へ金属の擦れる音を撒き散らしている。
アレンは動けなかった。
左手は剣の柄にも触れておらず、右手は相変わらず手首から先が垂れたまま。雷鳴の刻印も使っていないうえ、誰も扉には触れていない。
それなのに――。
ゴン――。
三度目の衝撃が響き、今度は黒い扉そのものがわずかに揺れた。
「全員、下がって!」
ディアナの命令が響き、全員が反射的に身を引いた。
マナはアレンの外套を掴んで後方へ引き、ドレイヴは大剣を抜きながら二人の前へ出る。ケイムも床を走る封印線を踏まないよう横へ移動し、ディアナは測定結晶を扉へ向けた。
そうして五人が黒い扉から十歩ほど距離を取った、その直後だった。
ぎ……。
低い軋みが響き、アレンの喉が強張る。
扉の中央――完全に閉じていたはずの合わせ目に、髪の毛ほど細い黒い線が現れていた。
「……開いてるの?」
マナが、息を潜めるように呟いた。
「違う」
ディアナは測定結晶を見つめたまま、短く答える。
「開いてるんじゃない」
いつもより低い声だった。
「……何かに、開けられてる」
「何がやってんだよ」
ドレイヴが周囲へ視線を走らせる。
「ギデオンか?」
「いや、違う」
ケイムが間を置かずに否定した。
「少なくとも、こっち側から術式を動かした反応はない」
「じゃあ、何が――」
ドレイヴの言葉を遮るように、
ゴン――!
黒い線が広がった。
ほんの指一本ほどの隙間だったが、それで十分だった。
そこから流れ込んできた空気は、冷たい。だが、地下の冷気とは明らかに違う。
肌に触れた瞬間、体温を奪われるというより、そこに熱が存在していたこと自体を否定されるような感覚がした。
アレンは無意識に一歩退く。
同時に、鼻の奥へ乾いた金属の匂いが広がった。
知っている。
アルカナリウムで扉が開いたときにも嗅いだ、あの匂い。
「……ケイム」
「ああ」
ケイムの表情から、いつもの軽さが消えていた。
「僕も……同じものを思い出してる」
ケイムの目は、扉に据えられたままだった。
「ブランネリアから、ハルヴァの追加報告が届いてた。……君には、まだ話してなかったものだ」
「ハルヴァが?」
アレンが聞き返すと、マナとドレイヴもケイムを見る。
「君が訓練中に出した、あの黒い雷だ。測定できない。刻印の雷とも一致しない。それと――『何かが、君のほうを見返していたように見えた』。そう、ハルヴァは書いてる」
アレンは右腕を見下ろした。急に、その腕だけが重くなったような感覚がした。
だが、ケイムは構わず言葉を続けた。
「それと、ハルヴァが警戒してたことがもう一つある」
「……何ですか」
「黒い扉は――こっちから開けるだけのものじゃないかもしれない」
ゴン――。
扉が震え、その衝撃音がケイムの言葉を肯定するように響いた。
「……向こう側から、開けられることもある。そういうことだよ」
ぎぎ……。
隙間が、また広がった。
「……ふざけんなよ」
アレンが奥歯を噛んで吐き捨てた直後――
隙間の奥から、白い何かが突き出した。
「アレン、下がれ!」
ドレイヴが怒鳴る。
黒い扉の合わせ目から伸びてきたのは、五本の骨の指だった。
肉のない指が扉の縁に食い込み、内側から縁を引いた。続いて、錆びた剣の先端が隙間へ差し込まれた。
ギリ、ギリ、と黒い表面を削りながら刃が横へ倒され、梃子のように隙間を押し広げようとしている。
「スケルグール!」
マナがすぐさま杖を構える。
「構えろ!」
ドレイヴは叫ぶなり前へ飛び出し、扉との間合いを一気に詰めた。
黒い隙間が拳一つ分まで広がると、骨の腕が勢いよく伸び、錆びた剣が横薙ぎに振るわれる。
ドレイヴはそれを大剣の腹で受け止めた。
ガァン――!
