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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第四章『故郷の底に眠るもの』

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第47話『狩るもの』


 遠ざかっていくデスリーチャーの音が、地下の闇へ溶けていった。


 つい先ほどまで雷鳴の刻印(らいめいのこくいん)を持つアレンを目指して這い寄っていた異界種たちが、今は一斉に逃げている。


 アレンたちからではない。もっと深い場所から近づいてくる、何かからだ。


 ズン――。


 二度目の振動が響き、石床が下から突き上げられる。積もっていた砂が、その衝撃で小さく跳ねる。


「……来る。こっちに近づいてる」


 マナは杖を胸元へ引き寄せた。

 アレンは答えず、広場の中心から先へ続く坂道を見据える。


 魔法灯の白い光は途中で途切れ、その先には黒い穴のような暗闇が口を開けていた。


 ズン――。


 今度は、その音に別の響きが混じる。

 硬いものが石を擦る音。それが四つ、一定の間隔で繰り返されている。


「……足音だ」


 ケイムが低く言った。いつもの軽い調子は、もうない。


「しかも……かなり大きい」


「姿見りゃ、納得できるやつだといいけどな」


 ドレイヴは大剣を肩から下ろした。その刃には、混戦を抜けたばかりの名残のように、砕けたスケルグールの骨片と黒い液体がこびりついている。


 その傍らで、ディアナは測定結晶を暗闇へ向ける。


「待って。反応が――」


 そこで、不意に言葉を切った。


「どうした?」


「……おかしいわ」


 結晶の内部では、白い光が不規則に明滅している。

 アレンはディアナの横から身を寄せ、その結晶を覗き込んだ。


「魔力反応は?」


「ある。でも……うまく形が読めない」


「デスリーチャーと同じか?」


「違う」


 ディアナは迷わず否定する。


「あれは、反応そのものは読める。でもこれは……周囲の魔力が、向こうへ引っ張られてる」


「引っ張られてる……?」


 マナが聞き返した、その直後だった。


 坂道の闇から、一体のデスリーチャーが飛び出してくる。逃げ遅れた個体らしく、黒い身体を床へ引きずりながら、触手を無秩序に振り回し、アレンたちのいる広場へ向かってきた。


