第48話『もう一つの黒い扉』
黒い線は、もうどこにも残っていなかった。
アレンは持ち上げた右腕を見つめていた。
先ほどまで手首から前腕に浮かんでいた黒い雷紋。雷鳴の刻印が放つ紫電とも、皮膚の下を流れる血管とも違うそれは、ディアナが測定するより早く、一本ずつ皮膚の奥へ沈むように消えてしまった。
残っているのは、いつもの腕と、その先に垂れた、自分の意思では動かない右手だけだった。
広い地下空間には、五人の呼吸と、倒れたグラーヴェンの巨体だけが残されていた。
「……まだ、何か感じる?」
マナはアレンのすぐ横に膝をつき、右腕を覗き込んだ。
「いや。もう何もない」
「……痺れは?」
「そこはいつもと同じだ。手首から先だけ」
そう答えながら、アレンは確かめるように右腕を曲げてみせた。
肘は問題なく動き、肩にも異常はない。刻印を使った直後に残る焼けつくような痛みも、今のところ広がってはいなかった。
それでもマナは納得しきれない様子で、アレンの前腕へそっと指先を添えた。
「……本当に、変だと思ったらすぐ言ってね」
「分かってる」
「黒いのも。少しでも出たら――」
「……分かってるって」
アレンが少しだけ困った顔をすると、マナはそこで言葉を止めた。
数秒黙ったあと、マナの肩からわずかに力が抜けた。
「……じゃあ、今は信じる」
ドレイヴは、倒れたグラーヴェンへ目をやった。
黒い骨殻に覆われた巨体。その肩口にはアレンの雷が焼きつけた痕が残り、砕かれた骨板の奥からは、もう魔力を吸い上げる気配もない。
それでも、最後の瞬間だけは明らかに異常だった。
あれほど魔力を求めていた怪物が、黒い雷を見た瞬間――退いたのだ。
まるで、獲物を前にした捕食者が初めて恐怖したかのように。
「ディアナ」
ケイムが静かに呼びかけた。
「……測れたかい?」
「……駄目ですね。数値が出ない」
ディアナは眉を寄せ、測定結晶を光に透かした。
「……反応が消えるのが早すぎる。黒い線が出ていた場所にも、今は雷鳴の刻印以外の異常反応はほとんど残ってないわ」
「ほとんど?」
「ごく微弱な乱れはある。でも……これだけじゃ、何とも言えない」
「グラーヴェンが退いたことと、何か関係は?」
「……分からない。それも今は判断できない」
ディアナは迷いなく言い切った。
分からないことを、それらしい理屈で埋めようとはしない。アレンの知るディアナは、いつもそうだった。
「黒い雷が出た。その直後に、グラーヴェンが退いた。……今、確かに言えるのはそこまで」
「……そうだね」
ケイムも、それ以上は追及しなかった。
アレンは右腕へ意識を戻したが、そこにはもう何も残っていない。だからこそ、余計に気味が悪かった。
刻印が目覚めて間もない頃から、自分の中では雷鳴の刻印とは別の黒い反応が何度も現れている。
精神の奥に現れる黒い扉。その向こうから覗く巨大な瞳。そして、さっきの黒い雷。
どれも繋がっているように見えるのに、決定的な答えだけがなかった。
「……先に進もう」
アレンがそう言うと、マナが振り向いた。
「アレン――」
「大丈夫だから、とかじゃない」
言われる前に、アレンは続けた。
「ここで戻ったら、結局また何も分からないままだ。三十三本の線も、あの観測記録じゃ見られなかった下層も……この先に続いてる」
少し離れた場所、グラーヴェンが現れた方角のさらに奥には、下へ向かう通路が口を開けている。
地下都市で見つけた三十三の封印経路は、すべてこの地下遺構の最深部へ向かっているように見えた。
そして帝国側の観測記録でも、その先だけは『下層観測不能』『因果観測不能』と記されていた。
「……黒い線が出たからこそ、確かめたいんだ」
アレンは右手を黒い手袋で覆い直した。
「この下に……何があるのか」
マナはためらった末、最後にはアレンの腕ではなく顔を見て、小さく頷いた。
ケイムも深部へ続く闇を一度見やり、短く同意した。
「……分かった。進もう。ただし、全員、魔力の消費はできるだけ抑える」
それを聞くと、ドレイヴが大剣を肩に担ぎ直した。
「よし、行くぞ。ここで突っ立ってても、あのでかいのが腐ってくだけだ」