激しい金属音が響き渡った。
「っ……!」
踏ん張ったはずの両足が、半歩ずつ押し戻される。
「まだ出てきてもねえのに……この力かよ!」
「ドレイヴ、右!」
アレンは叫びながら左手で剣を抜いた。
隙間の下からもう一本の腕が伸び、ドレイヴの脚を狙って錆びた短剣を突き出す。
アレンは斜め前へ踏み込むと、その手首へ剣を振り下ろした。
骨が砕け、短剣が乾いた音を立てて床へ転がった。
「助かった!」
「気を抜くな、まだ来る!」
扉の奥には、いくつもの白い輪郭が重なっていた。
一体ではない。二体、三体――さらにその奥にも、黒い闇の中でいくつもの白い骨が動いている。
スケルグールたちが、互いを押し退けるように隙間へ殺到していた。
「まずいわ」
ディアナが測定結晶へ目を落とす。
「扉にかかってる圧力が上がってる」
「圧力?」
「向こう側から押し込まれてる魔力よ。このままだと――」
ガンッ!
一本の鎖が大きく跳ね、固定されていた位置からわずかにずれて、黒い扉の表面を滑った。
鎖がずれたのを見て、ディアナの声が一段強くなる。
「さらに開くわ!」
「だったら、閉めりゃいいだろ!」
ドレイヴが大剣を押し返しながら怒鳴る。
「無理! 直接触らないで!」
「じゃあ、どうすりゃいい!」
「いま調べてる!」
「その間、こいつらが待ってくれるのかよ!」
「だからあなたが止めて!」
「おう、任せろ!」
「……返事だけは早いわね!」
そう言いながらも、ディアナはすでに床の封印経路へ意識を戻していた。
床に膝をつくと、測定結晶を三十三本の封印経路へ向ける。
「先生!」
「分かってるよ」
ケイムもすぐに、その隣へしゃがみ込んだ。
床には古い術式線が走っている。地下都市の各区画から集まってきた三十三本は、この巨大空間で幾重にも交差し、最終的に黒い扉へ接続していた。
そのうち何本かは淡く光っているが、明滅は一定ではない。
扉が叩かれるたび、その光が乱れた。
「封印そのものが……押されてる」
ケイムの指先から細い白光が伸び、床の術式をなぞるように走った。
「ディアナ、全系統――追える?」
「やります」
「どれくらいかかる?」
「……分かりません」
「それは困ったな」
「私だって困ってます」
「二人とも!」
マナの警告が響く。
「来る!」
言葉が終わるより早く、黒い扉が大きく揺れた。
そして隙間から、スケルグールの頭部が突き出す。
兜の半分が欠け、眼窩の奥には光がない。肉も眼球も存在しないその顔が左右へ動き、こちらを捉えたように止まった。
こちらを捉えたかと思うと、骨の騎士は片方の肩を無理やり隙間へねじ込み、黒い扉をさらに押し開いた。
「来やがれ!」
ドレイヴが吠えるように叫び、大剣を振り上げた。
肩が隙間から抜け、スケルグールが一体、床へ転がり出る。
立ち上がるより早く大剣が振り下ろされ、兜ごと頭蓋を叩き割った。白い骨片が周囲へ飛び散る。
だが――。
「ドレイヴ、次が来る!」
「見えてる!」
二体目が飛び出す。
今度は盾持ちで、大剣を正面から受けて後ろへ押されながらも倒れない。
その背後では、三体目が身体を滑り込ませようとしていた。
「走れ、雷――ブリッツフンケ!」
アレンの左手から紫電が走る。
狙ったのは三体目ではなく、二体目の盾と鎧の隙間だった。
雷が金属を伝って内側の骨格へ抜ける。魔法耐性の高いスケルグールを一撃で倒すほどの威力はないが、その一瞬だけ身体が強張った。
「ドレイヴ!」
「任せろ!」
大剣が唸りを上げ、盾ごと骸骨を弾き飛ばした。
アレンはその横を抜けてきた三体目へ踏み込み、左手の剣を下から振り上げて肘関節を砕く。
剣を失った腕が落ちると、続けて胸骨の隙間へ切っ先を突き込み、体重をかけて押し倒した。
「アレン、右!」
マナの警告に、アレンは即座に上体を引いた。
黒いものが、アレンの鼻先を掠めた。
触手だった。
「デスリーチャー……!」
扉の下端から、スケルグールの脚の隙間を縫うように、平たい黒い異形が這い出していた。
その身体には視覚器官がなく、幾本もの触手で床を叩きながら、周囲の音と魔力を探っている。
しかも、一体だけではない。
「これ、まずいぞ!」
「分かってる!」
アレンは剣を構えたまま、じりじりと後退した。
その足があった場所をデスリーチャーの触手が叩き、石片が弾ける。
