第44話『名前のない街』
動かないはずの指が、確かに動いた。
黒い手袋の中で、右手の人差し指が何かに引かれたようにわずかに震え、すぐに力を失った。
アレンは中央区画の石床に刻まれた紋章から、一歩退く。
三十三ある紋章のうち、雷鳴の刻印に似た一つだけが黒く変色している。
それが黒く変わったのも、麻痺した指が動いたのも――アレンが近づいた、その瞬間だった。
アレンは息を止め、自分の指先を見つめる。
「……今、動いたよな?」
確かめるように呟くと、すぐ隣にいたマナも右手から目を離さないまま、小さく頷いた。
「うん……動いた。指がちゃんと」
けれど、その声に喜びはなかった。
以前なら、動かなかった右手がわずかでも動けば、それだけで希望になったかもしれない。だが今は違う。
アレン自身が命じたのではない。目の前の紋章に、動かされたようにしか見えなかった。
ディアナは測定結晶を紋章へ向けたまま、その表面に浮かぶ反応を追っている。
「刻印を使った反応は出ていないわ。アレン自身の魔力も……少なくとも、今のところ大きな変化はない」
「だったら、なんで手が動いたんだよ?」
ドレイヴが黒い紋章を睨みながら訊いた。
「分からない」
ディアナは迷わず答えた。
「だからこそ、これ以上は近づかない方がいいわ。少なくとも……今は」
「僕も賛成だね」
ケイムは黒く変色した紋章を見下ろした。
「調べるべきものが増えたなら、なおさら順番は崩さない方がいい。ここに居続けて、またデスリーチャーを呼び寄せる方が……よほど厄介だよ」
アレンは何も言わず、右手を左手で押さえた。
指はもう動いておらず、いつも通り感覚もなければ、力も入らない。
それなのに、先ほどのわずかな動きだけが、皮膚の内側に残っているような錯覚があった。
「……行こう」
アレンは、黒い紋章から目を離した。
「ここで睨んでたって、分からないものは分からないだろ」
隣で、ドレイヴが横目を向ける。
「……お前、ほんとに平気なんだろうな?」
「平気じゃなかったら、ちゃんと言う」
ドレイヴはその顔をじっと見たあと、短く息を吐く。
「なら、いい」
ドレイヴがそれ以上は追及せず、大剣を肩に担ぎ直すと、五人は中央区画を離れ、地下都市のさらに奥へ向かった。
◇
人が住んでいた町なら、歩けば何かしらの痕跡がある。
道には轍が残り、壁には看板が掛かる。家には扉や窓があり、その中には誰かが使った家具がある。
だが、この地下の町には何もなかった。
あるのは石造りの道と、建物に見える巨大な構造物。塔や橋、水の流れていない溝まであるというのに、生活の気配だけがない。
そんな静寂の中、五人の足音が異様なほど遠くまで響いていく。
ケイムの魔法灯は、必要最低限の明るさに抑えられていた。デスリーチャーは音だけではなく魔力にも反応するため、特に大きな魔力を動かせば、自分たちの居場所を地下中へ知らせるようなものだ。
だから、灯りすら強くできない。
十数歩先まで伸びた薄い光の外は、すべて闇だった。
アレンは左手で剣の柄を握りながら、その闇を何度も探った。
「……右だ」
先頭を歩くケイムが足を緩め、分岐を見比べて小さく告げた。
通路は二つに分かれており、片方は緩やかに下り、もう片方はほぼ水平のまま奥へ続いている。
ディアナは足元へしゃがみ込み、紙の上へ新たな線を書き加えた。
「中央区画から数えて、五つ目の分岐ね。そこを右」
「……よく分かるな。俺にはもう、どこも同じに見えるぞ」
ドレイヴが横から地図を覗き込む。
紙の上には、これまで通った道が細かな線で書き込まれていた。曲がり角や橋、塔、幅の狭い通路に加え、特徴のある構造物の位置まで、一つずつ印がつけられている。
「描いておかないと、戻れなくなるでしょう?」
「戻るだけなら、来た道をそのまま逆に歩きゃいいんじゃねえのか?」
ディアナの鉛筆が、ぴたりと止まった。
「……この場所でも、それが通用するって保証はないわ」
「おい。さらっと嫌なこと言うなよ」
「嫌でも、考えないよりはましでしょう?」
「そういうこと平然と言うから怖えんだよ、お前。怪物より怖いときあるぞ」
「そう。褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてねえよ」
小声で言い合う二人の声を聞きながら、アレンは通路の奥を見た。
