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デモンズ・ゲート ―三十三の刻印―  作者: 梅野 夕季
第四章『故郷の底に眠るもの』

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第43話『町の下の町』


 しばらく様子を見ても、新たに近づいてくる音はなかった。

 ケイムとディアナが互いに頷くのを合図に、アレンとドレイヴは武器をいったん足元へ置き、もう一度、二枚の石扉に肩を当てた。


 石と石が擦れ合う低い音が、再び地下へ響く。

 やがて二枚の扉が完全に開くと、二人はすぐに武器を拾い直した。


 石の擦れる音が途切れ、地下には奇妙な静けさだけが残った。


 アレンは剣を左手に握ったまま、その場から動けなかった。

 背後には、ここまで歩いてきた石の通路が伸びている。角の向こうには、先ほどまで死闘を繰り広げていた階段があり、黒い触手の残骸や、戦いで削れた石片が残されている。


 だが今は、誰もそちらを見ていなかった。


 五人の意識は、開いた扉の向こうへと吸い寄せられていた。


「……なんだよ、これ。どうなってんだ」


 ドレイヴの声は、最後の言葉でわずかに掠れた。

 扉の向こうにすぐ壁があるわけではない。だが、そこは通路でもなかった。


 ケイムが魔法灯(まほうとう)を高く掲げると、淡い光が前方へ伸び――途中で途切れた。

 その先には、空間が広がっている。


 それも、これまで降りてきた地下通路とは比較にならないほど巨大な空間だった。


「ケイム先生、もう少し周りまで照らせますか」


「ああ、できるよ。少し待って」


 ケイムは魔法灯に指を添えると、光の届く範囲を確かめながら術式を組み替えた。

 白い光が一つ、二つ、三つに分かれ、それぞれが宙へ浮かぶ。出力は上げず、三つに分けた光を扉の向こうへゆっくりと進ませていく。


 一つ目の光が足元を照らすと、扉の先が石造りの張り出しになっており、その先で床が途切れているのが見えた。


 二つ目の光は、その下へ。


 照らし出されたのは石壁とさらに下へ続く斜面だった。


 三つ目の光が、その先へ進んでいく。


 そして――。


「……は? 何だって?」


 ドレイヴが、理解の追いつかないような声を漏らした。

 光の下には、道があった。しかも、一本ではない。


 何本もの石造りの道が、巨大な地下空間を縦横に走っている。細い道もあれば、幅の広い道もあり、途中で枝分かれするものや、曲線を描いて別の道へ合流するものもあった。


 その上には、ところどころ橋まで架かっている。

 だが、橋の下を通っているのは川ではない。黒い石で囲まれた水路のような溝だった。


 さらに奥へ目を凝らすと、光の届くぎりぎりの場所に、細長い影が立っている。


 塔だ。


 それも一つではない。高低の異なる塔が地下空間の各所に点在し、その間には、家屋のようにも倉庫のようにも見える巨大な石造建築が幾つも並んでいた。


 アレンは無意識に一歩、扉へ近づいた。


 眼下に広がるものの輪郭が、少しずつ頭の中で一つにつながっていく。


 道と橋。塔と水路。幾つもの建物。

 そして、それらを結ぶ広場。


「……あれ、町じゃねえか」


 ドレイヴが、眼下の輪郭を確かめるように呟いた。


 誰も、すぐには否定できなかった。

 人間が造った町にしか見えない。


 ただし、その町には明かりも、人の声も、風さえもない。

 途方もなく広い地下空間の底で、ただ石の町だけが眠っていた。


「……町、なの?」


 マナが信じられないように呟いた。


「こんなものが……グリムフォードの地下にあったの?」


 自分で口にしながら、その言葉を信じきれていないようだった。


 アレンにも、同じ感覚があった。

 自分の家の地下から階段を下り、怪物と遭遇し、それでもさらに奥へ進んできた。


 その先に――町がある。


「こんなの……地上から掘って造れるような規模じゃないだろ」


 アレンは眼下の光景から目を離せないまま、低く呟いた。


「そうだねぇ。少なくとも、僕たちが知ってるグリムフォードの歴史の中で造られたものじゃないだろうね」


 ケイムの声はいつもと変わらず穏やかだったが、その目だけは笑っていなかった。

 魔法灯をさらに奥へ送りながら、空間全体を測るように光の届く範囲を追っている。