続けて伸びてきた一本を、アレンは剣で払った。柔らかな触手は刃へ巻きつこうとするが、絡まれる前に切っ先を引く。
「マナ!」
「うん、任せて!」
杖の先へ、水が一気に集まっていく。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
細い水の針が三本、アレンの肩越しを抜けた。
一発目が触手を弾き、二発目が別の触手を床に縫い止める。
そして三発目が本体中央へ突き刺さると、デスリーチャーの身体が大きく縮んだ。
「今だ!」
アレンが踏み込み、剣を突き下ろすと、黒い体液が石床へ広がった。
だが――。
扉の奥から、さらに音がする。
骨が擦れる音。触手が床を叩く音。
そして、そのどちらとも違う甲高い鳴き声が響いた。
「……まだ出てくんのかよ」
ドレイヴが苛立たしげに吐き捨てた。
足元の隙間から、小さな黒い影がいくつも飛び出してくる。
犬ほどの大きさしかない四足の異形で、骨のように細い脚を不規則に動かしながら、壁や床を区別することなく這い回っていた。
さらにその上からは、薄い膜状の翼を持った小型の怪物まで滑り出してくる。
名前など分からない。
だが、どちらも同じだった。
黒い扉の向こうから来ている。
「……本当に、門なんだな」
アレンは、思わず呟いた。
デモンズゲート――現世とその向こう側を繋ぐもの。
神話の名が、目の前の光景と初めて重なった。
「感心してる場合か!」
ドレイヴの大剣が横薙ぎに走り、小型異界種を二体まとめて吹き飛ばした。
「分かってる!」
「だったら手ぇ動かせ!」
「動かしてるだろ!」
言い返しながら、アレンは脇を抜けようとした一体を蹴り返し、そのまま剣で仕留めた。
だが、数が多い。
ドレイヴ一人で正面すべてを止めるには、すでに扉の幅が広がりすぎていた。
「ケイム!」
アレンは敵から目を離さないまま叫んだ。
「このまま全員で前に出たら、解析できないだろ!」
「その通りだね!」
「なら、俺とドレイヴでここを抑える!」
すぐ横で、大剣が骨を叩き砕く。
「俺が前か!」
「お前以外に誰がいるんだよ!」
「よし!」
「なんで嬉しそうなんだよ!」
ドレイヴは敵を押し返しながら扉との距離を取り、アレンも一歩下がって位置を決めた。
扉から約十歩。中央にドレイヴ、その後ろのやや左にアレンがつく。
ドレイヴが止め切れなかった敵だけを、アレンが拾う。
それなら正面を塞ぎながら、左右へ抜ける敵にも対応できる。
「マナ!」
「分かってる!」
マナは返事をしながらさらに数歩後方へ下がり、杖を前へ向けた。
そのさらに後ろにはディアナとケイム。前衛の二人にも、解析中の二人にも魔法を届かせられる位置だった。
「攻撃も回復も両方見る!」
「頼む!」
「でも、無茶したら――」
「今その話するか!?」
「するよ!」
「分かったって!」
「返事は一回!」
「一回しかしてないだろ!」
「来るぞ、お前ら!」
ドレイヴの一喝で、二人のやり取りが途切れた。
次の波が押し寄せる。
スケルグールが三体。その足元を二体の小型異界種が駆け、さらに壁からデスリーチャーが一体這い出してきた。
「骨は俺がやる!」
ドレイヴが前へ出る。
「アレン、下!」
「ああ!」
ドレイヴの大剣が敵の一撃を受け止め、そのまま正面の三体を抱え込んだ。
アレンはその脇へ潜り込もうとした小型異界種を蹴り上げ、剣で首に当たる部分を断つ。
二体目が足に噛みつこうと跳んできたため、身体を半歩ずらしてかわす。その直後、頭上を水針が抜けて命中し、黒い身体が床へ転がった。
「次、左から来る!」
マナの警告が重なる。
デスリーチャーの触手が壁から迫り、アレンは剣の腹でその軌道を逸らす。
だが、逸らした触手の陰から別の一本が伸び、脇腹に巻きついた。
「っ!」
締め上げられた身体が、横へ引かれた。
「アレン!」
マナが駆け出そうとする。
「来るな!」
アレンが即座に制した。
今マナが前へ出れば、治療役の位置が崩れる。
アレンは左腕だけで剣を逆手に持ち替え、自分の脇腹に絡む触手へ刃を当てた。
一度では切れない。
二度目で黒い触手が裂け、締めつけが緩む。
アレンは身体を捻り、どうにか拘束を抜けた。
「平気だ!」
「本当に!?」
「掠っただけだ!」
だが、外套の下では脇腹がじわりと熱を持っていた。
それでも動ける。今はそれで十分だった。
前では、ドレイヴが三体目のスケルグールと打ち合っている。