「来るぞ!」


 ドレイヴが大剣を構える。


 だが、デスリーチャーは五人を狙っているわけではなかった。目の前を通り抜けるようにして、ただひたすら逃げている。


「……俺たちじゃない」


 アレンが低く呟く。


 その背後の闇で、何かが動いた。

 アレンは最初、それを壁だと思った。黒い壁そのものが、ゆっくりと前へせり出してきたように見えたのだ。


 だが、違う。


 地面すれすれまで低く垂れた巨大な頭部。その後方には、分厚い胴体が連なっている。

 全身を覆っているものは、皮膚ではなかった。


 骨だ。


 黒く変色した無数の骨板が幾重にも重なり、肩から背、脚に至るまで身体を覆っている。

 巨大な四肢は一本一本が人間の胴ほども太く、それが石床を踏みしめるたび、広場全体が低く震える。


「……でかすぎんだろ、あれ」


 ドレイヴが思わず漏らした。


 その異界種は、逃げるデスリーチャーの後方から姿を現す。気づいたデスリーチャーがさらに速度を上げた。


 だが――遅かった。


 黒い四足の怪物が床を蹴る。巨体からは考えられないほどの加速で、一度の踏み込みだけで逃げるデスリーチャーとの距離を詰めた。


 次の瞬間、頭部の骨殻が左右へ割れる。

 その奥にあったのは、牙ではない。深い裂け目だった。


 内側へ向かって何層にも折り重なった黒い器官が広がり、デスリーチャーの身体へ食らいつく。


「――っ」


 マナが息を呑んだ。

 捕らえられたデスリーチャーは激しく暴れ、触手を怪物の顔へ巻きつける。


 だが、次の瞬間、その身体から淡い光が噴き出す。


 魔力だった。


 光は煙のように引き伸ばされ、巨大な怪物の口内へ吸い込まれていく。それとともに、デスリーチャーの触手から急速に力が抜けていった。


 黒い身体は見る間に萎み、最後には巨体の顎に挟まれたまま動かなくなる。


「……食った、のか?」


 アレンが呆然と呟く。


「身体じゃない」


 ディアナは測定結晶から目を離さない。


「今のは……魔力を吸い取ったの」


 怪物が首を振ると、力を失ったデスリーチャーの死骸が放り捨てられ、石床を数度転がって止まった。

 そして、巨大な頭がゆっくりとこちらを向く。


 目らしい器官は見当たらない。それでもアレンには分かった。

 見られている。


「ケイム先生」


 ディアナが怪物から目を離さないまま呼ぶ。


「あれ……」


「ああ。残念だけど、見間違いじゃない」


 ケイムの声が低く沈む。


「……グラーヴェンだ」


 その名が落ちた瞬間、異界種の前脚が石床を削った。


「説明は――生き残ってからだ!」


 ケイムの一喝が広場に響く。


「来るよ!」


 グラーヴェンが突進した。


「散れ!」


 五人は一斉に左右へ飛ぶ。


 直後、彼らが立っていた場所へ巨体が突っ込み、轟音とともに石床を砕く。弾けた破片が、雨のように周囲へ飛び散った。


「うおっ!」


 ドレイヴは腕で顔を庇いながら、その場に踏み止まる。


 だが、グラーヴェンは止まらない。前脚を軸に身体を捻ると、巨大な尾を横薙ぎに振るった。


「ドレイヴ!」


「分かってる!」


 ドレイヴは大剣を縦に構え、刃の腹で受け止める。

 金属が軋み、その衝撃で足が石床を滑る。ドレイヴは勢いを殺せず、数歩も後ろへ押し込まれた。


「ぐっ……重てぇな、こいつ!」


「右には行かせるな!」


 アレンは左手の剣を握り直し、グラーヴェンの側面へ回り込む。