「町一つ分……いや、違う。見えてない先まで続いてるなら、もっと広いかもしれない」


「待てよ。こんなもんがずっと下にあったのに、誰も気づかなかったのか?」


 ドレイヴは眼下を見回し、眉をひそめた。


「井戸だって掘っただろ。地下室を造った奴だっていたはずだ」


「それでも届かないわ。地上の地盤からここまでには相当な距離がある」


 ディアナは扉の縁に触れないよう慎重に近づき、測定結晶を掲げた。


「それに……この空洞、自然にできたものとは思えない。周囲の壁面から、補強術式らしき反応が出てる」


「……補強術式?」


 アレンが聞き返した。


「断定はできないわ。でも……少なくとも、ここが崩れないように何かが働いてる」


 ディアナは測定結晶を見つめたまま、慎重に言葉を続けた。


「これだけの空間が、長いあいだ形を保ってるのよ。普通の建築技術だけで説明するのは難しいわね」


 マナが張り出しの端から恐る恐る下を覗き込む。


「……それで、下へ降りる道はあるの?」


「あるよ。ほら、あっち」


 ケイムが答え、光を左へ送った。

 張り出しの端からは、幅の広い石の坂道が下へ向かって伸びている。


 階段ではなく、緩やかな傾斜を描きながら何度か折れ曲がり、眼下の道へとつながっていた。


「荷車でも通せそうなくらい広いな」


 ドレイヴが通路へ目をやった。


「人が住んでたなら、物を運び込むためじゃねえのか?」


 ケイムは答えず、眼下に広がる道と建造物の配置をしばらく追っていた。

 やがて、何かに思い至ったように口を開いた。


「……でも、ここ。本当に“町”なのかな」


「……は?」


 ドレイヴが振り返る。


「いや、どう見たって町だろ」


「うん。町の形はしてる。だからこそ、妙なんだよねぇ」


 ケイムはそれだけ言うと、先へ歩き出した。


「何のために造られたのか、確かめよう」


     ◇


 五人は、張り出しから続く坂道を下りていった。


 先頭を行くのはケイム。そのすぐ後ろにディアナが続き、アレンとマナが並んで進む。最後尾では、ドレイヴが周囲を警戒していた。


 五人分の足音は、不自然なほど長く響いた。靴音が石壁へ反射し、少し遅れて別の方向から返ってくる。


 それ以外の音は、何ひとつない。


 坂道を半分ほど下りたところで、右側の建物がアレンの目に留まった。

 地上の家より二回りほど大きく、正面には入口のような長方形の穴があり、その左右には窓らしきくぼみもある。


 だが。


「……あれ、窓じゃない?」


 マナも同じものに気づいたらしい。


「ああ。俺もそう見えた」


 アレンは足を止めずに答えた。


 窓に見えたくぼみは壁を貫通しておらず、奥行きも手のひらほどしかない。その中心には、複雑な線が刻まれていた。


「……いや、ただの溝だ」


「でも……外から見ると、窓みたいにずっと並んでるよ」


「そうなんだよな……だから、妙なんだ」


 アレンは、規則正しく続く溝の並びを追った。

 家に見える。けれど、近づけば近づくほど、それが家ではないことが分かってくる。


 やがて坂を下りきったところで、ケイムが足を止めた。


「……ここで少し調べようか。みんな、離れすぎないようにね」


 五人は互いの距離を保ちながら、最も近い建造物へ向かった。


 入口らしき開口部には扉がなく、内部は暗い。だが、ケイムの魔法灯を入れると、すぐに全体が見えた。


 中は広かった。


 だが、あるのは床と壁と天井だけだった。


「……なんだよ。ほんとに空っぽじゃねえか」


 ドレイヴは大剣を肩へ戻しかけたが、すぐに思い直し、そのまま低く構え直した。

 家具はなく、椅子も机も棚も、寝台さえ見当たらない。火を焚いた跡すら残されていなかった。


 マナが壁沿いをゆっくりと歩く。


「ずっと使われてなかったから……中にあったものだけ、なくなったとか?」


「木製のものなら、腐ってなくなることもあるでしょうけど……」


 ディアナはそう言いながら、床にしゃがみ込んだ。


「何もかも消えたとは考えにくいわ。それに――」


 杖の先で石床を示す。


「固定具の跡も残ってない」


「……固定具?」


「棚や寝台を置いていたなら、古い建物でも床や壁に痕跡が残るはずよ。これだけの規模なら、固定した穴や、使い続けた摩耗くらいはね」


