第45話『三十三の痕』
世界が途切れた。
次の瞬間、アレンの目の前にあったのは、黒い光でも、自分の家でもなかった。
そこにあったのは冷えた石壁と、床を這う細い溝。そして正面からは、ケイムの魔法灯の白い光が差し込んでいた。
「――アレン!」
肩を強く引かれ、身体が後ろへよろめいた。反射的に左手を動かしかけたところで、すぐそばにマナがいることに気づく。
「……マナ?」
「うん。わたしだよ。……そのままでいて、アレン。まだ動かないで」
マナは杖を構えたまま、アレンの顔を覗き込んでいる。少し離れたところでは、ドレイヴが大剣を抜いて通路の前後を何度も確かめ、ディアナは測定結晶を掲げていた。ケイムも、先ほどまでより険しい面持ちでアレンの様子をうかがっている。
アレンは数度、呼吸を繰り返した。
石の匂いと冷えた空気。左手には剣が握られ、黒い手袋に覆われた右手は力なく垂れている。
今度こそ、地下だ。
「……戻ったのか」
「戻った、じゃないよ」
マナの声が、わずかに強くなる。
「また止まってたの。さっき、急に」
「……どれくらい?」
「数秒よ」
答えたのはディアナだった。
「前と同じ。魔力反応がわずかに揺れた直後、外からの呼びかけにほとんど反応しなくなった。ただ……完全に意識を失っていたわけではないと思う」
「俺は……」
アレンは何かを言いかけ、そのまま口を閉じた。
まだ、残っている。
階段と、下から脈打つ黒い光。そして、その中を上ってきた人影。
顎が見え、口元も見えた。あと少しで、顔まで見えるところだった。
「……何を見た?」
ケイムが訊いたが、その声にいつもの軽さはなかった。
アレンはすぐには答えず、一度、石床へ顔を伏せた。
「……家だ。たぶん、さっき見たものの続きだった」
「続き……というと?」
「夜の家。地下から黒い光が出てて……そこに、俺の知らない階段があった」
マナの指が、アレンの肩の上でわずかに動いた。
「それで……そこから誰かが上がってきた」
「誰かって……人だったの?」
「……たぶん」
アレンは唇を湿らせた。
「デスリーチャーじゃない。少なくとも、見た目は人だった。顔が見えそうになって……そこで、途切れた」
「で、誰だったんだ?」
ドレイヴが身を乗り出す。
「……分からない。顔までは見えなかった」
「服とかは? 武器を持ってたとか、何か分かるもんはなかったのか?」
「そこまでは見えなかった」
口にしてみると、見えなかったことの方が、かえって気味が悪かった。
もし見たものが本当に過去の出来事なら、襲撃の三日前、自分の知らなかった地下から、人間らしき何者かがアレンの家へ上がってきたことになる。
だとすれば――。
「アレン」
ケイムの声に思考を引き戻され、アレンは顔を上げた。
彼はまるで、アレンが何を考えていたのか見透かしているようだった。
「……さっき言ったことは、まだ変わらないよ」
「見せられたものと……実際に起きたことは別、ってことか?」
「そういうこと」
ケイムは静かに頷いた。
「今の幻影が前の続きに見えた。それだけで、本当に過去の続きを見た証拠にはならない。君の中に残っていた疑問に、ここが続きを見せただけかもしれない」
「でも……本当に誰かがいた可能性もある」
「ああ。そこは否定しない」
ケイムは、いつものように曖昧な笑みで誤魔化そうとはしなかった。
「だから今は、見えたものより……ここに残っているものを調べよう」
「残っているもの……?」
「幻影だけじゃ証拠にはならない。でも――この遺構は、実際にここにある」
アレンは黙ったまま、足元に続く石の通路を見下ろした。
そこには、どれほどの時間を越えて残っているのかも分からない石の通路が続いている。それだけは、今この手で触れられる現実だった。
「……分かった」
アレンは短く息を吐き、剣を鞘へ戻した。
「俺も……それを調べたい」
ディアナは測定結晶を目の高さまで持ち上げ、通路の壁と床へ交互に視線を走らせた。
「……ケイム先生。これ」
「うん。やっぱり気づいた?」
ケイムの返事に、アレンが二人のやり取りへ顔を向ける。
「……何かあるのか?」
ディアナは足元にしゃがみ、床に走っている細い溝へ杖先を近づけた。
「この線……ここへ来る途中にも、何度かあったでしょう」
「道の端にあったやつか?」
「ええ。あれと同じ」
ドレイヴが眉を寄せる。
「ただの模様じゃなかったのか?」
「私も最初はそう思ってた。でも……たぶん違う」