 狙うのは、骨殻(こつかく)と骨殻の隙間だ。巨体を守る黒い骨板は完全な一枚ではなく、脚を動かすたびに関節部へ僅かな隙間が生じる。


「……そこだ!」


 アレンは踏み込み、前脚の付け根へ剣を振り込んだ。

 刃が骨殻の隙間へ入り、鈍い抵抗が伝わる。それでもアレンは、身体ごと剣を押し込む。


 切れた。


 黒い液体が細く飛び、グラーヴェンの身体がわずかに傾く。


「……効いてる!」


「なら――こいつも食らえ!」


 ドレイヴが大剣を振りかぶった。

 今度は、尾を受け止めるためではない。


「おらぁっ!」


 ドレイヴが大剣を振り抜く。


 刃はグラーヴェンの肩をまともに捉え、黒い骨殻を砕いた。

 一枚、二枚と重なった骨板が剥がれ、その内側が露出する。


「いける!」


 ドレイヴが勢いづく。


「硬ぇだけだ! これならぶっ壊せる!」


「ドレイヴ、待って!」


 マナが切迫した声で制する。

 グラーヴェンが身体を捻り、ドレイヴへ噛みつこうとする。その動きを見て、マナはすぐさま杖を振った。


「水よ、触手となり、敵を絡め取れ――クラーケンクラマー!」


 石床に広がった水が幾本もの束となり、グラーヴェンの前脚へ絡みつく。

 一本、二本と巻きついた水は、さらに後脚へ回り込み、巨体の動きをぴたりと止めた。


「止まった!」


「そのまま押さえて!」


 ディアナがすかさず杖を向ける。


「封印よ、鎖となり、対象を縛れ――ジーゲルケッテ!」


 白い術式線が空中を駆け、光の鎖へと変わる。

 鎖はグラーヴェンの首と胴へ巻きつき、骨殻の隙間へ食い込んだ。


 水と封印、二つの拘束によって、怪物の前脚が床へ縫いつけられる。


「ケイム先生!」


「分かってるよ!」


 ケイムは即座に片手を前へ突き出す。

 空中に幾つもの術式線が展開され、直線と円が重なり合う。その中央へ、圧縮された魔力が集まっていった。


「正面は捨てる! ドレイヴが割った肩を狙え!」


「やれ!」


 圧縮された魔力が矢のように放たれ、骨殻の欠けた肩口へ直撃した。

 肉が大きく抉れ、その衝撃にグラーヴェンの巨体が傾く。


「よし!」


 アレンは剣を握り直す。

 倒せる。少なくとも、これまで相手にした怪物と同じなら――そう思った。


 だが。


「……待って」


 マナの声が、ふっと強張る。

 絡みついていた水の束が、目に見えて細くなっていく。


「どうした?」


「わたし……解除してないよ」


 水が減っていた。

 蒸発しているのではない。グラーヴェンの骨殻に触れた部分から、水が光へと変わり、吸い込まれていく。


「ディアナ!」


「分かってる。こっちも同じよ!」


 白い鎖もまた、同じように細くなっていた。

 グラーヴェンの身体に触れている部分から輪郭が薄れ、光の粒へと変わって骨殻へ呑み込まれていく。


「術式を壊してるのか?」


 アレンが問う。


「違う!」


 ディアナの声が鋭くなる。


「術式じゃない……魔力だけ抜かれてる!」


 グラーヴェンが前脚を持ち上げると、マナの水が千切れ、光の鎖も砕けた。


 その瞬間、怪物が吠える。

 声というより、骨同士を擦り合わせたような音だった。


 そして、先ほどまで鈍かった動きが一変する。


「来る!」


 グラーヴェンの姿が、ぶれた。


「な――」


 次の瞬間には、グラーヴェンはドレイヴの目の前まで迫っている。

 そのまま、前脚が振り下ろされる。


「ドレイヴ!」