「異界種が普通に腐敗するかどうかは、まだ分からないわ」
ディアナが立ち上がる。
「……そこ、今どうでもいいだろ」
「あなたが言ったから訂正しただけよ」
「そういうとこだぞ、お前」
「何が?」
「……もういい」
ドレイヴは肩を落とし、そのまま先に歩き出した。
ケイムの口元にわずかな笑みが浮かぶ。だが、深部へ続く闇へ向き直るころには消えていた。
「グラーヴェンは倒した。でも、ここが安全になったわけじゃない。デスリーチャーが戻ってくる可能性もある。それに――」
そこで、言葉を切る。
「……この先に何がいるのか、僕にも分からない」
誰も、その言葉を軽く受け取ることはなかった。
やがて五人は、再び地下へ向かって歩き始めた。
◇
深くなるほど、遺構の造りは単純になっていった。
建築方法にも違いが見られ、何世代にもわたって造られてきた建造物なのだと推測できた。
これまで通ってきた場所には、建物を思わせる構造物や橋、塔、水路があった。人の暮らした痕跡は一切ないものの、遠目には地下に造られた巨大な都市のように見えていた。
だが、最深部へ近づくにつれて、それらは少しずつ姿を消していく。
装飾はなくなり、柱も減っていた。壁には同じ幅の溝だけが延々と刻まれ、その奥をかすかな光が流れている。
一本、また一本と、別々の方向から細い魔力経路が集まってくる。
ディアナは経路が合流するたびに歩みを緩め、その数を確かめた。
「……二十八」
さらに下っていく。
「三十……」
いくつもの通路が合流し、その数はさらに増えていった。
「三十二……」
そして最後の坂を下りきったところで、ディアナの足が止まる。
「……三十三」
左右の壁から、天井から、そして床から――異なる方向から伸びてきた三十三本の線が、すべて一つの方角へ向かっている。
アレンはその光を追った。
前方には、大きな石壁があった。
いや、壁ではない。
よく見ると、それは左右へ分かれていた。
「……これ、扉か?」
これまでの遺構にも石扉はいくつもあったが、目の前のものは明らかに規模が違っていた。
五人が並んでも余るほどの幅があり、上端は魔法灯の光が届かない闇の中に隠れている。
ただし、扉そのものには術式らしい紋様がほとんどない。代わりに、三十三本の経路が扉の手前で一つの巨大な円を描き、その中心へ向かって収束していた。
「……この向こうだね」
ケイムが巨大な石扉を仰いだ。
「三十三本。全部、ここに集まってる」
「……ここが、最深部ね」
ディアナが測定結晶を取り出すと、その中で白い光がかすかに揺れた。
「……空間反応があるわ」
「広さは?」
「待って。今、測る」
ディアナは結晶へ指を添え、慎重に魔力を調整した。
数秒の沈黙のあと、灰色の瞳がゆっくりと上がった。
「……測定範囲を超えてる」
「またかよ」
ドレイヴが露骨に顔をしかめた。
「この地下、どんだけ広いんだよ」
「町一つ分の構造物を見たあとで、今さら言うことじゃないわね」
「見たからって慣れるかよ」
「……それは同感だよ」
珍しく、ケイムがドレイヴに同意した。
「僕も地下へ降りるたびに思うよ。そろそろ、もう少し常識的な広さにしてくれないかなって」
「先生まで何言ってるんですか……」
マナが小さく呟く。
「少しは緊張がほぐれるかと思ってね」
「全然ほぐれてません」
「それは残念」
軽口を交わしながらも、ケイムの意識は扉に張りついたままだった。
「……開けるよ。何か感じたら、すぐ止める。特にアレン」
「はい」
「右手に反応が出ても、触らないこと」
「……分かってる」
ドレイヴが大剣を壁に立てかけて扉の左側に手を置くと、アレンも剣を鞘へ戻し、右手は使わずに反対側に左肩を当てた。
「……せーのでいくぞ」
「ああ」
「せーの!」
二人は同時に扉に体重をかけたが、先ほどまで開けてきた石扉とは比べものにならないほど重い。
床の奥で何かが軋み、ドレイヴの首筋に筋が浮く。アレンも足を踏ん張り、さらに力を込めた。
「くっ……!」
「なんだこれ……絶対、開けさせる気ねえだろ!」
「扉なんだから、閉まってるのは普通だろ!」