ディアナはそう言いながら測定結晶をわずかに傾けると、透明だった結晶の中心に淡い光の筋が浮かんだ。
「……弱すぎる。普通に測っただけじゃ、ほとんど反応しない。でも、魔力が完全に途切れてるわけでもない。ほんの微量だけど……流れが残ってる」
「流れって……どっちに?」
アレンが訊くと、ディアナは測定結晶から目を離し、闇の奥を顎で示した。
「……あっち」
その先には、魔法灯の光さえ届かない闇が続いている。
「さらに下へ……流れてる」
ケイムが壁際へ寄り、刻まれた線を目で追った。
「なるほどね……中央区画で見たものと、よく似てる」
その言葉に、アレンはすぐに思い当たった。
三十三の紋章が並ぶ巨大な円。その中で、自分の刻印に似た一つだけが黒く変色した。
そして――動かないはずの右手の指が動いた。
「……戻るのか?」
「ああ」
ケイムは迷いなく頷いた。
「このまま先へ進むより、一度確かめた方がいい。あの円と、この線が本当につながってるならね」
「道は大丈夫なのか?」
ドレイヴが、通路の前後を警戒した。
「さっきみてえに、また同じ場所へ戻されたりしねえだろうな」
「……保証はできないわ」
ディアナはそう答え、地図を広げた。
「でも、今度は通路の形だけを頼りにはしない。この線を追ってみる」
紙に記録した経路に、細い線を一本書き加える。
「仮に、ずらされていたのが私たちの認識だけなら……術式を流れる魔力まで、同じように変えられているとは限らない。少なくとも、確かめる価値はあるわ」
「じゃあ、決まりだね」
ケイムが魔法灯を少し先へ送り出した。
「ただし――今度は、誰も一人で人影を追わないこと」
そう言って、アレンを見る。
「……それ、俺に言ってるのか?」
「君以外に誰がいるのかな」
「もう追わないよ」
「うん。そうしてくれると助かる」
「……」
アレンは何か言い返しかけたものの、今度ばかりは自分でも反論できず、結局その言葉を飲み込んだ。
◇
戻る道では、誰も足元の線から目を離さなかった。
細い溝は壁際を進んだかと思えば、途中で石床を斜めに横切り、建物に見える巨大構造物の下へ潜り込む。そこから再び姿を現し、今度は橋の縁に沿って伸びていた。
以前なら、意味のない装飾にしか見えなかったものだ。
だが、一度「魔力の流れ」として意識すると、地下都市そのものの見え方が変わった。
これは道ではない。線だ。
橋は、離れた二つの区画をつなぐための接続部であり、塔は複数の流れが交差する場所に立っている。
建物に見えていた石造構造物にも、入口らしい入口はない。それどころか、壁の一部へ細い溝が入り込み、反対側から別の形となって出ている。
人のために造られた町ではない。
巨大な術式が、人間には町のように見える形をしているだけなのかもしれない。
アレンは歩きながら、少し前を行くディアナへ声をかけた。
「これ全部が、一つの術式だとしたら……どれくらいの規模になるんだ?」
「……比較できるものがないわ」
ディアナは歩みを止めない。
「今見えている部分だけでも、現代の大規模結界よりはるかに広い。でも……問題は、広さそのものじゃないの」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「これが本当に、一つの構造として成立しているなら……ってことよ」
ディアナは横にそびえる塔を見上げた。
「術式は、ただ大きくすればいいものじゃない。規模が増せば、それだけ誤差も大きくなる。経路が長ければ魔力の損失も出るし、構成要素が増えれば……たった一つの破損が、全体へ影響する可能性だってある」
「……なのに、こいつはまだ動いてる」
「ええ。そういうこと」
ディアナは淡々と答えた。その静かな言い方が、かえって事実の重さを際立たせた。
ここは町より古く、アレンの家よりもはるかに古い。造った者の名前さえ、まだ分からない。
それでも地下では、今なお魔力が流れている。
「なあ」
後ろを歩いていたドレイヴが、不意に口を開いた。
「こんだけでけえもん……いったい何のために造ったんだ?」
ディアナは答えず、代わりにケイムが前を向いたまま口を開いた。
「それを知るために、僕らはここまで来たんだよ」
「いや、そりゃ分かってるけどよ。町一個分だぞ? 普通じゃねえだろ」
「だからこそ、それだけのものを造る理由があったんだろうね」
「……その理由ってのが、嫌な予感しかしねえんだよ」
「奇遇だね。僕も同じだよ」
ドレイヴが眉をしかめた。
「だったら、もうちょい嫌そうな顔しろよ」