骨の騎士が振り下ろした斧を大剣で受けた、その横から二体目の剣が迫った。
避けきれない。
「ドレイヴ!」
刃が肩を掠める。
「ぐっ……!」
血が飛んだが、それでもドレイヴは一歩も退かなかった。
「こんくらいで……下がれるかよ!」
大剣を両手で握り直し、正面の一体を盾ごと押し返した。
「炎よ、弾けて敵を焼け――フラメンシュトース!」
至近距離で火球が炸裂し、その爆発の衝撃で二体のスケルグールが扉近くまで吹き飛んだ。
「今だ、アレン!」
「ああ!」
アレンが左手を突き出す。
「雷よ、流れとなり、敵を撃て――カーレント!」
放たれた電撃が地を走った。
一体目の鎧から盾へ、そしてそこから二体目へと雷が伝わる。
金属を通った雷が骨格を焼き、二体の動きをまとめて止めた。
すぐにドレイヴが踏み込み、大剣を横一文字に振り抜く。
骨が砕ける。
その向こうで、扉は――。
「……また、広がってる」
アレンは扉を見たまま呟いた。
扉はもう、人一人が横向きなら通れるほどに開いている。
それなのに、アレンは刻印を使っていない。右手も動かしていなければ、声にも従っていない。
それでも、扉は開いている。
胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
自分が止まるだけでは、もう足りない。
向こうが来るのなら。
自分がどれだけ正しく選んでも、それだけでは――。
「……くそ」
「アレン!」
マナの声に、意識を引き戻される。
「傷、見せて!」
「まだ戦える!」
「そういう話じゃないでしょ!」
言いながら、マナはすでに詠唱へ入っていた。
「水よ、痛みを鎮め、傷を包め――アクア・リクィエム!」
淡い水環が広がり、柔らかな水光がアレンの脇腹を包んだ。そこに残っていた熱がゆっくりと引いていく。
「ドレイヴも!」
「俺はあとでいい!」
「もうかかってるから!」
「そうなのか!?」
「そうだから言ってるの!」
同じ水光がドレイヴの肩にもまとわりつき、流れていた血をゆっくりと抑えていった。
完全に傷を消すほどではない。流血を抑え、動きを維持するための治療だ。
前線を離れずに済むよう、必要な分だけ傷を塞いでいく。
「……助かる!」
「二人とも、ちゃんとした治療はあとで!」
「まず、ここから帰れたらな!」
「帰るの!」
マナの言い切る声に、ドレイヴが一瞬だけ笑った。
「おう!」
その声を背中で聞きながら、ディアナは床へ広がる三十三本の封印経路を追い続けていた。
戦闘音は近く、骨が砕けるたびに床が振動する。
そのうえ、扉から流れ込む異界系の魔力が、測定結晶の反応を何度も乱していた。
「……違う」
ディアナが、低く呟いた。
「何が?」
隣で仮接続の術式を組んでいたケイムが、手を止めずに聞く。
「全部が壊れてるわけじゃない」
灰色の瞳が、床を走る光を追っていく。
「先生、ここを見て」
ディアナは、三十三本のうち一本の経路に測定結晶を置いた。
その経路だけ、光が弱い。
「これ?」
「違う。もう少し先」
ディアナは杖先を経路に沿って滑らせ、一本の線を最深部――黒い扉へ向けて追っていく。
途中には複数の接続点があり、そのたびに他の封印経路と交差していた。
ほかの三十二本には、不安定ながらも魔力が流れている。
だが、その一本だけは、途中で流れが完全に途切れていた。
「……切れてる」
「うん」
ケイムが指先を近づけた。
「ここだけ、魔力が流れてない」
「さっきの人為的な破損……」
「その続きにある可能性は高いね」
「でも、今は誰が切ったかなんてどうでもいい」
「そうだね。まず閉じないと……答えを探す前に、僕らのほうが食べられる」
「……笑えません」
「僕も笑ってないよ」
そう言いながら、ケイムは白い魔力線を切断箇所へ伸ばした。
「仮に繋ぐ」
「待って」
「ん?」
「直接は駄目」
ディアナがすぐに制した。
「ここと、こっち。位相がずれてる」
杖先が二つの接続点を指した。
片側では淡い光が一定の間隔で流れているのに対し、もう片方は扉の衝撃に合わせて脈打っていた。
「普通に繋いだら?」
「逆流する可能性があります」
「なるほど。じゃあ、先にこっちの位相を合わせる」
ケイムは即座に術式を組み替え、細い白光が幾つもの輪を作りながら古代の封印線に沿って広がった。
だが――。
ゴン――!