「人が開けられるのも普通だろうが!」
さらに力を込めて押すと、石の底で、ごり、と低い音がした。
やがて中央に細い隙間が生まれ、その奥から――冷たい空気が流れてくる。
アレンの肩が、わずかに強張った。
「今、何か――」
「どうした!?」
冷たい――ただ、それだけのはずだった。
けれど、その感覚には覚えがあった。
アルカナリウム。あの遺跡の黒い扉が開いたときにも、同じような冷気と、雷が落ちたあとに似た乾いた金属の匂いが流れてきた。
「アレン?」
マナの声に、アレンは一瞬だけ黙った。
「……アルカナリウムと同じだ。冷気と、乾いた金属の匂いがする」
アレンは一度だけ扉の隙間を見た。
「今のところ、それだけだ。開けよう」
二人はもう一度、扉へ力を込めた。
隙間がさらに広がり、魔法灯の白い光がゆっくりと向こう側へ差し込んでいく。
まず見えたのは、黒灰色の石でできた床だった。そこには何本もの光の線が延びている。
さらに扉を開くと、光は奥へと進んでいった。
だが、壁は見えない。天井もなく、左右も白い光の先で暗闇へ消えていた。
「こんなに、広いの……」
マナが思わず声を落とすと、ドレイヴは壁に立てかけていた大剣を拾い直した。
五人が完全に中へ入ったところで、ディアナが魔法灯を一つ高く掲げる。
光は十数メートル、さらにその上へと昇っていったが、それでも天井には届かない。
まるで地下にもう一つ夜空が広がっているようだった。
「……なんだよ、ここ」
ドレイヴの声が、妙に小さく響いた。
そこは、これまで見てきた地下遺構のどの区画よりも広い、巨大な空間だった。
けれど、その中に建物も塔も橋もない。ただ、なだらかに下っていく床だけが、中央の一点へ向かって続いている。
三十三本の光も、床だけを走っているわけではなかった。壁の暗闇や遠くの床、見えない高所――それぞれが空間の各所を伝いながら、中央の一点へ集まっている。
そして、その先に何かが立っていた。
最初、アレンにはそれが闇の一部に見えた。魔法灯の光を受けても輪郭が浮かばないほど黒く、周囲の暗闇よりもさらに深い、光そのものを拒んでいるような黒だった。
やがて近づくにつれて、その形が見え始める。
縦に長く、左右対称。その中央には一本の合わせ目があり、表面を――無数の鎖が縛っている。
アレンの足が止まり、後ろから来ていたマナが危うくその背中へぶつかりそうになった。
「アレン?」
返事ができないまま、アレンの頭の中では別の景色が重なっていった。
アルカナリウム。黒い台座。空中に現れた三十三の紋章。そして、刻印との共鳴の果てに開いた、遺跡の黒い扉。
さらにもう一つ――白い世界。
何もない空間に立つ、天を支えるほど巨大な黒い扉。その周囲には幾重にも鎖が絡みつき、隙間の向こうには赤黒い巨大な瞳があった。
目の前のそれは、アルカナリウムで見た遺跡の扉と外見がよく似ていた。
だが、それ以上にアレンの胸をざわつかせたのは、白い世界で見た扉との酷似だった。
無数の鎖。光を拒むような黒。そして、閉ざされた合わせ目。
同じものかどうかは分からない。だが、無関係だとも思えなかった。
「……なんで」
喉がひどく乾くのを感じながら、アレンは一歩だけ前へ出た。
「……なんで、ここにもあるんだよ」
誰も答えなかった。いや、答えられる者などいるはずもない。
マナは、アレンの隣でただ立ち尽くしていた。
「これ……アレンが見たって言ってた黒い扉?」
マナは次の言葉を、喉の奥から押し出した。
「精神世界にあった……」
「ああ」
ドレイヴも、さすがに冗談は口にしなかった。
「聞いてた話と……そっくりだ」
「待って」
ディアナだけがすぐに歩き出したが、黒い扉には近づきすぎず、一定の距離を残したところで膝をついた。
そして測定結晶を床へ向け、三十三本の光を一本ずつ結晶を通して確かめていく。
ケイムも、その隣へ移動した。
「どう?」
「……待って。もう少し」
ディアナの返事は短かった。
結晶の中には、封印経路の接続や分岐、再接続を示す複雑な線が現れ、それらが何層にも重なりながら黒い扉へ集まっていく。