「顔に出したところで、何か変わる?」
「……ほんと腹立つな、あんた」
そんな二人のやり取りを聞きながらも、アレンは足元を走る線を追い続けていた。
どこかで見た気がする。
床を走る魔力経路と、複数のものが別々に存在しながら一つへつながっていく形。
その感覚が何なのか掴めないまま進んでいくと、やがて前方の空間が開けた。
そこは中央区画だった。
巨大な円が再び五人の前に現れ、その中には三十三個の紋章が並んでいる。
そのうち一つ――雷鳴の刻印に似た紋章だけが、今も黒ずんだ色を残していた。
「……戻れた」
マナが確かめるように呟くと、ディアナは地図を開き直し、印を書き込んだ。
「ええ。少なくとも今回は、記録した経路と一致してる」
「じゃあ……さっき俺たちが迷ったのは、何だったんだ?」
「それは、まだ分からないわ」
「また分からねえのかよ」
「分からないものを、分かったとは言えないでしょう」
「……そりゃ、そうなんだけどよ」
ドレイヴは納得しきれない顔で、がしがしと頭を掻いた。
アレンはそんな二人のやり取りを聞きながら、円の手前で足を止める。
前にここへ来たときは、三十三の紋章と、そこから中央へ伸びる線に意識を奪われていた。だが、今は違う。
「……ディアナ」
「何?」
「……あれ、見てくれ」
アレンは円の外周を指した。
「前に見た、中央へ伸びてる線とは別に……紋章の外側にも、線が伸びてないか?」
「……」
ディアナの動きがぴたりと止まり、彼女はその場にしゃがみ込んだ。ケイムも隣へ来る。
魔法灯が低く下げられ、石床を斜めから照らすと、それははっきりと姿を現した。
中央へ向かう既知の刻線とは反対側にも、紋章の下端から一本の細い溝が伸びている。
真正面へ数歩ほど進んだところで緩く曲がり、そのまま円の外側へ続いていた。
「……あるわね」
ディアナは刻線を見極めるように測定結晶を近づけると、結晶に淡い反応が浮かんだ。
「これ……さっき追ってきた線と同じなのか?」
「……待って。まだ分からない」
ディアナは立ち上がらず、確かめるようにそのまま隣の紋章へ移った。
そこにも一本、外側へ伸びる線がある。さらに隣の紋章にも、同じように続いていた。
「……こっちにもあるよ」
マナが反対側を指し、アレンたちは手分けして円の外周を確認していった。
一つ、二つ、三つ――数える必要もない。
すべてにある。
三十三個の紋章。その一つ一つから、それぞれ一本ずつ円の外側へ線が伸びていた。
線同士は円のすぐ外では交わらず、別々の経路を保ったまま、地下都市の各方向へ散っていく。
「待てよ」
ドレイヴが円の中央に立ち、ぐるりと周囲を見渡した。
「これ……全部、外側へばらばらに伸びてるぞ。さっき俺たちが追ってきたのは、一本だけだったよな?」
「そう見えていただけかもしれないね」
ケイムは魔法灯を高く掲げ、円の外側を照らした。
「外へ伸びる線はいくつもあって、そのうち一本だけを僕らが追ってきた……そう考えれば辻褄は合う」
光が中央区画の床を広く撫でると、それまで石の継ぎ目に紛れていた線が次々と浮かび上がった。
円から外へ伸びた線は、通路へ、橋へ、塔へと続き、いくつもの経路となって地下都市へ向かって放射状に広がっている。
そして奇妙なことに、見渡せる範囲の線は無秩序に散っていなかった。
遠くで曲がり、別の区画を通り、それぞれ異なる経路を辿りながら、どれも地下都市の奥側へ向きを変えている。
「……少なくとも、見えてるやつは全部、同じ方向だ」
アレンがそう言うと、ディアナは地図を床に広げた。
これまで記録してきた通路や塔、橋に、確認できた魔力経路を一本ずつ重ねていく。ケイムもその隣に膝をつき、地図の数か所を指先でなぞった。
「中央区画から伸びて……それぞれ別の構造物を経由してる。でも、向きは――」
指先が、ゆっくりと地図の下側へ移っていく。
「……この区画へ集まっていくように見えるね」
そこは、五人がまだ十分に調べていない区画だった。中央部よりもさらに低く、地下都市の形をした遺構の奥に位置していた。
「……最深部、ってこと?」
マナが小さく呟く。
「ええ。少なくとも……そう見えるわ」
ディアナは地図に指を置いたまま、静かに答えた。
三十三個の紋章から伸びた三十三本の線が、それぞれ別の経路を通りながら最深部へ向かっているように見える。
その光景を見つめているうちに、以前から引っかかっていた疑問が、アレンの中ではっきりと形を持ちはじめた。