 アレンは黙ったまま部屋の中央へ進み、そこで床に刻まれた円形の浅い溝に気づいた。

 そこからは四本の線が伸び、それぞれ壁へとつながっていた。


「これ……」


「待って、踏まないで」


 ディアナの鋭い声に、アレンは伸ばしかけていた足をすぐに戻した。


「……悪い」


「まだ動いてる術式かもしれない。触れないほうがいいわ」


 ディアナが測定結晶を慎重に近づけると、透明だった結晶の奥に、ごく薄い白い光が浮かび上がった。


「……反応してる」


「まだ生きてるのか?」


「“生きてる”って言い方が正しいかは分からない。でも……魔力は、まだ残ってる」


 ケイムも円形の溝へ歩み寄り、中心から伸びる刻線を順に追った。


「中心から四方向へ……何かを送る構造に見えるねぇ」


「何かって、魔力か?」


「そう。たぶん、何かを動かすための装置……だと思う」


 ドレイヴが空っぽの室内を改めて確かめた。


「じゃあ……ここ、家じゃねえのか?」


「少なくとも、人が寝起きするための場所には見えないわね」


「……じゃあ、なんなんだよ。この形」


 その問いに、答えられる者はいなかった。


 五人は建物を出ると、次に向かい側の小さな建造物を調べた。


 向かい側も、その隣も、さらにもう一つも同じだった。

 形も大きさも違う。それなのに、どこにも家具はなく、人間が暮らしていた痕跡が残されていない。


「……食器もないね」


 マナが室内を見回しながら言った。


「ああ。壊れた破片すらない」


 アレンが頷く。


「布もねえな」


 ドレイヴは床を踏み荒らさないよう足元を確かめながら、さらに奥へ目をやった。


「鍋も薪もねえ。これだけ広いなら、酒瓶の一本くらい転がっててもよさそうなもんだろ」


「……なんで基準が酒なの?」


「分かりやすいだろ」


「全然分からないよ」


 いつものやり取りだったが、マナの声に笑いはほとんどなかった。

 人が住んだ町なら残っているはずのものが、何一つない。生活の跡そのものが見当たらないのだ。


 それだけではない。


 外へ出たアレンは、道の両側を順に確かめた。


「……見える範囲には、墓がないな」


 マナが不思議そうに振り向く。


「墓……?」


「町なら誰かは死ぬだろ。だったら普通、どこかに墓があるはずだ」


 グリムフォードにも、町外れに墓地があった。


 子どもの頃は近づくなと言われていたが、それでもドレイヴと二人で忍び込み、あとからマナに呆れられたことがある。


 町には、生きるための場所だけでなく、死んだ者を送るための場所もある。

 だが、ここにはそれらしい区画が見当たらなかった。


「少なくとも、この辺りには墓地どころか……祈るための場所みたいなのも見当たらねえな」


 ドレイヴが周囲の建物に目を巡らせる。


「お店らしいところも……ないよね」


 マナも通りの先を見渡した。


「畑も井戸も、見える範囲にはないし……」


「いや、水路ならある」


 アレンが道の脇を指すと、そこには黒い石で縁取られた細長い溝が、道と並行するように伸びていた。


「……でも、水は流れてないね」


 マナはその場にしゃがみ込み、溝を覗き込んだ。


「それに……これ、本当に水路なのかな」


 指先を近づけ、石に触れる寸前で止める。


「水が流れてた跡に見えないの」


「……どういうことだ?」


「ずっと水が流れてたなら、石の削れ方に偏りが出るはずだよ。でも、底まで均一すぎるの」


「……確かに」


 アレンも隣から黙って溝を覗き込むと、その底は驚くほど滑らかだった。

 水が流れた形跡はなく、代わりに中央を一本の細い線が走っている。


「……ディアナ、これ」


「ええ。見えてるわ。ちょっと待って」


 ディアナは溝の中央を走る線を確かめ、測定結晶を慎重に近づけた。

 今度は先ほどよりもはっきりと光が生まれ、線に沿って淡い輝きが伸びていく。


 十歩、二十歩――さらにその先へ。


 光は道の曲がり角を越え、そのまま見えなくなった。


「……魔力が流れてる」


 アレンが溝を覗き込みながら言った。


「うん。ほんの少しだけど、ちゃんと流れてるね」


 ケイムは溝の上へ魔法灯を浮かべ、奥まで光を送り込んだ。


「少なくとも、水路じゃない」


「じゃあ……これ、何のためのもんなんだ?」