衝撃が走る。
「っ……!」
ケイムの白い術式線が弾けるように途切れた。
「先生!」
「大丈夫」
指先には焦げたような跡が残っていたが、ケイムは一度だけ手を振ると、何事もなかったように再び床へ手を向けた。
「……やっぱり無理だ。仮接続を維持しながら、全系統の負荷まで僕一人で支えるのは」
「全系統……?」
ディアナの手が止まった。
ケイムの言葉を反芻するように、三十三本の封印経路を見渡す。
「先生。私たち、切れた一本を繋ぐことと、三十三系統全部を支えることを同じ問題にしてる」
「……続けて」
ディアナは測定結晶を手にしたまま立ち上がり、一歩下がって床全体を見渡した。
「この術式は、三十三系統を全部、同じ強さで支える構造じゃない。三十二本は、まだ生きてる」
その声に、戦いながらアレンが振り返った。
「何か分かったのか!?」
「あと少し!」
ディアナはそう返し、すぐにケイムへ向き直る。
「一本が切れたせいで、全体の循環が閉じず、残りまで不安定になってる。なら――」
ケイムの目が細くなる。
「切れた一本を繋ぎ直して、循環を閉じればいい」
ディアナは言い切った。
「全部を修復する必要はない」
ケイムの口元から、ほんのわずかに力が抜けた。
「……なるほど」
だが、すぐに表情を戻す。
「それなら現実的だ」
「ただ、問題があります」
「どれ?」
「切れてるのが――これです」
ディアナは杖先で、その一本の起点を示した。
床の奥には、かつて巨大な円の周囲に並んでいた三十三の紋章がある。そのうちの一つは、雷が地を裂いたような形に線を枝分かれさせていた。
地下遺構へ入って間もなく見つけたとき、黒く変色していた紋章。
アレンが近づいたときだけ光り、線そのものが彼へ伸びてきた――あの紋章だった。
ケイムが、ゆっくりとアレンを見た。
「……そういうことか」
ディアナも前線を見る。
「アレン!」
「何だ!」
アレンは剣を振り下ろし、小型異界種を一体仕留めたところだった。
「そのままでいい、聞いて!」
「聞いてる!」
「封印全部を直す必要はない!」
「……何?」
横からドレイヴが割り込む。
「だったら早くしろ!」
「今、説明してるでしょう!」
「短く頼む!」
「切れてるのは一本だけ!」
「よし、短い!」
「黙って戦って!」
「どっちだよ!」
そう返しながら、ドレイヴは飛び込んできたスケルグールの剣を大剣で受け止めた。
説明は、まっすぐアレンへ向けられていた。
「三十三本のうち、一本だけ……封印経路が完全に切れてる。それを繋げば、残りも安定する可能性が高い!」
「その一本って?」
嫌な予感がした。
答えを聞くより先に、アレンの目が床へ落ちる。
そこを、ディアナが杖先で示した。
「……雷鳴に似た紋章」
一瞬、戦闘の音だけが耳に残った。
剣と大剣がぶつかる音。骨の砕ける音。触手が床を打つ音。そして、異界種の鳴き声。
そのすべてが、どこか遠くへ離れていったように感じられる。
「……俺か」
アレンが低く呟いた。
「……たぶん」
ディアナは、あえて言い切らなかった。
「まだ、あれが雷鳴の刻印そのものだとは断定できない。でも、あなたが近づいたときだけ、あの経路が反応した。それは事実よ」
「なら、俺が繋げれば――」
「駄目」
最後まで言わせずにディアナが遮ると、アレンは眉を寄せた。
「まだ何も言ってないだろ」
「言おうとしたことくらい分かるわ」
「俺がそこに雷を流せばいいんだろ?」
「それだけじゃ成立しない」
ディアナの声が強くなる。
「切れてるのは一か所。でも、そこへ繋がる接続点もずれてる。術式の位相も安定してない。今あなた一人で雷を流したら――どこへ流れるか分からない」
「でも――」
「アレン」
今度はケイムが遮った。
「一人じゃ無理だ」
アレンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
危険でも、自分が必要なら自分がやる――以前なら、そこで話を終わらせていた。
だが今は。
「……じゃあ、何が要る?」
アレンは問いを変えた。