結晶の線を追うディアナの眉間に、少しずつ皺が寄った。
「……違う」
「何が?」
マナが聞くと、ディアナは結晶の反応を確かめてから、黒い扉を見上げた。
「少なくとも……アルカナリウムの遺跡扉とは、構造が違うわね」
床を走る線へ、もう一度測定結晶を向ける。
「……でも」
小さく息を吸う。
「周囲の封印術式には、アルカナリウムで記録されたものと共通する要素がある。扉そのものは違っても、無関係とは言い切れない」
その言葉だけが巨大な空間へ静かに広がった。
アレンは、黒い扉から目を離せなかった。
精神世界で見続けてきたものに酷似する扉が、現実の地下に立っている。
それが現実の形を取っていることで、背中にじわりと冷汗が滲んだ。
「待てよ」
ドレイヴが口を挟んだ。
「精神世界で見たやつと、こいつが同じもの……ってわけじゃねえんだよな?」
「それは判断できないわ。精神世界の扉は、私たちが直接観測したものじゃないから」
ディアナは床を走る封印経路を測定結晶で示した。
「今分かるのは、この周囲の封印術式が遺構そのものに固定されてるってこと。最近になって作られた構造じゃない。でも、この門そのものがいつここに現れたのかまでは判断できない」
「じゃあ……」
マナの声が、わずかに弱くなる。
「昔からここにあったとも、まだ言えないってこと?」
「ええ」
アレンは、何も言えなかった。
自分の家、その床の下。さらに何層もの地下には、町よりも古い巨大遺構が広がっている。
そして、その最深部に――黒い扉がある。
精神世界に現れ続けていたもの。それと酷似する門が、十八年間暮らしていた場所の真下に存在している。
「……ケイム」
アレンはケイムを見る。
「これ……一体、何なんだ?」
「今すぐ答えられたら、研究者としてはかなり気分がいいんだけどね」
軽い口調とは裏腹に、ケイムの顔に笑みはなかった。
「ただ――」
ケイムは扉の上部へ視線を上げる。
「……思い当たるものはある」
ディアナの手が止まり、ケイムと視線が重なった。
互いに同じことを考えている――その変化は、アレンにも分かった。
「……何なんだ?」
ケイムは答えの代わりに、アレンへ問い返した。
「アレン。魔法学校で古代神話はどこまで習った?」
「……基本だけ」
「じゃあ、デモンズゲートについては?」
その名が出ると、空気が変わった。
アレンの脳裏には、これまで戦ってきた異界種の姿が次々と浮かぶ。
スケルグール。デスリーチャー。そして、グラーヴェン。
「……異界と現世を繋ぐ門」
「そう」
ケイムが静かに頷く。
「人の負の感情が集まり、世界を壊す異形を生み出す。遥か昔、この世界に現れて……大きな災厄を引き起こしたと伝えられてる」
マナが、黒い扉へ目を向けた。
「まさか……これが――」
「まだ断定はしない」
ケイムが先に制した。
「ただ……古い文献に残ってる封印構造と、目の前のこれが似すぎてる」
ディアナが続ける。
「三十三の経路。異界系の魔力反応。門のような構造体。それに、この周囲で発生している異界種」
一つずつ確かめるように、指を折る。
「全部を別々の偶然だと考えるより……一つの原因から生じたと考える方が自然よ」
ドレイヴが黒い扉へ顎をしゃくった。
「じゃあ……これが神話に出てくるデモンズゲートなのか?」
「……酷似してる」
ディアナは扉を見上げたまま答えた。
「でも、私が読んだ伝承とは……規模が合わない」
その言葉で、アレンも気づいた。
目の前の扉は、人間から見れば十分すぎるほど巨大だ。
しかし、神話の中で語られるデモンズゲートは、世界そのものへ異界を接続し、災厄を溢れさせた存在として記されている。
それに比べれば――目の前の扉は、明らかに小さかった。
「……小さい?」
マナが呟いた。
「ええ」
ディアナが頷く。
「神話にあるものと同じだとしたら……不自然なくらいにね」
「じゃあ、偽物ってことか?」
ドレイヴが聞く。
「そうとも限らない」
今度はケイムが答えた。