「……これ、もしかして」
「うん?」
ケイムが応じる。
「アルカナリウムで見た、あの三十三と……やっぱり何か関係あるんじゃないか?」
一瞬だけケイムの表情が変わり、ディアナも手を止めた。
アレンは、そのまま続けた。
「黒い扉の前で見た、三十三の紋章。ここも三十三あって……しかも、その全部から線が伸びてる。見える範囲じゃ、どれも同じ奥へ向かってる」
「ああ」
ケイムは、ゆっくりと頷いた。
「そこまで重なるなら……関係している可能性は高いね」
ほんの一瞬だけ、ケイムの口元にいつもの笑みが戻ったが、すぐに消え、三十三の紋章を見据えた。
「アルカナリウムで見つかった記録から、僕とディアナは一つの仮説を立てたんだ。三十三の刻印は、それぞれが完全に独立した力じゃない。全部が、一つの巨大な封印術式に組み込まれているんじゃないかってね」
マナは静かに頷く。
「一つ一つの刻印が……鍵になってるかもしれない、ってこと?」
「そういうこと」
「……閉じるための?」
「いや。それだけとは限らない」
ケイムはひと呼吸置いた。
「閉じるための鍵なら――開けるためにも使える。その可能性はある」
地下の空気が、急に冷たくなったように感じられた。
アレンは三十三の紋章を見回す。
自分が持つ雷鳴の刻印と、どこかにいるほかの刻印者たち。それぞれが異なる力と、異なる呪縛を持っている。
そう聞かされても、アレンにはまだ、それらは三十三種類の別々の力に思えていた。
だが、もし最初から、何か一つを動かすために三十三に分けられたものだったとしたら――。
「じゃあ……ここが、その封印なのか?」
アレンが訊くと、ディアナはすぐには答えず、測定結晶を手に紋章の一つを調べ始めた。
次に、その紋章から伸びる線を確かめ、さらに隣へ移る。結晶の角度を変えながら、魔力の流れを何度も確認していった。
「数が同じってだけなら、まだ偶然とも考えられた。でも……これは形まで似てる。それに、接続構造もある」
ディアナの静かな声が、広い中央区画へ落ちる。
そう言って、ディアナは黒く変色した、雷鳴に似た紋章を見据えた。
「アルカナリウムの記録にあった構造と、完全に同じではないわ。でも、共通している部分が多すぎる。それに――」
ディアナは、そこから伸びる線の行方を追った。
「どの線も、遺構の最深部へ向かっているように見える」
アレンは何も言わず、その続きを待った。
ここまで一致しているのなら――。
「でも……まだ、これを刻印そのものだとは言い切れないわ」
「……どうして?」
マナが訊いた。
「形が完全には一致していないから。それに、この紋章が今の三十三の刻印より先に造られたものなのか、それとも後なのか……それすら、まだ分からない」
「前にも言ってたよな。もっと古い形なのかもしれねえって」
ドレイヴが、黒く変色した紋章へ目を向ける。
「ええ。でも、それも今は仮説にすぎない」
ディアナはそこで一度、言葉を切った。
「似ているから同じものだと決めつけたら、その瞬間から、同じだと証明できるものばかり探すようになる。……それは、もう調査じゃないわ」
「……相変わらず厳しいねぇ」
「ケイム先生が緩すぎるんです」
「僕も結論は同じなんだけどな」
そう言いながらも、ケイムの顔からは笑みが消えていた。
「ただ――僕らの仮説を、かなり強く支える材料なのは間違いない」
ケイムは円の中心へ歩み出る。
「もし、この地下遺構そのものが一つの巨大な術式なら……この広場は、その中継点かもしれない。三十三の系統を分配する場所か、あるいは逆に、一つへ集める場所」
足元の円を見下ろした。
「そういう機能があってもおかしくない」
「……封印の状態を管理する場所、とか?」
アレンが訊く。
「その可能性はあるね」
「鍵穴みたいな?」
「それも、あり得る」
アレンは少し眉を寄せた。
「……さっきから、可能性ばっかりだな」
「研究って、だいたいそういうものだよ」
ケイムは小さく肩をすくめる。
「分からないものを、無理に分かったことにしない。その方が……意外と正解には近づきやすいんだ」
アレンは答えず、もう一度、足元の円へ目を向けた。
答えが欲しかった。
自分の刻印が何なのか。なぜ黒い扉とつながるのか。なぜ故郷の地下に、こんなものがあるのか。そして、なぜ自分の家の真下から、すべてが始まったのか。
けれど、目の前に証拠らしきものが増えるほど、逆に疑問も増えていく。
三十三。封印。鍵。そして、最深部。