少なくとも、灯りの届く範囲には何もいない。
それなのに、さっきから妙な感覚が消えなかった。
誰かに見られている――そんなありきたりな表現が、これほど具体的な感触になるとは思わなかった。
感じるのは、背中でも首筋でもない。もっと内側だ。
頭の後ろから、自分が何を見ているのかまで覗かれているような――。
「アレン?」
マナの声に呼ばれ、アレンははっと意識を戻した。
「……ん? 何だ?」
「急に止まったから」
「ああ……悪い」
マナは少しだけ通路の奥へ目をやる。
「何か見えたの?」
「いや……何も」
そう答えてから、アレンはもう一度、闇の奥を探った。
少なくとも、今は何も見えていない。
だが、それだけで「何もない」と決めつける気にはなれなかった。
五人が右の通路を選び、そのまま百歩ほど進むと、左右の壁が徐々に狭くなっていった。さらに先では、通路が大きく左へ曲がっている。
ドレイヴが曲がり角の石壁へ剣先を当て、浅く一本の傷をつけた。
ぎ、と石を削る音が響き、ディアナがすぐに振り返った。
「……音、響いてるわ」
「これくらいなら平気だろ。それに、目印はあった方がいい」
「……次からは、もう少し静かにして」
「分かったって」
ドレイヴは刻んだ傷の横を指で軽く叩いた。
「でも、これならさすがに見間違えねえだろ」
一本の縦傷と、その下に短い横傷を加えただけの簡単な印だった。
そこから左へ曲がり、さらに右へ。階段を下り、細い橋を渡る。
橋の下には、黒い石で囲まれた空の溝だけが続いていた。
その先で、道は三つへ分かれていた。
「今度は、どっちだ?」
アレンが三つに分かれた通路を見ながら訊くと、ケイムは足を止め、それぞれの道を順に見比べた。
「左は少し下ってる。中央は、このまま奥までまっすぐ。右は……塔の裏側へ回り込む形だね」
「だったら、中央が一番分かりやすそうだね」
マナが通路の先を覗き込みながら言う。
「ええ。その方が、地図にも残しやすいわ」
ディアナも紙へ目を落として小さく頷き、五人は中央の通路を進んだ。
しばらくすると、通路は再び左へ曲がる。
そして――。
ドレイヴの歩みが、ぴたりと止まった。
「……おい、ちょっと待て」
前を歩いていたアレンも、その声より先に気づいていた。
左側の壁に、一本の縦傷と、その下に短い横傷が刻まれている。
さきほどドレイヴがつけた印だった。
誰も動かなかった。
「……これ、似た傷ってだけじゃないの?」
マナが壁の傷とドレイヴを見比べながら小さく言うと、ドレイヴは答えず、壁へ近づいた。
指先で傷をなぞる。剣先が入りすぎた上端に、横へ滑った細い削れ。そして、その下には削りたての白い石粉が残っていた。
「……俺がつけた傷だ」
ドレイヴの声が、低く沈んだ。
「見間違えるわけねえ。間違いなく、これだ」
アレンはゆっくりと背後を振り返った。
そこには、今しがた自分たちが歩いてきた通路が続いている。
階段を下り、橋を渡り、三叉路では中央を選んだ。
それなのに、自分たちはここへ戻ってきている。
「地図を見せてくれるかい」
ケイムに言われ、ディアナはすぐに紙を広げた。
魔法灯の光がその上へ落ちる中、彼女の指がこれまで描いてきた経路を逆に辿っていく。
「……おかしい。合わないわ」
「どこが?」
「……全部よ」
ディアナの声が、わずかに硬くなった。
「この印をつけたのは、ここ」
紙の一点を指す。
「そのあと左へ曲がって、階段を下りた。それから橋を渡って、三叉路はまっすぐ。そこから、もう一度左へ曲がってる」
鉛筆の先が、一本ずつ経路をなぞっていく。
「この経路が正しいなら、ここへ戻ってくるまでに二度は来た道を横切るはずなの。でも……そんな交差点、一つもなかった」
「……地図、描き間違えたんじゃねえのか?」
「分岐のたびに確認してるわ」
「じゃあ、俺たちがどっかで曲がる場所を間違えたとか――」
「五人全員が?」
「……」
ドレイヴはそれ以上何も言わず、ケイムは印の残る壁とディアナの地図を交互に見比べた。
「……考えられるのは、二つかな」
「道そのものが動いたか」
アレンが先に言う。
「うん。それが一つ」
「じゃあ……もう一つは?」
ケイムはすぐには答えず、そのわずかな間が、答えを聞くよりも嫌だった。
「……私たちが見ているもの、そのものが正しいとは限らない」