 アレンが叫びきるより早く、ドレイヴは大剣を横から滑り込ませ、前脚を受けた。


 だが、衝撃を殺しきれない。大剣ごと押し込まれたドレイヴの身体が吹き飛び、背中から石床を滑って、崩れた壁へ激突する。


「ぐっ……!」


「ドレイヴ!」


「来んな!」


 ドレイヴは咳き込みながらも、大剣を杖代わりにして立ち上がった。


「俺はいい! 前見ろ!」


 グラーヴェンがアレンへ向き直り、アレンも剣を正面へ構える。

 速くなっている。明らかに、マナとディアナの魔法、そしてケイムの術式を受けてから。


「……まさか」


 アレンの脳裏に、さっきのデスリーチャーの姿が浮かぶ。

 その身体から抜き取られていった、あの淡い光。


「魔法まで……食ってるのか?」


「そう考えるしかないね!」


 ケイムが横へ走りながら返す。


「あいつにとっては、魔力そのものが餌なんだ!」


「じゃあ、攻撃魔法を当てたら――」


「そのまま、ご馳走になる!」


 グラーヴェンが地面を蹴る。

 アレンは横へ飛んで突進を避けたが、骨殻が肩先を掠めただけで身体が大きく回る。


 それでも着地すると同時に、左手を床へつく。


「くそ……!」


 速い。

 さっきまでとは、まるで別物のように動きが変わっている。


「魔法は使うな!」


 ケイムが走りながら指示する。


「ここからは物理だけ! 距離を取るよ!」


「倒さねえのか!?」


 ドレイヴが食い下がる。


「今のを見て、まだ倒せると思う?」


「思わねえけどよ!」


「なら撤退だ!」


 返事は迷いなく返ってきた。


「ここは勝つ場所じゃない。生きて出れば、それでこっちの勝ちだ!」


 アレンはケイムを見る。

 その言葉が、妙に強く胸に残る。


 勝つ必要はない。敵を倒さなくてもいい。

 生きて帰ればいい。


「出口は!?」


 アレンが問い返す。


「来た道は駄目!」


 ディアナが即座に返した。


「デスリーチャーが流れ込んでる! 西側に、上へ戻れる通路が一本ある!」


「決まりだ! 全員、西へ!」


 五人は一斉に走り出す。


 背後では、グラーヴェンの爪が石床を掻く音が響く。

 一度、二度――響くたび、その音は確実に近づいてくる。


「速すぎんだろ、あいつ!」


 振り返ったドレイヴが悪態をつく。


「怒鳴っても遅くならないよ!」


「分かってるって!」


 通路の入口まで、あと二十歩。

 その背後から、グラーヴェンが迫ってくる。


「アレン、先に行け!」


「お前は!?」


「俺は最後でいい!」


「駄目だ!」


 アレンは走りながら、間髪入れずに返した。


「五人で戻るんだろ!」


「じゃあ、どうすんだよ!」


「止めながら行く!」


「簡単に言いやがって!」


 ドレイヴは、こんな状況だというのに笑った。

 ほんの一瞬だけだったが、いつもの調子が戻る。


 そして次の瞬間には、二人は同時に振り返っていた。


「脚を狙え!」


「分かってる!」


 アレンの剣とドレイヴの大剣が、左右からグラーヴェンの前脚へ叩き込まれる。

 アレンは関節の隙間を、ドレイヴは骨殻そのものを狙う。


 黒い骨が砕け、その衝撃に怪物の身体が前へ傾いた。


「今だ!」


 五人は再び走り出す。

 倒すためではない。今の一撃は、あくまで距離を取るためのものだった。


 今までとは、戦い方そのものが違う。

 そのまま通路へ入り込む。幅は、巨体のグラーヴェンがぎりぎり通れるほどしかない。