「……もう少し近くで見てもいいか?」
アレンが言った。
「どれを?」
「俺の刻印に似てるやつ」
その言葉に、マナがすぐ顔を上げた。
「……アレン」
「分かってる。触らない」
「……本当に?」
「触らないって。見るだけだ」
ケイムも、アレンの表情を確かめた。
「さっきみたいに、また指が勝手に動いたら?」
「そのときは、すぐ止まる」
「……ちゃんと止まれる?」
「……」
答える前に、アレンはほんの一瞬だけ考えた。
以前なら、迷わず「大丈夫だ」と言っていたかもしれない。だが、それは自分が大丈夫だと思いたいだけだ。
「……一人では近づかない」
アレンはそう言って、マナを見る。
「何か変だと思ったら……すぐ言ってくれ」
マナは一瞬、意外そうに目を瞬いたあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん。分かった」
アレンは続けて、ドレイヴを振り返った。
「お前も頼む」
「何をだよ」
「俺がおかしくなったら、すぐ引っ張ってくれ」
「言われなくても、そのつもりだ」
「……大剣で殴るのはなしだからな」
「そこはお前次第だな」
「殴る気じゃねえか」
「安心しろ。峰でやる」
「その剣、どっちが峰なんだよ」
「……知らん」
「おい」
堪えきれなかったように、マナがふっと笑った。ほんのわずかな笑いだったが、それだけでも張りつめた空気が少し和らぐ。
アレンは剣を鞘に収めたまま、一歩進んだ。
黒く変色した紋章まで、まだ十歩ほど。変化はない。
もう一歩進んでも、右手には何も感じなかった。
当然だ。そこには、そもそも感覚がない。
アレンは自分の足音を数えるように進んでいく。
七歩。六歩。五歩。
「……今のところ、魔力に変化はないよ」
マナがアレンの様子を確かめながら言う傍らで、ディアナも測定結晶から目を離さずにいた。
「外部からの反応も……今はないわ」
「……分かった」
アレンは短く答え、さらに一歩進んだ。
四歩。
三歩――そこで、ぱち、と何かが小さく弾けた。
アレンが足を止める。
「……今の」
「動かないで」
ディアナの声が飛んだ。
黒く変色していた紋章の縁には、紫とも黒ともつかない暗い雷光が細く生まれている。
その光は紋章そのものをなぞるように一周すると、そこから伸びる一本の溝へ流れ込んだ。
「……光った」
マナの声が掠れる。
三十三本のうち、光っているのは一本だけだった。雷鳴の刻印に似た紋章から伸びる線だ。
アレンは動いていない。刻印も、魔法も使っていない。
それなのに、線は確かに光っていた。
「アレン、刻印は?」
ディアナが訊く。
「使ってない」
「右腕は?」
「……いつもと違う感じはない」
「魔力を流した?」
「流してない」
マナもすぐに言う。
「アレンの魔力も、ほとんど動いてないよ」
「なら……遺構側の反応ね」
ディアナが低く呟く。
光は紋章から最深部へ向かって走ったものの、途中で止まった。
アレンはその様子を見つめながら、違和感を覚える。
何かがおかしい。
線は、本来なら奥へ向かうはずだ。先ほど確認した魔力の流れも、そうだった。
なのに今、光は逆へ戻ってくる。
「……ケイム」
「ああ。見えてる」
暗い雷光が石床の溝を戻り、紋章へと流れ込む。
そして――そこで止まらなかった。
「下がって!」
ディアナが叫ぶ。アレンは一歩退いた。
だが光は紋章の外へ出て、石に刻まれた溝すらない場所を這い始める。
細い雷光は、まるで暗闇の中で何かが道を探しているように一度左右へ揺れ――。
そのまま真っ直ぐ、アレンへ伸びた。
「アレン!」
マナがアレンの腕を掴み、ドレイヴも前へ出ようとする。
「待って」
ケイムが止めた。
「まだ触れてない」
「だからって――」
「僕も止められる位置にいる。アレン、動かないで」
「……分かった」
光が近づいてくる。
一歩、また一歩――いや、歩いているわけではない。ただの線であり光のはずだ。
それなのにアレンには、こちらへ這い寄ってくる生き物のように見えた。
足先まで、あとわずか。
そのとき、黒い手袋の中で、右手の人差し指がぴくりと動いた。
「……っ」
「アレン、指!」
マナが気づく。
前と同じだ。
アレンが命じたわけではなく、雷鳴の刻印も使っていない。それなのに、麻痺したはずの指が動く。
光はアレンの靴の先で止まった。触れてはいないが、そこから先へ進もうとするように、細かな稲妻が何度も枝分かれする。
右へ、左へ、そしてまた中央へ。