 ドレイヴが眉をひそめて訊くと、ディアナは溝を走る線とその脇に伸びる石の道とを交互に見比べた。


「……導魔路、なの?」


「これが? 町の中、全部に通ってんのか?」


「そう見えるね」


 ケイムが答えた。


「いや――」


 そこで、ふいに言葉を切った。


 アレンは、ケイムが建物ではなく、道そのものに刻まれた線を追っていることに気づく。


「……どうした?」


「この道も、同じかもしれない」


「道も?」


「うん。ただ人が歩くために造られたんじゃない」


 ケイムはそう言ってしゃがみ込み、石畳の継ぎ目を指し示した。


 近くで見ると、道を構成する石は無造作に並べられているわけではない。一枚一枚に細かな刻線が刻まれ、それが隣の石へ、さらにその隣へと続いている。


 すべて、つながっていた。


「……これも、術式なのか?」


 アレンが訊くと、ディアナは石畳をまたいで続く刻線を確かめながら答えた。


「……そう見えるわ。少なくとも、ただの道ではなさそうね」


 そう言って、ディアナはゆっくりと立ち上がり、道の先へ目を向けた。

 そこには橋が架かり、その先には塔が立っている。さらに奥には、複数の建造物が並んでいた。


「……待って」


 ディアナの声色が変わり、それまで一つずつ追っていた彼女の目が、初めて空間全体を捉えた。


「もし……そういうことなら」


「ディアナ?」


「建物だけ見てたら駄目。たぶん、それじゃ見えない」


 彼女は数歩進み、道の中央で足を止めた。


「……全部、つながってる」


 その言葉に、ケイムが小さく笑った。

 楽しいからではない。ようやく同じ答えへ辿り着いた研究者が浮かべる、そんな笑みだった。


「……僕も、同じことを考えてたところだよ」


「だから、何がだよ」


 ドレイヴがケイムとディアナを交互に見た。


「二人だけで納得してねえで、俺らにも分かるように言えって」


 ディアナはすぐには答えず、杖をゆっくりと掲げると、先端から伸びた細い白光で目の前の道を指し示した。


「まず……これが、魔力の通り道だとする」


 ディアナが杖を動かすと、光は次に塔へ移った。


「それで、あの塔が流れてきた魔力を測る場所」


「測るって……何をだ?」


「観測、調整、分配……考えられる役割はいくつかあるわ。でも、まだ特定はできない。ただ、内部に魔力を受けるための構造があるはず」


 さらに杖先が動き、光が家屋のような建造物をなぞる。


「それから……家に見えていたもの。あれは、人が住むためじゃなくて、術式を動かすための装置」


 最後に、光が遠くの広場へ向かった。


「だとすると、あの広場は……」


 そこでディアナは言葉を止め、その続きをケイムが引き取った。


「術式の核、という可能性がある」


 マナが黙ったまま周囲を見渡す。アレンも改めて、眼前の町を捉え直した。

 すると、さっきまでとは違って見えた。


 建物ではない。装置だ。


 水路ではなく、魔力の導線。

 道ではなく、巨大な術式を構成する線。

 塔は観測点。橋は、交差する経路を分けるための構造。


「じゃあ……」


 アレンは、喉の奥がひどく乾くのを感じた。


「ここにあるもの全部が……一つの術式ってことなのか?」


 その問いに、誰もすぐには答えられず、地下空間には重い沈黙が落ちた。


「……可能性は高いわ」


 やがて、ディアナが静かに答えた。


「でも、まだ仮説よ。今ある反応だけで断定はできない」


「でも……」


 マナが遠くそびえる塔を見上げる。


「こんなに大きな術式……いったい、何のために造ったの?」


「それを知りたいなら――」


 ケイムの視線が地下空間のさらに奥へ向いた。


「中心まで行って、確かめるしかないだろうねぇ」


 そこには、ほかよりはるかに広い区画があった。


     ◇


 中心へ近づくにつれ、道は少しずつ広くなり、複数の経路が一つへ合流しては、再び枝分かれしていった。


 そのたびにディアナは足を止め、測定結晶に目を落とした。


「……やっぱり。全部、同じ方向へ流れてる」


「中心に向かってるのか?」


「ええ。間違いないわ」


 アレンは歩調を緩め、道の両側に並ぶ構造を確かめた。


 ここまで来ると建造物の数は減り、代わりに塔が増えている。

 その表面には縦方向に何本もの溝が刻まれ、その中をかすかな光が上下していた。