「これなら……少しは――」


 マナが背後を確かめた途端、轟音とともに入口の石壁が砕けた。

 グラーヴェンは巨体を押し込み、黒い骨殻で壁そのものを削りながら通路へ侵入してくる。


「……全然、遅くなってない!」


「マナ、それ今言うか!?」


 五人は角を曲がり、その先に架かる細い石橋へ飛び出した。

 橋を駆け抜ける五人の足元には、底の見えない暗闇が広がっている。


「橋、落とすか!?」


 ドレイヴが問いかける。


「駄目!」


 ディアナが即座に切り返した。


「この橋も術式経路の一部よ! 壊したら、どこに影響が出るか分からない!」


「じゃあ、どうすんだよ!」


「走る!」


「結局それかよ!」


 後方から轟音が響き、グラーヴェンが橋へ乗り上げる。

 その重みに石が軋む。だが、橋は崩れない。


「このままじゃ、追いつかれる!」


 マナが焦りを滲ませる。

 アレンは後方を振り返った。グラーヴェンとの距離は、もう十歩もない。


「一度だけ止める!」


「アレン、魔法は駄目!」


「使わない!」


 アレンは足を止め、左手の剣を正面へ据えるように構えた。

 迫る頭部をぎりぎりまで引きつける。


「アレン!」


「先に行け!」


 グラーヴェンが頭部の骨殻を左右へ割り、裂けた口を開いてアレンへ食らいついてくる。

 アレンは横へ身を捻り、頬のすぐ横を骨殻が通り過ぎるのと同時に、左手の剣を振り下ろした。


 刃が鼻先の骨板へ食い込む。


 切れない。

 それでも、その衝撃で頭部が僅かに逸れた。


「今だ! 走れ!」


 アレンもすぐに踵を返し、五人は一気に橋を駆け抜ける。

 橋の先では、通路が左右に分かれている。


「左よ!」


 ディアナが左を指し示す。

 マナとケイムが左へ曲がり、ディアナとドレイヴもその後に続いた。


 アレンも踏み込もうとした、その瞬間。

 背後で石の砕ける音が響く。グラーヴェンが橋の出口際の石床へ前脚を叩きつけたのだ。


 衝撃が床を走り、アレンの足元に亀裂が入る。


「――っ!」


 石床が崩れ、足場を失ったアレンの身体が傾いた。


「アレン!」


 マナが手を伸ばす。

 アレンも左手を伸ばしかけたが、届かない。


 幸い暗闇への落下は免れたものの、崩れた石材とともに分岐脇の一段低い通路へ転がり落ち、その拍子に肩を強く打った。


「ぐっ……!」


 左手から剣が弾かれ、石床を滑っていく。


「アレン!」


「来るな!」


 頭上から、マナの切迫した呼び声が降ってくる。


 距離は数歩しかない。だが、そのわずかな間をグラーヴェンが塞いでいた。

 巨大な四肢が狭い通路へ踏み込み、アレンを追って一段下へ降りてくる。


 背後は壁。右は崩落し、左側もグラーヴェンの身体に塞がれている。


 逃げ道がない。


 アレンは左手を伸ばした。

 剣まで、あと二歩。だが、届かない。


 その間にも、グラーヴェンが近づいてくる。


 一歩。骨の爪が石を裂く。


 さらに、もう一歩。

 先ほどドレイヴに砕かれた肩の骨殻は欠けたままで、アレンが斬った脚にも傷が残っている。


 確かに傷ついている。

 それなのに弱ってはいない。むしろ、魔力を喰う前よりも強くなっていた。


「アレン!」


 再び名を呼ばれ、アレンは顔を上げる。


 上の通路には、杖を構えたままのマナが立っている。その横では、今にも飛び降りようとするドレイヴの腕をディアナが掴み、ケイムは周囲を見回しながら何かの術式を組み始めていた。