まるで、アレンの位置を確かめているようだった。
背中が冷たくなる。
怖い。
だが、逃げるより先に疑問が浮かんだ。
なぜ、自分だけなのか。
三十三あるというのに、反応するのは雷鳴に似た一つだけ。それも、自分が近づいたときだけだ。
前は、黒く変色した紋章へ近づいたとき、動かないはずの右手の指が動いた。
今度は、そこから伸びる線まで反応している。
「……俺を、探してるのか?」
誰に訊いたわけでもないが、言葉は自然に漏れた。
答える者はいない。地下遺構は沈黙したまま、ただ足元の光だけが脈打っている。
ケイムは、その線を見つめていた。
「それとも――」
そこで言葉を止めると、ケイムの眉間に、かすかな皺が寄った。
アレンがそちらを見るが、ケイムはすぐには続きを言わない。
そして――。
「……帰ってきた、と認識してるのかもしれないね」
アレンの喉が詰まり、マナの手にも力が入った。
ドレイヴは険しい顔で、ケイムを見つめている。
「……どういう意味だよ」
ケイムは線から目を離さなかった。
「今のは、可能性を口にしただけだよ。事実として言えるのは、遺構がアレンへ反応している――それだけだ」
ディアナも測定結晶を確認しながら頷く。
「刻印に反応しているのか。アレン本人に反応しているのか。それとも……アレンの中にある別の何かに反応しているのか。今の測定だけでは、まだ切り分けられないわ」
「別の……何か」
アレンは自分の右手へ目を落とした。
黒い扉。黒い雷。そして、刻印とは別に自分の中から検出された黒い反応。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「アレン」
マナの声がした。
「一回、離れよう」
アレンは足元の光を見つめながら、一瞬だけ、もっと近づけば何か分かるのではないかと思った。
触れれば。紋章の上へ立てば。あるいは――。
そこまで考えたところで、アレンは自分から一歩退いた。
「……ああ、分かった」
さらに一歩、自分の意思で距離を取った。
その瞬間、床の光が止まり、細い稲妻が一度だけ揺らいで、ふっと消える。
右手の指も同時に力を失い、元通り、何も動かない手に戻った。
「……消えた」
マナが足元を見たまま呟くと、ディアナはすぐに円へ近づいた。
「アレン、その位置から動かないで」
「分かった」
「今度は私が線を確認する」
彼女が同じ距離まで進んでも、何も起きない。
さらに紋章へ近づいてみるが、やはり無反応だった。続いてケイムも同じように進む。
それでも、線は暗いままだ。
「……やっぱりアレンか」
ドレイヴが低く言った。
「少なくとも、誰が近づいても起きる現象ではなさそうね」
ディアナは立ち上がる。
「でも、ここで何度も試すのは危険だわ」
「賛成だね」
ケイムも間を置かず同意した。
「デスリーチャーのこともある。今の反応が、どこまで地下へ伝わったか分からない」
アレンは紋章を見つめたまま訊いた。
「じゃあ……どうするんだ?」
「線を追う」
答えたのはディアナだった。
「ここで反応の意味を考え続けても、材料が足りない。まず、三十三本が何につながっているのかを確かめる」
「……最深部まで?」
「ええ」
その言葉に、五人はそろって同じ方向を見た。
三十三の線が集まるかもしれない場所――地下都市よりさらに深い、暗闇の底。
「……行こう」
アレンが先に言った。
「ここまで来て、線の先を見ないで戻るわけにはいかない」
マナが一度だけ彼の顔を確かめる。
「……無茶しない?」
「しない」
「勝手に触らない?」
「触らない」
横からケイムが口を挟む。
「僕からも聞いておこうかな」
「なんで二回確認するんだよ」
「大事なことだからだよ」
「……触らないって」
「よろしい」
アレンが呆れたように息をつく横で、ドレイヴは大剣を担ぎ直した。
「だったら、とっとと行こうぜ。こんなところで突っ立ってる方が気味悪い」
「珍しく意見が合ったな」
「珍しくは余計だ」
五人は円を離れ、地図と床の線を照らし合わせながら、最深部と見られる区画へ向かった。
◇
下へ進むほど、地下都市は町らしさを失っていった。
道が狭くなったわけではない。むしろ広い。だが、建物に見えていた構造物は減り、その代わりに円柱や石壁、何層にも重なる環状の構造が増えていく。
中央区画で各方向へ散っていた線も、最深部へ近づくにつれて、別方向から伸びてきた線が一本、また一本と加わり、次第に互いの距離を縮めていた。だが、まだ一本にはならず、交わりもしない。