低い声が地下の暗闇へ吸い込まれていく中、マナが不安げにアレンの横顔を窺った。
「認識が正しくないって……どういうこと?」
「たとえば、実際には別の道を歩いていたのに、俺たち全員が同じ道を歩いたと思い込まされてる……とか。見えてる曲がり角そのものが、本当とは違うとか」
「……精神干渉?」
ディアナが測定結晶を持ち上げ、その反応を確かめる。
「可能性はあるわ。ただ、まだ断定はできない。少なくとも今のところ、はっきりした精神魔法の術式反応は出ていない」
「じゃあ……本当に道が動いてる可能性も残ってんのか?」
ドレイヴが周囲の壁を睨んだ。
「こんなでかい石の町が、丸ごと?」
「普通なら、ありえないでしょうね」
「でも、ここ……普通の場所じゃねえだろ」
ディアナは一拍置き、無言で壁を見やった。
「……それも、そうね」
アレンは黙ったまま、ディアナの地図を見つめた。
紙の上では、道があり得ない形で折れ曲がっている。
もし町が動いているのなら、何の音も立てずに、これほど巨大な構造が組み替わっていることになる。
逆に、町そのものが動いていないのなら、自分たち五人の誰一人も、それに気づかないまま歩かされていたことになる。
どちらがましかと考えても、答えは出なかった。
「……一度、戻ってみるか?」
アレンが地図から顔を上げた。
「中央区画まで戻って、そこから別の道を選び直す」
「……戻れるなら、それが一番だね」
ケイムはそう言って地図を静かに畳んだが、その言葉に誰も冗談を返さなかった。
戻れるなら――そんな条件が必要な場所になっていた。
◇
帰り道では、誰もほとんど口を開かなかった。
行きと同じ場所を通っている。そう思うものの、それを確信する方法がない。
壁の模様が少し違うようにも見えれば、さっきより天井が低い気もする。橋までの距離さえ、長くなっているような――。
気にし始めると、すべてが疑わしくなる。
アレンは自分の歩数を数えていた。
四十七。四十八。四十九。五十。
そこで、曲がり角に差しかかる。
さっきは、ここまで六十歩以上あった気がする。
いや――本当にそうだったか?
数えていなかったのなら、記憶に意味はない。
そう考えたとき――。
通路の先。ケイムの魔法灯が届く、そのさらに向こう。
闇と光の境目に――誰かが立っていた。
アレンの足が止まる。
人だった。少なくとも、細い肩と手足を持つ人の形をしている。
こちらへ背を向けていた。
「……誰だ、あれ」
思わず声が漏れると、前を歩いていたケイムが足を止め、振り返った。
「……何か見えた?」
「あそこだ」
アレンは通路の先に立つ人影を指した。
「誰か……いる」
その一言で、全員の視線が同じ場所へ集まった。
沈黙の中、マナが目を凝らす。
「……どこ?」
「正面。灯りの外だ。少し左」
「……何も見えないよ」
「いる。今、そこに――」
人影はゆっくりと右を向くと、そのまま通路の角へ消えていった。
「待て!」
アレンは反射的に走り出した。
「アレン、待って!」
背後から、マナの声が追いかけてきた。
声は聞こえていた。止まるべきだとも分かっていた。
それでも、足は止まらなかった。
誰だ。なぜ、自分にだけ見える。
そして何より――あの背中を、知っている気がした。
角まで十数歩。アレンは剣を握ったまま駆け、壁へ手をつくようにして曲がった。
だが、そこに人影はいなかった。
「……どこ行った」
一歩踏み出した途端――。
石床を踏んだはずの靴底に返ってきたのは、沈み込むような柔らかな土の感触だった。
「……え?」
アレンは自分の足元を見下ろした。
同時に、鼻をかすめる匂いまで変わっていた。
地下の乾いた石の匂いではない。草と湿った土、薪を燃やす煙。そして、どこかの家から漂う夕食の匂い。
頭上からは鳥の鳴き声が聞こえる。
アレンは、信じられない思いで顔を上げた。
そこには、夕焼けに染まった空があった。
その下に広がるのは、町だった。
崩れていない家。焼けていない屋根。人が歩く道には荷車が行き交い、商店が並び、そのさらに遠くには鐘楼が見える。
「……グリムフォード?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
背後を振り返ると、地下通路は消えていた。