「デモンズゲートは、石や鉄で造った普通の門じゃない。異界との接続そのものが、“門”の形で現れるんだ。だから、大きさだけで別物とは言い切れない。過去には、それを意図的に呼び出そうとした者がいた……そんな記録も残ってる」
アレンはゆっくりと地下遺構を見回した。
三十三本の線と、それらが形作る巨大な術式。そして、人が生活するためではなく、何かを動かすためだけに造られた町のような構造。
「……まさか」
口にすると、その先を言うのをためらったが、それでもアレンは続けた。
「この遺跡……これを呼び出すために造られたのか?」
ケイムの目がわずかに細くなった。
「……可能性はある」
「でも、まだ断定はできないわ」
ディアナがすぐに続ける。
「この遺構が門を封じるためのものだったのか。呼び出すために造られて、あとから封印へ転用されたのか。それとも……最初から両方を目的にしていたのか。今ある情報だけじゃ判断できない」
「でも……誰かが意図的に呼び出した可能性はあるんだよな?」
アレンが確かめるように聞く。
「……そうね」
ディアナは否定しなかった。
黒い扉の周囲には、三十三の封印経路が整然と集まっている。少なくとも、この門と遺構が無関係に存在しているとは考えにくかった。
「だったら……」
マナの顔から、さっと血の気が引いた。
「グリムフォードが異界種に襲われたのも……」
その先は、言葉にしなくても分かった。
スケルグールは現世と異界の狭間に現れ、デスリーチャーも封印遺跡に生息する異界種だ。グラーヴェンもまた、現世の生き物とは明らかに異なる存在だった。
そして、どの怪物もグリムフォードが襲われるまでは、想像上の存在とされてきた。
「少なくとも――」
ケイムが、低い声で言った。
「ここに異界と繋がる何かがあるなら……これまで見てきた怪物の数にも、説明はつく」
「……じゃあ、あの日も」
アレンの口から、言葉がこぼれた。
グリムフォードが壊滅した朝。家へ入ってきたスケルグールと、町を埋め尽くした異形たち。砦を覆い尽くした怪物の群れ。そして、空から降りてきた光る者。
さらに、襲撃の三日前から自分の家の地下で観測されていた黒い反応。
「アレン」
ケイムの声が届いた。
「……まだ、そこまで繋げるのは早い」
「でも――」
「可能性がないとは言ってないよ」
ケイムは、アレンから目を逸らさなかった。
「だからこそ……一つずつ確かめる」
アレンは奥歯を噛み、黒い扉へ向き直った。
分かっている。何もかもを一つの答えへ押し込めれば楽になる。
グリムフォードが襲われたのは、この扉のせいだった。自分が刻印者になったのも、この扉のせいだった。
そう決めてしまえば、もう考えなくて済む。
けれど、それはギデオンが未来を一本に絞ろうとしたことと、どこか似ている気がした。
知らないのなら、確かめるしかない。
「……何を調べればいい?」
アレンが聞くと、ケイムはわずかに口元を上げた。
「いい質問だ」
「ケイム、そういうのはいいから」
「最近、君もディアナに似てきたねぇ」
「似てない」
「似てないわ」
「……ほら。そうやって同時に否定するところまで似てる」
「先生」
「はいはい。……仕事をしよう」
ほんの短いやり取りだったが、それだけで張り詰めすぎていた空気がわずかに緩んだ。
ケイムは黒い扉の手前まで寄った。その頃には、ディアナもすでに周囲の調査に取りかかっていた。
測定結晶の光を低くし、床から延びる封印線を一本ずつ追っていく。
近くで見ると、鎖の数は想像以上だった。太いものもあれば細いものもあり、二本を束ねたものや、途中で枝分かれして別の鎖へ結ばれているものもある。
それらが扉の上下左右を縛り、背後の暗闇に固定されていた。
さらに、一本一本の鎖には細かな術式文字が刻まれている。
「……鎖も術式の一部よ」
ディアナが言う。
「ただ扉を物理的に押さえてるわけじゃない。三十三本の経路から流れてきた魔力を、この鎖でいくつもの方向へ分散させてる」
「精神世界にあったのも?」
アレンが尋ねた。
「あなたから聞いた範囲では、鎖で封じられている点はよく似てる。でも、あっちはあなたの精神の中で見えたものよ。仕組みまで同じとは、まだ断定できないわ」