それぞれが独立したまま、同じ場所を目指している。
「……変だな」
アレンが言った。
「ん? 何が?」
マナが隣で訊く。
「同じ場所へ行くなら、一本にまとめた方が簡単じゃないのか?」
前を歩いていたディアナが振り返る。
「何を目的にしているかによるわ」
「でも、結局は同じ場所につながってるんだろ?」
「だからこそ、分けている可能性もある」
「どういうこと?」
「たとえば、一つの経路が壊れても、ほかに影響を出さないため。あるいは、それぞれを別々に管理する必要があるから」
「三十三個の鍵を……別々に?」
「もし鍵という仮説が正しければ、ね」
最後の言葉を、ディアナは強調した。
断定しない。この地下へ来てから、彼女は何度もそうしている。
それが慎重すぎるように感じることもあったが、今のアレンには、その慎重さが必要なものだと分かる。
自分は答えを急ぎすぎる。
黒い反応があれば自分との関係を考え、家の地下から人影が出れば、それが襲撃につながったのではないかと思う。遺構が反応すれば、自分が何かの鍵なのではないかと考える。
全部、あり得る。
けれど、あり得ることと、本当にそうだったことは違う。
しばらく進むと、先頭のケイムが片手を上げた。
「止まって」
全員が足を止めた。
正面には幅の広い下り坂があり、その先で三十三本の線が一斉に沈み込んでいる。
ケイムが魔法灯を送り込むと、淡い光は坂を下り、やがて広い空間を照らし出した。
そこは、円形の石室だった。
これまで見てきた中央区画より小さい。だが、その壁面には無数の術式が何重にも重ねて刻まれている。
床から入った三十三本の線は石室の外周を回り、壁面の術式に一本ずつ接続していた。そこからさらに上へ、あるいは下へといくつもの層を経て、最後には正面の巨大な石壁を囲む環状の術式へつながっている。
「……封印」
ディアナが呟いたが、その声には珍しく迷いがなかった。
「分かるのか?」
「全部は読めない。でも……機能なら、ある程度は」
彼女はゆっくり石室へ入る。
「起点が多すぎる。構文も現代のものとは違う。でも、閉じるための構造がある。内と外を隔てて、内部の状態を固定する術式よ」
アレンたちも慎重にあとへ続き、ドレイヴは正面の石壁を見上げた。
「ってことは……この向こうに、何かあるのか?」
「その可能性は高いわ」
「開けられるのか?」
「開けられるとしても、開けない」
「……分かったよ」
ケイムも小さく頷いた。
「そこは僕も賛成かな。今のところ、開ける理由が一つもない」
そんな声を背に、ディアナはすでに作業へ入っていた。
床に膝をつき、測定結晶を一つ置く。続けて、小さな補助結晶を二つ並べた。
大きな魔力は流さない。地下にいるデスリーチャーに自分たちの位置を知らせないためだ。
その代わり、極めて弱い魔力を術式の表面だけに触れさせ、返ってくる反応を拾っていく。
「時間、かかる?」
マナが訊く。
「少しだけ」
ディアナは短く答えた。
「全体を読む必要はないわ。三十三本が、見た目どおり同じ封印術式へ接続されているか……今は、それだけ確認する」
アレンは少し離れた場所に立ったまま、正面の石壁を見つめた。
ここが終点なのか。それとも、さらに先があるのか。
三十三本の線はすべてここへ集まり、正確には、同じ封印らしき構造に接続されているように見える。
雷鳴に似た一本も、アレンへ伸びてきたあの線も。
もし自分の刻印が本当にこの封印の一部なら、自分が力を使うたび、ここでも何かが起こっているのか。
呪縛が進むたび。刻印者が死ぬたび。あるいは、刻印が誰かへ継承されるたび。
「……ケイム」
「うん?」
「刻印って、人から人へ渡るんだよな」
「多くはね」
「だったら……もし本当にこれとつながってるなら、刻印者が変わっても、封印とのつながりは残るのか?」
ケイムは少し考えてから口を開いた。
「……いい質問だね」
「答えは?」
「分からない」
「……だよな」
「でも、その疑問は覚えておいた方がいい」
ケイムは三十三本の線を見回す。
「刻印者本人が鍵なのか、それとも刻印そのものが鍵なのか。それだけでも、意味は大きく変わる」
「じゃあ……俺じゃなくて、雷鳴の刻印が反応してるだけかもしれない」
「そう」
「でも、俺自身に反応してる可能性もある」
「そういうことだね」
「……全然絞れないな」
「だから面白いんじゃない」
「俺は全然面白くない」
「それはそうだろうねぇ」
ケイムが苦笑した。