ケイムもディアナも、マナもドレイヴもいない。
「……おい。どこだよ」
返事の代わりに、遠くで鐘が鳴った。
何度も学校帰りに聞いた鐘の音だった。
音を追うと、魔法学校の門からは生徒たちが笑いながら出てきていた。
今日の試験がどうだった。あの問題は難しかった。明日は何が出る。
そんな、どうでもいい話だった。
どうでもよくて、もう二度と聞けないと思っていた話。
その生徒たちの中に、見覚えのある三人がいた。
アレンは立ち尽くした。
「……俺、なのか?」
声が、かすかに震えた。
そこに立っていたのは――間違いなく、自分だった。
軍服ではなく、黒い手袋もしていない。魔法学校の制服を着た、少し前の自分だ。
右手には何の紋章もなく、指も普通に動いている。その手で鞄を持ち、面倒そうな顔をして歩いていた。
その横にはマナがいて、さらに隣にはドレイヴもいた。
「だから俺、最初から言ってただろ。あの問題、絶対おかしいって」
ドレイヴが、納得いかないとばかりに両手を広げる。
「問題がおかしいんじゃなくて、ドレイヴが勉強してないだけでしょ」
「したって。ちゃんと」
「昨日、アレンの家にいたよね?」
「いたよ。勉強しに行ったんだからな」
過去のアレンが、呆れたように口を挟む。
「お前、途中からずっと寝てただろ」
「あれは寝てねえ。集中するために目閉じてただけだ」
「寝息まで立てて?」
マナが堪えきれずに笑う。
「……集中してたんだよ」
「どんな集中だよ、それ」
三人は笑いながら、そのまま歩いていった。
アレンは声もなく、その姿を見つめていた。
確かに、こんな日があった。
三人で学校から帰り、試験の話をした。細かな言葉まで同じだったかは覚えていない。
それでも、この光景そのものには覚えがある。
「……これ、いつの記憶だ?」
アレンは呟き、校門脇の掲示板を見た。
そこには試験日程が貼られており、その日付を目にした瞬間、背筋が冷えた。
「……三日前だ」
グリムフォードが襲われる、その三日前――黒い反応が最初に記録された日。
アレンは、遠ざかっていく過去の三人を追った。
「……待て」
思わず声をかけたが、誰も振り返らなかった。
「おい、待ってくれ!」
アレンは足を速め、過去の自分の肩へ手を伸ばした。
だが、その指はすり抜けた。水面へ手を入れたように輪郭だけが揺らぎ、それでも三人は何事もなかったかのように歩き続ける。
これは現実ではない。少なくとも、今の自分がそこにいるわけではない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥だけが、あの頃へ引き戻されていく。
まだ町があり、学校があった。明日の試験の方が、世界の終わりより重要だった頃だ。
やがて景色が滲み、夕焼けが暗くなっていく。人の声も遠ざかり、次にアレンが立っていたのは町外れだった。
夜の畑。
そして――家。
壊れていない、自分の家だった。
窓には明かりがあり、二階の自室にも灯りが灯っていた。
「……俺の、家だ」
そう呟いたときには、もう足が勝手にそちらへ向かっていた。
懐かしい扉に、雨に濡れていない壁。玄関脇に積まれた薪も、何度も見たものばかりだった。
だが、何かがおかしい。
アレンは立ち止まった。
地面の奥から――微かな光が漏れている。
黒い光。
光という言葉とは矛盾している。それでも、そうとしか表現できなかった。
夜より深い黒が、地面の下で弱く脈打っている。
一度。また一度。
まるで、眠っている何かの鼓動のようだった。
「……これが、あの反応なのか?」
そう呟くなり、アレンは家へ駆け寄り、床の下を覗こうとした。
だが途端に、視界が歪んだ。
家が伸び、畑が崩れ、夜空が黒い水のように頭上から落ちてくる。
「待て――!」
崩れていく家をつなぎ止めるように、アレンは手を伸ばした。
「アレン!」
背後から肩を強く掴まれた瞬間、景色が砕けた。
◇
「――っ!」
アレンは大きく息を吸った。
目の前にはマナの顔があり、その向こうには石壁と魔法灯、そして地下通路が広がっている。
身体は、冷たい汗に濡れていた。
「アレン。……聞こえる?」
「……マナ?」
「うん。わたしだよ」
マナはアレンの肩を掴んだまま、逃がさないように顔を覗き込んでいる。
「アレン、自分の名前、言える?」
「……アレン。アレン・ライオネット」