「……動いてるな」


 ドレイヴが低く言った。


「まさか、さっきの怪物が出てきたせいで起動した……とかじゃねえよな?」


「そこまでは、まだ判断できないわ」


 ディアナが測定結晶を見たまま答える。


「ただ……私たちがここへ入る前から、一部の術式が動いていたのは確かよ」


「じゃあ、ずっと前から……?」


「ええ。ただ、それが何年なのか、何十年なのか……それとも何百年なのかまでは分からない」


 その数字が大きくなるたび、アレンは足元の石が遠い時代へつながっていくような感覚を覚えた。


 グリムフォードができるより前。父や母が生まれるより前。はるか昔からこの場所は、ずっとここにあったのかもしれない。


 そして、そこへ続く入口が、自分の家の真下にあった。


 偶然なのか。

 それとも――。


 ケイムが振り返った。


「そろそろ、足元にも気をつけたほうがいいよ」


「なんで――」


 言いかけたドレイヴの声が、不意に止まった。

 これまで歩いてきた道は、そこで巨大な円形広場へとつながっていた。


「……なんだよ、これ。でけえな……」


 誰からともなく、歩みがゆっくりと鈍っていった。


 広場は、グリムフォードの中央広場など比較にならないほど巨大で、数百人が並んでも余裕がありそうな円形をしていた。


 その床一面には複雑な線が刻まれ、外周から中心へ、そして中心から再び外へと伸びている。

 何層もの円と直線、曲線が重なり合い、遠目には巨大な模様のように見えた。


 そして、その円を囲むように、石床に紋章が並んでいた。


「……これ」


 マナはその先を言葉にできず、声だけが消え入りそうに途切れた。

 アレンは、並ぶ紋章の数を一つずつ目で追っていく。


 一つ、二つ、三つ――。


 形の異なる紋章が、等間隔に置かれていた。

 炎を思わせるもの。波や羽、刃を象ったもの。獣の牙にも見えるものや、円、鎖、目。


 その先にも、見覚えのない形が続いていた。


「……いくつあるんだ?」


 ドレイヴが広場を見回したまま訊いたが、誰もすぐには答えなかった。

 ディアナは外周に並ぶものを目で追いながら、ひとつずつ数えていく。


「……二十八、二十九……」


 その先を、ケイムが引き継ぐように視線でなぞった。


「三十、三十一、三十二……」


 そして、最後のひとつで数える声が止まった。


「……三十三」


 ディアナの表情が、わずかに硬くなる。


「……やっぱり、三十三」


 その数が告げられた瞬間――アレンの足が止まった。


 三十三。

 知らない数ではない。いや、忘れられるはずのない数だった。


「……三十三」


 自分の声が、遠く聞こえた。

 アルカナリウムの広間で空中に浮かんでいた三十三の紋章。


 その直後に切り替わった白い世界と、そこにあった巨大な黒い扉。


 そして、無数の鎖。

 黒い扉の周囲にも三十三の紋章が浮かび、そのうちの一つだけが――紫色の雷をまとっていた。


「アレン?」


 マナの声に、アレンはようやく息を吐いた。


「……前に、見たことがある」


 それでも、円から目は離さない。


「何を?」


「この数だ」


 喉の奥で言葉が引っかかった。


「アルカナリウムで……黒い扉が現れる直前、三十三の紋章を見た」


 その言葉にマナの表情が変わり、ドレイヴも口を閉じた。

 ケイムは少し間を置いてから、ゆっくりとアレンへ向き直った。


「……黒い扉と接続したとき、だね?」


「はい」


「そのとき見た紋章と形も同じだった?」


「……そこまでは、覚えてません」


 アレンは眉を寄せ、途切れた記憶を探るように目を伏せた。

 あのときは、紋章を一つずつ観察する余裕などなかった。


 ただ――。


「……雷みたいな紋章だけは、覚えてます」


 アレンは無意識に右手に視線を落とした。


「一つだけ……紫色に光ってた」


「……雷鳴の刻印(らいめいのこくいん)」


 マナが確かめるように小さく呟いたが、アレンは答えなかった。

 断定するには、まだ早い。だが、あの紋章が自分の刻印と無関係だとは思えなかった。


 その間に、ディアナはすでに最も近い紋章の前まで移動していた。


「触らないでね」


 ケイムが声をかける。


「分かってます」


「うん。アレンにも言ってる」


「俺、何もしてないでしょう」