 アレンはマナを見てから、自分の右手へ視線を落とす。

 黒い手袋に覆われたまま、力なく垂れている手は動かない。


 今のままでは、左手だけでは間に合わない。


 だが、動かす方法はある。


 アレンはもう一度、マナを見る。

 言葉は出なかった。それでも、マナには伝わる。


 彼女はアレンの右腕を見て、次にグラーヴェンを見る。距離を確かめ、ほんの一瞬だけ迷った。


「……少しだけ!」


 マナは腹を決めたように言い切る。


「本当に、少しだけだからね!」


 アレンは頷く。


「ああ!」


 胸の奥へ意識を集中させ、眠らせていたものへ手を伸ばす。


 雷鳴の刻印が、それに応えた。


 どくん、と心臓が強く脈打ち、熱が胸元から右肩へ走る。肘を抜け、麻痺した前腕へ流れ込んだ次の瞬間、紫電が弾ける。


 黒い手袋の上を、細い雷が這う。


「っ……!」


 痛みが走る。

 だが、まだ耐えられる。


 雷を神経の代わりにする。必要な場所だけ――右腕、右手、そして指へ。


 力なく垂れていた人差し指が持ち上がり、続いて中指、薬指も動く。やがて五本の指が、ゆっくりと開いた。


 久しぶりの感覚――ではない。

 感覚はない。ただ、自分の意思で動いている。


 アレンは腰のもう一本へ右手を伸ばし、柄を掴む。

 二本目の剣が鞘から抜ける。


 風の双剣。リヴァから預かった二本の刃だ。

 もう一振りは、二歩先の石床に転がっている。


 アレンは、迫る怪物を見据えた。


「……来い」


 グラーヴェンが飛び込む。迎え撃つように、アレンも地面を蹴る。


 一歩目で身体を沈め、低い姿勢から踏み込む。右腕を走る紫電が、握った剣へ細く伝う。

 二歩目で、床を滑っていた剣まで届く。左手で柄を拾い上げた。


 左と右、両方の剣を構え、勢いを殺さず怪物の前脚の内側へ入り込む。


 まず左。


 一閃で、骨殻の隙間を斬る。


 続けて右。


 二撃目の刃が紫電を纏い、黒い骨板そのものを切り裂いた。

 乾いた破砕音が響く。


 さっきまでドレイヴの大剣でなければ砕けなかった骨が、今度はアレンの一撃で割れた。


「……通った!」


 頭上でマナの声が弾む。

 それでも、アレンは止まらない。


 右足で床を蹴り、身体を半回転させる。頭上を尾が通過するのと同時にその下へ潜り込み、後脚へ左右の剣を交差させた。


 二本の刃が十字に走り、右の剣に纏った紫電が骨殻の裂け目を照らす。そこから黒い液体が飛び散る。


 グラーヴェンが身体を捻る。


 速い。


 だが今なら、追える。

 右手が動き、二本の剣が使える。


 それだけで、さっきまでとは違う。左右の刃を途切れなく繋ぎ、次の斬撃へ移れる。


 久しぶりだった。

 二本の剣で敵の間合いへ入り、止まることなく斬撃を重ねていくこの戦い方が。


 左で受け、右で斬る。

 右で逸らし、左を差し込む。


 紫電の尾が暗い通路へ幾筋も残り、一撃、二撃、三撃と、グラーヴェンの骨殻へ次々に亀裂が走る。


 だが――。


「アレン、長い!」


 マナの制止が鋭く突き刺さり、アレンは歯を食いしばった。


 分かっている。

 右腕にはすでに熱が溜まり始め、肘の奥からは細い痛みも走っていた。


「あと少し!」


「最初もそう言ったでしょ!」


「分かってる!」


 グラーヴェンが大きく口を開く。

 その瞬間、アレンの右の剣を包んでいた紫電が、わずかに引き寄せられる。


「……っ!」


 雷が、吸われている。


 刃から伸びた紫電は細い筋となって怪物の口へ流れ込み、それに伴ってグラーヴェンの動きはさらに力強さを増していった。


「アレン、離れろ! 今すぐ!」


 ケイムが間髪入れず命じ、アレンは即座に後方へ跳ぶ。

 直後、グラーヴェンの頭部が通路の壁へ激突し、壁面を大きく抉った。


 刻印の雷さえ餌にする。

 このまま続ければ、またさらに強くなる。


「どうすんだ!」


 上からドレイヴが怒鳴る。


「このままじゃ、あいつより先にアレンが潰れるぞ!」


「分かってる!」


 ケイムは組み上げかけた術式を確認し、続けてグラーヴェン、アレン、通路の幅を順に見やり、一瞬で状況を見極める。


「……一度だけだ。一回で決める!」


「一回?」


「魔力を喰うなら――吸いきるより先に、内部へ通す!」


 ディアナが、すぐに意図を汲んだ。


「吸収される前に……中から壊すのね?」


「そういうこと!」


「でも、今の速さじゃ肩口まで入れない」