「うん。じゃあ……ここがどこか、分かる?」
答えようとして、アレンの喉が詰まった。
グリムフォード――そう言いそうになった。
「……地下。グリムフォードの地下だ」
答えを聞いて、マナはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「呼吸は? 苦しくない?」
「大丈夫だ」
「右手は?」
アレンは自分の右腕へ目を落とした。
そこには黒い手袋と、力の入らない指先がある。
「……いつもと同じ。変わってない」
「そう……。でも、まだ無理に立たないで」
「いや、平気だ」
そう言いながら、アレンは壁へ手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
数歩離れた場所ではケイムとディアナが周囲を警戒し、ドレイヴも大剣を抜いたまま通路の奥を警戒している。
「俺……どのくらい、止まってた?」
「十秒も経ってないわ」
ディアナが答えた。
「急に走り出して、角を曲がったところで立ち止まったの。そのまま……何もない壁を、ずっと見てた」
「……何もない?」
「ええ。少なくとも、私たちにはそう見えた」
アレンは黙ったまま、さっきまで家があったはずの石壁を見た。
そこにあるのは、ただの石壁だった。
グリムフォードも、学校も、家もない。
そして、あの黒い光も。
「俺には……見えてた」
ドレイヴが振り向いた。
「何が見えた?」
「グリムフォードだ」
四人の表情が変わる。
「壊れる前の町だった。俺たちが、まだ学校にいた頃の」
「俺たちって……?」
「ああ。俺とマナ、それにお前だ」
アレンはそこで一度言葉を切った。
口にするたび、さっきまで見ていた光景が、本当にあった記憶の中へ入り込んでくるような感覚がした。
「……襲撃の三日前だった」
ケイムの目がわずかに細くなった。
「三日前だって、どうして分かった?」
「学校の掲示板に日付が出てた。それに……俺も、まだ試験を受けてた」
アレンは無意識に左手を握る。
「それから……場面が変わった。夜になって、俺の家が見えた」
そこまで言うと、声が自然に低くなった。
「家の地下から……黒い光が出てたんだ」
マナが何かを言いかけ――そのまま、言葉を飲み込んだ。
誰もが、その言葉の意味を理解していた。
「これ……本当にあったことなのか?」
アレンは答えを求めるようにケイムを見たが、彼はすぐには答えなかった。
その顔に、いつもの軽い笑みはなかった。
「見せられたものと、実際に起きたことは……まだ分けて考えた方がいい」
「でも、襲撃の三日前だったことも、家の地下だったことも合ってる」
「ああ。そこは合ってる」
「だったら――」
「だからこそ、だよ」
ケイムの声は穏やかなままだった。
「君は、その二つをもう知ってる。グリムフォードで最初に黒い反応が記録されたのが襲撃の三日前だったことも、反応の中心が君の家だったことも、ルミノヴァで聞いている」
「……じゃあ、俺が知ってることから作られたってことか?」
「その可能性はある」
「……本当に見た可能性もある?」
「もちろん」
ケイムは迷わず答えた。
「本当に過去の何かを見せられた可能性もある。でもね、否定できないことと、事実だと証明されたことは別だよ」
ディアナも小さく頷いた。
「精神への干渉なら、本人の記憶や知識を材料にする方が自然よ。学校での会話は本当の記憶かもしれないし、そこへ細部だけ足されたのかもしれない。……今は区別できないわ」
アレンは何も返さなかった。
さっきまで、確かにそこには家があり、黒い光もあった。
見た――それだけは、自信を持って言える。
しかし、見たからといって、それが事実なのか。
その問いには、答えられなかった。
「……くそ」
アレンが低く吐き捨てた、その直後だった。
頭上で何かが擦れる。
ぞる――。
聞き覚えのある音だった。
「下がれ、アレン!」
ドレイヴの声が飛ぶのと、ほとんど同時だった。
闇の奥から黒い触手が叩き落とされ、その狙いは迷いなく、真っ直ぐアレンへ向いていた。
「っ……!」
避けようとしたが、幻影から戻ったばかりの身体は反応しきらず、足もまだ地面を正しく捉えられていなかった。
黒い触手の先端が胸へ迫る。
その間へ、大剣が滑り込んだ。
ガンッ――!