「君は何もしてないときほど、急に触るからねぇ」


「そんなこと――」


 言い返しかけて、いくつか心当たりが浮かぶ。


「……今回は触りません」


「よろしい」


 横でドレイヴが肩を揺らした。


「信用ねえな、お前」


「お前にだけは言われたくない」


 アレンが返す間にも、ディアナは測定結晶を紋章に近づけていた。

 すると、淡い光が結晶の内部を走った。


「……反応してる」


「刻印に?」


「違うわ」


 ディアナは間を置かずに答え、測定結晶の角度をわずかに変えた。


「少なくとも、今まで記録されている刻印そのものの波形じゃない」


「じゃあ、刻印とは関係ねえのか?」


「そうとも言ってないわ」


「……どっちなんだよ」


「だから、今それを調べてるの」


 ドレイヴは何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。


 ディアナは紋章の刻線を辿り、少しして隣へ、さらにその隣へと測定対象を移しながら、一つずつ確認していく。


 アレンも広場の外周を歩いた。


 見覚えがあるような、ないような――不思議な感覚だった。

 形そのものを知っているわけではない。けれど、どこか似ている。


「これ……」


 マナが一つの紋章の前で足を止めた。


「これ、今の刻印に……似てない?」


「……ええ。私もそう見えるわ」


 ディアナは静かにそちらへ歩み寄り、紋章を形作る刻線をしばらく確かめた。


「似てる……でも、同じものじゃないわ」


 ディアナは指先を宙に滑らせ、刻線の形をなぞった。


「ほら、ここ。今の刻印なら線は内側へ折れる。でも、これは外へ伸びてる。中心の形も……違う」


「じゃあ、別物なの?」


「そこまでは、まだ分からないわ」


「でも……別物なら、なんでこんなに似てるんだ?」


 アレンが紋章を見つめたまま訊いたが、ディアナはすぐには答えなかった。

 その横にケイムが静かに並ぶ。


「文字だって、そうだろう?」


「文字?」


「古い時代の文字と、今の文字。同じ意味でも、形は少しずつ違う」


 ケイムは足元の紋章に視線を落とした。


「術式も同じだよ。時代や地域が変われば、書き方も変わる。余計な線が削られることもあれば、安全性を上げるために構造が足されることもある」


「じゃあ……これも、同じものが形を変えたってこと?」


 マナが紋章を見つめたまま言うと、ディアナが静かにその言葉を引き継いだ。


「もっと古い形なのかもしれない」


 その言葉が、広場の静寂へ落ちた。

 もしそうなら、今の刻印より古い。


 アレンは三十三の紋章を順に見渡した。


 刻印は、ずっと昔から存在している。

 だが、ここにあるものが、そのさらに古い形だとすれば。


「……でも、どっちが先なんだ?」


 アレンの口から、ふと疑問がこぼれた。


「刻印が先にあって、それを元にこの術式が造られたのか……」


 足元に広がる巨大な円を見下ろす。


「それとも……」


 アレンはそこで言葉を切った。


 ここにある三十三の何かを元に、刻印が作られたのか。

 そこまで考えたところで、ケイムが静かに口を開いた。


「……そこは、まだ考えないほうがいいね」


「……はい」


「今は、形が似ていること。それと、“三十三”っていう数が一致していること。その二つだけ覚えておこう」


 ディアナも静かに頷いた。


「どちらが先かを決めるのは、もう少し情報を集めてからね」


 ドレイヴが困ったように頭を掻く。


「……俺には、どっちが先でも十分やべえ話に聞こえるけどな」


「それは……私も否定できないわ」


「そこは否定してくれよ」


 二人のやり取りを聞きながら、アレンは広場の中央へ視線を移した。


 そこには一段高くなった円形の区画があり、周囲の三十三の紋章から伸びた細い線が、すべてそこへ向かっていた。


「……やっぱり、ここが核なのかもしれないな」


「ええ。その可能性は高いわ」


 ディアナが測定結晶に視線を落とした。


「この町全体が一つの術式なら、魔力がここへ集まるように組まれてる」


「……今も流れてるのか?」


「ええ。ほんの僅かだけど」


 測定結晶の中で、白い光がかすかに揺れる。


「つまり……完全には止まってない」


 その言葉を聞いた瞬間、全員の意識が広場へ集中した。