「……向こうの扉にも、鎖があった」
アレンが独り言のように呟くと、ディアナが顔を上げた。
「配置も同じだった?」
「そこまでは覚えてない。向こうは……もっとでかかった。それに、鎖ももっと多かった気がする」
「分かった。今はそれだけ覚えておく」
ディアナは記録板へ素早く書き込んだ。
その間に、アレンは扉から数歩の距離まで近づき、もちろん手は伸ばさず、その場から表面を観察する。
黒い。石にも金属にも見えるが、魔法灯を横から当てても、普通の素材のような光沢はない。
光は反射せず、そのまま表面へ沈み込んでいくように見えた。
そのときだった。
「……待って」
ディアナの声に全員が反応した。彼女の注意は、扉の左下――合わせ目に近い一点に留まっていた。
「ここ……光、当てて」
ケイムが無言で魔法灯を寄せると、斜めから差した白い光によって、黒い表面に初めて凹凸が浮かび上がった。
そこには細長い傷が何本も走っている。
最初は鎖が擦れた痕かと思ったが、よく見ると位置が合わない。しかも傷は一本ではなく、同じ場所へ何度も何かを差し込み、無理に力をかけたような深い抉れが残っていた。
「……古いな」
ドレイヴが腰を落とした。
「でも、これ……何の傷だ?」
「触らないで」
「触ってねえって」
ディアナは答えず、測定結晶を傷跡へ近づけた。
しばらく観察したあと、今度は扉の合わせ目へ向けて、ゆっくりと結晶の光を滑らせていく。
「……変ね」
「何が?」
「傷の向きよ」
アレンには、その意味が分からなかった。
「……向き?」
「ええ」
ディアナは一本の傷をなぞるように、空中で指を動かす。
「こっちは、表面が手前にめくれてる」
「手前って……」
「私たちがいる側」
ケイムが無言でしゃがみ込むと、その表情が変わった。
「……なるほど」
「ケイム、分かるの?」
マナが聞く。
「もし力がこっち側から加わったなら、削れた部分は奥へ押し込まれるはずだ。でも……これは逆だ」
ケイムは傷へ顔を近づける。
「向こう側から、何かが扉を押した痕だ」
アレンの背中を、冷たいものが走った。
「……向こう側から?」
黒い扉へ視線を戻すと、合わせ目は完全に閉じており、光一つ漏れていない。
その向こうがどこなのか、何がいるのかは、誰にも分からない。
ただ、傷だけが残っている。
向こうから、こちらへ――何かが出ようとした痕。
「待って」
ディアナは別の場所へ移り、今度は合わせ目のすぐ横を確かめた。
そこにも深い傷があったが、先ほどとは形が違う。縦へ伸びた細い溝の途中で黒い表面が潰れ、奥へ押し込まれている。
ディアナは数秒、傷の潰れ方を確かめた。
「……こっちは逆ね」
ドレイヴが眉を寄せる。
「逆って?」
「こっちは、こちら側から力を加えた痕よ」
沈黙が落ちる。
「何かを差し込んで……合わせ目を広げようとしてる」
アレンの意識は、ゆっくりと扉の合わせ目へ引き寄せられた。
「……こじ開けたのか?」
「正確には、こじ開けようとした痕ね」
「……誰が?」
誰も答えられなかった。そもそも、傷がいつできたのかさえ正確には判断できない。
ただ、その意味だけは分かる。
ドレイヴが、ゆっくりと立ち上がった。
「……つまりよ」
珍しく、言葉を選ぶ。
「向こうから出ようとした何かがいて……」
黒い扉の合わせ目を睨む。
「こっちから開けようとした奴もいた。……そういうことか?」
ディアナは、すぐには頷かなかった。
「傷だけで、誰かまで断定はできないわ」
「でも……力は両側から加わってる」
アレンがそう言うと、ディアナは数秒黙ったあと――頷いた。
「……ええ」
それだけだった。たった一言なのに、その場の空気が急に重くなった。
歴史のどこかで、この扉はただ閉じているだけではなかった。
向こう側からも、こちら側からも――両方から、開こうとする力を受けていた。
アレンは無意識に左手を握った。
精神世界で聞こえた声。
――鍵の一つが、戻った。
そして、そこで聞いた別の言葉。
――鍵が、拒むな。
さらに最後には――。
――いずれ、自ら開く。
「……アレン」
マナに呼ばれて、アレンは顔を上げた。