「なら、俺が止める!」


 ドレイヴが即座に応じる一方で、ディアナは首を振る。


「一人じゃ足りない」


「じゃあ、どうすりゃいい!」


「全員で止めるの!」


 言い終えるより早く、グラーヴェンがアレンへ向かって踏み込む。


「来る!」


「ドレイヴ!」


「おう!」


 ドレイヴが一段上から飛び降り、着地と同時に大剣を振り抜いた。

 狙いは、アレンが何度も斬りつけ、亀裂の走った前脚だ。


「折れろぉっ!」


 ドレイヴの大剣がそこへ叩き込まれ、黒い骨殻が弾け飛ぶ。

 その衝撃に、グラーヴェンの前脚が沈んだ。


「マナ!」


「うん!」


 マナはすぐに杖先を床へ向ける。


「水よ、触手となり、敵を絡め取れ――クラーケンクラマー!」


 生まれた水の束が、グラーヴェンの後脚へ絡みつく。

 吸収されるのは分かっている。だからこそ、長く保たせるつもりはなかった。


「ディアナ!」


「任せて!」


 ディアナが杖を翻す。


「封印よ、鎖となり、対象を縛れ――ジーゲルケッテ!」


 光の鎖が走ってグラーヴェンの首へ絡みつき、さらに後脚には水の束が食い込んだ。

 前後から引かれたことで、グラーヴェンの身体が沈む。


「三秒も保たない!」


 ディアナが残り時間を告げる。


「二秒あれば十分だ!」


 ケイムが両手を広げると、床に二重の術式円が生まれた。

 グラーヴェンの左右から圧縮された魔力が壁となって迫り、その巨体を挟み込む。


 本当に一瞬だけ、怪物の動きが止まった。


「アレン!」


「分かってる!」


 アレンは迷わず駆け出し、紫電を纏った双剣を低く構える。


 狙う場所は一つ。

 ドレイヴが砕き、ケイムが抉った、骨殻の剥がれた肩口だ。


 グラーヴェンがアレンへ頭を向け、裂けた口を開く。

 右の剣を包む紫電が引かれ、吸い込まれていく。


 それでもアレンは止まらない。

 肩口へ迫ったとき、右腕を走る紫電の中に――一本だけ、色の違うものが混じった。


 黒。


 光ではない。影が雷の形を取ったような、細い線だった。

 ほんの一瞬、それが右腕から右の剣へ走る。


 グラーヴェンの動きが止まった。


「……?」


 アレンには、理由が分からなかった。


 あれほど魔力へ食らいつこうとしていた怪物が、初めて身体を後ろへ引いたのだ。まるで逃げるように、黒い骨の脚が石床を掻く。


 だが、後ろにはケイムの術式がある。

 脚にはマナの水が絡みつき、首にはディアナの鎖。そして前には、ドレイヴが立っていた。


「今さら逃げんなよ!」


 ドレイヴの大剣が横から叩き込まれ、グラーヴェンの巨体が再びアレンの側へ押し戻される。


「アレン!」


 マナに名を呼ばれ、アレンは思考を切った。


 考えるのはあとだ。


 アレンは残る距離を一気に駆け抜け、左の剣を肩口へ突き立てる。続けて右の剣も叩き込み、二本の刃を骨殻を失った内部へ深く食い込ませた。


 グラーヴェンが激しく暴れる。


「もう保たない!」


 ディアナの鎖が千切れ始め、マナの水も光へと変わっていく。

 その一方で、ケイムの術式も軋みを上げていた。


「アレン!」


「今やる!」


 アレンは双剣を強く握り込み、二本の刃をさらに深く押し込む。


 外から浴びせるのではない。

 吸い上げられるより先に、骨殻の内側、その奥深くへ一気に通す。


 アレンは息を吸った。


「雷よ、流れとなり、敵を撃て――」


 胸の刻印が熱を持ち、右腕が悲鳴を上げる。

 それでも――ほんの一瞬だけ。


「カーレント!」


 紫電が爆ぜ、轟音が響いた。


 双剣から流れ込んだ雷が、グラーヴェンの体内を駆け抜ける。外側へ放ったときのようには広がらず、黒い骨殻の内側で紫の光が何度も弾けた。


 グラーヴェンの巨体が、一度、二度――大きく跳ねる。


 前脚が床を叩き、尾が壁を砕く。

 それでも、アレンは剣を離さない。


「アレン、もういい! 離して!」


 マナの制止が耳を打つ。

 アレンは即座に雷を切り、刻印を閉じた。右腕から紫電が消える。


 二本の剣を引き抜き、後方へ跳ぶ。


 その直後、グラーヴェンの巨体が崩れ落ちた。

 前脚から力が抜け、頭部が石床へ落ちる。続いて胴が沈み、最後に尾が鈍い音を立てて横たわった。


 誰も動かない。


 吸収されかけていたマナの水は床へ落ち、ただの水となって流れていく。ディアナの光の鎖も消え、ケイムの術式円もゆっくりと閉じていった。


「……倒した?」