硬い衝撃音とともに、ドレイヴが踏み込み、大剣の腹で黒い触手を受け止める。
「ぼさっとしてんな、アレン!」
「分かってる!」
アレンは弾かれるように後ろへ跳び、左手で剣を抜いた。
頭上――通路の天井と壁の境目に、黒い塊が張りついている。
眼球はなく、代わりに裂け目のような口があり、そこから何本もの触手が伸びていた。
「デスリーチャー!」
ディアナが叫ぶと同時に、怪物が天井から身を落とすように垂れ下がった。
幅の狭い通路いっぱいに黒い身体が広がり、逃げ場を塞ぐ。
「後ろにも来るぞ!」
ケイムの警告と同時に、一本の長い触手がアレンたちの頭上を越え、背後へ回り込んで壁を叩いた。
石片が飛び散る。続けて別の一本が、後方から薙ぐように迫る。
前には本体。背後には回り込んだ触手。
狭い通路の両側から、同じ怪物が彼らを挟み込もうとしていた。
「ドレイヴ!」
「分かってる、任せろ!」
言葉を交わすより早く、二人はほとんど同時に背中を合わせた。
アレンが前を、ドレイヴが後ろを向き、互いの背中が触れる。
それだけで、背後を見る必要はなくなった。
「前、三本来る!」
「こっちは二本だ!」
「一気に来るぞ!」
アレンは左手で剣を構え直した。
魔法を放てば、さらに別の個体へ場所を知らせる可能性がある。
一本目の触手が右から迫り、アレンは身体を半歩ずらして剣を斜めに振り上げた。
刃は黒い表皮へ食い込んだが、切断するまでには至らない。
「硬い……!」
二本目は低く、膝を狙って迫ってくる。
アレンは上体を引きながら狙われた脚を引いた。
触手が床を打ち、石が砕ける。
その隙を狙って剣を根元へ突き込むと、ぐち、と嫌な感触が伝わり、触手が激しく跳ねた。
「そっち行ったぞ!」
ドレイヴの怒鳴り声が、背中越しに届く。
「見えてる!」
アレンは振り返らず、背中越しに聞こえる声だけで位置を読む。
一本の触手が肩越しに現れると、アレンは剣を立てた。
触手は刃へぶつかってそのまま横へ滑り、黒い先端が頬のすぐ横を通り抜けた。
「近えって!」
「そっちから寄ってきたんだろ!」
「文句はあとにしろ!」
ドレイヴがそう吐き捨て、大剣を横薙ぎに振るった。
狭い通路では大きく振り回せないため、柄を短く持ち、押し斬るように触手を壁へ叩きつける。
一本が潰れ、怪物の口から耳障りな擦過音が響いた。
魔法灯が揺れる。
その明滅と同時に――アレンの視界の端へ、夕焼けが差し込んだ。
魔法学校。
過去の自分。
「……っ」
ほんの一瞬、それだけだった。
だが、その一瞬で剣が遅れ、正面から触手が伸びてきた。
「アレン、下がって!」
マナがすぐに杖を向ける。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
詠唱と同時に、細い水の針が鋭く走った。
大きな魔力ではなく、一点だけを穿つ小規模な攻撃魔法だ。
水針はアレンへ迫っていた触手の側面を正確に打ち抜き、その軌道を逸らした。
触手はそのまま壁へ突き刺さる。
「今だよ、アレン!」
「ああ、分かってる!」
アレンはその声に合わせるように、一気に踏み込んだ。
左手一本で剣を振り下ろし、先ほどマナが穿った箇所へ刃を重ねる。
一度では切れず、二度目で黒い体液が石床へ飛び散った。
三度目で、ついに触手が落ち、怪物の身体が大きく痙攣する。
「マナ、まだ撃てるか!」
「うん、いける!」
「だったら、本体の下を狙って!」
アレンが、触手の隙間を指すように叫んだ。
天井から垂れた怪物の身体では、触手を動かすたびに、その下側にある薄い膜だけが開閉している。
弱点かどうかは分からないが、ほかより柔らかい。
マナもすぐに理解した。
「水よ、針となり、敵を穿て――ヴァッサーナーデル!」
もう一射。
水針が膜を貫くと、怪物の身体が大きく仰け反り、天井に張りついていた身体の一部が外れた。
「ドレイヴ、行くぞ!」
「おう、合わせろ!」
次の瞬間、アレンの背中がドレイヴから離れ、ドレイヴも身体を反転させた。
二人が左右へ開くと、支えを失った怪物の身体が狭い通路の中央へ落ちてきた。
「そこ、押さえろ!」