ケイムの目がわずかに動き、ほんの一瞬、何かを見定めるような色を浮かべた。
「まず、僕が切れた術式を仮に繋ぐ」
床へ白い魔力線を走らせる。
「ディアナが正しい接続経路を探す。ずれたままじゃ、君の雷を流しても封印まで届かない」
ディアナが短く頷いた。
「マナには、その間も前衛を支えてもらう。誰か一人でも倒れたら――作業してる時間そのものがなくなる」
後方から水の針を放ちながら、マナが返す。
「聞こえてる!」
「それから――」
ケイムが最前線を見やると、ドレイヴは大剣を盾のように構え、二体のスケルグールを同時に押し止めていた。
「ドレイヴには、あそこを一歩も通させないでもらう」
「聞こえてんぞ!」
ドレイヴが力任せに大剣を押し返す。
「最初っから、そのつもりだ!」
ケイムは再びアレンを見た。
「そのうえで――最後に必要なのが、君だ」
「……俺の雷か」
「そう」
「刻印を使うことになる?」
その言葉に、マナの杖がほんの一瞬だけ止まりかけたが、ケイムはごまかさなかった。
「可能性は高い」
アレンは右手を見る。
いつものように動かないその手首から先には、今は何の光も走っていない。
それでも、黒い扉は開き続けている。
自分が何もしなくても、使わなくても、拒んでも。
「……分かった」
アレンが左手の剣を握り直す。
マナと目が合った。
今度は止めず、ただ一度だけ頷く。
アレンも頷き返した。
その直後。
「お前ら、話は終わったか!」
ドレイヴが怒鳴る。
「そろそろ、本気で数が多いぞ!」
黒い扉の隙間は、さらに広がっていた。
スケルグール、デスリーチャー、名も知らない小型異界種が、次々とこちら側へ溢れてくる。
ドレイヴは正面から大剣で受け止め、アレンはその横を抜けた一体へ剣を振るう。マナの水針がその背後を通り抜けるなか、ディアナは三十三本の線を追い、ケイムは切断された術式へ仮の光を伸ばしていた。
五人の役割は、はっきり分かれていた。
前を止める者。漏れた敵を倒す者。支える者。道を読む者。繋ぐ者。
誰か一人が、すべてを解決する形ではない。
そのすべてが揃った先で初めて、アレンの雷を封印へ通せる可能性が生まれる。
ディアナの言葉が、頭に残っていた。
一人では成立しない。
「アレン、左!」
「ああ!」
応じるなり、アレンはドレイヴの脇を抜けたスケルグールへ向き直って走った。
剣を低く構え、錆びた槍を紙一重で外へ逸らす。そのまま踏み込み、鎧の合わせ目へ切っ先を入れた。
骨の身体が揺れる。
だが、まだ倒れない。
「雷よ! 流れとなり、敵を撃て――カーレント!」
青白い電撃が至近距離から鎧の内側を走り、スケルグールの全身へ抜ける。
骨の騎士が崩れ落ちる。
アレンが次の敵を探して顔を上げた、そのとき――黒い扉の動きが止まった。
「……?」
アレンの足が止まる。
戦場そのものが止まったわけではない。
異界種はまだ動き、触手も這い、鎖も揺れている。
だが――向こう側から扉を押していた力だけが、消えた。
扉の向こうだけが、奇妙なほど静かだった。
アレンは剣を構えたまま、闇の隙間を凝視した。
何も見えない。光も、奥行きもない。ただ黒い。
なのに、そこには何かがいる。
アレンの右腕が、わずかに震えた。
「……アレン? どうしたの?」
マナの声がする。
返事をしようとした、その前に。
頭の奥に、何かが触れた。
声ではない。耳から届いた音ではない。男とも女とも、高いとも低いとも言えない。
それでも、今まで現実で感じていた曖昧な衝動や、形にならない感覚とは違っていた。
意味だけが、はっきりとアレンの中へ届いた。
――帰れ。
剣を握る左手から、少しずつ力が抜けていく。
帰れ。
どこへ。
誰が、何を知っている。
自分の家の下にあった、この門の向こうへ?
精神世界で何度も自分を鍵と呼んだ、あの場所へ?
それとも、もっと別の――アレン自身さえ知らない何かへ。
答えはない。
黒い隙間の向こうには何も見えない。それでも、確かに何かが待っている。
アレンは黒い扉を見据えたまま、乾いた唇を開いた。
「……どこにだよ」