そのとき、測定結晶の中で小さな硬質音が鳴った。
かち。
四人の注意が一斉にディアナに集まったが、彼女は動かない。測定結晶を見つめたまま、片手だけを上げた。
「……静かに」
声が低く、アレンは左手を剣の柄に置く。ドレイヴも大剣を構え直し、マナが杖を握った。
だが、敵の気配はない。ディアナが見ているのは、封印そのものだった。
「……ケイム先生」
「何が出た?」
「ここです」
ディアナが杖先を正面の環状術式へ向けた。
「この部分だけ、反応が違う」
ケイムが隣にしゃがむ。
「劣化かな?」
「最初は、私もそう思いました」
測定結晶の中には細い光が何層も浮かんでいたが、その一部だけが途切れていた。
「でも……おかしい」
「どこが?」
アレンは近づきすぎない位置から訊くと、ディアナは術式の一角を指した。
「周囲を見て」
石は古く、角は摩耗し、細かな傷もある。刻まれた術式も、一部は薄くなっていた。
だが、ディアナが指した場所だけは違う。
一本の線が途中で不自然に途切れている。壊れたというより、切られていた。
「古いものが自然に劣化するなら、こんな壊れ方にはならないわ」
ディアナの指が、線の端を追う。
「魔力経路そのものが擦り減って、周囲の構文も一緒に崩れていく。少しずつ反応が弱くなって……最後に切れる」
「これは違うのか?」
「ええ」
彼女は測定結晶を置き直す。
「周囲は生きてる。この部分だけが、選ばれて解除されてる」
石室から音が消え、アレンは封印へ目を向けた。
「……解除?」
「封止の部分だけが外されている」
ディアナの声が、さらに低くなる。
「無理に壊したんじゃない。術式の構造を理解したうえで、必要な箇所だけを選んで解いた痕跡よ」
「じゃあ……誰かが開けたってことか?」
ドレイヴが訊いた。
「少なくとも、一度ここに干渉した誰かがいる」
「いつだ?」
その問いに、ディアナは測定結晶を再び確認した。
長い沈黙の中、ディアナは結晶を回し、別の角度から魔力を流しながら、途切れた経路の両端と周囲の劣化した術式を何度も見比べていく。
やがて、彼女の表情がかすかに強張った。
けれど、アレンには分かった。
これは、予想していなかったものを見つけた顔だ。
「……ディアナ?」
「……古くないわ」
「何が?」
「この破損よ」
彼女は顔を上げた。
「この遺構が造られた時代から残ってる傷じゃない。自然劣化でもない」
「じゃあ……」
マナの声が小さくなる。
ディアナは一度だけ息を整えた。
「正確な時期までは出せない。でも……周囲の劣化と比べて、この破損だけが明らかに新しい」
誰も動かなかった。
「かなり最近、誰かの手で解除された可能性が高いわ」
アレンは正面の封印から目を離せなかった。
さっきまで、それは何百年、何千年と人の手から忘れられていたものに見えていた。
少なくとも、自分はこの地下の存在すら知らなかった。十八年暮らした家の下に入口があったことさえ、知らなかったのだ。
なのに――。
「……誰かが、ここに来た?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
襲撃三日前、家の地下から上ってきた人影。その姿が頭をよぎる。
だがアレンは、すぐにその考えへ飛びつかなかった。
見せられたものと、起きたことは別だ。
ケイムに言われた言葉が、まだ頭に残っている。
「……さっき見たやつと、同じだって決まったわけじゃない」
アレンは自分に言い聞かせるように口にすると、ケイムは一瞬アレンを見つめ返し、静かに頷いた。
「ああ。その通りだよ」
「でも……」
アレンは封印へ向き直った。
「こっちは……幻じゃない」
「ええ」
答えたディアナの声には、迷いがなかった。
「これは、ここに残っている痕跡よ」
ドレイヴが大剣の柄を握り直す。
「つまりよ……俺たちが初めて見つけたと思ってた場所に、俺たちより先に入ったやつがいるってことか」
「……そうなるね」
今度のケイムは笑わなかった。
魔法灯の白い光が、破損した封印を照らしている。
古代の傷ではなく、偶然でもない。構造を理解した者が、意図して封止の一部を解除した痕跡だ。
アレンはゆっくりと、その先にある暗い石壁を見上げた。
壁の向こうに何があるのかは分からない。三十三の刻印と、この遺構が本当に何なのかも、まだ分からない。
けれど、一つだけ、今度は幻影でも推測でもない事実が残っていた。
この地下には――アレンたちより先に、誰かが来ていた。