アレンの声に、ドレイヴはすぐさま大剣を突き出した。
刃ではなく剣身そのもので黒い胴体を壁へ押しつけると、怪物が激しく暴れ、伸びた触手がドレイヴの肩をまともに打ち据えた。
「ぐっ……!」
「ドレイヴ!」
「俺はいい! そのままやれ!」
アレンは一瞬だけ振り返り――その言葉に背中を押されるように走った。
剣を左脇へ引き、マナが穿った穴へ狙いを定める。
そこへ――。
「はあっ!」
剣を深く突き込むと、刃が抵抗を破り、根元まで入った。
黒い身体が跳ね上がり、触手が一斉に石壁へ叩きつけられる。
一度。二度。
そして、力を失った。
ドレイヴはしばらく大剣で押さえ続けていたが、完全に動かなくなったのを確かめると、ようやく剣を引いた。
死骸が床へ崩れ落ちる。
誰もすぐには喋らず、遠くから新しい音が聞こえてこないか、耳を澄ませた。
あの、ぞる――と石を擦るような嫌な音が聞こえないか。
数秒が過ぎ、さらに十秒。
何もない。
「……増えては来てないみたい」
マナが周囲を警戒したまま小さく言うと、アレンはようやく剣を下ろした。
「マナ、魔力は大丈夫か?」
「うん。今のくらいなら平気。使ったのも二回だけだから」
「……ドレイヴは?」
「肩ぶつけられただけだ。大したことねえよ」
「見せて」
「いや、あとでいいだろ」
「今」
「……分かったよ」
ドレイヴは観念したように肩を落とし、そのやり取りを聞いていたアレンも、ようやく息を吐いた。
しかし、ディアナが見ていたのは死骸ではなく、アレンだった。
「アレン」
「……何?」
「さっき、反応が遅れたわ」
アレンは答えず、その様子にディアナの視線がわずかに鋭くなった。
「また……見えたの?」
誤魔化したところで意味はない。
「……一瞬だけ」
マナがドレイヴの肩から顔を上げた。
「グリムフォード?」
「ああ」
ディアナは測定結晶をアレンへ近づけ、表面の反応を確かめる。
「……魔力に、目立った異常はほとんどないわ」
「じゃあ、魔法じゃないのか?」
「そこまでは言ってない。精神へ直接作用する干渉なら、外に大きな魔力反応を出さないものもある。ただ……」
ディアナはそこで言葉を切った。
「今ある情報だけじゃ、まだ何も決められないわ」
「……またそれか」
アレンは乾いた笑いを漏らす。
「ここに来てから、ずっとそればっかりだな」
「分からないものを、分かったことにするよりはいいでしょう?」
「……まあ、それはそうだけど」
ケイムが、倒れたデスリーチャーへ歩み寄った。
「でも、一つだけ確かなことはあるよ」
「……何だ?」
「この個体は、こっちが魔法を使う前から近くにいた」
アレンも足元の死骸を見た。
「……ああ」
「つまり、強い魔力さえ使わなければ安全……とはいかないみたいだね。もともとデスリーチャーは刻印者を狙いやすい。君がいる以上、こちらを見つける個体は出てくるだろう」
「……うれしくねえ話だな」
ドレイヴが肩を回しながらぼやく。
「僕も、うれしい話として言ったつもりはないよ」
「だったら、もうちょい嫌そうに言ってくれ」
「……努力してみるよ」
ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
だが誰も笑わず、アレンは剣についた黒い液体を布で拭った。
頭の片隅には、まだ夕焼けが残っている。
自分が知っている過去と、自分が知らなかった過去。
その境目が、少しずつ曖昧になっていた。
「……進もう。中央区画に戻れる道を探しながら」
アレンがそう言うと、マナがすぐにこちらを見た。
「……大丈夫?」
「今はな」
「また、見えたら?」
「すぐ言う」
アレンは一拍置いてから、言い足した。
「……今度は、勝手に追わない」
ドレイヴが鼻を鳴らす。
「最初からそうしろっての」
「人影がいたら、普通は確かめるだろ」
「俺らには見えてなかったんだぞ。そこでもう一回確認しろよ」
「だから、次はそうするって言ってるだろ」
「ならいい」
ケイムが魔法灯を先へ送り出した。
「じゃあ、今度は誰かが何か見つけても、一人では動かない。全員で確認しながら進もうか」