「何?」
「今……扉の方に歩いてたよ」
「……え?」
アレンは自分の足元を確かめた。
気づかないうちに、一歩前へ出ていた。黒い扉まであと数歩しかない。
アレンはすぐに、一歩後ろへ下がった。
「……悪い」
「何か聞こえた?」
「いや……何も」
言いながら、アレンは自分でも確かめる。
黒い雷紋は現れていない。それでも、扉の前に立っているだけで胸の奥が落ち着かなかった。
懐かしいわけでも、帰りたいわけでもない。
なのに、自分の中の何かだけが、この場所を知っているような感覚がある。
「今日は……これ以上、近づかない方がいいね」
ケイムが言った。
「調査は続ける。でも、扉そのものには触れない」
「開けないのか?」
アレンが聞く。
「……開けたい?」
「いや」
即答だった。
「なら、意見は一致してる」
ケイムの目が、黒い扉へ戻る。
「アルカナリウムで遺跡の黒い扉を開けた直後、君に何が起きたかは忘れてない。その経験がある以上……僕も好奇心だけで目の前の門を開ける気はないよ」
ディアナも頷いた。
「三十三本の経路も、まだ全体を解析できてない。ここで一本でも間違って切れば……何が起きるか分からないわ」
「じゃあ今日は、見るだけか」
ドレイヴが言う。
「それでいい」
「珍しいな。研究者二人が、目の前の怪しいもんを開けねえなんて」
「研究者を何だと思ってるの?」
「危ねえもん見つけると喜ぶ奴ら」
「……否定しづらいねぇ」
「先生は否定してください」
マナが呆れたように言うと、その声は巨大な空間の中へ小さく反響し、一度、二度と響いたあと、やがて消えていった。
静寂が戻る。
ディアナは再び測定結晶の数値を追い、ケイムは三十三本の経路を記録板へ写し取っていく。少し離れた場所ではドレイヴが周囲を警戒し、マナはアレンの隣に立ったまま、その右腕を気にしていた。
そんな中、アレンだけは黒い扉から意識を切れずにいた。
似た姿の黒い扉は、一つではなかった――その事実が、頭から離れない。
アルカナリウムの遺跡扉。精神世界の巨大な扉。そして、故郷の地下にある、デモンズゲートと酷似した門。
同じものではない。けれど、三十三の紋章や黒い反応を通して、どこかで繋がっているように見える。
精神世界の扉と目の前の門は何なのか。アルカナリウムの遺跡扉は、なぜあの黒い世界と関わったのか。
それとも――。
「アレン」
「……ん?」
「考えすぎ」
マナが小さな声で言った。
「顔に出てるよ」
「どんな顔だよ」
「一人で全部、答えを出そうとしてる顔」
アレンは言い返しかけて――やめた。
「……今は、答えなんか出ないよ」
「うん」
「分からないことが増えただけだ」
「それでいいんじゃない?」
「よくはないだろ」
「でも……分からないまま決めつけるよりは、いいよ」
アレンは、もう一度黒い扉へ向き直る。
「……そうだな」
今は、分からない。それで止める。
黒い線の正体も、グラーヴェンが恐れた理由も、この門がなぜグリムフォードの地下にあるのかも。
勝手に答えを決めない。その代わり、目の前にあるものだけは見落とさない。
アレンはさらに距離を取り、黒い扉から身を離した。
左手は伸ばしていない。右手は動かず、刻印も使っていない。誰も、黒い扉には触れていなかった。
その瞬間――。
ゴン――。
巨大空間全体が震えた。
音ではない。衝撃だった。
黒い扉の向こうから、巨大な何かが一度だけ叩いたような鈍い響きが伝わり、床に積もっていた砂が跳ねる。
魔法灯が揺れ、ディアナの測定結晶の中では白い光が激しく乱れた。
誰も動かなかった。
「……今の、何?」
マナの声が途中でかすれると、ドレイヴが大剣へ手をかけた。
「おい……誰か、何かしたか?」
「してない」
ディアナが即答した。
「私も術式には触れてないわ」
「僕もだ」
ケイムの声から、いつもの軽さが消えていた。
最後に、全員の注意がアレンへ集まった。
「……俺、何もしてないぞ」
誰も返事をしなかった。
ゴン――。
二度目の衝撃が、今度ははっきりと響く。
直後、黒い扉を縛っていた無数の鎖が――一斉に震えた。