 眠っている。


 死んでいるのではない――この場所には、そんな違いがあるように思えた。


 アレンはもう一度、三十三の紋章を一つずつ確かめ直した。

 アルカナリウムで見たものと、本当に同じなのか。


 記憶は曖昧だった。


 だが――。


「……待って」


 マナが不意に全員を呼び止め、その一言で足音が途切れた。


「どうした?」


「……あそこ。何かある」


 マナは広場の反対側を示すように、杖の先を持ち上げた。


 ほかの紋章は、灰色の石に浅く刻み込まれている。長い年月で表面は少し摩耗しているものの、色は周囲とほとんど変わらない。


 だが、一つだけ違っていた。


 黒い。


 焼け焦げたように。あるいは、石の内側から染み出したものに侵されたように。

 三十三のうち、一つだけが黒く変色していた。


「……行ってみよう」


 アレンがそう言って踏み出しかけた瞬間、袖を掴まれた。


「待って」


 マナだった。


「近づいて見るだけだ」


「……触らない?」


「触らない」


 マナはまだ袖を離さず、アレンは少し間を置いてから、もう一度頷いた。


「……約束する」


 それでようやく、マナの指が袖から離れた。


 五人が黒い紋章へ向かうにつれ、その形がはっきりしてくる。

 中心から外へ伸びる線。折れ、枝分かれしながら、鋭く走る意匠。


 アレンの歩みが、少しずつ遅くなった。


「これ……」


 アレンは右手に目を落とした。

 黒い手袋の下にある、もう動かなくなった指。


 そこに刻まれているものを、アレンは見なくても覚えていた。


「雷みてえだな」


 ドレイヴが低く言ったが、誰も返さなかった。

 黒く変色した紋章は、現在の雷鳴の刻印と完全に同じではない。線の本数も、中心部の構造も違っている。


 だが――似ていた。


 あまりにも。


「アレン」


 ディアナの声が、わずかに鋭くなった。


「それ以上は近づかないで」


「……まだ、結構離れてるだろ」


「だからよ。距離があるうちに止まって」


 アレンは言い返さず、その場で足を止めた。

 紋章までは、あと数歩。まだ触れられる距離ではない。


 それでも――妙だった。


 何かがある。

 音でも、熱でもない。黒い扉が現れるときの圧迫感とも違っている。


 ただ、自分の身体のどこかが、目の前の紋章を知っている。

 そんな感覚だった。


「マナ」


「うん。見てる」


 マナの視線は、すでにアレンの右腕へ向いていた。


「……何か感じる?」


「いや……分からない」


「熱い感じは?」


「ない」


「痛みは?」


「それも、ない」


 答えを重ねるたびに、マナの表情は少しずつ硬くなっていった。

 熱も痛みもない。それなのに、アレン自身が何かを感じていることだけは分かっているのだろう。


 ケイムは黒い紋章とアレンを交互に確かめた。


「ディアナ。結晶の反応は?」


「……待ってください。今、確認します」


 ディアナは答えながら、測定結晶を慎重に掲げた。

 反応は弱く、結晶の中に白い光がわずかに生まれたものの、すぐに消えた。


「……通常の魔力反応は、ほとんどありません」


「黒い反応は?」


「……今のところ、出てません」


「そう。なら、無理に近づく必要はないね」


 ケイムは黒い紋章の観察を切り上げ、アレンへ向き直る。


「まずは、ここから調べよう」


「……はい」


 アレンは紋章を見たまま、小さく頷いた。

 そのとき、右腕の袖がほんの僅かに動いた。


「……?」


 アレンは右手に目を落とした。

 見間違いかと思った。


 右手首から先は、もう自分の意思では動かない。指を曲げろと考えても何も返ってこず、何度試しても同じだった。


 だから、もう一度、左手を使わずに右手へ意識を向ける。


 動け。


 何も起こらない。

 いつも通りだ。


 アレンは小さく息を吐きかけた。


 その瞬間――。


 ぴくり。


「――っ」


 右手の指が――動いた。

 見ていなければ気づかないほどの小さな震え。


 だが、見間違いではない。


 黒く変色した雷鳴に似た紋章に応えるように――動くはずのない指が、もう一度、ぴくりと震えた。


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