五人は再び、通路の奥へ歩き始めた。
◇
それからしばらく、道は変わらなかった。少なくとも、そう見えた。
右へ曲がり、短い階段を下りる。広い通路へ出ると、建物のような巨大構造物の脇を抜けていった。
ディアナは地図を書き直しながら、今度は分岐へ差しかかるたび、全員に確認していった。
「次は右。……みんな、同じに見えてる?」
「右だ」
「俺も右に見える」
「うん、わたしも」
「僕も同じだよ」
五人全員の答えが揃ってから、ようやく先へ進む。
まるで、自分たちが見ているものが本当に同じなのかを証明するための儀式だった。
少なくとも今のところ、先ほどのような不自然な帰還は起きていない。だからといって、安心できるわけではなかった。
アレンは何度も暗がりを探ったが、人影も夕焼けもなく、鐘の音も聞こえない。
ただ、静かな石の町だけが続いている。
やがて通路の先に、下へ続く低い階段が現れた。
ケイムが魔法灯を階段の先へ慎重に降ろす。
その光に、十段、二十段と石段が浮かび上がった。
その先に、再び水平な床が見えた。
「……よし、降りよう」
ケイムが先に階段に足をかけ、そのあとを追うように、五人は一人ずつ慎重に降りていった。
アレンは四番目で、後ろにはマナがいる。
一段。二段。三段。
何もない。
さらに四段、五段と降りた、そのときだった。
アレンは不意に足を止めた。
「……待ってくれ」
すぐ後ろを歩いていたマナも、つられるように立ち止まる。
「どうしたの?」
アレンはすぐには答えず、耳を澄ませた。
聞こえたのは、階段の下からではない。もっと近い、すぐ隣からだ。
木が軋むような音。
ぎい。
ぎい。
その音とともに、石の階段が消える。
「アレン?」
マナの声が遠ざかると、目の前に木の壁が現れた。
暗い室内と、見覚えのある階段。
そこは、アレンの家だった。
「……また、か」
その瞬間、アレンには分かった。
これは幻影だ。今度は、そう思える。
それでも、消すことはできなかった。
アレンは家の一階に立っていた。夜だったが魔法灯は消え、窓の外にも月明かりはない。
家の中は、誰もいないように静まり返っている。
だが二階には――自分がいる。
寝ている。
襲撃三日前の自分だ。
そのことが、なぜか分かった。
アレンは動かなかった。
「これは……見せられてるだけだ」
アレンは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「本当にあったことだって……まだ決まったわけじゃない」
ケイムの言葉を自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。
その直後、床の下から黒い光が漏れた。
前に見たものよりも強い。
一度。二度。三度。
脈打つたび、床板の隙間が黒く染まっていく。
アレンの注意は、二階へ続く階段ではなく、その脇へ引かれた。
床に、見覚えのない下り階段が口を開けている。
こんなものは、家にはなかった。自分がずっと暮らしてきても知らなかった場所――その地下から。
コツ。
音がした。
アレンの身体が固まる。
コツ。
もう一度、硬い何かが階段を踏む。
だが、デスリーチャーの音ではない。もっと重く、もっと――人間に近い。
コツ。
黒い光の中から、何かが上がってくる。
最初に見えたのは、二本の脚。
人間のものに見えた。
続いて身体が現れ、肩、腕へと輪郭が見えてくる。
「……あれ、人か?」
目を凝らすと、そこにいるのは、確かに人影だった。
襲撃三日前――アレン家の地下から、誰かがゆっくりと階段を上ってくる。
アレンは動けなかった。逃げることも、呼ぶことも、目を逸らすこともできない。
一段。また一段。
人影の顔だけが、闇に隠れている。
「……誰なんだ?」
アレンが問いかけるが、人影は何も答えなかった。
やがて、その人影が最後の一段に足をかける。
黒い光が下から差し込み、顎、口元、鼻と、少しずつ顔の輪郭が浮かび上がっていく。
あと少し。
あとほんの少しで、その顔が見える――。
その直前、世界が途切れた。