 マナが、息を潜めるように呟く。

 ディアナは答えず、測定結晶を向ける。


 数秒の沈黙が流れ、その時間がやけに長く感じられた。


「……魔力反応、低下」


 さらに結晶を確かめる。


「……動いてない」


「じゃあ……」


「ああ」


 ケイムが、ようやく息を吐く。


「……今度こそ、終わりだ」


 ドレイヴが大剣の切っ先を床へ落とす。


「……俺たち、逃げるはずだったよな?」


「そうだったね」


 ケイムが肩をすくめた。


「まあ、逃げ切れなかったけど」


「だったら最初から倒しゃ――」


「その前に、こっちが魔法をたっぷり食わせて強くしちゃったの、忘れた?」


 ドレイヴの口が止まる。


「……忘れてねえよ」


「なら、よろしい」


「その言い方、腹立つな」


 ケイムは答えず、小さく笑った。

 アレンは会話に加わらず、横たわるグラーヴェンを見つめていた。


 黒い骨殻。砕かれた前脚。裂けた肩。


 そして、最後に見せたあの動き。

 一瞬だけ、グラーヴェンは逃げた。


 何から?


「アレン」


 マナが、すっと目の前に立つ。


「右腕、見せて」


「……ああ」


 アレンが腕を動かしかける。


「大丈夫だって」


「それは、見てから決める」


 言い返す余地のない声だった。

 アレンは諦めて右腕を差し出す。刻印を切ったことで、右手首から先はすでに力を失っていた。


 また、いつもの手だ。

 指は動かず、感覚もない。


 マナは前腕から肘まで、順に確かめていく。


「痛い?」


「……少し」


「どこ?」


「肘の内側。あと……腕がちょっと熱い」


「痺れは? 広がってない?」


「それはない」


「……本当に?」


「ああ。本当に」


 マナは何も言わず、嘘がないか確かめるようにしばらくアレンの表情を窺っていた。

 やがて、短く息を吐く。


「……少しだけって、言ったよね」


「少しだっただろ」


「どこが?」


「ちゃんと途中で止めた」


「止めたら全部少しになると思ってない?」


「思ってないって」


「じゃあ次から、わたしが言う前に止まって」


「……分かったよ」


「お前ら、その話あとにしろ……」


 ドレイヴが疲れ切った声を挟む。


「俺、さっきから全身いてえんだけど」


 マナが振り返る。


「ドレイヴも診るから、ちょっと待って」


「俺は後かよ」


「歩けてるでしょ」


「アレンも歩いてんだろ!」


「アレンは右腕使ったから」


「俺は全身使ったわ!」


 そのやり取りを聞きながら、アレンはようやく肩の力を抜いた。


 生きている。五人とも。

 逃げ切ることはできなかった。それでも、一人で残ったわけでも、一人で刻印を使ったわけでもない。


 ドレイヴが骨を砕き、マナが脚を止め、ディアナが首を縛り、ケイムが動きを封じた。


 その一瞬に、自分が雷を通した。

 だから、倒せた。


 アレンは右手を見下ろす。


 動かない指。黒い手袋。

 その下には、まだじわりと熱が残っている。


「……ん?」


 違和感があった。

 痛みではない。感覚のないはずの右手で、皮膚の下を冷たいものが一本だけ走ったように感じた。


 アレンは左手で、手袋の縁を掴む。


「アレン?」


 マナがすぐに異変を察した。


「どうしたの?」


「……今、何か感じた」


 アレンは手袋を少しだけ下げる。

 すると、露出した右手首から前腕にかけて、黒い線が浮かんでいるのが見えた。


「……何だ、これ」


 雷のように枝分かれした細い紋様は、刻印の紫でも血管の色でもなかった。


 黒。


 まるで、皮膚の下へ黒い雷が焼きついたような線。


「そのまま動かないで」


 ディアナがすぐに歩み寄って測定結晶をかざし、マナもアレンの腕へ手を伸ばす。

 ドレイヴとケイムの表情も、僅かに強張る。


 だが、ディアナが測定するより早く、黒い雷紋は薄れ始めた。

 一筋ずつ、皮膚の奥へ沈んでいくように。


「待って――」


 最後の一本が消えると、あとには何も残らなかった。

 そこにあるのは、いつもの腕と、いつもの動かない右手だけ。


 アレンはしばらく、自分の皮膚から目を離せずにいた。


「……消えた」


 誰も答えない。


 地下には、倒れたグラーヴェンの巨体と、五人の呼吸だけが残っていた。

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